第3話「翌朝の現実と、二人のあり得ない報告」
・人間界・王都エルディアム、聖騎士団本部・来客室
朝の光が、石造りの窓から差し込んでいた。
「シルヴィア様。お目覚めでいらっしゃいますか?」
「……ん」
白金の髪を枕に広げたまま、シルヴィア・アルテミスは目を開けた。
勇者:その称号を与えられてから、三年が経つ。
人類の希望。魔王討伐の担い手。
七つの王国の連合議会が選んだ、この時代最強の戦士。
現在十六歳。
「また夢を見た」
シルヴィアは呟いて、ゆっくりと上体を起こした。
あの喫茶店の夢。
最初に見たのは一ヶ月前だった。偶然迷い込んだような感覚だったが、あまりにも居心地が良くて——毎晩通うようになってしまった。
コーヒーを一杯飲むだけで、体の奥から緊張がほどけていく。
マスターと呼ばれるあの少年は、余計なことを一切聞かない。でも、さりげなく気を使ってくれる。昨夜は食事まで出してくれた。
「シルヴィア様、本日は第三魔族領との国境警備の視察が……」
「わかってる。準備する」
シルヴィアはベッドから立ち上がり——
「っ!?」
よろけた。
壁に手をついて、自分の体を確認した。
「どうなさいましたか!?」
侍女が慌てて駆け寄るのを手で制して、シルヴィアは自分の右手を眺めた。
手が……震えていない。
いつも朝は、右手がわずかに震えている。長年の魔力酷使による後遺症で、医師からは「一生治らない」と言われていた症状だ。
「震えていない」
「え?」
「右手の震えがない」
侍女が口を開けた。
シルヴィアはゆっくりと、魔力を体中に巡らせてみた。
魔力の流れが、いつもと違う。
いつもは川のように流れる魔力が、まるで——水路が広がったかのように、体の隅々まで滞りなく流れていく。
「これは……」
シルヴィアは窓の外の景色を見た。
いつもは朝の光がまぶしすぎるほど疲れた目に、今日は澄んで見える。
体が、軽い。
「魔力波形の測定を頼む」
「はい、ただ今」
測定器を当てて五秒後、侍女は固まった。
「シルヴィア様」
「何?」
「魔力値が、昨日の測定値の、ほぼ二倍になっております」
▽ ▽ ▽
・同日・魔王城、魔王執務室
「馬鹿な」
ゼルガ・ヴォルカニスは、目の前の数字を見つめて呟いた。
魔王:その座についてまだ一年。
父である先代魔王が病で倒れ、後継者争いで血みどろの半年を生き延び、十七歳で玉座に就いた。
「昨日から今日で、魔力が倍増しただと?」
「は、はい。測定に誤りはないかと……む、むしろ計器が壊れているのではと……」
「計器を変えて、もう一度測れ」
「は!」
臣下が慌てて動き始める中、ゼルガは自分の右手を握り締めた。
昨夜の夢のことを思い出していた。
どこかの喫茶店に迷い込んだ夢。
金色の目をした少年が作った料理——ハンバーグとかいう見知らぬ食べ物——が、信じられないほど美味かった夢。
「あれは、何だったんだ」
「魔王様?」
「独り言だ。気にするな」
ゼルガは窓の外を見た。
魔王城から見える、赤く染まった荒野。
部下たちの視線。期待と恐怖と打算が混ざった、うんざりするような視線。
昨夜の喫茶店には——そういうものが、何一つなかった。
あの少年は、ゼルガが「魔王」であることを知らなかった(アバター体を使っているのだから当然だが)。ただの「客」として扱ってくれた。
飯を出して。
「また来て」と言って。
それだけだった。
「馬鹿馬鹿しい」
ゼルガは首を振った。
たかだか夢の中の出来事だ。
「だが」
昨日より体が、明らかに動く。
魔力が、余っている感覚がある。昨日まではいつもぎりぎりだったのに。
「魔王様、計器の確認が終わりました」
「結果は?」
「やはり、魔力値は昨日の二倍を示しております」
ゼルガは短く息を吐いた。
「そうか」
▽ ▽ ▽
同日夜・魔王城・魔王私室
ゼルガは執務を終えて、寝室に戻ると、すぐに横になった。
「気分次第と言ったが……」
ぼそりと呟く。
「今日は気分が向いた」
目を閉じる。
呼吸を整える。
あの喫茶店の扉を、頭の中でイメージした。
【夢幻創造】の波長に、接続。
意識が、沈んでいく。
▽ ▽ ▽
同日夜・王都エルディアム・勇者の私室
シルヴィアはベッドに入りながら、手を胸の上で組んだ。
今日の視察は、信じられないほどうまくいった。
普段なら三体処理するのがやっとの魔物の群れを、今日は一人で十七体屠った。
体が、動く。
魔力が、満ちている。
「あの食事が、効いたのか?」
一つしか思い当たらない。
シルヴィアは目を閉じて、小さく祈るように呟いた。
「また、あそこに行けますように」
▽ ▽ ▽
夢喫茶 アストラル:深夜
カランカラン。
「いらっしゃい」
「また来た」
赤い目の男の子が、昨日と同じように店に入ってきた。今日は少し足取りが軽い気がした。
「気分が向いた?」
「うるさい」
「そっか。今日は何がいい?」
「おまえが決めろ」
俺はにやりとした。そういう注文をしてくれる客は、ちょっとうれしい。
「じゃあ今日は——ラーメンを作ってみようか。麺料理なんだけど」
「なんだそれは」
「食べてみてからのお楽しみ」
ほどなくして、扉が開いた。
「今夜もお邪魔します、マスター」
金色の髪の女の子が入ってきた。
昨日よりも——だいぶ、顔色がよかった。
「いらっしゃい。今日は元気そうだな」
「はい。今日、信じられないくらい体の調子が良くて——」
「あの食事の効果かな」
女の子がふわりと微笑んだ。
「そうだと思います。ありがとうございます、マスター」
「どういたしまして。今日はラーメンだよ」
「ラーメン?」
「麺料理。たぶん、こっちの世界にはないやつ」
「楽しみです!」
女の子がいつもの窓際の席に向かおうとして——カウンター席の男の子と目が合った。
一瞬、二人が固まった。
「……どうも」と女の子。
「……ああ」と男の子。
それだけ交わして、二人は別々の席に座った。
俺は厨房でラーメンのスープを温めながら、ちらりと二人を見た。
なんとなく——お互い、相手のことが気になっているのだと思う。でも、喋るほどの接点もないし、どちらも深入りすることを避けているようだった。
まあ、それでいい。
ここは喫茶店だ。無理に仲良くさせる必要もない。
「できたよ。醤油ラーメン」
どんぶりに麺を入れ、たっぷりのスープを注ぐ。チャーシューの代わりに夢の食材庫から出した魔物の肉を薄切りにしたもの(現実世界では「竜のサーロイン」くらいの価値がある素材だが、俺には関係ない)、メンマの代わりに竹節草の漬物、半熟卵、ネギ。
完璧なビジュアルだ。
二人分のラーメンをそれぞれの席に運ぶと——二人とも、一口すすって、しばらく固まった。
「うまい」と男の子。
「なんですか、これ」と女の子。「スープが、全部飲んでしまいたくなる」
「飲んでいいよ」
二人は黙々と、でも明らかに幸せそうな顔で、ラーメンを食べた。
夢の星空の下。
小さな喫茶店で。
現実では決して交わらない二人が、並んでラーメンをすすっている。
これでいい。
俺は厨房の奥で、静かに微笑んだ。
これが、最高なんだ。




