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邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


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第4話 光の中から

 一歩踏み出した悠斗の前で、白い光が夕暮れの住宅街を塗り替えていた。


 蝉も、子供の声も、葉擦れも聞こえない。世界が息を止めている。


「……なんだよ、これ」


 声に出したつもりだった。

 けれど、その声は白い光の中に吸い込まれ、途中でほどけたように消えた。


 手の中で、宗一郎にもらった資料が震えている。


 数時間前に聞いた宗一郎の警告が、頭の奥でよみがえる。


 目の前の光は、悠斗の知っているまともな世界のものではなかった。


 光の中心に、黒い線が走った。


 裂け目。


 そうとしか言いようがなかった。


 空間に、細い傷が入っている。

 その傷口から、白い光があふれていた。


 逃げろ。


 頭のどこかで、そういう声がした。


 けれど、別の声もあった。


 確かめろ。


 疑うなら、最後まで疑いなさい。

 笑って忘れるためではなく、確かめるために疑うんじゃ。


 悠斗は、もう一歩だけ前に出た。


 その瞬間、光が膨らんだ。


「――っ」


 視界が白に塗りつぶされる。


 熱くはない。

 けれど、全身を細かな粒が通り抜けていくような感覚があった。


 風が吹いた。


 いや、風ではなかった。


 何かが、こちら側へ押し出されてくる。


 悠斗は腕で顔をかばった。


 次の瞬間。


 光の中から、人の影が現れた。


     * 1 *


 最初に見えたのは、白い衣だった。


 現代の服ではない。


 薄く、やわらかそうな布が幾重にも重なり、襟元や袖には見たことのない文様が浮かんでいる。


 次に、長い髪。


 黒く、けれど光を含んで少し茶色にも見える髪が、肩から背へ流れていた。


 少女だった。


 悠斗より、少し年上に見えた。


 白い衣をまとった少女が、光の中から一歩、こちら側へ出てくる。


 その足がアスファルトに触れた瞬間、光が大きく揺らいだ。


 少女の体が、ふらりと傾く。


「危なっ――」


 悠斗は、考えるより先に手を伸ばしていた。


 資料が手から落ちる。

 足が勝手に前へ出る。


 少女はそのまま倒れかけ、悠斗の腕の中に軽くぶつかった。


 重くはなかった。


 むしろ、驚くほど軽かった。


 けれど、人の体温があった。


 光でも、幻でもない。

 腕の中にいるのは、生きた人間だった。


「だ、大丈夫?」


 悠斗の声は、自分でも情けないほど上ずっていた。


 少女はすぐには答えなかった。


 伏せていた顔が、ゆっくりと上がる。


 その瞬間、悠斗は呼吸を忘れた。


 きれいだ。


 最初に浮かんだのは、それだけだった。


 何が起きているのか。

 この少女はどこから来たのか。

 なぜ、こんな衣を着ているのか。


 考えるべきことは、山ほどある。


 それなのに、悠斗の頭は一瞬、何も考えられなくなった。


 大きな瞳が、悠斗を見ていた。


 怯えている。


 けれど、その奥に、どこか祈るような強さがあった。


 頬は青ざめていて、唇は小さく震えている。

 長い睫毛の先に、光の名残がまだ残っているように見えた。


 現実離れしている。


 でも、作り物のようではなかった。


 むしろ、その不安げな表情が、どうしようもなく人間だった。


「あ、えっと……」


 悠斗は、自分が少女の肩を支えたままだと気づき、慌てて手を離そうとした。


 けれど少女の方が、反射的に悠斗の袖をつかんだ。


 細い指だった。


 力は弱い。

 けれど、必死だった。


 悠斗は動きを止める。


「大丈夫。何もしないから」


 自分でも驚くほど、ゆっくりした声が出た。


 少女は、悠斗の言葉を確かめるように目を揺らした。

 敵意がないことだけは伝わったのか、袖をつかむ指から少しだけ力が抜ける。


 その背後で、白い光が細くなっていく。


 空間に走っていた裂け目が、ゆっくりと閉じようとしていた。


「あっ、待っ――」


 何を待てと言うのか、自分でも分からなかった。


 けれど、目の前で世界の傷が閉じていく。


 光が小さくなり、道の先にあった白い揺らぎが、夕暮れの色に飲み込まれていく。


 最後に、細い鈴のような音がした。


 そして、すべてが戻った。


 蝉の声。

 遠くの子供の笑い声。

 車の走る音。

 どこかの家から流れてくる夕飯の匂い。


 普通の夏の夕暮れ。


 何もなかったみたいに。


 ただ、悠斗の隣には、白い衣の少女が立っていた。


     * 2 *


 少女は、周囲を見回した。


 アスファルト。

 電柱。

 並んだ住宅。

 道路標識。

 遠くを走る車。


 そのすべてを初めて見るもののように、怯えた目で追っている。


 車が一台、道の向こうを通り過ぎた。


 低いエンジン音。


 少女の肩が跳ねる。


「あれは……」


 澄んだ声だった。

 古い鈴を鳴らしたような、けれど今にも割れそうな声。


「あれは、獣ですか」


「え?」


 悠斗は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 少女は、車が走り去った方を見つめている。

 顔色は本気で悪い。


「あ、いや。車。獣じゃない。人が乗るもの……って言っても、分からないか」


「くるま」


「そう。危なくない……いや、道に飛び出したら危ないけど。こっちに来なければ平気」


 説明になっているのか分からない。


 少女は不安そうに悠斗を見る。


 その目を見た瞬間、悠斗は胸の奥が妙に痛くなった。


 怖いのだ。


 彼女は、自分がどこにいるのか分からない。

 見えるものすべてが知らない。

 目の前にいる悠斗だって、本当なら信用できる相手ではないはずだ。


 それでも、少女は悠斗の袖をつかんでいる。


 ほかに頼るものがないから。


「ここは……」


 少女は、震える声で言った。


「ここは、どこですか」


「ここ?」


 悠斗は言葉に詰まった。


 日本、と答えればいいのだろうか。

 町名を言えばいいのだろうか。

 住所を言ったところで、彼女に通じる気がしない。


「えっと……日本、だけど」


「にほん……?」


 少女は、初めて聞く言葉のように繰り返した。


 悠斗の背筋に、冷たいものが走る。


 日本を、知らない。


 外国人、という感じではない。

 発音は自然な日本語だ。

 少し古めかしい響きはあるが、言葉そのものは通じている。


 なのに、日本という国を知らない。


 悠斗の頭に、ありえない考えが浮かんだ。


 白い衣。

 光。

 空間の裂け目。

 宗一郎の部屋にあった地図。

 鏡、剣、岩戸、陰と陽。


 邪馬台国。


 その言葉が、悠斗の胸の奥で静かに音を立てた。


 まさか。


 そんなはずがない。


 でも、目の前の少女は、そんなはずがないことを否定できない姿でそこにいた。


「君、名前は?」


 悠斗は、なんとかそれだけ聞いた。


 少女は少しだけ戸惑ったように目を伏せる。


 名乗っていいのか迷っているようだった。


 それから、胸元に手を当てた。


 その手の下に、小さな鏡のようなものが見えた。


 丸く、古びた輝きを持つ飾り。


 いや、飾りというには、妙に存在感がある。


 少女はそれを守るように握りしめてから、静かに言った。


「……美耶」


「みや?」


「はい」


 少女は小さくうなずいた。


美耶みやと申します」


 丁寧すぎるほど丁寧な言い方だった。


 悠斗は、少し遅れて自分も名乗らなければと思った。


「僕は、白峰悠斗しらみね はると


「しらみね、はると」


「悠斗でいいよ」


 美耶は、悠斗の名前をもう一度、確かめるように唇の上で転がした。


「悠斗……様?」


「様はいらない」


 反射的に答えてから、悠斗は自分の声が少し強くなったことに気づいた。


 美耶が驚いたように目を瞬かせる。


「あ、ごめん。怒ってるわけじゃなくて。悠斗でいい。普通に」


「普通に……」


 美耶は困ったように繰り返した。


 その表情が、少しだけ幼く見えた。


 さっきまでの神聖な雰囲気が、ふっと薄くなる。

 知らない場所で、知らない言葉の使い方に戸惑っているだけの女の子に見えた。


 悠斗は、少しだけ息をつく。


 その時だった。


 美耶が、胸元の鏡を強く握った。


 顔つきが変わる。


 怯えは残っている。

 けれど、それだけではない。


 何かを思い出したような、使命を確かめるような表情だった。


「邪馬台国へ」


 美耶は、小さく言った。


 悠斗の喉が詰まる。


「……邪馬台国?」


 その言葉を口にした瞬間、空気が変わった気がした。


 数時間前まで、悠斗にとって邪馬台国はノートの中の文字だった。


 教科書に載っている古代の国。

 九州説か畿内説かで意見が分かれる謎。

 宗一郎が国ごと消えたと語った、荒唐無稽な都市伝説。


 それが今、人の声で語られている。


 目の前の少女の口から。


 美耶は、悠斗を見上げた。


「はい」


 その声は震えていた。

 それでも、はっきりしていた。


「私は、四代目の陽巫女ひみこです」


 悠斗は、何も言えなかった。


 陽巫女。


 卑弥呼ではなく、陽巫女。


 宗一郎の部屋の壁に貼られていたメモを思い出す。


 鏡。

 剣。

 岩戸。

 陰/陽。

 陽巫女。


 偶然のはずがない。


 でも、どうして。


 どうして、本当に。


 悠斗は足元に落ちた資料を見た。


 宗一郎の筆跡。

 邪馬台国関連の書名。

 赤い線で引かれた文字。


 その紙の上に、光の名残のような白い粒が一つだけ落ちていた。


 すぐに消えた。


     * 3 *


 美耶を、その場に立たせたままにはできなかった。


 それだけは分かった。


 何が起きたのかは分からない。

 美耶が本当に邪馬台国から来たのかも分からない。

 陽巫女という言葉の意味も分からない。


 けれど、白い衣の少女が夕方の住宅街に立っている。


 この状況を通行人に見られたら、説明できない。


 実際、道の向こうから自転車に乗った主婦が近づいてきた。


 悠斗は反射的に美耶の前へ少し立つ。


 美耶は、その動きに驚いたように悠斗を見る。


「えっと……とにかく、ここにいるのはまずい」


「まずい、とは」


「目立つ。すごく」


「目立つ……」


 美耶は自分の衣を見下ろした。

 ようやくそこに思い至ったのか、少し困ったように袖を押さえる。


「この衣は、こちらではおかしいのですか」


「かなり」


「かなり」


 美耶は真剣に受け止めたようだった。


 その反応が少しだけおかしくて、こんな状況なのに悠斗は笑いそうになった。


 しかし、笑っている場合ではない。


「知ってる人のところに行こう」


「知っている方」


「御影宗一郎さん。たぶん、君のことを……少なくとも、何か知ってる」


 宗一郎の名前を出した瞬間、美耶がわずかに首を傾げた。


「みかげ、そういちろう」


「知ってる?」


「いえ」


 美耶は首を振った。


「けれど、その方は、陽巫女のことを知っているのですか」


「たぶん」


「たぶん、ですか」


「僕も、全部は分からない。でも、さっきまでその人の家で邪馬台国の話を聞いてた。光を見たら来いって言われた」


 美耶の指が、悠斗の袖をまた握った。


「光を」


「うん」


 美耶の表情が、不安げに揺れる。


 そこへ、また車が通った。


 美耶がびくりと身をすくませる。


 悠斗は、できるだけ落ち着いて言った。


「大丈夫。こっち」


 歩き出そうとして、すぐに気づく。


 美耶は、悠斗の袖をつかんだまま動こうとしない。


「歩ける?」


「はい」


 答えたのに、足は少し震えていた。


 無理をしている。


 悠斗は少し迷ってから、ゆっくり言った。


「そのままでいいから。離れなくていい」


 美耶が顔を上げる。


「よろしいのですか」


「うん。知らない場所なんだろ。怖いなら、つかんでていい」


 美耶は、何かを言おうとして口を開きかけた。


 けれど言葉にはならず、小さくうなずいた。


「……ありがとうございます、悠斗」


 初めて、様がつかなかった。


 それだけのことに、悠斗はなぜか胸の奥を強くつかまれたような気がした。


     * 4 *


 宗一郎の家までの道は、さっき歩いた時よりずっと長く感じた。


 悠斗は、なるべく人通りの少ない道を選んだ。


 それでも、美耶は目立った。


 白い衣。

 長い髪。

 不安そうに周囲を見回す横顔。


 夕暮れの住宅街の中で、彼女だけが別の時代から切り取られてきたみたいだった。


 美耶は、一つ一つのものに驚いていた。


 電柱を見上げる。

 標識の文字を不思議そうに見る。

 自動販売機の前で足を止めかける。

 遠くで鳴った踏切の音に肩を震わせる。


 そのたびに、悠斗は少しだけ歩く速度を落とした。


 大丈夫だよ、と何度も言うのは簡単だった。


 でも、美耶にとっては何一つ大丈夫ではないのだろう。


 だから悠斗は、急がせなかった。


 それだけだった。


 それだけのことなのに、美耶は時々、信じられないものを見るように悠斗を見た。


「どうかした?」


「いえ」


 美耶は首を振る。


「悠斗は、不思議な方ですね」


「今、この状況で一番不思議なのは君だと思うけど」


 美耶は真剣に考え込んだ。


「私が、ですか」


「うん」


「私は、普通です」


「それはたぶん、君の世界ではね」


 自分で言ってから、悠斗は息を止めた。


 君の世界。


 そう言ってしまった。


 美耶は、その言葉に少しだけ目を伏せた。

 胸元の鏡を握る。


「私の世界は」


 美耶の声が、小さく沈む。


「今、とても暗いのです」


 悠斗は、何も聞けなかった。


 邪馬台国へ。

 私は、四代目の陽巫女です。


 その言葉の意味を、悠斗はまだ何も知らない。


 でも、美耶が光の中から遊びに来たわけではないことだけは分かった。


 彼女は、何かを背負っている。


 自分より少し年上に見えるこの少女が、見知らぬ世界で震えながら、それでも帰ろうとしている場所がある。


 なぜか、その顔を見ているのが嫌だった。


     * 5 *


 宗一郎の家が見えた時、悠斗はようやく息をついた。


 古い木造の一軒家。

 雑草の伸びた庭。

 玄関脇のスコップ。

 窓の奥に見える本棚。


 数時間前には、かなり変わった家だと思った。


 今は、その変わり方が少しだけ頼もしく見える。


「ここ」


 悠斗が言うと、美耶は不安そうに家を見上げた。


「この中に、その方が」


「うん」


「悠斗は、その方を信じているのですか」


 聞かれて、悠斗はすぐには答えられなかった。


 信じている。


 そう言い切れるほど、宗一郎のことを知っているわけではない。


 今日初めて会ったばかりだ。

 邪馬台国が国ごと消えたなどという、とんでもない話をした老人だ。

 まともではないと、自分で言っていた。


 でも。


「分からない」


 悠斗は正直に答えた。


「でも、君のことを見て、何も知らないふりをする人じゃないと思う」


 美耶は、悠斗の顔をじっと見た。


 それから、小さくうなずく。


「では、私も」


「え?」


「悠斗がそう言うなら、私も、その方にお会いします」


 悠斗は一瞬、言葉を失った。


 そんなに簡単に信じていいのか、と言いかけた。


 けれど、美耶は悠斗を信じているというより、ほかに選べるものがないのかもしれない。


 それでも、胸の奥が少し熱くなった。


「行こう」


 悠斗はインターホンを押した。


 古い電子音が鳴る。


 少しして、家の奥で何かが崩れる音がした。


「ああ、いかん。そこは朝も崩れた場所じゃったか」


 聞き覚えのある声。


 悠斗は思わず力が抜けそうになった。


 美耶は驚いて悠斗の袖をつかみ直す。


「大丈夫。たぶん、いつものことだと思う」


「いつものこと」


 引き戸の向こうで足音が近づく。


 がらり、と玄関が開いた。


 宗一郎が顔を出した。


「白峰くんか。早かったのう。忘れ物でも――」


 言葉が、そこで止まった。


 宗一郎の目が、美耶に向けられる。


 その瞬間、老人の顔から、すべての色が消えた。


 驚き。

 恐怖。

 懐かしさ。

 後悔。


 その全部が、一度に浮かんだような顔だった。


 宗一郎の唇が、かすかに震える。


「美那……」


 美耶が、悠斗の後ろに半歩隠れた。


 宗一郎は、はっとしたように息を吸った。


「いや、違う」


 その目が、今度は美耶の衣へ、胸元の鏡へ、そして顔へと移る。


 悠斗は、宗一郎のこんな顔を見たことがなかった。


 数時間前、邪馬台国が国ごと消えたと語っていた時でさえ、この老人はどこか楽しそうだった。


 でも今は違う。


 本当に、四十年探し続けていたものが目の前に現れた人間の顔だった。


「陽巫女……なのか」


 宗一郎の声は、低くかすれていた。


 美耶は、悠斗の袖をつかんだまま、少しだけ前へ出た。


 怖がっている。


 それでも、背筋を伸ばした。


 さっきまで知らないものに怯えていた少女の顔に、静かな覚悟が宿る。


 彼女は、胸元の鏡に手を添えた。


「四代目陽巫女、美耶と申します」


 宗一郎の目が、大きく見開かれた。


 長い沈黙が落ちる。


 夕方の風が、庭の雑草を揺らした。


 どこかで、また蝉が鳴いている。


 普通の夏の音。


 けれど玄関先だけが、別の時間に沈んでいるようだった。


 宗一郎は、ゆっくりと片手で顔を覆った。


「四十年」


 その声は、震えていた。


「四十年、待っておった」


 悠斗は、美耶を見る。


 美耶はその言葉の意味が分からないまま、不安そうに悠斗を見上げた。


 悠斗にも、分からなかった。


 でも、一つだけ分かった。


 自分はもう、ただの個人的な調べものの外側に出てしまった。


 邪馬台国は、教科書の中の謎ではなかった。


 都市伝説でもなかった。


 光の中から現れた少女が、悠斗の袖をつかんでいる。


 それが、今のすべてだった。


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