表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/28

第1話 止まった一年

 白峰悠斗しらみね はるとの夏は、一年前から止まっていた。


 スマホの画面には、午前十一時二十六分と表示されている。


 朝と呼ぶには遅すぎて、昼と認めるには少しだけ抵抗がある時間だった。カーテンは閉めたままで、隙間から差し込む光だけが、部屋の床に細い線を作っている。


 悠斗はベッドの上で、しばらく天井を見ていた。


 白い天井。見慣れすぎて、模様の染みまで覚えてしまった天井。


 今日が何曜日なのか、考えようとしてやめた。考えたところで予定はない。誰かと会う約束もない。どこかへ行く用事もない。


 部屋の隅には、使われなくなった通学バッグが置かれている。


 黒いリュックの肩ひもには、高校の校章がついたキーホルダーがまだぶら下がっていた。入学した春、母が「せっかくだから」と買ってきたものだ。最初は少し恥ずかしくて、でも外すほど嫌でもなかった。


 今は、見るだけで胃の奥が重くなる。


 机の上には、一年の一学期から止まった教科書が積まれていた。ページの端はほとんど開かれていないまま、きれいな顔をしている。


 きれいなまま置き去りにされたものを見るのは、あまり気分がよくない。


「……起きるか」


 声に出してみると、自分の声が妙にかすれて聞こえた。


 悠斗はベッドから降り、床に置いたダンベルを持ち上げた。


 十キロ。


 最初は五キロでも腕が震えた。けれど父に言われて続けているうちに、体だけは少しずつ変わった。腕に薄く筋肉がつき、肩まわりも前より広くなった。


 ただ、心はどうにもならなかった。


 一、二、三。


 カウントしながら、肘を曲げる。


 汗が首筋を伝う。息が少しずつ荒くなる。体が熱を持つ。筋肉が痛くなる。


 それは分かりやすかった。


 痛い場所が分かるものは、まだましだ。


 十五回を三セット終えたところで、悠斗は床に座り込んだ。閉めきった部屋の空気はぬるく、汗の匂いと洗濯物の柔軟剤の匂いが混じっている。


 スマホが震えた。


 画面を見る。


 通知は、通販アプリのセール情報だった。


 胸の奥に浮かびかけた期待が、何でもなかったふりをして沈む。


 誰かから連絡がほしいわけではない。


 そう思っている。


 でも、誰からも来ないことを確認するたび、自分がどこにも所属していないのだと、律儀に思い知らされる。


 悠斗はスマホを裏返して、床に置いた。


     * 1 *


 高校一年の夏前、悠斗はクラスメイトをかばった。


 たいした正義感があったわけではない。


 ただ、見ていられなかった。


 昼休みの教室で、机に落書きをされていた男子がいた。消しても消しても、翌日には増えていた。


 キモい。


 空気読め。


 いなくなれば。


 そういう言葉が、油性ペンで机に書かれていた。


 悠斗はその日、たまたま雑巾を持っていた。たまたま教室に残っていた。たまたま、その男子が唇を噛んでいるのを見てしまった。


 だから言った。


「やめろよ」


 たったそれだけだった。


 言った瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。


 誰かが笑った。


 誰かが「なに、正義マン?」と言った。


 そこから先は、ゆっくりと崩れていった。


 最初は視線だった。


 次に、机の中のプリントがなくなった。


 体育の更衣室で、制服の袖が濡れていた。


 靴箱に紙くずが詰められていた。


 机に書かれる言葉は、いつのまにか悠斗のものになった。


 消しても消しても、翌日には増えていた。


 担任に呼ばれた日、悠斗はまだどこかで信じていた。


 あの時かばった相手が、本当のことを言ってくれるはずだと。


 けれど職員室の隅で、そのクラスメイトは顔を伏せ、震えた声で言った。


「……白峰くんが、勝手にやったんです」


 悠斗は、うまく息ができなかった。


 そのあと彼が何を言ったのか、担任がどんな顔をしていたのか、細かいところは覚えていない。ただ、床のワックスの匂いだけが妙にはっきり残っている。


 人を助けること。


 人を信じること。


 それが怖くなった。


 怖くなった自分を、いちばん許せなかった。


     * 2 *


 階段を下りると、台所から味噌汁の匂いがした。


「悠斗、起きたのね」


 母の春香はるかが、振り返って笑った。責めるでもなく、驚くでもなく、ただいつも通りの声だった。


「うん」


「ごはん、食べられる?」


「少し」


「じゃあ、卵焼きも少しね」


 少しと言ったのに、皿には普通の量がのる。春香の「少し」は、いつも悠斗の申告より一段階多い。


 ありがたいと思う。


 それが、少し苦しい。


 テーブルにつくと、向かいで妹の莉央りおがスマホを片手に牛乳を飲んでいた。中学三年生。家族の中でいちばん空気を読むくせに、空気を読んでいないふりがうまい。


 莉央は悠斗を見るなり、にやっとした。


「お兄、今日も筋トレだけはガチじゃん。そこだけ体育会系なのウケる」


「うるさい」


「いや、褒めてる。引きこもり界のフィジカル担当」


「担当とかないだろ」


「じゃあ、家内警備と筋肉の二刀流」


「増やすな」


 春香が小さく笑った。


 悠斗も、ほんの少しだけ口元が緩む。


 莉央の軽口は、ときどき雑だ。けれど、変に気を遣われるよりずっと楽だった。腫れ物に触るようにされると、自分が本当に壊れ物になった気がしてしまう。


「学校からプリント来てたわよ」


 春香が、買い物のメモを渡すような声で言った。


 その普通さに、悠斗は救われたり、逃げ場をなくしたりする。


「……あとで見る」


「うん。急がなくていいけど、必要なものだけ確認しておいてね」


 学校から何が出されているのかも、悠斗は知らなかった。


 そもそも今、自分が学校の時間割の中でどこにいるのか分からない。高二の夏、と言われればそうなのだろう。だが悠斗の中では、まだ高一のあの日から教室のドアが閉まったままだ。


 テレビでは、昼のニュースが流れていた。


 猛暑。交通情報。どこかの祭りの準備。


 世界は普通に進んでいる。


 進んでいないのは、自分だけだ。


     * 3 *


 夜、父の直人なおとが帰ってきた。


 白峰直人は、出版社で歴史関係の本に関わる仕事をしている。歴史学者ではないが、妙なところで知識が深く、夕食中に突然、戦国武将の兵站へいたんの話を始めて春香に止められることがある。


 その日は珍しく、食後に悠斗だけがリビングへ残った。


 莉央は風呂へ行き、春香は台所で食器を洗っている。


 直人は湯呑みを両手で包み、しばらく黙っていた。押しつけるような沈黙ではなく、言葉を選んでいる沈黙だった。


「悠斗」


「なに」


「来年は十八になるし、そろそろ将来のことを考えた方がいいのかもしれない」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 来た。


 そう思った。


 学校はどうするんだ。進級は。受験は。通信制は。働くのか。何か始めるのか。


 頭の中で、言われてもいない言葉が勝手に並ぶ。


 けれど直人は、湯呑みを置いて、続けた。


「けれど、無理に答えを出す必要はない」


 悠斗は顔を上げた。


「ただな」


 直人は少しだけ困ったように笑った。


「何か、夢中になれるものを探してごらん」


「夢中に、なれるもの」


「そうだ。役に立つとか、将来につながるとか、最初から考えなくていい。人はな、何かを本気で面白がっている時だけ、少し遠くまで歩ける」


「……そんなの、急に言われても」


「急がなくていい。明日見つけろとも言わない。ただ、部屋の中にいても、本の中なら遠くへ行ける。画面の向こうでもいい。何か一つ、これは何だろうと思えるものがあれば、それでいい」


 説教ではなかった。


 励ましというには、静かすぎた。


 だからこそ、悠斗の中に小さく引っかかった。


「父さんは、あるの」


「夢中になれるものか?」


「うん」


 直人は少し考えた。


「あるな。多すぎて、母さんに本棚を増やすなと怒られる」


 台所から春香の声が飛んだ。


「今も怒ってます」


「ほらな」


 直人が真顔で言うので、悠斗は思わず笑ってしまった。


 笑ったあとで、自分が笑えたことに少し驚いた。


 直人はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、湯呑みを持ち上げた。


「悠斗。止まっている時間を、無理に押し流そうとしなくていい。ただ、どこかに小さな穴が開けば、水は勝手に動く」


「……うん」


 悠斗は短く答えた。


 その言葉を、まだ信じられたわけではない。


 けれど、完全に聞き流すこともできなかった。


     * 4 *


 部屋に戻ると、カーテンの隙間から月明かりが差していた。


 昼間の熱が、まだ壁に残っている。エアコンのリモコンを探しながら、悠斗は机の上のプリントに目を留めた。


 学校から送られてきたものだ。


 進路希望調査。


 補習日程。


 夏の連絡事項。


 見るだけで、胸の奥がざらつく。


 悠斗はそれらを端へ寄せようとして、下に挟まっていた日本史の資料集を見つけた。


 入学した時に配られたまま、ほとんど開いていない本だった。


 何となく、手に取る。


 何か、夢中になれるものを探してごらん。


 父の声が、耳の奥に残っていた。


「……本の中なら、遠くへ行ける、か」


 悠斗は苦笑した。


 自分がそんな前向きな言葉に動かされる人間だとは思っていない。思っていないのに、指は資料集のページをめくっていた。


 縄文時代。


 弥生時代。


 稲作。銅鐸どうたく環濠集落かんごうしゅうらく


 眠気を誘う単語が並ぶ中で、ふと一つの見出しが目に入った。


 邪馬台国やまたいこく


 指が止まる。


 ページには、卑弥呼ひみこの名と、魏志倭人伝ぎしわじんでんの説明が載っていた。横には小さな地図があり、九州説、畿内きない説という文字が並んでいる。


 確かに記録にはある。


 でも、どこにあったのか分からない。


 誰もが名前を知っているのに、誰もその居場所を確かめられない国。


 悠斗は、しばらくそのページを見つめていた。


 自分は、たしかに教室にいた。


 席もあった。名前もあった。出席番号も、ロッカーも、下駄箱もあった。


 なのに今は、そこから消えている。


 消えたかったわけではない。


 消された、と言い切るほど強くもない。


 ただ、気づいたら自分の場所が分からなくなっていた。


「邪馬台国は、どこへ消えたのか」


 声に出してみる。


 教科書の中の問いは、思ったより冷たくなかった。


 むしろ、暗い部屋の隅で膝を抱えている誰かに、そっと肩を貸すような響きがあった。


 悠斗は机の引き出しを開け、使っていないノートを取り出した。表紙は無地で、まだ一文字も書かれていない。


 ペンを握る。


 何を書くべきか、少し迷った。


 それから、表紙の一行目にこう書いた。


 個人的調査ノート。


 邪馬台国はどこへ消えたのか。


 白峰悠斗。


 書いてしまうと、少しだけ恥ずかしかった。


 誰かに見られたら、たぶん莉央あたりに「急に探偵じゃん」と笑われる。


 それでも、ノートを閉じる気にはならなかった。


 悠斗はもう一度、資料集のページに目を落とす。


 邪馬台国。


 閉じたカーテンの向こうで、夏の夜が静かに更けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ