第1話 止まった一年
白峰悠斗の夏は、一年前から止まっていた。
スマホの画面には、午前十一時二十六分と表示されている。
朝と呼ぶには遅すぎて、昼と認めるには少しだけ抵抗がある時間だった。カーテンは閉めたままで、隙間から差し込む光だけが、部屋の床に細い線を作っている。
悠斗はベッドの上で、しばらく天井を見ていた。
白い天井。見慣れすぎて、模様の染みまで覚えてしまった天井。
今日が何曜日なのか、考えようとしてやめた。考えたところで予定はない。誰かと会う約束もない。どこかへ行く用事もない。
部屋の隅には、使われなくなった通学バッグが置かれている。
黒いリュックの肩ひもには、高校の校章がついたキーホルダーがまだぶら下がっていた。入学した春、母が「せっかくだから」と買ってきたものだ。最初は少し恥ずかしくて、でも外すほど嫌でもなかった。
今は、見るだけで胃の奥が重くなる。
机の上には、一年の一学期から止まった教科書が積まれていた。ページの端はほとんど開かれていないまま、きれいな顔をしている。
きれいなまま置き去りにされたものを見るのは、あまり気分がよくない。
「……起きるか」
声に出してみると、自分の声が妙にかすれて聞こえた。
悠斗はベッドから降り、床に置いたダンベルを持ち上げた。
十キロ。
最初は五キロでも腕が震えた。けれど父に言われて続けているうちに、体だけは少しずつ変わった。腕に薄く筋肉がつき、肩まわりも前より広くなった。
ただ、心はどうにもならなかった。
一、二、三。
カウントしながら、肘を曲げる。
汗が首筋を伝う。息が少しずつ荒くなる。体が熱を持つ。筋肉が痛くなる。
それは分かりやすかった。
痛い場所が分かるものは、まだましだ。
十五回を三セット終えたところで、悠斗は床に座り込んだ。閉めきった部屋の空気はぬるく、汗の匂いと洗濯物の柔軟剤の匂いが混じっている。
スマホが震えた。
画面を見る。
通知は、通販アプリのセール情報だった。
胸の奥に浮かびかけた期待が、何でもなかったふりをして沈む。
誰かから連絡がほしいわけではない。
そう思っている。
でも、誰からも来ないことを確認するたび、自分がどこにも所属していないのだと、律儀に思い知らされる。
悠斗はスマホを裏返して、床に置いた。
* 1 *
高校一年の夏前、悠斗はクラスメイトをかばった。
たいした正義感があったわけではない。
ただ、見ていられなかった。
昼休みの教室で、机に落書きをされていた男子がいた。消しても消しても、翌日には増えていた。
キモい。
空気読め。
いなくなれば。
そういう言葉が、油性ペンで机に書かれていた。
悠斗はその日、たまたま雑巾を持っていた。たまたま教室に残っていた。たまたま、その男子が唇を噛んでいるのを見てしまった。
だから言った。
「やめろよ」
たったそれだけだった。
言った瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。
誰かが笑った。
誰かが「なに、正義マン?」と言った。
そこから先は、ゆっくりと崩れていった。
最初は視線だった。
次に、机の中のプリントがなくなった。
体育の更衣室で、制服の袖が濡れていた。
靴箱に紙くずが詰められていた。
机に書かれる言葉は、いつのまにか悠斗のものになった。
消しても消しても、翌日には増えていた。
担任に呼ばれた日、悠斗はまだどこかで信じていた。
あの時かばった相手が、本当のことを言ってくれるはずだと。
けれど職員室の隅で、そのクラスメイトは顔を伏せ、震えた声で言った。
「……白峰くんが、勝手にやったんです」
悠斗は、うまく息ができなかった。
そのあと彼が何を言ったのか、担任がどんな顔をしていたのか、細かいところは覚えていない。ただ、床のワックスの匂いだけが妙にはっきり残っている。
人を助けること。
人を信じること。
それが怖くなった。
怖くなった自分を、いちばん許せなかった。
* 2 *
階段を下りると、台所から味噌汁の匂いがした。
「悠斗、起きたのね」
母の春香が、振り返って笑った。責めるでもなく、驚くでもなく、ただいつも通りの声だった。
「うん」
「ごはん、食べられる?」
「少し」
「じゃあ、卵焼きも少しね」
少しと言ったのに、皿には普通の量がのる。春香の「少し」は、いつも悠斗の申告より一段階多い。
ありがたいと思う。
それが、少し苦しい。
テーブルにつくと、向かいで妹の莉央がスマホを片手に牛乳を飲んでいた。中学三年生。家族の中でいちばん空気を読むくせに、空気を読んでいないふりがうまい。
莉央は悠斗を見るなり、にやっとした。
「お兄、今日も筋トレだけはガチじゃん。そこだけ体育会系なのウケる」
「うるさい」
「いや、褒めてる。引きこもり界のフィジカル担当」
「担当とかないだろ」
「じゃあ、家内警備と筋肉の二刀流」
「増やすな」
春香が小さく笑った。
悠斗も、ほんの少しだけ口元が緩む。
莉央の軽口は、ときどき雑だ。けれど、変に気を遣われるよりずっと楽だった。腫れ物に触るようにされると、自分が本当に壊れ物になった気がしてしまう。
「学校からプリント来てたわよ」
春香が、買い物のメモを渡すような声で言った。
その普通さに、悠斗は救われたり、逃げ場をなくしたりする。
「……あとで見る」
「うん。急がなくていいけど、必要なものだけ確認しておいてね」
学校から何が出されているのかも、悠斗は知らなかった。
そもそも今、自分が学校の時間割の中でどこにいるのか分からない。高二の夏、と言われればそうなのだろう。だが悠斗の中では、まだ高一のあの日から教室のドアが閉まったままだ。
テレビでは、昼のニュースが流れていた。
猛暑。交通情報。どこかの祭りの準備。
世界は普通に進んでいる。
進んでいないのは、自分だけだ。
* 3 *
夜、父の直人が帰ってきた。
白峰直人は、出版社で歴史関係の本に関わる仕事をしている。歴史学者ではないが、妙なところで知識が深く、夕食中に突然、戦国武将の兵站の話を始めて春香に止められることがある。
その日は珍しく、食後に悠斗だけがリビングへ残った。
莉央は風呂へ行き、春香は台所で食器を洗っている。
直人は湯呑みを両手で包み、しばらく黙っていた。押しつけるような沈黙ではなく、言葉を選んでいる沈黙だった。
「悠斗」
「なに」
「来年は十八になるし、そろそろ将来のことを考えた方がいいのかもしれない」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
来た。
そう思った。
学校はどうするんだ。進級は。受験は。通信制は。働くのか。何か始めるのか。
頭の中で、言われてもいない言葉が勝手に並ぶ。
けれど直人は、湯呑みを置いて、続けた。
「けれど、無理に答えを出す必要はない」
悠斗は顔を上げた。
「ただな」
直人は少しだけ困ったように笑った。
「何か、夢中になれるものを探してごらん」
「夢中に、なれるもの」
「そうだ。役に立つとか、将来につながるとか、最初から考えなくていい。人はな、何かを本気で面白がっている時だけ、少し遠くまで歩ける」
「……そんなの、急に言われても」
「急がなくていい。明日見つけろとも言わない。ただ、部屋の中にいても、本の中なら遠くへ行ける。画面の向こうでもいい。何か一つ、これは何だろうと思えるものがあれば、それでいい」
説教ではなかった。
励ましというには、静かすぎた。
だからこそ、悠斗の中に小さく引っかかった。
「父さんは、あるの」
「夢中になれるものか?」
「うん」
直人は少し考えた。
「あるな。多すぎて、母さんに本棚を増やすなと怒られる」
台所から春香の声が飛んだ。
「今も怒ってます」
「ほらな」
直人が真顔で言うので、悠斗は思わず笑ってしまった。
笑ったあとで、自分が笑えたことに少し驚いた。
直人はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、湯呑みを持ち上げた。
「悠斗。止まっている時間を、無理に押し流そうとしなくていい。ただ、どこかに小さな穴が開けば、水は勝手に動く」
「……うん」
悠斗は短く答えた。
その言葉を、まだ信じられたわけではない。
けれど、完全に聞き流すこともできなかった。
* 4 *
部屋に戻ると、カーテンの隙間から月明かりが差していた。
昼間の熱が、まだ壁に残っている。エアコンのリモコンを探しながら、悠斗は机の上のプリントに目を留めた。
学校から送られてきたものだ。
進路希望調査。
補習日程。
夏の連絡事項。
見るだけで、胸の奥がざらつく。
悠斗はそれらを端へ寄せようとして、下に挟まっていた日本史の資料集を見つけた。
入学した時に配られたまま、ほとんど開いていない本だった。
何となく、手に取る。
何か、夢中になれるものを探してごらん。
父の声が、耳の奥に残っていた。
「……本の中なら、遠くへ行ける、か」
悠斗は苦笑した。
自分がそんな前向きな言葉に動かされる人間だとは思っていない。思っていないのに、指は資料集のページをめくっていた。
縄文時代。
弥生時代。
稲作。銅鐸。環濠集落。
眠気を誘う単語が並ぶ中で、ふと一つの見出しが目に入った。
邪馬台国。
指が止まる。
ページには、卑弥呼の名と、魏志倭人伝の説明が載っていた。横には小さな地図があり、九州説、畿内説という文字が並んでいる。
確かに記録にはある。
でも、どこにあったのか分からない。
誰もが名前を知っているのに、誰もその居場所を確かめられない国。
悠斗は、しばらくそのページを見つめていた。
自分は、たしかに教室にいた。
席もあった。名前もあった。出席番号も、ロッカーも、下駄箱もあった。
なのに今は、そこから消えている。
消えたかったわけではない。
消された、と言い切るほど強くもない。
ただ、気づいたら自分の場所が分からなくなっていた。
「邪馬台国は、どこへ消えたのか」
声に出してみる。
教科書の中の問いは、思ったより冷たくなかった。
むしろ、暗い部屋の隅で膝を抱えている誰かに、そっと肩を貸すような響きがあった。
悠斗は机の引き出しを開け、使っていないノートを取り出した。表紙は無地で、まだ一文字も書かれていない。
ペンを握る。
何を書くべきか、少し迷った。
それから、表紙の一行目にこう書いた。
個人的調査ノート。
邪馬台国はどこへ消えたのか。
白峰悠斗。
書いてしまうと、少しだけ恥ずかしかった。
誰かに見られたら、たぶん莉央あたりに「急に探偵じゃん」と笑われる。
それでも、ノートを閉じる気にはならなかった。
悠斗はもう一度、資料集のページに目を落とす。
邪馬台国。
閉じたカーテンの向こうで、夏の夜が静かに更けていった。




