第7話 迫る影
御影宗一郎が戸締まりを終えても、家の中に張りついた緊張は消えなかった。
古い玄関の鍵が閉まる音。雨戸を引く音。窓の向こうで庭木の葉が揺れる音。
どれも、ふだんなら気にも留めない音なのだろう。
けれど今の悠斗には、そのひとつひとつが妙に大きく聞こえた。
美耶は、客間へ戻ってからも、しばらく眠れずにいた。
布団の上に座り、胸元の鏡に手を添えている。天岩戸八咫鏡。さっき聞いたばかりの名前が、悠斗の頭の中に残っていた。
陽巫女が世界を渡るための鏡。
国そのものを戻す力はない。
それでも、美耶はそれを握って、知らない世界へ来た。
「……まだ、怖い?」
悠斗が声を落として聞くと、美耶は一度だけ瞬きをした。
「怖くないと言えば、嘘になります」
正直な答えだった。
「ですが、さきほどよりは……落ち着いています」
「本当に?」
「はい」
美耶はうなずいた。
けれど、彼女の指はまだ悠斗の袖をつかんでいる。強く握っているわけではない。引き止めるほどでもない。ただ、離れたら不安になるのだと分かる程度に、ほんの少しだけ布をつまんでいた。
悠斗は、それを振りほどけなかった。
振りほどこうとも思わなかった。
* 1 *
「邪馬台国には、家族がいるんだよね」
聞いていいのか、少し迷った。
けれど聞かなければ、美耶が何を背負っているのか分からないままだと思った。
美耶は胸元の鏡をそっと撫でる。
「はい。母と、父がいます。祖母もいます」
「祖母って、美那さん?」
「はい。美那は、私の祖母です」
その名を口にした時、美耶の声が少しだけ柔らかくなった。
「祖母は、とても不思議な方です。薬草や珍しい石を見つけると、子どものように目を輝かせます。でも、陽の世界の話をする時だけは、少し寂しそうな顔をします」
悠斗は、宗一郎の顔を思い出した。
四十年。
悠斗にはまだ、想像できない時間だ。
「お母さんとお父さんは?」
「母は、美都といいます。厳しい方です」
「厳しいんだ」
「はい。私が陽巫女として迷うと、すぐに叱られます」
美耶はまじめな顔で言った。
「でも、本当は心配性です。私が少し熱を出しただけで、眠らずにそばにいてくれました」
その声に、家族を思う温度があった。
「父は、阿岐といいます。あまり多くは話しません。けれど、私が出発する前、ずっと私の履物の紐を結び直していました」
「紐を?」
「はい。何度も、何度も。もう結べているのに」
美耶は視線を落とした。
「きっと、手を離したくなかったのだと思います」
悠斗は、何も言えなくなった。
美耶は、光の中から突然現れた少女ではない。
誰かの娘で、誰かの孫で、誰かに大切にされてきた人間だ。
当たり前のことなのに、さっきまではその当たり前が見えていなかった。
「それから、民がいます」
美耶は続けた。
「私が幼い頃から知っている人たちです。水を汲む人、畑を耕す人、祭りの日に歌を教えてくれた人、転んだ時に手を引いてくれた人」
悠斗の知らない名前も、顔も、そこには確かにあるのだと思えた。
「みんな、邪馬台国で待っています」
美耶は胸元の鏡を握った。
「でも、陰の世界は崩れ始めています。空は暗く、土地は弱り、作物も以前ほど育たなくなりました。結界の外には、人ではないものもいます。今は大きな力で邪馬台国は守られていますが、それも永遠ではありません」
悠斗は息をのんだ。
「このままでは、邪馬台国は消えてしまいます」
美耶の声が、わずかに震えた。
「母も、父も、祖母も、民も。私の知っているすべてが、消えてしまいます」
部屋の空気が重くなる。
悠斗は、自分の手を見た。
剣もない。鏡もない。世界を越える力もない。
自分はただ、一年間止まっていた高校生だ。
それなのに目の前の少女は、国を背負って知らない世界へ来ている。
「美耶は」
悠斗は、ようやく声を出した。
「怖くなかったの?」
美耶はすぐには答えなかった。
鏡を握る指に、少しだけ力が入る。
「怖かったです」
静かな声だった。
「陽の世界へ渡った陽巫女の中には、戻れなかった方もいます。命を落とした方もいます。祖母も、陽の世界は危険だと教えてくれました」
美耶は顔を上げる。
涙はない。
けれど、泣かないようにしている目だった。
「それでも、私が行かなければなりませんでした」
「陽巫女だから?」
「それもあります」
「それも?」
「でも、それだけではありません」
美耶は、布団の上に置かれた自分の手を見つめた。
「私は、みんなに生きていてほしいのです」
その一言で、悠斗は言葉を失った。
「母に、もう一度叱られたいです。父に、また黙って履物の紐を直されたいです。祖母の陽の世界の話を、もっと聞きたいです。祭りの日に、みんなの歌をもう一度聞きたいです」
小さな願いばかりだった。
国を救う、世界を戻す。
そんな大きな言葉の奥にあるのは、本当はそういうものなのだ。
美耶が守ろうとしているのは、地図の上の国名ではない。
そこにいる人たちの、明日だった。
「だから、来ました」
美耶は言った。
「怖くても、来るしかありませんでした」
悠斗は、胸の奥が締めつけられるような気がした。
美耶は強い。
けれど、怖くないわけではない。
怖いまま、それでも来た。
悠斗には、それが分かってしまった。
* 2 *
「白峰くん」
廊下側から声がした。
振り返ると、宗一郎が立っていた。
いつから聞いていたのかは分からない。
けれど、その表情は軽くなかった。
「今すぐ答えを出す必要はない」
宗一郎は、静かに言った。
「君は巻き込まれただけじゃ。美耶さんを助ける義務はない」
美耶が、はっとしたように悠斗を見る。
その目を見た瞬間、悠斗は困った。
そんなふうに見られると、知らないふりをする方が難しくなる。
いや、違う。
逃げづらいのではない。
逃げたくないのだ。
まだ、邪馬台国を救うとか、世界を戻すとか、そんな大きなことは言えない。
言えるわけがない。
でも、ひとつだけなら言える。
「少なくとも」
悠斗は、ゆっくりと言った。
「一人にはしない」
美耶の目が揺れた。
「悠斗」
「全部信じるとか、全部分かるとか、そういうのはまだ無理だと思う。神器のことも、陰の世界のことも、正直まだ頭が追いついてない」
悠斗は、自分の言葉を探しながら続けた。
「でも、この世界のことを何も知らない美耶を、一人で外に出すのは危ない。車にも、自販機にも驚くし」
「じはんき」
「あとで説明する」
「あとで、ですね」
美耶は小さく繰り返した。
さっきより、ほんの少しだけ表情が和らいだ。
悠斗は息を吸う。
「だから、少なくとも今は、美耶を一人にはしない」
言ってから、胸が急に熱くなった。
大きな決意をしたつもりはない。
ただ、目の前の少女を一人にしたくない。
その小さな一歩が、今の悠斗には精一杯だった。
美耶はしばらく悠斗を見つめていた。
そして、胸元の鏡に手を添えたまま、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
声が震えていた。
「悠斗がそう言ってくださるなら、私は……そんなに、怖くありません」
悠斗は、どう返せばいいか分からなくなった。
視線を泳がせると、宗一郎がこちらを見ていた。
にやついてはいない。
むしろ、痛いものを見るような目だった。
「御影さん?」
「いや」
宗一郎は、わずかに首を振った。
「四十年前、わしにもそれくらいのことが言えればよかったと思っただけじゃ」
その声には、深い後悔があった。
美耶が顔を上げる。
「祖母のことですか」
「そうじゃ」
宗一郎は、壁にかかった古い地図を見た。
「美那が現れた時、わしは何も知らん若造じゃった。邪馬台国のことも、神器のことも、追ってくる者たちのことも、何ひとつ分かっておらんかった」
宗一郎の手が、机の端に置かれる。
「わしにできたのは、逃がすことだけじゃった。守ったなどとは言えん。ただ、逃がした。それだけじゃ」
美耶は胸元の鏡を握った。
「祖母は、御影様のことを悪く言ったことはありません」
「美那は、そういう人じゃ。だからこそ、余計にこたえる」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
「人はな、何かを守る時、最初から強いわけではない」
宗一郎はゆっくり振り返る。
「強いから守るのではない。守りたいものを前にして、ようやく少しずつ動けるようになる」
悠斗は何も言えなかった。
その言葉が、自分のどこか深いところに触れた気がした。
一年前から止まっていたもの。
助けようとして、裏切られて、怖くなったもの。
それでも、袖をつかむ美耶の指を見た時、悠斗は逃げたくないと思ってしまった。
「……強くなれるかは、分かりません」
悠斗は言った。
「でも、今ここで美耶を一人にしたら、たぶん後悔します」
宗一郎は、静かにうなずいた。
「それで十分じゃ」
* 3 *
町の別の場所で、青白い光が無機質な壁を照らしていた。
そこは、どこにでもある事務室には見えなかった。
窓はなく、白い壁と床の中で、並んだ端末の画面だけが静かに明滅している。
必要な情報だけが、短く切られて飛び交っていた。
「時空歪曲値、再照合完了」
若い職員が言った。
画面には、現在の観測値と古い記録を重ねた波形が表示されている。
「一致率は」
「八七・四パーセント。誤差範囲内です」
隣に立つ男が、画面をのぞき込んだ。
「四十年前の記録か」
「はい。記録名は、第三次陽巫女観測事案」
その言葉に、室内の空気がわずかに変わった。
第三次陽巫女観測事案。
感情のない名前だった。
「場所は」
「市街地北西部。発生点を中心に、監視網と住民基本情報を照合中です」
「候補は」
「複数あります。ただし、発生点近傍に一件、過去記録と関連する人物の住居があります」
職員がキーを叩くと、画面に古い住宅街の地図が表示された。
赤い円がひとつ、静かに点滅する。
「御影宗一郎」
男が名前を読んだ。
声に感情はなかった。
「まだ生きていたか」
「現在六十代。考古学者。邪馬台国関連の論考を複数発表。ただし、学会内では異端扱い。監視優先度は低位に設定されていました」
「低位?」
男の声が、わずかに冷える。
「四十年前の対象接触者だぞ」
「当時の記録では、所在追跡が一時途絶。その後、社会的影響力が低いと判断され、継続監視は縮小されています」
「判断した者の名前を残しておけ」
「はい」
職員はすぐに入力した。
男は、赤い円の中にある御影宗一郎の住居を見つめた。
「陽巫女か」
誰かが小さく言った。
その言葉は、室内で異様にはっきり響いた。
男は答えない。
だが、否定もしなかった。
「九条局長へ報告しろ」
「はい」
「現場班を準備。対象が陽巫女である可能性を最優先にする。生体反応の確保を第一。周辺人物は状況に応じて処理」
「処理、ですか」
「抵抗があれば、だ」
男は淡々と言った。
まるで、書類の余白を切り落とすような口調だった。
「ただし、まだ動くな。光を観測した直後だ。相手が単独か、支援者がいるかを確認する必要がある」
画面の赤い円が、静かに点滅している。
四十年前に取り逃がした痕跡の近くで、再び時空歪曲値が観測された。
「四十年ぶりだ」
男は薄くつぶやいた。
「今度は、逃がすな」
* 4 *
宗一郎の家では、ようやく美耶が横になった。
とはいえ、眠れたわけではない。
布団に入ってからも、美耶は何度か目を開けた。
そのたびに悠斗の方を見る。
悠斗は客間の隅に座り、壁にもたれていた。
「眠れない?」
小さく聞くと、美耶は申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません」
「謝らなくていいよ」
「でも、悠斗まで眠れなくなってしまいます」
「少しなら平気」
そう言ってから、悠斗は少しだけ自分で笑いそうになった。
平気なはずなどない。
それでも、そう言ってしまう。
美耶を不安にさせたくないから。
「悠斗は」
美耶が、布団の中から小さく言った。
「どうして、そこまでしてくださるのですか」
悠斗はすぐには答えられなかった。
どうして。
自分でも、はっきりとは分からない。
光の中から現れた時、きれいだと思った。
怖がって袖をつかまれた時、放っておけないと思った。
でも、それを全部言葉にするのは難しい。
「たぶん」
悠斗は、少し考えてから言った。
「美耶が、ちゃんと怖がってるからだと思う」
「怖がっているから、ですか」
「うん」
美耶が不思議そうに見つめてくる。
悠斗は、言葉を選びながら続けた。
「美耶は、怖いって分かったうえで、それでも来たんだろ」
美耶は黙って聞いていた。
「それを見たら、何もしないのは嫌だと思った」
言ってから、悠斗は視線を落とした。
少し踏み込みすぎた気がした。
けれど、美耶は笑わなかった。
「私は」
美耶は、布団の端を握った。
「本当は、強くありません」
「うん」
「陽巫女なのに、知らないものが怖いです。大きな音も、車も、電気の明かりも、まだ少し怖いです」
「うん」
「でも、怖いと言ってしまったら、帰れなくなってしまいそうで」
美耶の声が小さくなる。
「だから、あまり言わないようにしていました」
悠斗は、美耶の顔を見た。
布団の中で、彼女は少しだけ幼く見えた。
国を背負う陽巫女ではなく、ただ知らない場所で眠れない少女に見えた。
「言っていいと思う」
「え」
「怖いなら、怖いって言っていいと思う。少なくとも、僕の前では」
言った瞬間、悠斗は自分でも驚いた。
でも、もう言ってしまった。
美耶は目を大きくしたあと、少しだけうつむいた。
「……では」
「うん」
「今は、少し怖いです」
「うん」
「ですが、悠斗がいてくださるので、少しだけ落ち着きます」
その言い方があまりにまっすぐで、悠斗は返事に詰まった。
胸の奥が熱い。
困る。
美耶は、時々本当に困る。
廊下の向こうで、宗一郎が軽く咳払いをした。
聞こえていたらしい。
「先生」
「わしは何も聞いておらん」
「絶対聞いてましたよね」
「……今のは、聞かなかったことにしておく」
「やっぱり聞いてましたよね」
美耶が、不思議そうに二人を見る。
それから、ほんの少しだけ笑った。
小さな笑みだった。
けれど、その笑みを見て、悠斗はこの会話に意味があったのだと思えた。
美耶は目を閉じた。
今度は、さっきよりも呼吸が落ち着いている。
悠斗はそのまま壁にもたれ、窓の外へ目を向けた。
夜は、息を潜めているようだった。
* 5 *
宗一郎は、書斎の明かりを消さなかった。
机の上には、四十年前の資料が広げられている。
新聞の切り抜き。
古い手帳。
神社の配置図。
そして、若い頃の自分が乱暴に書きつけたメモ。
美那。
その名前が書かれた紙だけは、長い年月で端が擦り切れていた。
宗一郎は、しばらくそれを見つめていた。
「美那らしい言い方じゃ」
低くつぶやく。
褒め言葉なのか、そうでないのか。
苦いのに、少しだけ救われる。
宗一郎は苦く笑った。
四十年前、自分は本当に頼りなかった。
金もない。知識もない。覚悟もない。
ただ、目の前の少女を見捨てられなかっただけだ。
それだけで、何かを成し遂げた気になっていた。
だが、結果としてできたのは、逃がすことだけだった。
今度は違う。
そう思いたい。
だが、四十年調べてきても、分からないことは多すぎる。
界裂草薙剣の所在。
空間を裂ける場所。
陽巫女を狙う者たち。
宗一郎は、窓の外を見た。
住宅街は眠っている。
だが、四十年前もそうだった。
何も起きていないような夜に、追っ手は現れた。
宗一郎はゆっくりと立ち上がり、窓際へ向かった。
カーテンを指一本分だけ開ける。
外には、街灯に照らされた道路が見えた。
誰もいない。
いや。
道路の向こう側、電柱の影に、黒いものが一瞬だけ動いた気がした。
宗一郎の目が細くなる。
風で揺れた木の影か。
それとも、人影か。
判断はつかない。
だが、胸の奥に沈んでいた嫌な感覚が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
「……思ったより早いかもしれん」
宗一郎は低く言った。
その声を聞いたのか、客間の方で小さな物音がした。
悠斗が顔を出す。
「先生?」
その後ろから、美耶も顔を出した。
眠りかけていたのか、髪が少し乱れている。
けれど、その目にはもう眠気より不安が浮かんでいた。
「どうかしましたか」
美耶の声が震えている。
宗一郎は、すぐには答えなかった。
もう一度、窓の外を見る。
黒い影は見えない。
ただ、静かな道路があるだけだ。
四十年前と同じだ。
何かが来る前の夜は、いつも息を潜めている。
「美耶さん」
宗一郎は、窓から離れた。
「今夜は、できるだけ音を立てん方がいい」
その一言で、悠斗にも分かった。
何かが近づいている。
美耶が、悠斗の袖をつかんだ。
今度は、さっきよりも少し強かった。
「悠斗……」
悠斗は、その手を見る。
そして、袖をつかむ小さな指の震えを、静かに受け止めた。
「大丈夫」
また、その言葉を言った。
根拠はない。
力もない。
でも、さっき決めたばかりだ。
一人にはしない。
悠斗は、美耶の前に半歩だけ立つ。
宗一郎は書斎の明かりを落とし、もう一度外を見た。
夜の住宅街は、何も知らないふりをして眠っている。
その静けさの奥から、見えない影が、ゆっくりと近づいていた。




