表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/25

第3話 変わり者の考古学者

 玄関の前で靴ひもを結びながら、悠斗は昨夜ノートに書いた一行を思い出していた。


『明日、御影宗一郎に会う』


 夜には少しだけ胸を熱くしたその文字が、朝になると急に現実の重さを持っていた。


 外に出る。

 人に会う。

 しかも、初対面の老人に。


 それだけのことなのに、喉の奥が狭くなる。学校へ行くわけじゃない。教室に戻るわけじゃない。誰かに謝りに行くわけでも、許されに行くわけでもない。


 それでも、玄関の外には、あの日からずっと避けてきた世界がある。


「本当に一人で大丈夫?」


 背中に、春香の声がかかった。


 心配そうではあるが、止めようとしているわけではない。その気遣いが分かるから、悠斗は少しだけ返事に困った。


「大丈夫。道、分かるし」


「暑いから、飲み物持っていきなさいね」


「うん」


 悠斗は靴ひもをもう一度強く結んだ。


 ほどけたわけではない。

 ただ、そうしていないと、玄関の扉に手を伸ばす理由を失いそうだった。


 玄関先で靴を履いていると、リビングから莉央が顔を出した。


「お兄、歴史ガチ勢の初出陣じゃん」


「出陣じゃない」


「じゃあ何、遠征?」


「散歩」


「散歩で考古学者の家行く人、なかなかいないけど」


 莉央はそう言って笑った。けれど、いつものように踏み込みすぎることはしなかった。


 直人は仕事へ行く前、玄関まで来てくれた。


「御影さんには連絡してある。少し変わった人だけど、悪い人ではないよ」


「少し、なんだ」


「かなり、かもしれない」


 父が真面目な顔で言うので、悠斗は思わず息をもらした。


 直人はそれを見て、わずかに目を細める。


「合わないと思ったら、帰ってくればいい。けれど、面白いと思ったら、ちゃんと聞いておいで」


「分かった」


 悠斗は靴ひもを結び直した。


 玄関の扉を開ける。


 夏の光が、正面から押し寄せてきた。


     * 1 *


 外の空気は、思っていたより重かった。


 熱を含んだ風が頬に触れる。アスファルトから立ち上る匂い。近所の家の庭から聞こえる水撒きの音。自転車のブレーキが遠くで鳴る。


 全部、知っているはずのものだった。


 なのに、一年近く家と近所の最低限の範囲だけで過ごしているうちに、普通の道まで知らない場所のようになっていた。


 悠斗はスマホの地図を見た。


 御影宗一郎の家までは、歩いて十五分ほど。近い。近いが、途中に学校へ向かう道と重なる場所がある。


 そこを通るのは嫌だった。


 誰かに会うかもしれない。


 相手が自分を覚えているとは限らない。むしろ、もう忘れているかもしれない。けれど、悠斗の方は忘れていない。校門へ続く坂道も、コンビニの前で笑っていた制服姿の集団も、教室の空気が自分だけを避けるようになった日のことも。


 悠斗は遠回りの道を選んだ。


 住宅街の細い道へ入る。ブロック塀の上で、朝顔のつるが揺れていた。どこかの家の室外機がうなっている。電柱の影だけが頼りないくらい細い。


 歩きながら、悠斗はノートに書いた言葉を思い出した。


 消えた理由を追っている。


 直人はそう言っていた。


 邪馬台国はどこにあったのか。それだけなら、調べればいくらでも説が出てくる。九州。畿内。別の場所。どの説にも根拠があり、反論がある。


 けれど、なぜ消えたのか。


 何が消したのか。


 その問いだけは、歴史の本よりも、怪しい記事の中で光って見えた。


 自分も、消えた側なのかもしれない。


 教室から。誰かの記憶から。自分がいたはずの場所から。


 そう考えかけて、悠斗は首を振った。


 今日、それを確かめに行くわけではない。


 ただ、知りたいと思ったことの方へ歩いている。


 それだけでいい。


     * 2 *


 御影宗一郎の家は、地図が示す場所に確かにあった。


 ただ、周りの住宅とは明らかに空気が違った。


 古い木造の一軒家だった。塀は低く、門柱には文字の薄れた表札がかかっている。庭には雑草が伸びていたが、荒れ放題というわけではない。石材らしきものが端に寄せられ、割れた土器の欠片のようなものが木箱に入っている。玄関脇には泥のついたスコップ。軒下には新聞紙で包まれた何か。


 窓の奥には、本棚が見えた。


 紙の束。


 地図。


 赤い線。


 そこだけ時間が積み重なりすぎて、今が少し遅れているようだった。


 悠斗は門の前で立ち止まった。


 インターホンを押すだけ。


 それだけだ。


 なのに、指がすぐには動かなかった。


 引き返すなら今だ、と思った。


 父には、会えなかったと言えばいい。相手が留守だったと言えばいい。暑かったから帰ってきた、と言ってもいい。誰も責めないだろう。


 けれど、悠斗はノートの最後の一行を思い出した。


『明日、御影宗一郎に会う』


 昨日の自分が書いた文字だ。


 自分で書いた約束くらい、自分で守りたい。


 悠斗はインターホンを押した。


 古い電子音が、家の中で間延びして鳴る。


 しばらく何も起きなかった。


 もう一度押すべきか迷った時、家の奥で何かが崩れる音がした。


「ああ、いかん。そこは積む場所ではなかったか」


 誰かの声がした。


 足音が近づいてくる。途中でまた何かにぶつかったらしく、低い呻き声が聞こえた。


 玄関の引き戸が、がらりと開いた。


 現れたのは、白髪まじりの老人だった。


 年齢は六十前後だろうか。髪は少し伸び、無精ひげもある。着ているシャツはしわになっていて、上から古びたベストを羽織っている。いかにも近所で「変わり者」と言われそうな格好だった。


 ただ、目だけが違った。


 眠たげでも、ぼんやりしているわけでもない。


 こちらを見るその目は、古い土の下に埋まったものを見つける人の目だった。


「白峰くん、かな」


「はい。白峰悠斗です。父が、昨日」


「ああ、直人くんの息子さんか。大きくなったのう」


「会ったこと、ありますか」


「ない」


 即答だった。


 悠斗が返す言葉を探していると、老人は愉快そうに笑った。


「子供というものは、だいたい大きくなるもんじゃ。間違ってはおらん」


 かなり、変わった人かもしれない。


 悠斗は父の言葉を思い出した。


「それで、何を聞きに来た」


「邪馬台国について、少し」


 その瞬間だった。


 宗一郎の目が、急に光った。


 表情はさほど変わっていない。けれど、空気だけが変わった。玄関先の暑さが、一歩引いたような気がした。


「邪馬台国?」


「はい」


 宗一郎は、数秒だけ悠斗を見た。


 そして、引き戸を大きく開ける。


「入りなさい」


     * 3 *


 家の中は、本で埋まっていた。


 廊下にも本棚があり、部屋の入口にも本の山がある。床には資料の束が積まれ、壁には古い地図や遺跡の写真が貼られていた。


 悠斗は靴を脱いで上がりながら、どこを踏めば安全なのか真剣に考えた。


「その紙束は踏んでもよい。失敗した仮説じゃ」


「踏んでいいんですか」


「踏まれる程度で壊れる仮説なら、どのみち役に立たん」


 宗一郎は平然と言い、奥の部屋へ進んでいく。


 案内された部屋は、さらにすごかった。


 壁一面の本棚。日本古代史、考古学、神話、民俗学、地質図、神社の由緒書き。机の上には赤線だらけの資料が広げられている。


 壁には大きな日本地図が貼られていた。


 九州。


 畿内。


 出雲。


 熱田。


 天岩戸。


 いくつもの地名が赤い糸のような線でつながっている。


 その横に、短い言葉が書かれたメモが貼られていた。


『鏡』


『剣』


『岩戸』


『陰/陽』


 意味は分からない。


 けれど、ただの歴史研究室というより、何か事件の捜査本部のように見えた。


「座りなさい。茶は出ん。どこにあるか忘れた」


「大丈夫です」


「若いのに遠慮を覚えるのは早いぞ」


 そう言いながら、宗一郎は自分だけ湯のみを手に取った。中身が入っているのかどうかは分からない。


 悠斗は丸椅子に腰を下ろした。脚が少しだけぐらついた。


「それで、白峰くん。邪馬台国の何を知りたい」


「どこにあったのか、最初はそれを調べていました」


「九州か、畿内か」


「はい。でも、調べれば調べるほど、どちらにも見えて、どちらでもないように見えて」


「いい入り口じゃ」


 宗一郎は楽しそうにうなずいた。


「分からないものを、分からないまま置いておける。若い時分にはそれが大事じゃ。すぐ答えに飛びつく者は、たいてい一番面白いところを見落とす」


「面白いところ」


「なぜ、そこに答えがないのか」


 宗一郎は机の上から一枚の地図を取り上げた。


 黄ばんだ紙に、いくつもの線が引かれている。


「人は邪馬台国を探す時、場所を探す。どこにあったのか。どの遺跡なのか。どの土地の名前に痕跡があるのか。それは正しい。学問としては、まずそこからじゃ」


 宗一郎は地図を机に置いた。


「だが、それだけでは届かん」


「どうしてですか」


 宗一郎は、笑った。


 陽気な笑みだった。けれど、その目は笑っていなかった。


「邪馬台国は滅んだのではない」


 悠斗は息を止めた。


「吸収されたのでも、名前を変えただけでもない」


 宗一郎の指が、地図の上をすべる。九州から畿内へ。畿内から出雲へ。出雲から、また何もない余白へ。


「消えたんじゃよ。国ごとな」


 部屋の中で、古い時計が小さく鳴った。


 悠斗はすぐには言葉を返せなかった。


 消えた。


 国ごと。


 それは昨日、父から聞いた言葉よりもさらに直接的だった。


「……比喩、ですか」


「そう思うかね」


「普通は、そうだと思います」


「普通はな」


 宗一郎は満足そうにうなずいた。


「普通はそれでよい。記録から消えた。政治的に消された。別の勢力に飲み込まれた。土地の名が変わった。そう考える方が、ずっとまともじゃ」


「じゃあ、先生は」


「まともではない」


 あっさり言われて、悠斗は思わず黙った。


 宗一郎は笑う。


「わしは変わり者で通っておるからのう。便利じゃぞ。誰も本気で聞かん。だから、本気の話をしても笑って済ませてくれる」


「それは、便利なんですか」


「都市伝説というのはな、白峰くん」


 宗一郎の声が、少し低くなった。


「真実を隠すには、ちょうどいい箱なんじゃ」


 悠斗の背中に、冷たいものが走った。


 窓の外では、蝉が鳴いている。夏の住宅街。古い家。地図と本に埋もれた部屋。目の前の老人は、荒唐無稽なことを言っている。


 信じる理由はない。


 ないはずだった。


 けれど、宗一郎の目は、冗談を言っている目ではなかった。


「どうして、そう思うんですか」


「見たからじゃ」


 言ってから、宗一郎は口を閉じた。


 悠斗は、椅子の上で身じろぎもできなかった。


「見たって、何を」


 宗一郎は湯のみを置いた。


 机に当たる音が、やけに大きく聞こえた。


「今のは忘れなさい」


「忘れられる言い方じゃないです」


「そうじゃな」


 宗一郎は、困ったように笑った。


 その顔から、さっきまでの陽気さが少しだけ消えていた。


「わしは四十年探しておる」


「四十年」


「長いぞ。人ひとりが、若造から老人になるには十分すぎる時間じゃ」


 宗一郎は壁の地図を見た。


 そこには、赤い線が何本も引かれている。答えに近づいた跡にも、迷い続けた跡にも見えた。


「四十年探して、それでもまだ届かん。だから、わしの話を今日信じる必要はない」


「いいんですか」


「信じるというのは、楽をすることでもある。自分で考えずに済むからのう。白峰くんは、まだ信じなくていい」


 宗一郎は、悠斗をまっすぐ見た。


「ただし、疑うなら最後まで疑いなさい。笑って忘れるためではなく、確かめるために疑うんじゃ」


 悠斗は、膝の上で手を握った。


 確かめるために疑う。


 その言葉は、思っていたより深く胸に残った。


「僕に、何が確かめられるんでしょう」


 聞いてから、自分でも少し驚いた。


 そんなことを聞くつもりはなかった。ただ話を聞きに来ただけのはずだった。


 宗一郎は一瞬だけ目を細めた。


「外に出てきた」


「え」


「まず、それを確かめたではないか」


 悠斗は言葉を失った。


 直人から聞いたのだろうか。自分が学校へ行っていないことを。詳しい事情までは知らないにしても、何かを察しているのかもしれない。


「人はのう、止まる時がある」


 宗一郎は机の上の地図を、指先で軽く叩いた。


「国も、人も、時間もじゃ。止まったように見えるものには、たいてい理由がある」


「理由」


「消えたものは、必ず理由があって消えておる」


 宗一郎の声は、静かだった。


「そして、消されたものには、必ず消した者がいる」


 部屋の中が、急に狭くなったように感じた。


 邪馬台国の話をしている。


 そう分かっているのに、悠斗には別のことを言われているようにも聞こえた。


 自分が教室から消えた理由。


 自分の時間が止まった理由。


 それを、誰かのせいだけにするつもりはない。けれど、何もなかったことにして笑えるほど、悠斗は強くも鈍くもなかった。


「白峰くん」


 宗一郎が、いつもの調子に戻るように手を叩いた。


「今日のところは、ここまでじゃ。これ以上話すと、わしが楽しくなりすぎて夕飯まで帰さん」


「それは困ります」


「うむ。若者を初回から監禁する考古学者は評判が悪い」


「初回じゃなくても悪いと思います」


「なかなか冷静じゃな」


 宗一郎は愉快そうに笑い、机の端から一枚のコピーを引き抜いた。そこには邪馬台国関連の本や資料名が、手書きで並んでいる。


「持っていきなさい。最初から難しいものを読む必要はない。分からんところに印をつけておけばよい」


「ありがとうございます」


「また来るといい。邪馬台国は逃げん。まあ、消えはしたが」


 冗談のように言って、宗一郎は玄関まで悠斗を送った。


 外へ出ると、午後の光は少し傾き始めていた。


 門を出る直前、宗一郎が後ろから声をかけた。


「白峰くん」


 振り返る。


 宗一郎は、玄関の影の中に立っていた。


「もし、何か妙なものを見たら、すぐに来なさい」


「妙なもの?」


「光でも、影でも、ありえないものでもじゃ」


 悠斗は眉をひそめた。


「それ、どういう」


「用心に越したことはない」


 宗一郎はそれ以上説明しなかった。


 ただ、その目はまた笑っていなかった。


     * 4 *


 帰り道、悠斗は来た時とは別の道を歩いた。


 通学路を避けるためではない。


 ただ、少しだけ遠回りをしてもいいと思った。


 手には宗一郎にもらった資料がある。紙は薄いのに、不思議と重く感じた。


 邪馬台国は滅んだのではない。


 消えたんじゃよ。国ごとな。


 都市伝説というのはな、白峰くん。真実を隠すには、ちょうどいい箱なんじゃ。


 何度思い返しても、まともな話ではない。


 まともではないのに、忘れられない。


 宗一郎の部屋にあった地図。赤い線。鏡、剣、岩戸、陰と陽。四十年探していると言った時の横顔。


 あの老人は、何を見たのだろう。


 四十年前に、何があったのだろう。


 悠斗は足を止めた。


 住宅街の細い道だった。夕方の光が、家々の壁を淡く染めている。遠くで子供の声がする。どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。


 普通の夏の夕暮れ。


 そのはずだった。


 ふいに、音が消えた。


 蝉の声も。


 子供の声も。


 風の音も。


 世界が、一瞬だけ息を止めた。


 悠斗は顔を上げた。


 道の先が、白く染まっていた。


 夕焼けではない。


 車のライトでもない。


 そこに、光があった。


 まるで、夏の空に開いた小さな裂け目から、知らない朝がこぼれてくるように。


 悠斗の手から、資料の端が震えた。


 宗一郎の言葉が、頭の奥でよみがえる。


 もし、何か妙なものを見たら。


 光でも、影でも、ありえないものでも。


 白い光が、さらに強くなる。


 悠斗は、逃げなかった。


 ただ、その光の方へ、一歩踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ