第3話 変わり者の考古学者
玄関の前で靴ひもを結びながら、悠斗は昨夜ノートに書いた一行を思い出していた。
『明日、御影宗一郎に会う』
夜には少しだけ胸を熱くしたその文字が、朝になると急に現実の重さを持っていた。
外に出る。
人に会う。
しかも、初対面の老人に。
それだけのことなのに、喉の奥が狭くなる。学校へ行くわけじゃない。教室に戻るわけじゃない。誰かに謝りに行くわけでも、許されに行くわけでもない。
それでも、玄関の外には、あの日からずっと避けてきた世界がある。
「本当に一人で大丈夫?」
背中に、春香の声がかかった。
心配そうではあるが、止めようとしているわけではない。その気遣いが分かるから、悠斗は少しだけ返事に困った。
「大丈夫。道、分かるし」
「暑いから、飲み物持っていきなさいね」
「うん」
悠斗は靴ひもをもう一度強く結んだ。
ほどけたわけではない。
ただ、そうしていないと、玄関の扉に手を伸ばす理由を失いそうだった。
玄関先で靴を履いていると、リビングから莉央が顔を出した。
「お兄、歴史ガチ勢の初出陣じゃん」
「出陣じゃない」
「じゃあ何、遠征?」
「散歩」
「散歩で考古学者の家行く人、なかなかいないけど」
莉央はそう言って笑った。けれど、いつものように踏み込みすぎることはしなかった。
直人は仕事へ行く前、玄関まで来てくれた。
「御影さんには連絡してある。少し変わった人だけど、悪い人ではないよ」
「少し、なんだ」
「かなり、かもしれない」
父が真面目な顔で言うので、悠斗は思わず息をもらした。
直人はそれを見て、わずかに目を細める。
「合わないと思ったら、帰ってくればいい。けれど、面白いと思ったら、ちゃんと聞いておいで」
「分かった」
悠斗は靴ひもを結び直した。
玄関の扉を開ける。
夏の光が、正面から押し寄せてきた。
* 1 *
外の空気は、思っていたより重かった。
熱を含んだ風が頬に触れる。アスファルトから立ち上る匂い。近所の家の庭から聞こえる水撒きの音。自転車のブレーキが遠くで鳴る。
全部、知っているはずのものだった。
なのに、一年近く家と近所の最低限の範囲だけで過ごしているうちに、普通の道まで知らない場所のようになっていた。
悠斗はスマホの地図を見た。
御影宗一郎の家までは、歩いて十五分ほど。近い。近いが、途中に学校へ向かう道と重なる場所がある。
そこを通るのは嫌だった。
誰かに会うかもしれない。
相手が自分を覚えているとは限らない。むしろ、もう忘れているかもしれない。けれど、悠斗の方は忘れていない。校門へ続く坂道も、コンビニの前で笑っていた制服姿の集団も、教室の空気が自分だけを避けるようになった日のことも。
悠斗は遠回りの道を選んだ。
住宅街の細い道へ入る。ブロック塀の上で、朝顔のつるが揺れていた。どこかの家の室外機がうなっている。電柱の影だけが頼りないくらい細い。
歩きながら、悠斗はノートに書いた言葉を思い出した。
消えた理由を追っている。
直人はそう言っていた。
邪馬台国はどこにあったのか。それだけなら、調べればいくらでも説が出てくる。九州。畿内。別の場所。どの説にも根拠があり、反論がある。
けれど、なぜ消えたのか。
何が消したのか。
その問いだけは、歴史の本よりも、怪しい記事の中で光って見えた。
自分も、消えた側なのかもしれない。
教室から。誰かの記憶から。自分がいたはずの場所から。
そう考えかけて、悠斗は首を振った。
今日、それを確かめに行くわけではない。
ただ、知りたいと思ったことの方へ歩いている。
それだけでいい。
* 2 *
御影宗一郎の家は、地図が示す場所に確かにあった。
ただ、周りの住宅とは明らかに空気が違った。
古い木造の一軒家だった。塀は低く、門柱には文字の薄れた表札がかかっている。庭には雑草が伸びていたが、荒れ放題というわけではない。石材らしきものが端に寄せられ、割れた土器の欠片のようなものが木箱に入っている。玄関脇には泥のついたスコップ。軒下には新聞紙で包まれた何か。
窓の奥には、本棚が見えた。
紙の束。
地図。
赤い線。
そこだけ時間が積み重なりすぎて、今が少し遅れているようだった。
悠斗は門の前で立ち止まった。
インターホンを押すだけ。
それだけだ。
なのに、指がすぐには動かなかった。
引き返すなら今だ、と思った。
父には、会えなかったと言えばいい。相手が留守だったと言えばいい。暑かったから帰ってきた、と言ってもいい。誰も責めないだろう。
けれど、悠斗はノートの最後の一行を思い出した。
『明日、御影宗一郎に会う』
昨日の自分が書いた文字だ。
自分で書いた約束くらい、自分で守りたい。
悠斗はインターホンを押した。
古い電子音が、家の中で間延びして鳴る。
しばらく何も起きなかった。
もう一度押すべきか迷った時、家の奥で何かが崩れる音がした。
「ああ、いかん。そこは積む場所ではなかったか」
誰かの声がした。
足音が近づいてくる。途中でまた何かにぶつかったらしく、低い呻き声が聞こえた。
玄関の引き戸が、がらりと開いた。
現れたのは、白髪まじりの老人だった。
年齢は六十前後だろうか。髪は少し伸び、無精ひげもある。着ているシャツはしわになっていて、上から古びたベストを羽織っている。いかにも近所で「変わり者」と言われそうな格好だった。
ただ、目だけが違った。
眠たげでも、ぼんやりしているわけでもない。
こちらを見るその目は、古い土の下に埋まったものを見つける人の目だった。
「白峰くん、かな」
「はい。白峰悠斗です。父が、昨日」
「ああ、直人くんの息子さんか。大きくなったのう」
「会ったこと、ありますか」
「ない」
即答だった。
悠斗が返す言葉を探していると、老人は愉快そうに笑った。
「子供というものは、だいたい大きくなるもんじゃ。間違ってはおらん」
かなり、変わった人かもしれない。
悠斗は父の言葉を思い出した。
「それで、何を聞きに来た」
「邪馬台国について、少し」
その瞬間だった。
宗一郎の目が、急に光った。
表情はさほど変わっていない。けれど、空気だけが変わった。玄関先の暑さが、一歩引いたような気がした。
「邪馬台国?」
「はい」
宗一郎は、数秒だけ悠斗を見た。
そして、引き戸を大きく開ける。
「入りなさい」
* 3 *
家の中は、本で埋まっていた。
廊下にも本棚があり、部屋の入口にも本の山がある。床には資料の束が積まれ、壁には古い地図や遺跡の写真が貼られていた。
悠斗は靴を脱いで上がりながら、どこを踏めば安全なのか真剣に考えた。
「その紙束は踏んでもよい。失敗した仮説じゃ」
「踏んでいいんですか」
「踏まれる程度で壊れる仮説なら、どのみち役に立たん」
宗一郎は平然と言い、奥の部屋へ進んでいく。
案内された部屋は、さらにすごかった。
壁一面の本棚。日本古代史、考古学、神話、民俗学、地質図、神社の由緒書き。机の上には赤線だらけの資料が広げられている。
壁には大きな日本地図が貼られていた。
九州。
畿内。
出雲。
熱田。
天岩戸。
いくつもの地名が赤い糸のような線でつながっている。
その横に、短い言葉が書かれたメモが貼られていた。
『鏡』
『剣』
『岩戸』
『陰/陽』
意味は分からない。
けれど、ただの歴史研究室というより、何か事件の捜査本部のように見えた。
「座りなさい。茶は出ん。どこにあるか忘れた」
「大丈夫です」
「若いのに遠慮を覚えるのは早いぞ」
そう言いながら、宗一郎は自分だけ湯のみを手に取った。中身が入っているのかどうかは分からない。
悠斗は丸椅子に腰を下ろした。脚が少しだけぐらついた。
「それで、白峰くん。邪馬台国の何を知りたい」
「どこにあったのか、最初はそれを調べていました」
「九州か、畿内か」
「はい。でも、調べれば調べるほど、どちらにも見えて、どちらでもないように見えて」
「いい入り口じゃ」
宗一郎は楽しそうにうなずいた。
「分からないものを、分からないまま置いておける。若い時分にはそれが大事じゃ。すぐ答えに飛びつく者は、たいてい一番面白いところを見落とす」
「面白いところ」
「なぜ、そこに答えがないのか」
宗一郎は机の上から一枚の地図を取り上げた。
黄ばんだ紙に、いくつもの線が引かれている。
「人は邪馬台国を探す時、場所を探す。どこにあったのか。どの遺跡なのか。どの土地の名前に痕跡があるのか。それは正しい。学問としては、まずそこからじゃ」
宗一郎は地図を机に置いた。
「だが、それだけでは届かん」
「どうしてですか」
宗一郎は、笑った。
陽気な笑みだった。けれど、その目は笑っていなかった。
「邪馬台国は滅んだのではない」
悠斗は息を止めた。
「吸収されたのでも、名前を変えただけでもない」
宗一郎の指が、地図の上をすべる。九州から畿内へ。畿内から出雲へ。出雲から、また何もない余白へ。
「消えたんじゃよ。国ごとな」
部屋の中で、古い時計が小さく鳴った。
悠斗はすぐには言葉を返せなかった。
消えた。
国ごと。
それは昨日、父から聞いた言葉よりもさらに直接的だった。
「……比喩、ですか」
「そう思うかね」
「普通は、そうだと思います」
「普通はな」
宗一郎は満足そうにうなずいた。
「普通はそれでよい。記録から消えた。政治的に消された。別の勢力に飲み込まれた。土地の名が変わった。そう考える方が、ずっとまともじゃ」
「じゃあ、先生は」
「まともではない」
あっさり言われて、悠斗は思わず黙った。
宗一郎は笑う。
「わしは変わり者で通っておるからのう。便利じゃぞ。誰も本気で聞かん。だから、本気の話をしても笑って済ませてくれる」
「それは、便利なんですか」
「都市伝説というのはな、白峰くん」
宗一郎の声が、少し低くなった。
「真実を隠すには、ちょうどいい箱なんじゃ」
悠斗の背中に、冷たいものが走った。
窓の外では、蝉が鳴いている。夏の住宅街。古い家。地図と本に埋もれた部屋。目の前の老人は、荒唐無稽なことを言っている。
信じる理由はない。
ないはずだった。
けれど、宗一郎の目は、冗談を言っている目ではなかった。
「どうして、そう思うんですか」
「見たからじゃ」
言ってから、宗一郎は口を閉じた。
悠斗は、椅子の上で身じろぎもできなかった。
「見たって、何を」
宗一郎は湯のみを置いた。
机に当たる音が、やけに大きく聞こえた。
「今のは忘れなさい」
「忘れられる言い方じゃないです」
「そうじゃな」
宗一郎は、困ったように笑った。
その顔から、さっきまでの陽気さが少しだけ消えていた。
「わしは四十年探しておる」
「四十年」
「長いぞ。人ひとりが、若造から老人になるには十分すぎる時間じゃ」
宗一郎は壁の地図を見た。
そこには、赤い線が何本も引かれている。答えに近づいた跡にも、迷い続けた跡にも見えた。
「四十年探して、それでもまだ届かん。だから、わしの話を今日信じる必要はない」
「いいんですか」
「信じるというのは、楽をすることでもある。自分で考えずに済むからのう。白峰くんは、まだ信じなくていい」
宗一郎は、悠斗をまっすぐ見た。
「ただし、疑うなら最後まで疑いなさい。笑って忘れるためではなく、確かめるために疑うんじゃ」
悠斗は、膝の上で手を握った。
確かめるために疑う。
その言葉は、思っていたより深く胸に残った。
「僕に、何が確かめられるんでしょう」
聞いてから、自分でも少し驚いた。
そんなことを聞くつもりはなかった。ただ話を聞きに来ただけのはずだった。
宗一郎は一瞬だけ目を細めた。
「外に出てきた」
「え」
「まず、それを確かめたではないか」
悠斗は言葉を失った。
直人から聞いたのだろうか。自分が学校へ行っていないことを。詳しい事情までは知らないにしても、何かを察しているのかもしれない。
「人はのう、止まる時がある」
宗一郎は机の上の地図を、指先で軽く叩いた。
「国も、人も、時間もじゃ。止まったように見えるものには、たいてい理由がある」
「理由」
「消えたものは、必ず理由があって消えておる」
宗一郎の声は、静かだった。
「そして、消されたものには、必ず消した者がいる」
部屋の中が、急に狭くなったように感じた。
邪馬台国の話をしている。
そう分かっているのに、悠斗には別のことを言われているようにも聞こえた。
自分が教室から消えた理由。
自分の時間が止まった理由。
それを、誰かのせいだけにするつもりはない。けれど、何もなかったことにして笑えるほど、悠斗は強くも鈍くもなかった。
「白峰くん」
宗一郎が、いつもの調子に戻るように手を叩いた。
「今日のところは、ここまでじゃ。これ以上話すと、わしが楽しくなりすぎて夕飯まで帰さん」
「それは困ります」
「うむ。若者を初回から監禁する考古学者は評判が悪い」
「初回じゃなくても悪いと思います」
「なかなか冷静じゃな」
宗一郎は愉快そうに笑い、机の端から一枚のコピーを引き抜いた。そこには邪馬台国関連の本や資料名が、手書きで並んでいる。
「持っていきなさい。最初から難しいものを読む必要はない。分からんところに印をつけておけばよい」
「ありがとうございます」
「また来るといい。邪馬台国は逃げん。まあ、消えはしたが」
冗談のように言って、宗一郎は玄関まで悠斗を送った。
外へ出ると、午後の光は少し傾き始めていた。
門を出る直前、宗一郎が後ろから声をかけた。
「白峰くん」
振り返る。
宗一郎は、玄関の影の中に立っていた。
「もし、何か妙なものを見たら、すぐに来なさい」
「妙なもの?」
「光でも、影でも、ありえないものでもじゃ」
悠斗は眉をひそめた。
「それ、どういう」
「用心に越したことはない」
宗一郎はそれ以上説明しなかった。
ただ、その目はまた笑っていなかった。
* 4 *
帰り道、悠斗は来た時とは別の道を歩いた。
通学路を避けるためではない。
ただ、少しだけ遠回りをしてもいいと思った。
手には宗一郎にもらった資料がある。紙は薄いのに、不思議と重く感じた。
邪馬台国は滅んだのではない。
消えたんじゃよ。国ごとな。
都市伝説というのはな、白峰くん。真実を隠すには、ちょうどいい箱なんじゃ。
何度思い返しても、まともな話ではない。
まともではないのに、忘れられない。
宗一郎の部屋にあった地図。赤い線。鏡、剣、岩戸、陰と陽。四十年探していると言った時の横顔。
あの老人は、何を見たのだろう。
四十年前に、何があったのだろう。
悠斗は足を止めた。
住宅街の細い道だった。夕方の光が、家々の壁を淡く染めている。遠くで子供の声がする。どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。
普通の夏の夕暮れ。
そのはずだった。
ふいに、音が消えた。
蝉の声も。
子供の声も。
風の音も。
世界が、一瞬だけ息を止めた。
悠斗は顔を上げた。
道の先が、白く染まっていた。
夕焼けではない。
車のライトでもない。
そこに、光があった。
まるで、夏の空に開いた小さな裂け目から、知らない朝がこぼれてくるように。
悠斗の手から、資料の端が震えた。
宗一郎の言葉が、頭の奥でよみがえる。
もし、何か妙なものを見たら。
光でも、影でも、ありえないものでも。
白い光が、さらに強くなる。
悠斗は、逃げなかった。
ただ、その光の方へ、一歩踏み出した。




