第6話 神器の名
夜は、いつの間にか深くなっていた。
御影宗一郎の家は、外から見た時よりもずっと静かだった。古い木造の柱が時折きしみ、壁の向こうで風が鳴る。どこか遠くで犬が吠えた声も、この家の中までは少し遅れて届くように感じられた。
美耶は、客間で眠っている。
宗一郎が押し入れから引っ張り出した布団は、少し埃っぽかった。慌てて春用の薄い掛け布団を出し、使っていない座布団を枕代わりにした。
現代の寝具にも戸惑っていた美耶は、最初こそ遠慮して何度も「私は床でも大丈夫です」と言った。けれど、転移の疲れは相当なものだったらしい。横になってしばらくすると、糸が切れたように眠ってしまった。
ただ、完全に安心しているわけではない。
眠る直前まで、美耶は悠斗の袖の端をそっとつかんでいた。
指の力が抜けたあとも、彼女の手は布団の上で何かを探すように小さく丸まっている。
悠斗は客間の入口に立ち、少しだけその様子を見ていた。
見つめすぎるのは悪い気がする。
でも、目を離すのも怖かった。
光の中から現れた少女。
邪馬台国の四代目陽巫女。
陰の世界にある国を救うために来たという、美耶。
数時間前まで、悠斗にとって邪馬台国はノートの中にある謎だった。
それが今、隣の部屋で眠っている。
白い衣の袖が、布団の端から少しだけのぞいていた。
「……眠れたようじゃな」
背後から声がした。
振り返ると、宗一郎が廊下に立っていた。さっきまで見せていた動揺は少し落ち着いている。けれど、その目の奥にはまだ古い傷のようなものが残っていた。
「疲れてたみたいです」
「当然じゃろう。世界をひとつ越えてきたんじゃ」
宗一郎は、こともなげに言った。
世界をひとつ越えてきた。
そんな言葉を、まるで隣町から歩いてきたくらいの調子で言う。
悠斗は小さく息を吐いた。
「……本当に、そうなんですか」
「何がじゃ」
「美耶が言っていたことです。邪馬台国が、陰の世界にあるって」
宗一郎はすぐには答えなかった。
客間の中を一度だけ見てから、悠斗に向き直る。
「白峰くん」
「はい」
「君はもう、ただの個人的な調べものでは済まんところに足を踏み入れた」
静かな声だった。
おどすような響きはない。
だからこそ、重かった。
「今なら、まだ知らなかったことにできますか」
悠斗は、自分でも思っていなかったことを聞いていた。
宗一郎は少しだけ目を細める。
「それを、本当に望むのかね」
悠斗は答えられなかった。
戻りたい。
そう言えば、きっと嘘になる。
怖くないわけではない。むしろ怖い。何が起きているのか分からないし、美耶の言葉を全部信じられるほど、悠斗は単純ではない。
でも。
客間で眠る美耶の顔が浮かんだ。
知らない世界で震えながら、それでも「邪馬台国へ」と言った少女。
一人にしてはいけない。
理屈より先に、そう思ってしまっている。
「……分かりません」
悠斗は正直に答えた。
宗一郎は、わずかに笑った。
「それでいい。分からないことを、分かったふりする者から順に間違える」
* 1 *
案内されたのは、宗一郎の書斎だった。
昼間に見た時より、部屋はさらに得体の知れない場所に見えた。壁一面の本棚。赤線だらけの地図。古い神社の写真。机の上には、紙束と本と、いつ淹れたのか分からない湯呑み。
悠斗が椅子に座ると、脚がかすかに揺れた。
「その椅子はまだ信用できる」
「まだ、ですか」
「昨年までは完全に信用できた」
「怖いこと言わないでください」
宗一郎は机の上から分厚いファイルを引き寄せた。
表紙には、乱暴な字でこう書かれている。
三種の神器。
悠斗は思わず息をのんだ。
「三種の神器って……あの、鏡と剣と勾玉ですか」
「一般に知られているものとは、だいぶ違う」
宗一郎はファイルを開いた。
中には、神話や古代史の資料、神社の由緒書き、新聞の切り抜き、そして宗一郎自身の手書きメモが挟まれていた。
天岩戸八咫鏡。
界裂草薙剣。
禍津八尺瓊勾玉。
見慣れない漢字が並んでいる。
悠斗は眉を寄せた。
「これ、普通の名前と違いますよね」
「伝わるうちに、名前も意味も削られ、変えられる。神話というのは、ただの物語ではない。何かを隠すには、ずいぶん都合がいい」
宗一郎は紙の上を指で叩いた。
「まずは、天岩戸八咫鏡」
その名前を聞いた時、悠斗は客間で眠る美耶の胸元にあった鏡を思い出した。
「美耶が持っていた鏡ですか」
「おそらくな。あれは陽巫女が陰の世界と陽の世界を渡るためのものじゃ」
「陽の世界?」
「こちら側の世界じゃ。わしらが普通に生きている、この世界。美耶さんの言葉を借りるなら、邪馬台国が本来あった世界でもある」
宗一郎は別の紙を取り出した。
「鏡は、国を戻すものではない。陽巫女ひとりが渡るための道具じゃ」
「じゃあ、美耶はその鏡でこっちに来た」
「そう考えるのが自然じゃろう」
悠斗は、眠っている美耶の姿を思い出した。
あんな小さな鏡ひとつで、世界を越えたというのか。
信じがたい。
でも、白い光を見たあとでは、完全に否定することもできなかった。
「その鏡があれば、自由に行き来できるんですか」
「自由ではない」
宗一郎の声が、少しだけ低くなった。
「鏡は道を開く。しかし、道は安全とは限らん。それに、陽巫女以外が扱えるものでもない。もうひとつ、重要な性質がある」
「重要な性質」
「使用者の命が尽きると、遺体とともに元の世界へ戻る」
悠斗は言葉を失った。
軽く言われたわけではない。
宗一郎の声には、むしろ慎重さがあった。
それでも、その内容はあまりに重かった。
「それって……」
「陽巫女の身体も、鏡も、陽の世界側には残らない。敵に奪われないための仕組みでもあったのじゃろう」
敵。
悠斗の背筋が冷えた。
美耶は、ただ迷い込んできたわけではない。
誰かに狙われる可能性がある。
宗一郎が言っていた、光が出たなら気づく者は気づく、という言葉を思い出す。
「次に、界裂草薙剣」
宗一郎は、古い剣の写真が貼られた資料を示した。
もちろん、それが本物だとは思えない。どこかの神社の展示写真か、伝承に関する資料なのだろう。
「これは、空間を裂く剣じゃ」
「斬る剣じゃなくて?」
「裂く剣じゃ」
宗一郎の声が、少しだけ強くなる。
「邪馬台国を陽の世界へ戻すには、この剣が必要になる。ただし、どこでも振ればいいというものではない。空間を裂ける場所がある」
「空間を裂ける場所」
「今日、君が見た光。おそらく、あれはその痕跡に近いものじゃ」
悠斗は、夕暮れの道に走った白い裂け目を思い出した。
世界の表面に入ったひび。
その向こうからこぼれてきた、知らない光。
あれが、空間を裂ける場所。
胃の奥が重くなる。
「じゃあ、その剣があれば、邪馬台国を戻せるんですか」
「簡単にはいかん。剣は必要じゃが、それだけでは足りない。裂け目を見つける必要がある。しかも、陽の世界側だけでなく、陰の世界側にもな」
「陰の世界側にも」
「国ひとつを戻すというのは、扉を一つ開けるだけの話ではない。二つの世界を、正しい位置でつながねばならん」
悠斗は、理解しようとして頭の中で必死に組み立てた。
鏡は、美耶のような陽巫女が世界を渡るためのもの。
剣は、空間の裂け目を開くもの。
でも、邪馬台国という国そのものを戻すには、もっと大きな手順がいる。
そして。
「最後に、禍津八尺瓊勾玉」
宗一郎の指が、三つ目の名前で止まった。
その字だけ、どこか禍々しく見えた。
「これは何ですか」
「均衡を崩すものじゃ」
宗一郎は短く答えた。
「陰と陽の均衡を崩し、無理やり道理をねじ曲げる。わしの推測では、邪馬台国が陰の世界へ移された原因は、この勾玉にある」
「移されたって、誰に」
宗一郎は答えなかった。
その沈黙だけで、まだ話せないことがあるのだと分かった。
「白峰くん」
宗一郎は、三つの名前が並んだ紙を悠斗の前に置いた。
「鏡は、映すものではない。つなぐものじゃ」
悠斗は紙を見つめる。
「剣は、斬るものではない。裂くものじゃ」
宗一郎の声が、低く響いた。
「そして勾玉は、祈るものではない。均衡を崩すものじゃ」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
三種の神器。
子供の頃から、名前だけは聞いたことがある。
けれど目の前にあるそれは、神話の飾りではなかった。
世界をつなぎ、裂き、壊すためのもの。
悠斗は、自分がとんでもない話の中にいるのだと、改めて思い知らされた。
* 2 *
ふすまの向こうで、小さな音がした。
悠斗は反射的に振り返る。
客間へ続く廊下の方から、白い袖が少し見えた。
「美耶?」
声をかけると、ふすまの陰から美耶がそっと顔を出した。
眠っていたせいか、長い髪が少し乱れている。目元にはまだ眠気が残っていたが、悠斗の姿を見つけると、ほっとしたように表情を緩めた。
「すみません。声が、聞こえたので」
「起こした?」
「いえ」
美耶は首を振った。
それから、少しだけ恥ずかしそうに視線を落とす。
「ただ、悠斗が……いらっしゃったので、安心しました」
言ってから、頬が赤くなった。
悠斗も、どう返せばいいのか分からなくなる。
宗一郎が横で咳払いをした。
わざとらしい。
「美耶さん。ちょうど、三種の神器の話をしておったところです」
その言葉を聞いた瞬間、美耶の表情が引き締まった。
眠気が消える。
さっきまでの少し頼りない少女の顔から、陽巫女の顔へ変わる。
「天岩戸八咫鏡、界裂草薙剣、禍津八尺瓊勾玉のことですね」
「知っているんだ」
悠斗が聞くと、美耶は胸元の鏡に手を添えた。
「はい。ですが、私が知っていることは多くありません。陽巫女に伝えられているのは、役目に必要なことだけです」
「役目」
「私は、この鏡で陽の世界へ渡り、界裂草薙剣と、空間を裂ける場所を探すように言われました」
美耶は静かに言った。
その声は細い。
けれど、逃げる声ではなかった。
「鏡は、道を開きます。でも、邪馬台国そのものを戻す力はありません。邪馬台国を戻すには、剣が必要なのです」
宗一郎がうなずく。
「わしの推測とも合う」
美耶は少し不安そうに宗一郎を見た。
「御影様は……どうして、そこまでご存じなのですか」
「四十年、間違えながら調べてきただけじゃ」
「四十年」
美耶の目が揺れた。
「祖母も、その名を口にしていました。頼りないけれど、優しい方だったと」
宗一郎の手が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
けれど悠斗にも分かった。
その一言で、宗一郎の表情がほんの少し崩れたのだと。
「……そうか」
宗一郎は、ゆっくりと言った。
「美那は、そう言っておったか」
「はい」
美耶は小さくうなずく。
「時々、とても懐かしそうに」
宗一郎は笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
悠斗は何も言わなかった。
今、自分が口を挟んでいい空気ではない。
四十年。
それは悠斗には想像もできない時間だ。
人を待つには、あまりにも長い。
* 3 *
しばらくして、話は時間の問題へ移った。
それは悠斗がずっと引っかかっていた疑問だった。
「あの、ひとつ聞いてもいい?」
悠斗が言うと、美耶と宗一郎が同時にこちらを見る。
「邪馬台国って、今から千年以上前の国ですよね」
「普通に考えれば、そうじゃな」
宗一郎が答える。
「それなのに、どうして美耶は今の時代に来たんですか」
美耶は、少しだけ目を伏せた。
「私にも、分かりません」
「分からない?」
「はい。私は、陽の世界へ渡るよう命じられました。けれど、どの時代へ出るのかまでは、誰にも分からないのです」
「誰にも?」
「祖母も、そう言っていました」
宗一郎が腕を組んだ。
「美那にも、四十年前に同じことを聞いた」
悠斗は宗一郎を見る。
「何て答えたんですか」
「分からない、と」
あっさりしていた。
けれど、それは投げ出した言い方ではなかった。
「当時のわしは、それをただの不思議として受け取るしかなかった。だが、今なら少し推測できる」
「推測」
「国ひとつを別の世界へ移したんじゃ。空間だけが歪んだと考える方が不自然じゃろう」
宗一郎は机の上の地図を広げた。
そこには、陽の世界、陰の世界、と手書きで書き込まれている。
「邪馬台国は、本来こちら側にあった。それを無理やり陰の世界へ移した。場所だけがずれるならまだしも、世界の理そのものに手を出している。時間軸も巻き込まれておる可能性が高い」
悠斗は理解しようとした。
空間がずれる。
時間もずれる。
だから、古代の邪馬台国から来たはずの美耶が、現代に現れる。
理屈として分かるような、分からないような。
「じゃあ……」
悠斗は美耶を見た。
美耶は真剣にこちらを見返している。
「美耶って、今から千八百年前の人ってこと?」
宗一郎が妙な顔をした。
美耶は瞬きをする。
「千八百年前」
「つまり……千八百歳?」
言った瞬間、美耶の目が大きくなった。
「ち、違います」
慌てた声だった。
「私は十八です。千八百歳ではありません」
その言い方があまりにも真剣で、悠斗は少しだけ笑いそうになった。
もちろん、笑ったら悪い。
そう思ったのに、口元が緩む。
美耶はそれに気づいたらしい。
頬をふくらませた。
「悠斗は、時々ひどいことを言います」
「ごめん。いや、真面目に聞いたんだけど」
「真面目に、女性の年を千八百と言うのですか」
「それは……ごめん」
悠斗が素直に謝ると、美耶はまだ少し頬をふくらませたまま、けれど怒りきれないように視線をそらした。
その仕草が、思ったよりかわいかった。
悠斗は慌てて目をそらす。
宗一郎は、何とも言えない顔で二人を見ていた。
「若いのう」
「何ですか」
「いや。何でもない」
宗一郎は咳払いをした。
少しだけ、部屋の空気が軽くなった。
重すぎる話が続いていたから、その小さな間抜けさに悠斗は少し救われた気がした。
* 4 *
話が途切れると、部屋の静けさが戻ってきた。
古い柱が、かすかに鳴る。
遠くで車の音がした。
それだけで、美耶の肩が小さく揺れた。
悠斗は、その反応を見逃せなかった。
この世界の当たり前は、美耶にとっては当たり前ではない。
車の音も、電灯の明かりも、窓の外に並ぶ家々も、きっとまだ怖いものばかりなのだ。
それなのに美耶は、怖いとは言わなかった。
胸元の鏡に手を添えたまま、静かに座っている。
その姿が、余計に危うく見えた。
「白峰くん」
宗一郎が、低く言った。
「はい」
「光が出た以上、気づく者は気づく」
悠斗は、宗一郎を見た。
「それって、誰かが美耶を探しに来るってことですか」
「来るかもしれん、ということじゃ」
宗一郎は机の上の資料を閉じた。
紙の束が重い音を立てる。
「四十年前も、そうじゃった。あの光は、ただの光ではない。世界にできた傷のようなものじゃ。傷口から血が出れば、血の匂いに気づく者もいる」
「……物騒な言い方ですね」
「物騒な話をしておるからな」
宗一郎は淡々と言った。
悠斗は、客間へ続く廊下を見た。
美耶も、同じ方向を見ていた。
白い衣の袖が、膝の上で小さく揺れている。
手が震えているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「今日は、もう休んだ方がいい」
宗一郎が言った。
「話すべきことは山ほどある。だが、今の美耶さんに一晩で背負わせるには重すぎる」
美耶は何か言いかけた。
けれど、すぐに口を閉じた。
自分が疲れていることを、否定できなかったのだろう。
「……はい」
小さな返事だった。
美耶が立ち上がろうとして、少しふらついた。
悠斗は反射的に手を伸ばす。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
美耶はそう言った。
でも、差し出された悠斗の手を拒まなかった。
指先が触れる。
ほんの一瞬だけだったのに、悠斗の胸が妙に熱くなった。
「すみません」
「謝らなくていいよ」
美耶はうつむいたまま、小さくうなずいた。
宗一郎はそんな二人を見て、何かを言いかけた。
けれど、結局言わなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向ける。
夜の住宅街は静かだった。
街灯に照らされた道路。
閉じたカーテン。
眠っている家々。
何も変わったところはない。
それでも宗一郎は、長い間、外を見ていた。
「先生?」
「……いや」
宗一郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「今夜は、戸締まりをしておこう」
それだけ言って、立ち上がる。
悠斗には、その言葉の奥にある不安までは分からなかった。
けれど、美耶がそっと袖をつかんできたことで、彼女には何かが伝わったのだと分かった。
「悠斗」
「なに」
「先ほど、ここにいると言ってくださいましたね」
小さな声だった。
頼むのではなく、確かめるような声。
悠斗は、すぐにうなずいた。
「うん。いるよ」
美耶の指から力が抜けた。それでも、袖は放さなかった。
「ありがとうございます」
悠斗は、何ができるわけでもなかった。
三種の神器のことも、時間軸の歪みのことも、まだ理解できているとは言えない。
それでも、今夜だけは。
この家の中で震えている少女を、一人にはしたくないと思った。
宗一郎が、廊下の奥で立ち止まる。
「白峰くん」
「はい」
「何かあれば、すぐに呼びなさい」
「分かりました」
宗一郎はうなずき、古い玄関の方へ歩いていった。
その背中は、先ほどまでの変わり者の考古学者ではなく、四十年前の続きを見つめている老人のものに見えた。
悠斗は、美耶の手を見た。
彼女はまだ、袖をつかんでいる。
ほんの少しだけ。
悠斗は、驚かなかった。
ただ、静かに言った。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
でも、その言葉が嘘にならないようにしたいと思った。
それが、今の悠斗に言える精一杯だった。




