第8話 神代玲奈
御影宗一郎の家の中から、音が消えた。
書斎の明かりは落とされ、廊下にも客間にも、誰も息をしていないような沈黙が張りついている。外には、何も変わらない住宅街がある。街灯、雨戸、風に揺れる庭木。けれど悠斗には、その静けさの奥に何かが潜んでいるように思えた。
美耶は悠斗の袖をつかんだまま、玄関の方を見ている。指先が小さく震えていた。
「先生。今の、人だったんですか」
「まだ分からん」
宗一郎は窓の隙間から外を見たまま、声を落とした。
「木の影かもしれん。風かもしれん。だが、そう思って油断した夜に限って、人は来る」
「追っ手、ですか」
美耶が聞く。
宗一郎は、すぐには答えなかった。
「四十年前と同じなら、そうじゃ」
四十年前。美耶の祖母、美那がこの世界で追われた夜。
悠斗は喉の奥が乾くのを感じた。逃げた方がいい。そう言いかけたが、宗一郎が先に首を振る。
「闇雲に外へ出れば、かえって捕まる。怖い時ほど、最初の一歩を間違えるな」
その時、玄関の方で軽い音がした。
呼び鈴だった。
夜の静けさの中で、その音だけが不自然に澄んで響いた。
美耶の肩が跳ねる。悠斗も息を止めた。宗一郎は動かない。古い家の中で、三人の沈黙だけが重くなっていく。
もう一度、呼び鈴が鳴った。
急かす音ではない。待つことに慣れている者の音だった。
「……出るんですか」
「出なければ、向こうから入ってくるだけじゃ」
「そんな」
「そういう相手かもしれん、という話じゃ」
宗一郎は机の引き出しから、小さな懐中電灯と古びた金属棒を取り出した。武器と呼ぶには頼りない。それでも、何もないよりはましなのだろう。
「美耶さんは、白峰くんの後ろに」
「はい」
美耶は胸元の天岩戸八咫鏡に手を添え、悠斗の後ろへ下がった。怖がっている。けれど逃げ出そうとはしていない。
悠斗は、袖をつかむ指を見た。
「大丈夫」
根拠はない。
それでも、言わずにはいられなかった。
* 1 *
宗一郎が玄関へ向かう。悠斗は美耶を背にして、その後ろに続いた。
すりガラス越しに、一人分の影が見える。細い影だった。少なくとも、強引に押し入ってくる大男には見えない。だから安心できる、というわけではなかった。
「どなたかな」
宗一郎が扉越しに言う。
少しの沈黙のあと、若い女の声が返った。
「夜分に失礼いたします。神代玲奈と申します」
神代。
その名を聞いた瞬間、宗一郎の眉がわずかに動いた。
「御影宗一郎先生。四十年前の件についても、少しは存じています」
美耶の指が、悠斗の袖をさらに強くつかむ。
四十年前。
初対面の相手が、その言葉を口にした。
「神代、か。今さら、何の用じゃ」
「お話があります」
「ここで聞こう」
「できれば中で。外で話すには危険です」
「危険を連れてきたのは、そちらではないのかね」
扉の向こうの女は、すぐには答えなかった。焦っていない。怒ってもいない。その落ち着きが、かえって不気味だった。
「疑われるのは当然です。ですが、時間がありません」
女は静かに言った。
「四代目陽巫女、美耶様を保護しに参りました」
美耶が息をのむ。
悠斗は反射的に前へ出ていた。
「保護って、誰が決めたんですか」
扉の向こうの影が、悠斗の方を向く。
「あなたは」
「白峰悠斗です。質問に答えてください。誰が、美耶を保護するって決めたんですか」
「状況が決めました」
その言い方が、気に入らなかった。
状況。
その一言で、美耶の意思がどこかへ追いやられたように聞こえた。
「美耶は物じゃない」
悠斗は言った。
「見つけたから預かるとか、危ないから連れていくとか、そういう話じゃないでしょう」
声が震えているのが分かった。怖いからではない。腹が立っていた。
美耶には母がいる。父がいる。祖母がいる。待っている民がいる。誰かの娘で、誰かの孫で、怖いままこの世界へ来た少女だ。
保護対象だとか、状況だとか、そんな言葉だけで扱われていいはずがない。
扉の向こうで、女の声が少しだけ柔らかくなった。
「その反応をされる方が近くにいるなら、少し安心しました」
「安心?」
「陽巫女を、陽巫女としてしか見ない人間もいますから」
宗一郎がちらりと悠斗を見た。
「白峰くん。少し下がりなさい」
「でも」
「今の言葉だけなら、敵のそれとは少し違う。ただし、信用したわけではない」
鍵が外れる。
扉がゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、黒いスーツの女性だった。年齢は二十代後半くらい。長い髪を後ろでまとめ、飾り気のない眼鏡をかけている。美人ではある。けれど柔らかさより先に、冷静さが目についた。
「神代玲奈です」
彼女はまず宗一郎へ頭を下げ、次に悠斗を見た。そして最後に、悠斗の背後にいる美耶へ視線を移す。
その瞬間、玲奈の表情がわずかに変わった。
驚きと、緊張と、何かを抑えるような沈黙。
「四代目陽巫女、美耶様」
玲奈は深く頭を下げた。
「お迎えに上がりました」
美耶は悠斗の後ろから少しだけ顔を出した。怯えている。それでも、玲奈の礼に対して、小さく頭を下げ返す。
「美耶と申します」
細い声だった。
けれど、陽巫女としての形を崩してはいなかった。
悠斗は、その健気さに胸が詰まる。
こんな時でも、礼を返すのか。
「あなたは、私を知っているのですか」
「正確には、あなたが現れる可能性を知っていました。四十年前の記録があります。三代目陽巫女様の記録です」
宗一郎の顔が険しくなる。
「神代家が、美那の記録を持っておるのか」
「一部だけです」
「一部、か。都合のいい言い方じゃな」
「否定はしません。神代家にも、果たせなかった責任があります」
「責任で済む話か」
宗一郎の声が低くなった。
「四十年前、美那は一人でこの世界へ来た。何も知らんわしのところへ流れ着くしかなかった。君らは、その時どこにいた」
玲奈は言い訳をしなかった。
「間に合いませんでした。そして、間に合わなかったことを、私たちは四十年引きずっています」
「私たち?」
悠斗が聞く。
玲奈はまっすぐ悠斗を見た。
「八咫烏。邪馬台国を元の世界へ戻すため、現代まで続いてきた組織です」
聞き慣れない言葉だった。
けれど、妙に古い響きがあった。
「政府のものではありません。むしろ、政府側にいる別の組織から隠れて動いています」
宗一郎が低く笑った。
「ようやく名前を出したか」
「御影先生は、存在をご存じだったのですね」
「噂だけはな。四十年探した。だが、尻尾をつかめんかった」
「つかませないようにしていました」
「胸を張ることかね」
「いいえ。だからこそ、今夜は来ました」
* 2 *
玄関を閉め、玲奈を上がらせるまでに、宗一郎は何度も外を確認した。
誰もいない。
少なくとも、見える範囲には。
けれど玲奈は、靴を脱ぐ前に言った。
「長くは話せません」
「追われておるのか」
「はい」
あまりにあっさりした返事だった。
「誰に」
悠斗が聞く。
「内閣時空災害対策室。秘匿名、天叢機関」
その名前を聞いた瞬間、宗一郎の表情が変わった。
悠斗には意味が分からない。だが、ただの役所ではないことだけは分かった。
「まだ残っておったか」
「残っているどころではありません。四十年前よりも、ずっと組織化されています」
「何をする組織なんですか」
玲奈は少しだけ間を置いた。
「表向きは、時空災害から国を守るための機関です。実態は、陰の世界と三種の神器を国家管理下に置こうとする組織です」
美耶の手が、胸元の鏡を押さえた。
「そして彼らにとって、陽巫女は人ではありません」
悠斗の胸が冷える。
「どういう意味ですか」
「扉を開くための鍵です」
玲奈の声は淡々としていた。だが、その奥に怒りのようなものがある。
「彼らは美耶様の意思を確認しません。疲れているか、怖がっているか、帰りたい場所があるか。そういうことは、彼らにとって重要ではありません」
悠斗は、美耶の前にもう半歩出た。
「だから保護しに来たって言うんですか。でも、あんたたちも同じじゃないんですか」
玲奈の目が、わずかに細くなる。
「邪馬台国を戻すための組織なんですよね。だったら、美耶が使命を果たすことを望んでる。結局、美耶を必要としてるんじゃないですか」
部屋の空気が重くなった。
宗一郎も玲奈も、すぐには否定しない。
その沈黙だけで、悠斗には十分だった。
「……やっぱり」
「あなたの疑いは正しいです」
玲奈は言った。
「八咫烏は、美耶様に使命を果たしていただきたいと考えています。邪馬台国を戻すためには、陽巫女の力が必要だからです」
「だったら」
「ですが、私たちは美耶様を鍵として扱うつもりはありません」
「信じろってことですか」
「信じなくて構いません」
玲奈は即答した。
「今この場で、私を信用する理由はありません。ですが、次に来る者たちは、信用するかどうかを尋ねません」
その一言で、部屋の温度が下がった気がした。
「天叢機関は、すでに時空歪曲値を観測しています。発生地点から御影先生の家にたどり着くのは時間の問題です」
「もう、たどり着いている可能性は」
宗一郎が聞く。
「あります。私がここへ来られたのは、彼らより少しだけ早く動けたからです」
「つまり、逃げろと」
「はい」
「行き先は」
「安全な場所へ」
悠斗は眉を寄せた。
「それ、全然説明になってないですよね」
「今は、詳細を話すほど互いを信用していません」
「そこは正直なんですね」
「嘘をついて信用される段階ではありませんから」
冷静すぎる。
だから信用しづらい。
けれど、言っていることは筋が通っていた。少なくとも、力ずくで美耶を連れていこうとはしていない。
その時、美耶が小さく口を開いた。
「あの」
全員の視線が向く。
美耶は少し肩をすくめたが、胸元の鏡から手を離さなかった。
「私は、邪馬台国へ帰らなければなりません。母も、父も、祖母も、民も待っています。だから、使命から逃げるつもりはありません」
細い声だった。
「でも、誰かに連れていかれるのは、怖いです」
玲奈は黙って聞いていた。
「私は、まだこの世界のことを何も知りません。悠斗がいなければ、道も、音も、灯りも、何も分かりません」
美耶の手が、そっと悠斗の袖をつかみ直す。
「だから、悠斗のそばを離れるのは怖いです」
まっすぐすぎる言葉だった。
悠斗は何も返せなかった。
胸の奥が、また熱くなる。
本当に困る。
こんな言い方をされたら、逃げようがない。
玲奈は美耶と悠斗を交互に見た。
「分かりました」
「え」
「美耶様を無理に引き離すことはしません。白峰さん、あなたにも一緒に来ていただきます」
「僕も?」
「はい」
「いや、待ってください。僕、ただの高校生なんですけど」
「今さらです」
返答は短かった。
宗一郎が小さく鼻を鳴らす。
「巻き込まれたな、白峰くん」
「先生のせいでもありますよね」
「わしも一緒に巻き込まれておる」
美耶が、ほんの少しだけ笑った。
その笑みを見て、悠斗は息を吐く。
怖い状況なのに。
逃げなければならないかもしれないのに。
美耶が少し笑っただけで、胸の奥の硬さがほどけてしまう。
玲奈が腕時計を見た。
その表情が、急に引き締まる。
「時間です」
「何が」
悠斗が聞くより早く、外で低い音がした。
車の音。
普通の住宅街を走る車とは違う。静かすぎるほど滑らかで、重い音だった。
宗一郎が窓へ向かう。
カーテンの隙間から外を見た瞬間、顔が険しくなった。
「黒い車が二台」
玲奈が目を閉じる。
一瞬だけ、悔しそうに見えた。
「遅かった」
美耶の顔から血の気が引く。
「天叢機関、ですか」
玲奈はうなずいた。
「はい」
家の外で、車の扉が閉まる音がした。
一つ。
また一つ。
足音は、驚くほど静かだった。
その静けさが、かえって怖い。
宗一郎は素早く玄関の鍵を確認し、書斎の方へ視線を走らせる。
「裏口は使える」
「私の車を裏手に回しています」
玲奈が言った。
「荷物は捨ててください。今必要なのは、美耶様と鏡です」
「先生の資料は」
悠斗が言うと、宗一郎は首を振った。
「命あっての資料じゃ」
その一言で、悠斗は本当に時間がないのだと悟った。
美耶が、袖をつかむ。
今度は震えを隠そうともしていなかった。
「悠斗……」
「離れないで」
悠斗は言った。
美耶が、小さくうなずく。
外で、玄関へ近づく足音が止まった。
呼び鈴は鳴らなかった。
代わりに、扉の向こうから男の声がした。
「内閣時空災害対策室です」
感情のない、整った声だった。
「確認したい事項があります。開けていただけますか」
確認。
その言葉が、ひどく白々しく聞こえた。
玲奈が、ほとんど息だけで言う。
「あれは確認ではありません」
宗一郎が明かりを消す。
家の中が、闇に沈んだ。
「確保の前置きです」
美耶の手が、悠斗の袖を強く握る。
悠斗はその手を振りほどかず、闇の中で半歩前へ出た。
逃げるかどうかを迷う時間は、もう残されていなかった。




