第2話 夢中になれるもの
翌朝、白峰悠斗は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
早いといっても、世間の高校生が登校の準備を始める時間から見れば、ずいぶん遅い。窓の外では、すでに蝉が鳴いている。カーテンの隙間から差し込む光は白く、机の上に積もった薄い埃を、やけに正直に照らしていた。
昨日までなら、その光を見るだけで胸の奥が重くなった。
朝が来る。
みんなが動き出す。
自分だけが、昨日と同じ場所に置き去りにされる。
そう思うだけで、布団の中に沈み込む理由には十分だった。
けれど今朝は、違った。
枕元のスマートフォンを手に取る。画面をつけると、検索履歴の一番上に、昨夜打ち込んだ文字が残っていた。
『邪馬台国 どこ』
たったそれだけの言葉なのに、悠斗はしばらく目を離せなかった。
机の上には、昨夜作ったばかりのノートが置かれている。
個人的調査ノート。
邪馬台国はどこへ消えたのか。
白峰悠斗。
表紙に書いた文字は、朝の光の中で見ると、夜よりずっと大げさに見えた。
「……何やってんだ、俺」
小さくつぶやく。
けれど、ノートを閉じて引き出しに戻す気にはならなかった。
悠斗は布団から起き上がる。
それだけのことが、少し大げさに言えば事件だった。
* 1 *
ノートパソコンを開くと、起動の音がやけに大きく聞こえた。
検索結果には、似たような見出しがいくつも並んでいる。
邪馬台国は九州か畿内か。
卑弥呼の墓はどこか。
魏志倭人伝の行程をどう読むか。
三角縁神獣鏡と邪馬台国。
見知らぬ言葉が、次々と現れる。
昨日までの悠斗なら、たぶん最初の数行で閉じていた。情報量が多すぎる。自分には関係がない。そんなふうに理由をつけて、画面から離れていただろう。
でも、今日は違う。
分からない言葉があるたび、ノートに写した。
『九州説』
『畿内説』
『魏志倭人伝』
『卑弥呼の死後』
『台与』
字はひどい。途中から線も曲がっている。ネットの記事を写しただけの部分も多い。
それでも、空白だったページが少しずつ埋まっていく。
白いまま置き去りにされていたものに、ようやく傷がついていくような気がした。
「……卑弥呼が死んだあと、何があったんだ」
検索窓に打ち込む。
卑弥呼の死後、男王が立ったが国中が服さず、争いが起きた。その後、十三歳の台与が王となり、混乱がおさまった。
悠斗はペンを止めた。
十三歳。
歴史の数字として見るには、あまりにも若かった。
十三歳の人間が、国の混乱を背負った。
資料の中では、一行で済む。けれど、その一行の中に、誰かの恐怖や願いや、逃げられなかった夜がある。
そう思った瞬間、悠斗は自分でも驚くほど強く、ペンを握っていた。
歴史は、暗記するものだと思っていた。
年号を覚えて、人名を覚えて、テストの空欄に埋めるもの。
でも、本当は違うのかもしれない。
たった一行の向こうに、生きていた誰かがいる。
そして、その誰かのいた場所が、いまは分からなくなっている。
記録にはあるのに、輪郭がつかめない。
有名なのに、居場所がない。
それは、奇妙な話だった。
少しだけ、他人事とは思えなかった。
* 2 *
「悠斗?」
ドアの向こうから、母の春香が声をかけてきた。
反射的に肩が跳ねる。慌ててノートを閉じかけて、途中で手を止めた。
隠すようなことじゃない。
けれど、見られるのは少し怖い。
「起きてる」
「入ってもいい?」
少し間を置いてから、悠斗は「いいよ」と答えた。
春香は、湯気の立つマグカップを持って部屋に入ってきた。
「おはよう。珍しいね、机に向かってるなんて」
「……別に」
言ってから、またいつもの癖だと思った。
別に。
どうでもいい。
関係ない。
その三つの言葉で、悠斗はたいていの会話を終わらせてきた。終わらせてしまえば、期待されない。期待されなければ、失望されることもない。
春香は責めるような顔をしなかった。ただ、机の端にマグカップを置く。
「ココア。冷房で体、冷えてるでしょ」
「夏なのに」
「夏でも」
春香の視線が、開いたノートに落ちる。
個人的調査ノート。
見られた。
悠斗は言い訳を探した。けれど春香は、少し目を見開いただけで、すぐに微笑んだ。
「お父さんの話、気になった?」
「……少し」
「そっか」
それだけだった。
もっと大げさに喜ばれたら、たぶん嫌になっていた。頑張っているね、と言われても、逃げたくなっていたと思う。
でも春香は、ただ「そっか」と言った。
その距離が、いまの悠斗にはありがたかった。
「分からないことばっかりだけど」
「分からないって思えるなら、もう入口には立ってるんじゃない?」
悠斗は返事をしなかった。
春香も、それ以上は踏み込まない。
「そのノート、いいね」
ドアが閉まったあと、悠斗はしばらくココアの湯気を見ていた。
嬉しい、と言っていいのか分からない。
けれど、嫌ではなかった。
* 3 *
昼前には、ノートの一ページ目が文字で埋まっていた。
その頃、背後から声がした。
「なにそれ」
悠斗は肩を跳ねさせた。
振り返ると、妹の莉央が半開きのドアから顔を出している。手にはアイスを持っていた。
「勝手に入るな」
「入ってないし。境界線は越えてないし」
莉央は、ドアの敷居の上でわざと足を止めてみせた。
「お兄が朝から机に向かってるって、お母さんが歴史的事件みたいな顔してたから見に来た」
「大げさだろ」
「大げさじゃないよ。白峰家に激震、長男がノートを開く」
「うるさい」
言いながらも、悠斗は本気で怒れなかった。
莉央は遠慮なく部屋をのぞき込む。
「邪馬台国? お兄、急に歴史ガチ勢じゃん」
「ガチ勢じゃない」
「じゃあ何、古代人になる人?」
「ならない」
「卑弥呼に会いに行く系?」
「行けるわけないだろ」
そう答えたあと、悠斗はなぜか少しだけ言葉に引っかかった。
会いに行く。
もちろん、そんなことはできない。卑弥呼は歴史上の人物で、邪馬台国は古代の国だ。現代の高校生が会いに行けるような相手ではない。
なのに、その言葉は妙に胸に残った。
莉央はアイスをかじりながら、ノートをちらりと見た。
「でも、なんかいいじゃん」
「何が」
「お兄、昨日よりちょっと顔マシ」
軽い調子だった。
けれど、その言葉は冗談みたいに聞こえなかった。
莉央は少しだけ気まずそうに目をそらす。
「なんか、目ぇ開いてる感じ。いつも半分寝てるみたいな顔してるし」
「失礼だな」
「褒めてるんですけど」
それだけ言うと、莉央は照れ隠しのようにアイスの棒をくわえた。
「じゃ、歴史ガチ勢がんばれ」
「だからガチ勢じゃない」
足音が遠ざかる。
目を開いている感じ。
適当な言い方のくせに、妙に残った。
たしかに、自分はずっと、目を閉じていたのかもしれない。
学校からも、家族からも、自分自身からも。
誰かに裏切られたあの日から、時間を止めていた。止まっていれば、傷つくこともないと思っていた。けれど止まった時間の中で、傷だけは消えずに残り続けた。
邪馬台国は、どこへ消えたのか。
そして自分は、どこに消えようとしていたのか。
悠斗は、ノートの端に小さく書いた。
『消えた国と、止まった自分』
* 4 *
夕方、直人が帰ってきた。
夕食のあと、悠斗はリビングのテーブルにノートを置いた。
「個人的調査ノート?」
直人がすぐに気づく。
「名前は見るな」
「いや、いい名前だと思う」
「やめて」
莉央が横から笑う。
「お父さん、褒めるとお兄が溶けるよ」
「溶けない」
春香が台所で笑っている。
こんな会話をするのは、いつ以来だろう。
悠斗は、ノートを開いた。
「調べてみたんだけど、よく分からない。九州説とか畿内説とか、資料によって言ってることが違うし。卑弥呼の死後も、急にぼやける。台与が出てきて、そのあとがまた曖昧で」
話しながら、自分で驚いた。
声が続いている。
誰かに説明している。
何かを知りたいという気持ちを、言葉にしている。
直人は茶碗を置き、真面目な顔で聞いていた。
「面白いところに気づいたね。邪馬台国は、有名なのに分からないことが多い。誰もが名前を知っているのに、どこにあったかも、どう終わったかも、完全にはつかめていない」
「……消えた国、みたいに?」
直人は少しだけ目を細めた。
「そうだね。消えた国、という言い方は、なかなかいい」
自分の言葉が認められることに、悠斗はまだ慣れていない。
直人は少し考えてから言った。
「悠斗。本当に興味があるなら、会ってみるといい人がいる」
「誰に」
「御影宗一郎さん。近所に住んでいる、少し変わった考古学者だ」
考古学者。
その言葉だけで、空気が少し変わった気がした。
「大学を退いたあと、この町に戻ってきた人でね。昔から邪馬台国のことを追っている。学会では、かなり変わり者で通っているよ」
「怪しい人じゃん」
莉央が即答する。
「怪しいというより、頑固だね」
「それ、だいたい怪しい人の説明だよ」
悠斗は黙って聞いていた。
変わり者。
定説に従わない。
消えた国を追っている老人。
胸の奥に、奇妙な火がともる。
「その人、邪馬台国がどこにあったと思ってるの」
直人は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって悠斗の注意を引いた。
「御影さんはね、邪馬台国を単なる場所の問題として見ていない」
「どういうこと」
「場所だけを探しても、たぶん見つからないと言っていた。なぜ消えたのか。何が消したのか。そこを考えなければならない、と」
背中に、薄い冷気が走った。
何が消したのか。
国が消える、という言葉は比喩のはずだった。記録が曖昧になった。遺跡が特定できない。そういう意味のはずだった。
なのに、直人の口から出たその言葉は、ただの比喩には聞こえなかった。
「……会えるの」
自分の声が、思ったより小さかった。
直人はうなずく。
「連絡してみようか。無理にとは言わない。会って話を聞いて、合わないと思ったら帰ってくればいい」
無理にとは言わない。
その一言で、逃げ道を塞がれなかったからだろうか。
悠斗は、逃げなかった。
「会ってみたい」
リビングが、少し静かになった。
春香が台所で手を止めている。莉央も、珍しく茶化さなかった。
直人だけが、静かに笑った。
「分かった。明日、聞いてみよう」
* 5 *
その夜、悠斗はもう一度ノートを開いた。
ページの最後に、今日のまとめを書く。
『邪馬台国は、有名なのに分からない』
『卑弥呼の死後、混乱があった』
『台与という十三歳の王が立った』
『御影宗一郎。消えた理由を追っている』
最後の一行で、ペンが止まる。
少し考えてから、悠斗はもう一つ書き足した。
『明日、御影宗一郎に会う』
たったそれだけなのに、手が震えた。
外に出る。
それは、学校へ行くという意味ではない。誰かに許されるためでも、元に戻るためでもない。
自分の足で、知りたいことの方へ行く。
ただ、その夜。
悠斗は久しぶりに、明日という言葉を、自分のものとしてノートに書いた。




