第5話 陽巫女
宗一郎は、しばらく美耶を見つめたまま動かなかった。
四十年、待っておった。
その言葉が、夕方の玄関先に残っている。
悠斗には、意味が分からなかった。
分からないのに、軽く聞き返してはいけない気がした。目の前の老人の顔には、驚きだけではなく、もっと長く重いものが浮かんでいた。
後悔。
祈り。
そして、怖いほどの懐かしさ。
美耶は、悠斗の袖をつかんだまま、半歩だけ後ろへ下がった。
「悠斗……」
小さな声だった。
呼ばれた瞬間、悠斗の胸が妙に熱くなる。
さっき出会ったばかりの少女だ。
名前を知ったばかりで、何者なのかも分からない。
それなのに、美耶が不安そうに自分の名を呼んだだけで、放っておけないと思ってしまった。
悠斗は、美耶の前に少しだけ立つ。
「御影さん」
宗一郎は、はっとしたように瞬きをした。
「あ、ああ……すまん。玄関先で立たせておく話ではないな」
声はいつもの宗一郎に戻ろうとしていた。
けれど、完全には戻っていない。
美耶の顔を見るたびに、どこか遠い時間を見ているような目になる。
「入るといい。いや、入ってくれ。白峰くんもじゃ」
宗一郎は慌てて引き戸を開けた。
美耶は、家の中を不安そうにのぞき込む。
古い玄関。
積まれた本。
壁に貼られた地図。
薄暗い廊下。
見知らぬものばかりなのだろう。
美耶の指が、また袖を握る。
「大丈夫」
悠斗は小さく言った。
「僕もいるから」
美耶は一度だけ悠斗を見て、こくりとうなずいた。
* 1 *
宗一郎の家の中は、数時間前に見た時よりもさらに別世界に見えた。
さっきまでは、ただ本と資料に埋もれた変わり者の家だった。
今は、その一つ一つが美耶へ向けて意味を持っているように見える。
壁に貼られた地図。
赤い線で結ばれた地名。
熱田。
出雲。
天岩戸。
そして、手書きのメモ。
『鏡』
『剣』
『陽巫女』
『陰/陽』
悠斗は、思わずその文字を見た。
陽巫女。
美耶が名乗った言葉と、同じだった。
美耶もそのメモに気づいたらしい。
胸元の鏡に手を添え、少しだけ息をのむ。
「こちらの方は……本当に、陽巫女のことを」
「知っておる」
宗一郎が答えた。
その声は低かった。
「少なくとも、わしは四十年前に、陽巫女と名乗る娘に会った」
美耶の目が揺れた。
「四十年前……」
「君の名は、美耶と言ったな」
「はい」
「美那という名に、覚えはあるか」
美耶の表情が変わった。
それまでの不安と警戒の中に、はっきりとした驚きが差し込む。
「祖母の名です」
宗一郎は、椅子の背に手を置いた。
指先に力が入っている。
「生きて……おるのか」
「はい」
美耶は、少し戸惑いながらも答えた。
「邪馬台国で、私の帰りを待っています」
その瞬間、宗一郎は目を閉じた。
長く、深く息を吐く。
悠斗には、その吐息の意味までは分からない。
けれど、宗一郎の肩から何かが抜け落ちたように見えた。
「そうか」
宗一郎はつぶやいた。
「生きておったか。美那は……生きておったか」
美耶は、その反応にかえって不安になったのか、悠斗の方を見た。
悠斗にも説明できることは何もない。
ただ、宗一郎が美耶を傷つけようとしているわけではないことだけは分かった。
「御影さん。美耶は、さっき光の中から出てきました」
悠斗が言うと、宗一郎は目を開けた。
「光が出たんじゃろう」
「……見てたんですか」
「見てはいない。だが、知っておる」
宗一郎は、美耶の胸元に視線を向けた。
「その鏡で渡ってきたのだな」
美耶は、鏡を両手で包み込むように持った。
「はい。天岩戸八咫鏡です」
悠斗は、その長い名を頭の中で繰り返した。
天岩戸八咫鏡。
教科書の日本史ではなく、神話の中に出てきそうな名前だった。
けれど美耶の手の中にあるそれは、作り物には見えなかった。
古びている。
小さい。
けれど、見ていると妙に目をそらせなくなる。
宗一郎は、壁に貼られた地図を一度見た。
「間違いない。四十年前、美那が持っていたものと同じじゃ」
「祖母も……こちらの世界へ?」
美耶が聞いた。
「ああ」
宗一郎は短く答えた。
「三代目陽巫女として、この世界へ来た」
美耶の唇が小さく開く。
祖母の過去を、目の前の老人が知っている。
そのことが、美耶にはすぐに飲み込めないようだった。
* 2 *
「まずは座りなさい」
宗一郎が言った。
「話すことは山ほどある。だが、その前に、君は立っているだけでもつらそうじゃ」
「私は、大丈夫です」
美耶はそう答えた。
けれど、声に力はなかった。
光の中から現れた直後から、美耶の顔色はずっと悪い。足元も不安定で、時々ほんのわずかに膝が揺れている。
「大丈夫に見えない」
悠斗が言うと、美耶は少し困ったように笑った。
「すみません。知らないことばかりで、少し……」
そこで言葉が途切れた。
悠斗が手を伸ばすより早く、美耶の体がふらつく。
「美耶!」
悠斗は反射的に支えた。
今度は倒れ込むほどではなかった。
それでも、美耶の体は驚くほど軽く、力が抜けていた。
「す、すみません……」
「謝らなくていいから。座って」
悠斗は、宗一郎が指した椅子へ美耶を座らせた。
美耶は座る前に、椅子を不思議そうに見た。
「こちらに……腰を下ろすのですか」
「うん。普通に座ればいい」
「普通に」
またその言葉を確かめるように繰り返し、美耶はおそるおそる椅子に腰を下ろした。
すとん、と座った瞬間、わずかに目を丸くする。
「高いのですね」
「椅子だからね」
「椅子」
美耶は真面目にうなずいた。
こんな状況なのに、その反応が少し可愛らしくて、悠斗は返す言葉に困った。
宗一郎が奥へ行き、古い盆に湯呑みを二つ乗せて戻ってきた。
「茶くらいは出せる。たぶん新しい茶葉じゃ」
「たぶんなんですか」
「古代史に比べれば、新しい」
「それ、飲めるんですか」
「白峰くんは細かいのう」
宗一郎は平然と湯呑みを置いた。
美耶は、湯呑みを両手で持った。
その仕草は丁寧で、どこか祈りに似ていた。
けれど、口をつけた瞬間、肩が小さく跳ねる。
「……熱いです」
「そりゃ熱いお茶だからね」
「すみません。知らないことばかりで」
「謝らなくていいって」
悠斗が言うと、美耶は湯呑みを持ったまま、少しだけ目を伏せた。
「悠斗は、何度もそう言ってくださいますね」
「いや、だって。本当に謝ることじゃないし」
美耶は小さくうなずいた。
その頬に、ほんのわずかに色が戻っていた。
* 3 *
「改めて聞かせてくれ」
宗一郎は、美耶の正面に座った。
さっきまでの動揺は、まだ完全には消えていない。
けれど、今の宗一郎の目は研究者のものだった。
「君は四代目陽巫女で間違いないのだな」
美耶は一度、悠斗を見た。
どうしてこちらを見るのか、悠斗には分からなかった。
けれど、美耶は悠斗が小さくうなずくのを待っていたようだった。
悠斗がうなずくと、美耶は背筋を伸ばした。
「はい」
その声は、先ほどよりはっきりしていた。
「美耶と申します。邪馬台国、四代目の陽巫女です」
宗一郎は深くうなずいた。
「邪馬台国は、今もあるのか」
「あります」
美耶は答えた。
その一言で、悠斗の背筋が冷たくなる。
あります。
美耶は、まるで当然のことのように言った。
邪馬台国は、過去の国ではない。
滅びた国でも、記録の中にだけ残る国でもない。
今もある。
「だが、こちらの世界にはない」
宗一郎が続けた。
美耶は静かにうなずく。
「はい。邪馬台国は、陰の世界にあります」
「陰の世界……」
悠斗は、思わず繰り返した。
壁のメモにあった文字。
陰/陽。
宗一郎は、その言葉を待っていたように目を細めた。
「美那も、そう言っていた」
「祖母も……」
「ああ。邪馬台国は消えたのではない。こちらの世界から、別の場所へ移されたのだと」
美耶の手が、鏡を握る。
「陰の世界は、長く保てる場所ではありません」
その声は、小さかった。
けれど、部屋の空気を変えるには十分だった。
「もともと、邪馬台国があるべき場所ではないのです。空も、土地も、水も、少しずつ弱っています。人々も、皆、終わりが近いことを感じています」
悠斗は、何も言えなかった。
神話みたいな話だ。
世界が二つあるなんて、普通なら信じられるはずがない。
けれど、美耶の声は震えていた。
嘘をついている声ではなかった。
怖いのに、言わなければならないことを言っている声だった。
「邪馬台国が、このまま陰の世界に残れば」
美耶は、湯呑みを見つめたまま言った。
「国も、民も、私の家族も、いずれ消えてしまいます」
家族。
その言葉に、悠斗は反応した。
「家族って」
美耶は、悠斗を見た。
「母と、父と、祖母がいます」
「美那も」
「はい。祖母は、私の帰りを待っています」
悠斗は、宗一郎を見た。
宗一郎は黙っていた。
美那という名前を聞くたび、表情の奥が痛むように揺れる。
四十年前。
三代目陽巫女。
美耶の祖母。
繋がっている。
自分が今朝までノートに書いていた言葉とは比べものにならないほど、生々しい線で。
「美耶は、それを戻すために来たの?」
悠斗が聞くと、美耶は少しだけ目を伏せた。
「はい」
短い返事だった。
けれど、その一言の中に、どれだけの怖さがあるのか。
知らない世界へ一人で来る。
何も分からない場所で、何かを探す。
失敗すれば、国も家族も消える。
悠斗は、自分が今日、御影宗一郎の家へ行くだけで喉が狭くなったことを思い出した。
外へ出る。
人に会う。
それだけでも怖かった。
美耶は、その比ではないものを背負って、光の中から出てきた。
「怖く、なかったの」
聞いてから、悠斗は少し後悔した。
そんなこと、怖いに決まっている。
けれど美耶は、怒らなかった。
ただ、ほんの少し笑った。
「怖かったです」
素直な答えだった。
「今も、とても怖いです」
悠斗の胸が詰まる。
「でも」
美耶は鏡を胸に抱いた。
「私が行かなければ、みんな消えてしまいますから」
その言葉は、強かった。
震えているのに、折れていない。
悠斗は、美耶から目をそらせなかった。
* 4 *
「美那も、同じことを言っておった」
宗一郎が静かに言った。
美耶が顔を上げる。
「祖母が?」
「ああ。四十年前、君の祖母もこの世界へ来た。今の君と同じように、鏡を抱え、何も知らぬ場所で震えておった」
宗一郎は、自嘲するように笑った。
「その時のわしは、今よりずっと若く、今よりずっと愚かで、何一つ分かっておらんかった」
「御影さんは、美那さんを助けたんですか」
悠斗が聞いた。
宗一郎は、すぐには答えなかった。
しばらく湯呑みを見つめ、それから低く言う。
「助けた、などと胸を張れるほどのことはしておらん」
声に、苦いものが混じっていた。
「わしにできたのは、あの子を逃がすことだけじゃ」
美耶は、息をのんだ。
「祖母は、御影様のことを知っていました」
宗一郎の手が止まる。
「何と」
「頼りないけれど、優しい方だったと」
宗一郎の顔が、くしゃりと歪んだ。
笑ったのか、泣きそうになったのか、悠斗には分からなかった。
「……そうか。相変わらず、遠慮のない娘じゃな」
そう言ってから、宗一郎は目元を指でこすった。
美耶は、不思議そうにその様子を見ていた。
彼女にとって宗一郎は、祖母の思い出の中にいた人物なのだろう。
けれど宗一郎にとって美那は、四十年という時間の奥に置き去りにしてきた誰かなのだ。
その重さを、美耶はまだ知らない。
悠斗も、まだ知らない。
ただ、部屋の中にある沈黙だけが、その四十年を少しだけ教えていた。
* 5 *
「今日は、これ以上話を詰めるべきではない」
宗一郎は、急に現実へ戻るように言った。
「美耶さんは転移したばかりじゃ。体にも心にも負担がかかっておる」
「私は、まだ話せます」
美耶はそう言った。
でも、湯呑みを持つ手は少し震えていた。
悠斗は、それに気づいた。
「休んだ方がいい」
「でも」
「話は逃げないから」
言ってから、悠斗は宗一郎の言葉を思い出した。
邪馬台国は逃げん。
まあ、消えはしたが。
こんな時に思い出すことではない。
けれど少しだけ、肩の力が抜けた。
「今、無理して倒れたら、その方が困る」
美耶は何か言いたそうにした。
けれど、悠斗の顔を見て、小さくうなずいた。
「分かりました」
宗一郎は奥の部屋を指した。
「客間を使いなさい。物は積んであるが、寝る場所くらいはある。たぶん」
「たぶんばっかりですね」
「歴史に絶対は少ないんじゃ」
「片づけの話ですよね」
悠斗が言うと、美耶が小さく笑った。
本当に小さな笑みだった。
けれど、悠斗はその笑みを見て少し安心した。
さっきまでの不安げな顔より、ずっといい。
宗一郎が案内した客間は、確かに物が多かった。
壁際には本の山があり、畳の上には古い箱が並んでいる。
それでも、布団を敷く場所は空いていた。
美耶は畳を見て、そっと膝をつく。
「この床は、少し懐かしい感じがします」
「畳だからかな」
「たたみ」
美耶はまた一つ、新しい言葉を覚えるように繰り返した。
宗一郎が布団を引っ張り出し、悠斗が手伝って敷いた。
美耶は申し訳なさそうにそれを見ている。
「すみません。私のために」
「だから、謝らなくていい」
悠斗が言うと、美耶は今度は少しだけ笑った。
「はい。謝りません」
素直にそう言われると、悠斗の方が少し照れた。
「いや、そんな真面目に言われると」
「真面目に言いました」
「うん。分かる」
美耶は布団に座った。
その瞬間、張っていた糸が切れたように肩の力が抜ける。
やはり、相当無理をしていたのだ。
悠斗は、部屋の入口に立ったまま少し迷った。
ここにいていいのか。
出ていくべきなのか。
美耶はその迷いを察したように、顔を上げた。
「悠斗」
「なに」
「少しだけ……近くにいてもらえますか」
声は小さかった。
「知らない場所で、一人になるのは、少し心細くて」
悠斗の胸が、また苦しくなる。
断る理由はなかった。
けれど、即答するには、なぜか心臓がうるさかった。
悠斗は、ようやくそう言った。
「ここにいるよ」
美耶の表情が、ふっと和らいだ。
光の中から現れた時とは違う。
陽巫女として名乗った時とも違う。
ただの女の子が、少しだけ安心した顔だった。
「……ありがとうございます、悠斗」
その声を聞いて、悠斗は思った。
自分はたぶん、もう引き返せない。
邪馬台国の謎に踏み込んだからではない。
宗一郎の四十年を聞いたからでもない。
美耶が、こんな顔で自分の名前を呼んだからだ。
* 6 *
美耶が眠りについたあと、悠斗はそっと客間を出た。
廊下に出ると、宗一郎が壁にもたれて待っていた。
「眠ったか」
「はい。たぶん」
「そうか」
宗一郎は客間の方を見た。
その目は、やはり美耶ではない誰かを見ているようだった。
「美那さんに、似ているんですか」
悠斗が聞くと、宗一郎は少しだけ笑った。
「顔立ちは似ておる。だが、美那はもう少し落ち着きがなかった」
「落ち着きがない?」
「自動販売機に話しかけるような娘じゃった」
悠斗は返す言葉に困った。
宗一郎は懐かしそうに目を細める。
「美耶さんは、美那より慎重じゃ。怖がりでもある。だが、芯は強い」
「分かるんですか」
「ああ。陽巫女として来た娘は、怖いだけでは来られん」
その言葉は重かった。
悠斗は、客間の方を見る。
「御影さん。美耶は、これからどうなるんですか」
宗一郎の表情が変わった。
懐かしさが消え、鋭い警戒が戻る。
「分からん。だが、光が出たなら、気づく者は気づく」
「気づく者?」
「四十年前にもおった。陽巫女を探す者たちじゃ」
悠斗の背筋に、冷たいものが走った。
「それって、美耶を助けるために?」
宗一郎は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、悠斗は理解しかけた。
「違うんですね」
「少なくとも、わしが見た者たちは違った」
宗一郎は低く言った。
「彼らは陽巫女を、人として見ておらんかった」
廊下の奥で、古い柱時計が鳴った。
悠斗は、客間で眠る美耶を思い浮かべた。
熱いお茶に驚き、椅子に戸惑い、知らない場所で不安そうに名前を呼んだ少女。
人として見ていない。
その言葉が、胸の奥で静かに熱を持った。
「今日は、この家で休ませる」
宗一郎は言った。
「だが、長くはいられんかもしれん」
「どうすれば」
「まずは、明日の朝まで何事もないことを祈るしかない」
宗一郎が、窓の外へ目を向けた。
夕暮れは、いつの間にか夜へ変わっていた。
住宅街の灯りがぽつぽつとともっている。
普通の家々。
普通の道。
普通の夜。
そのどこかに、こちらを見ている者がいるかもしれない。
悠斗は、客間の戸を振り返った。
美耶は眠っている。
たぶん、ほんの少しだけ安心して。
悠斗は、まだ何も分かっていない。
陰の世界も。
陽巫女も。
宗一郎の四十年も。
これから何が起きるのかも。
それでも、一つだけは分かっていた。
美耶を、一人にはできない。




