参
土曜日の夜、尊は仕事終わりにいつものバーへと来ていた。
以前はバーへと行く日は特に決まっていなかったが、和陽と話すようになってから尊は毎週土曜日の夜に立ち寄るようになった。
「マスター、こんばんは」
「いらっしゃいませ。榛名さんならあちらです」
「あ、ありがとうございます」
尊の来店を笑顔で迎えたマスターは、和陽の席を視線で示す。
「ご注文はどうなさいますか?」
「いつものでお願いします」
「かしこまりました」
カウンター越しに会話をし、和陽の座る二人席に向かう尊。
店の入り口から一番遠い角の二人席に座り優雅にキールを飲む和陽。それを見て、絵になるほどに綺麗だな、と思う尊。
「やあ、尊君」
「こんばんは、和陽さん」
通路側に和陽が座っているので、尊は壁側の椅子に座る。
「今日は早いですね」
「いつも尊君のことを待たせているからね、たまには待つ側もいいかと思ってね」
早めに来てみたよ、と笑う和陽。
バーで会う時は大概仕事終わりの尊の方が早い。和陽は尊がバーに入店して三十分から一時間ほど経ってから来店する。
「別に気にしてないですよ?」
「そう言うと思ったよ。けれど私が尊君のことを待ってみたかったのさ」
「そうですか」
座ったまま荷物を椅子の下に置きながら答える尊。和陽は笑みを湛えてそれを見ていた。
「お待たせいたしました。モーツァルトショコラミルクでございます」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
尊にモーツァルトショコラミルクを渡したマスターはそう言ってカウンターの方へ戻って行く。
尊は受け取ったモーツァルトショコラミルクに口をつける。
和陽も釣られるようにキールの入ったグラスを口に運ぶ。
「尊君」
「はい?」
甘くて幸せ、と思いながらちびちびとモーツァルトショコラミルクを飲んでいた尊に、キールをテーブルに置いた和陽が呼びかける。
「今度私の個展をやるのだけれど、見に来ないかい?」
ジャケットの内ポケットからハガキサイズの案内を取り出し、尊に差し出す。
尊は個展と聞いてきょとんとする。
「個展?」
「そう、個展」
「え、和陽さんのご職業って芸術家ですか?」
「うん、そうだよ。あれ、言っていなかったかな」
「知らないです。へえ…」
和陽が芸術家とわかり差し出された案内をまじまじと見つめる。
和陽は、予定が空いていたらぜひ来て欲しい、と言う。
案内に書かれている個展の開催場所は尊の職場の近くにあるギャラリー。営業時間は午前十一時から午後六時までと書かれている。仕事帰りに行くことは難しい時間なので、尊は休みを申請しようと決める。
「是非行かせてもらいます。けど、和陽さんが芸術家…」
「そんなに意外かい?」
「意外というか、なんというか…。とにかく驚きました。和陽さんいつもいいスーツ着てくるので、医者か弁護士かなと勝手に思っていました」
上等なスーツで毎回現れるので尊は勝手に和陽のことを高級取りの職業なのだろうと思っていたのだ。
事実は違ったがそれでも芸術家として売れているのだろうなと思う尊。
和陽は有名というわけではないが、固定客のようなファンがいる。個展を開けば見知った顔が作品を予約し、個展が終了し次第買って行く。個展を開かずとも知り合いやファンからの依頼が多くあるので、芸術家としては成功しているのである。他には美術雑誌などにコラムを頼まれたりもしている。
「まあ、少し贅沢できるくらいには儲けさせてもらっているけれど、医者や弁護士ほどじゃないと思うよ」
「はあ…、でもすごいですね」
「ふふ、ありがとう。個展、是非来てね。待っているよ」
「はい」
尊は案内のハガキを見つめたまま惚けている。和陽はそんな尊を面白そうに見つめる。
尊はあまり美術館で開催される展覧会を見に言ったりはしない。駅や街中にある展覧会の広告を見て行きたいと思うほど魅力を感じないからだった。広告にある作品の絵や彫像を見て人並みに綺麗だなと感じたりはするものの、展覧会を見に行くよりもトルソー事件のことを考えたり死体の模写を描いている方が尊にとっては有意義なことであったからだ。個展も同様で知り合いから案内が来ても行くことはなかった。
しかし尊の普通ではない感性や価値観を理解してくれた和陽がどのような作品を生み出すのか尊は興味を引かれた。
「そんなに案内ばかり見つめていないで、私とお話しをして欲しいのだけれどね」
拗ねたように言う和陽。尊はハッとして案内から顔を上げる。
尊が視線を和陽に向ければ、やっとこちらを見た、と言わんばかりにニッコリと笑む和陽。
「ふふ、困ってる」
「揶揄ってます?」
「全然。さ、今日はどんな話をしようか」
会うたびに尊は世間を騒がせている連続猟奇殺人事件についてばかり語っている。和陽はそれを聞いて、自分はこう思うよ、と意見を出したりしている。毎回自分の話ばかりに付き合わせていることを尊は申し訳なく思っている。
「いつも僕が話をしてるので、和陽さんが話をしてください」
「私が?」
「はい!」
「うーん、そうだねぇ。あ、それじゃあ」
宗教画について話そうか、と和陽は言う。
「宗教画はわかるよね?」
「はい。受胎告知や最後の晩餐とかですよね」
「そう。聖書に書かれている一場面を絵にしたものだ。尊君の言う通り受胎告知と最後の晩餐も宗教画だ」
受胎告知とは、マリアという処女の娘の前にある日、天使ガブリエルが舞い降りマリアが聖霊により神の子を妊娠したことを告げる場面のことを指す。
最後の晩餐は、マリアが産んだ神の子イエスが処刑される前夜に十二人の弟子と共に夕食を共にし、イエスを裏切る者が弟子の中に一人いることを告げ弟子達が動揺する場面である。
他にもマリアがイエスを抱きかかえている姿を描いた聖母子像や、イエスが処刑され十字架に磔にされているものなどがある。
「宗教画というものは本来用いてはいけないものではないかと言われていてね。聖書にはモーセの十戒という、神と人、正確にはユダヤ民族との約束なのだけれど、十の約束があってね。その中に偶像礼拝、礼拝や信仰する上で像や絵画を用いること禁じる項目があるんだ」
偶像礼拝とは唯一の神以外を信仰してはならないということ。偶像や絵画を神と見立てて信仰してはいけないということである。
「なのにどうして宗教画が広く用いられるようになったと思う?」
「…わかりやすいから?」
「そうだね、半分正解かな。宗教画が普及するきっかけとしては、識字率が低くて字を読める人が少なかったから、絵画を用いて布教活動をしたからだよ」
聖書に書かれている言葉が読めない人々に対しては絵画を用いて話をするしか術がなかったのだ。文字の読めない子供が絵本を見たり、紙芝居を見ることと同じようなものである。
キリスト教の内部でも絵画や偶像を用いることに対して長い間議論はされていたようだが、八世紀頃に絵画や偶像を用いることは問題ないという考えにまとまった。
「語られるだけではなかなかピンと来なかったりするからだろうね。それに絵があった方が理解も進む」
「そうですね。絵が入ると途端にわかりやすくなることってありますからね。へぇ、宗教画ってそんな感じで普及したんですね」
尊はあまり宗教に明るくはない。キリスト教よりは身近であるはずの仏教ですらよく理解していないのだから、キリスト教など全くもってわからない。尊が宗教に対してあまり興味がなかったこともある。マリアは聞いたことあるけど、何の人? レベルの知識である。そもそも尊は基本的に物事に関心がないのだ。
しかし尊にとって関心がないことでも、和陽から語られれば不思議と興味が湧いてくる。
「まあ、どこかで聞いた話だから間違えているかもしれないけどね」
そう言ってキールを口に運ぶ和陽。
「大丈夫です、間違えてても。あ、じゃあ美術が発展したのは宗教画のおかげですか? 有名な画家の絵って宗教画が多い気がするんですけど」
「んー、そうだろうね。キリスト教が宗教画を用いていなかったら美術は発展しなかっただろうね。今でも残っている作品があるのはパトロンだった教会や貴族などが保管していたり、使われなくなった教会や建物の壁画だったりするだろうしね」
「和陽さん物知りですね」
「憶測が多いけどね。まあ、一応美術の知識もあるからね」
尊は新しい知識に興味をそそられている。和陽が話している途中から尊は失礼だとは思いつつ、スマートフォンで宗教画の画像を検索し見ながら話を聞いていた。
宗教画をあまり知らなかったことや展覧会に興味がなかったのは尊が美術自体には興味がなかったからだ。
尊は模写や彫像を作ったりするが、美大に行ったわけでも誰かに教えてもらったわけでもない。ただ自分のやりたいことをしているだけだ。他人の作品に興味はなかったのだ。
しかし和陽の作品はどんなものか気になるし、和陽が語った宗教画の話から宗教画にも少し興味が出てきた。まるで恋人の好きなものを好きになってしまう女子のようだ。
「美術って奥が深いですね」
「そうかな。まあ美術の歴史は長い分、時代背景や題材、作者についてとか情報量が多いことは確かかな」
「あー、そうですね。ちょっと話を聞いただけでも結構キャパオーバーしてます」
尊はついさっきまでの話を思い出す。題材である聖書の話や時代背景などがあり、情報量が割と多くあったように感じた。
頭の中で情報を整理し、モーツァルトショコラミルクに口をつける。慣れない話題に少し疲れていた尊は、口に広がる甘さに癒される。
「疲れてしまったかな?」
「あまり身近な話題ではなかったので少しだけ」
尊は眉を下げて笑いながら答える。
慣れない話題ではあったが、和陽が芸術家で美術についての知識に明るいことが知れて嬉しく思う尊。
出会ってからそれなりに経つが、お互いについて殆ど知らない尊と和陽。尊はトルソー事件と連続猟奇殺人事件について話すことが多く、自分のことを話すことはない。和陽も尊の話を聞いて少し意見を述べるだけで、彼自身について語ることはないのだ。
よっぽどこの店の店主であるマスターの方が二人の人となりを知っているのではないだろうか。
「尊君はトルソー事件と連続猟奇殺人事件以外の物事はあまり興味ないみたいだね」
「…そうですね。あまり意識してなかったですけど、トルソー事件と連続猟奇殺人事件以外は興味ないですね。あ、でも、和陽さんには興味あります。結構変な趣味してる僕を知っても普通に接してくれるので、どんな人なんだろうって」
ほんのりと頬を染めて笑う尊。和陽に興味があると言ったことが恥ずかしく思えてきたのだろう。グラスを持ったままの指先をもじもじと動かしている。
和陽は尊の言葉を聞いて嬉しそうにする。尊の興味が自分に向いてくれたことが嬉しいのだ。
和陽自身、尊のことは気に入っている。
殺人事件の死体を美しいと感じる尊の感性を和陽は面白いと思っているからだ。
一般的な感性として、人が亡くなれば死者を悼む。殺人であったならば悼む他に憎悪なども抱く。
ニュースで流れる殺人事件の被害者が見知らぬ人であろうと、かわいそうに、と憐れむくらいはするだろう。
しかし尊はそもそもトルソー事件と連続猟奇殺人事件の計六件の死体を被害者として見ていない。他の他殺死体や、故人についても同じように思っているのかは不明だが、六件に関しては確実に死体を作品として認識している。そのため尊は六件の被害者に対して憐れむという考えはない。むしろ加害者である連続殺人犯を尊敬するようなことを言うことが多い。
尊は死というものに対して一般的な感覚を自分は持ち合わせていないと早い段階で判断した尊は、和陽に話すまで誰にも言わなかった。
「私も尊君のことは興味があるし気に入っているよ。トルソー事件や連続猟奇殺人事件についての考え方…いや事件の捉え方と言った方がいいかな。それが面白くてね。そんな捉え方もあるのだと驚かされるよ」
「そう思ってもらえているなら嬉しいです」
尊は和陽に気に入られていることが嬉しくて頬を緩める。嫌われていないとは思っていたが、気に入られているとは思っていなかった。
バーでしか会わない素性もしれない人間を気に入るなんてことはないと思っていたのだ。
「あ、そうだ。連絡先を交換したいのだけどいいかい?」
「あ、じゃあトークアプリのキューアールコード出しますね」
「ありがとう」
グラスを持っていじいじと指を遊ばせていた尊は和陽の提案にすぐさまスマートフォンを取り出す。
早いな、と和陽は思いつつ提示されたキューアールコードをアプリで読み込む。みこと、とひらがなで表記されたアカウント名と猫の写真のプロフィール画像。和陽は、かわいいプロフィール画像だな、と思いながら『友達に追加』のボタンをタップする。新しい友達の欄に尊の名が表記される和陽。
尊のアプリには榛名和陽と氏名が表示され、初期設定のままになっているプロフィール画像が出てきた。
「和陽さん、プロフィール画像初期設定のままなんですね」
「うん。操作がよくわからないから変えてないんだ」
「そうなんですか。僕が設定するのでプロフィール画像変えませんか?」
「そうだね、頼もうかな」
和陽は尊にスマートフォンを渡す。受け取った尊は、画像はどれにしますか? と話しかけながらプロフィール画像の設定画面からカメラロールに飛ぶ。
「尊君が決めていいよ」
「え、じゃあ和陽さんの変顔」
「却下」
「冗談ですよ。んー、そうだなあ…」
和陽の端末を操作していたが突然尊自身の端末も操作し始める。
器用に二つの端末を操作する尊に、現代っ子だな、と思う。
和陽自身は三十代半ばとまだ若いが、機械音痴と言ってもいいほどに電子機器との相性が悪い。
スマートフォンの操作もメールと電話、ネット検索以外はほぼ使えない。トークアプリはメッセージの返信以外は全くもってできない。
「でも意外です。和陽さん機械強そうなのに」
「昔から機械との相性が最悪でね。必要最低限の機能以外はほぼ扱えないよ」
はにかみながら答える和陽。
「なんでもこなせる完璧人間に見えるのに、これがギャップ…!」
「茶番かい?」
「茶化したように言いましたけど、本心です」
「そうか」
「はい」
話している間も端末を操作している尊。
尊自身の端末は少し前にテーブルに置かれたが、いまだ和陽の端末は尊が操作している。
和陽は、機械に関しては人並み以下の操作しかできない自身とは違い、尊は人並みかそれ以上に操作ができるはずなのに写真を設定するだけでこんなにかかるものなのかと思う。
ふむ、と考えていれば、尊は和陽に端末を差し出した。
「終わりましたよ」
「随分操作していたね」
「ちょっといたずらをしていたので」
端末を受け取る。表示されているプロフィール画像を見ればキールを飲んでいる和陽の写真だった。顔の上半分はトリミングしてあり写ってはいない。
いつのまにこんな写真を撮ったんだ、と驚く和陽。尊はいたずら成功とばかりにニヤリと笑う。
「驚いた。いつ撮ったんだい?」
「二、三週間前です。いやあ、こんなところで役に立つとは思わなかったです」
和陽は尊が自身の端末を操作していたのは写真を転送するためかと、納得する。
「何のために私の写真なんて撮ったのかな? 隠し撮りだろう、これ」
「目の保養に」
「女性じゃあるまい」
「いや、イケメンを見て目の保養にするのに男女は関係ないと思います!」
「いや、あると思うし私は別にイケメンではないのだけれど…。まあ、もう隠し撮りはやめてくれればいいかな」
「はい。すみません」
しょぼんとして隠し撮りを謝る尊に、いいよ、と優しく笑い許す和陽。
トークアプリを終了させて時計を見れば、日付を跨ぐ少しまえだった。
「おや、もうこんな時間だ。帰ろうか尊君」
「え? あ、本当ですね」
「尊君と話していると時間があっという間に過ぎてしまうよ」
「本当にあっという間に過ぎちゃいますよね」
雑談をしながら身支度を整える尊と和陽。
身支度を終えればマスターに会計をしてもらい店を出る。
「じゃあ、またね」
「はい、また」
帰る方向が逆なので店の前で別れる二人。
和陽と尊はまた店で会うことを約束して帰路についた。




