第9話 天叢機関
闇に沈んだ家の中で、扉の向こうの声だけが整っていた。
「内閣時空災害対策室です。確認したい事項があります。開けていただけますか」
悠斗の袖を握る美耶の指が、強くなる。
玲奈が低く言った。
「あれは確認ではありません。確保の前置きです」
悠斗の背中に冷たいものが走った。
「確保って……美耶を?」
「はい。天叢機関は、美耶様を陽巫女として、人として扱いません」
玲奈の声は低い。
「扉を開くための鍵として扱います」
美耶が胸元の天岩戸八咫鏡を押さえた。
悠斗は、玄関の方を睨む。
美耶を鍵と呼ぶ者たちが、すぐそこにいる。
そう思っただけで、胸の奥に熱が生まれた。怖さではない。怒りだった。
「話し合いは」
悠斗が言いかけると、宗一郎が短く答えた。
「四十年前に済ませた」
その声には、諦めではなく、苦い確信があった。
「無駄じゃ」
扉の向こうから、もう一度声がした。
「御影宗一郎さん。中にいらっしゃることは確認しています。応答をお願いします」
名前を呼ばれた。
悠斗は息をのむ。
もう、偶然ではない。
相手はここに宗一郎がいることを知っている。美耶がいる可能性も、きっと掴んでいる。
「裏口へ」
玲奈が言った。
「私の車を裏手の路地に回しています。今なら、まだ表の班が正面確認に集中しています」
「今なら、という言い方が気に入らんのう」
宗一郎が小さく言う。
「ですが、今しかありません」
玲奈は言い切った。
宗一郎は一瞬だけ机のある書斎を見た。
山のような資料。四十年かけて集めてきた紙束。地図。写真。手帳。
悠斗にも分かった。
宗一郎にとって、あれはただの紙ではない。
四十年そのものだ。
「先生」
「分かっておる」
宗一郎は目を伏せた。
「命あっての資料じゃ」
そう言って、すぐに押し入れの方へ向かう。
迷いは、もう表に出さなかった。
* 1 *
宗一郎が取り出したのは、古い紺色の上着だった。
「美耶さん、これを羽織りなさい。その白い衣のままでは目立ちすぎる」
「あ、はい」
美耶は受け取った上着を両手で持ち、困ったように見下ろした。
袖の位置が分からないらしい。
こんな時なのに、悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
怖がっているのに、真面目に上着と向き合っている。その姿が、妙に胸に刺さる。
「こっち」
悠斗は声を落として、片方の袖を広げた。
「腕を通して」
「腕を……こちらですか」
「うん」
美耶が、おずおずと袖に腕を入れる。
反対側の袖で少し迷い、悠斗の方を見る。
「……こちらで、合っていますか」
「合ってる」
悠斗はできるだけ普通に答えた。
普通に。
それが難しい。
美耶の白い衣の上に、現代の古い上着が重なる。似合っているとは言い難い。けれど、少しだけ今の世界に隠れられたように見えた。
玲奈が自分のバッグから銀色の袋を取り出す。
「白峰さん。携帯電話を」
「スマホ?」
「位置情報で追跡される可能性があります。電源を切るだけでは不十分です」
悠斗は反射的にポケットを押さえた。
スマホ。
家族と繋がるもの。今の自分の場所を、白峰家に伝えられる唯一のもの。
手放したくない。
だが、外には天叢機関がいる。
迷っている時間はなかった。
「……分かりました」
悠斗はスマホを渡した。
玲奈はそれを遮断袋に入れ、口を折り込む。
「戻せますか」
「必ず」
「信じていいんですか」
「今は、疑ったままで構いません」
相変わらず、玲奈は正直だった。
宗一郎が古い鞄に最低限の資料だけを詰める。手帳、数枚の地図、鍵束。机の上に残された紙束には、もう手を伸ばさなかった。
外で、玄関の取っ手が静かに鳴った。
一度。
それだけで、美耶が息を止める。
「応答がない場合、安全確認のため立ち入ります」
扉の向こうの声は、どこまでも丁寧だった。
丁寧なまま、踏み込んでくる。
「行くぞ」
宗一郎が言った。
* 2 *
裏口は、台所の奥にあった。
古い勝手口の鍵を回す音が、やけに大きく聞こえる。宗一郎は一度手を止め、外の気配を探った。
何も聞こえない。
それが逆に不気味だった。
玲奈が先に外へ出る。
黒いスーツが闇に溶ける。彼女は周囲を素早く確認し、小さく手で合図した。
「今です」
宗一郎が続く。
悠斗は美耶の手を取った。
袖ではなく、手。
美耶が一瞬だけ驚いたようにこちらを見る。
「ごめん。走るかもしれないから」
「はい」
小さな返事。
けれど、美耶の指はすぐに悠斗の手を握り返した。
夏の夜の空気が肌に触れる。
家の中よりも外の方が広いはずなのに、悠斗には逆に狭く感じられた。どこに誰がいるか分からない。塀の向こう、電柱の影、止まった車の奥。何もかもが隠れ場所に見える。
裏庭を抜けると、細い路地に出た。
住宅街の裏側。物置、ブロック塀、室外機、古い自転車。
ふだんなら何でもない場所が、今は逃げ道になっている。
「足元に気をつけてください」
玲奈が低く言う。
美耶は上着の裾を押さえながら、必死についてくる。慣れない靴ではない。白い衣のままの足元に、宗一郎が出した古いサンダルを履いただけだった。
走りにくいに決まっている。
「美耶、大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
そう答えた直後、彼女の足が小さな段差に引っかかった。
悠斗は反射的に支える。
「ごめん、ゆっくりでいい」
「いいえ。急がないと」
美耶は息を整え、もう一度歩き出す。
怖いはずだ。
現代の夜道も、知らない組織も、外にいる男たちも。
それでも、美耶は止まらない。
悠斗は握る手に少しだけ力を込めた。
少しでも支えになればいいと思った。
路地の先に、車が一台停まっていた。
黒ではない。濃い灰色のワゴン車。目立たない、どこにでもありそうな車だった。
だが、美耶はそれを見た瞬間、足を止めた。
「あれは……」
「車」
悠斗は先回りして言った。
「さっき話したやつ。鉄の獣じゃない」
「鉄の獣……ではないのですね」
「うん。味方の車」
「味方の……車」
美耶は真剣に繰り返した。
こんな時なのに、少しだけかわいいと思ってしまう。
悠斗は首を振りたくなった。
今はそれどころではない。
玲奈が運転席側へ回る。
「後部座席へ。美耶様は中央に。白峰さんは隣へ」
「先生は」
「わしも乗る。置いていかれたら、四十年分の文句を言えんからな」
宗一郎が鞄を抱えて乗り込もうとした、その時だった。
表通りの方から、短い声が飛んだ。
「裏手に動きあり」
玲奈の表情が変わる。
「見つかりました」
次の瞬間、路地の向こうに人影が現れた。
黒い服の男が二人。
警察官には見えない。だが、ただの不審者でもない。動きに無駄がなかった。
「止まってください」
男の一人が言った。
「安全確認のため、同行をお願いします」
「確認ばかりじゃな」
宗一郎が低く吐き捨てる。
玲奈は車のドアを開けたまま、男たちを見た。
「対象は八咫烏が保護します」
その言葉に、男たちの空気が変わった。
「八咫烏」
片方が短く繰り返す。
「介入を確認」
男が耳元の通信機に触れた。
「対象付近に八咫烏関係者。陽巫女と思われる少女、御影宗一郎、未成年男性一名を確認」
美耶が震えた。
陽巫女と思われる少女。
名前ではない。
やはり、この人たちにとって美耶は「美耶」ではないのだ。
悠斗は美耶を背に隠すように立った。
「乗って!」
玲奈が初めて声を強めた。
悠斗は美耶を押し込むように後部座席へ乗せ、自分も続いた。宗一郎が鞄を投げ込む。玲奈が運転席へ滑り込む。
男が走り出した。
車のエンジンがかかる。
美耶が両手で座席をつかんだ。
「動きます」
悠斗が言う。
「少し揺れるけど、大丈夫。僕がいる」
美耶は何も言わず、悠斗の袖を握った。
ワゴン車が路地を滑り出す。
直後、後ろで鈍い音がした。
男が車体を叩いたのだ。
「止まれ!」
今度は命令だった。
玲奈は止まらない。
狭い路地を抜け、住宅街の裏道へ入る。ヘッドライトを最小限に落としたまま、車は闇の中を進んだ。
「危なくないんですか」
悠斗が言う。
「危ないです」
玲奈は前を見たまま答えた。
「ですが、止まる方が危険です」
その答えに、悠斗は何も言えなくなった。
* 3 *
少し離れた表通りに、黒い車が二台停まっていた。
その一台のそばに、加賀見迅也は立っていた。
細身の男だった。
無駄のないスーツ。乱れのない髪。感情を表に出さない目。
住宅街の夜にいるには、あまりに浮いている。
だが本人は、そこがどこであろうと同じように立っていた。廊下でも、会議室でも、現場でも、変わらない男だった。
「裏手より対象離脱」
部下の声が通信機から届く。
「八咫烏関係者の介入を確認。女が一名、対象と御影宗一郎を支援しています」
加賀見の眉が、ほんのわずかに動いた。
「八咫烏か」
その声に、感情はない。
だが、部下たちはそのわずかな変化を聞き逃さなかった。
「追跡班を回せ」
「了解」
「ただし、周辺住民に騒ぎを見せるな。ここは住宅街だ」
「対象の確保優先では」
「優先だ」
加賀見は静かに言った。
「だが、騒ぎを残せば後処理が増える。九条局長は、そういう雑な仕事を好まれない」
通信の向こうで、部下が短く返事をした。
加賀見は、御影宗一郎の家を見た。
玄関は閉じられている。
中に踏み込めば、おそらく空だろう。
だが、それでいい。
相手は動いた。
動けば、痕跡が増える。
「陽巫女、御影宗一郎、未成年男性。そして八咫烏」
加賀見は淡々と整理する。
「四十年前より、状況は面倒になったな」
それでも、焦りはない。
むしろ、面倒な駒が盤上に出揃ったことを確認するような声だった。
「支援者の特定は後でいい。まずは陽巫女を追え。八咫烏の動線だけ記録しておけ」
「了解しました」
「陽巫女は生かしたまま確保する。鏡もだ」
一拍置く。
「その他は、抵抗次第で処理しろ」
その言葉は、ひどく静かだった。
人の人生を分ける命令とは思えないほどに。
加賀見は黒い車に乗り込む。
ドアが閉まる直前、もう一度だけ御影家を見た。
「逃げられると思うな」
呟きは、夜に吸い込まれた。
* 4 *
玲奈の車は、住宅街を離れようとしていた。
美耶は座席の上で小さくなり、悠斗の袖を握っている。車が曲がるたびに身体が傾き、そのたびに息を詰めていた。
「大丈夫?」
「はい。ですが、悠斗の世界は……普通がとても速いのですね」
「今はたぶん、普通より速い」
「そうなのですか」
美耶は真剣に受け止めた。
悠斗は少しだけ笑いそうになり、すぐに口を結んだ。
笑っている場合ではない。
後ろを振り返ると、遠くにヘッドライトが見えた。
一台。
いや、二台。
「追ってきてます」
「分かっています」
玲奈はハンドルを握ったまま答えた。
「振り切れるんですか」
「振り切ります」
「言い切るんですね」
「言い切らなければ、不安になるでしょう」
その返しに、悠斗は一瞬だけ黙った。
信用はできない。
でも、少なくとも玲奈は今、逃がそうとしている。
美耶を天叢機関に渡さないために動いている。
それだけは、今のところ本当だった。
宗一郎が助手席で鞄を抱え直す。
「玲奈くん」
「はい」
「行き先は本当に安全なんじゃろうな」
「安全と言い切れる場所はありません」
「正直すぎるのも困りものじゃ」
「ですが、今の御影先生の家よりは安全です」
宗一郎は苦く笑った。
「それはそうじゃな」
車は大きな通りへ出ず、細い道を選んで進んでいく。
悠斗には、どこへ向かっているのか分からない。
家から遠ざかっている。
それだけは分かった。
白峰家。
母の春香。
父の直人。
妹の莉央。
何も言わずに、また夜の中へ出てしまった。
スマホは遮断袋の中だ。
連絡もできない。
胸の奥がざわつく。
けれど、隣を見ると、美耶がいた。
知らない世界で、知らない車に揺られ、それでも必死に恐怖を飲み込んでいる少女。
悠斗は、目を伏せた。
今は、戻れない。
逃げなければならない。
美耶を一人にしないと決めたのは、自分だ。
車の後方で、追跡車のライトが一瞬だけ強くなった。
玲奈がハンドルを切る。
美耶の身体が傾く。
悠斗は咄嗟に肩を支えた。
「す、すみません」
「謝らなくていい」
美耶は小さくうなずき、袖を握る指に力を込めた。
「悠斗」
「なに」
「私は、足手まといになっていませんか」
その言葉に、悠斗は胸が痛くなった。
「なってない」
「でも」
「なってない」
二度目は、少し強く言った。
美耶が驚いたように目を上げる。
「美耶がいるから、僕は逃げてるんじゃない。美耶を連れていかせたくないから、逃げてるんだ」
言ってから、悠斗は顔が熱くなるのを感じた。
また、思ったことがそのまま出た。
美耶はしばらく瞬きをしていた。
それから、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……はい」
その声は、さっきよりも少しだけ落ち着いていた。
車は夜の道を走る。
後ろから迫るライトは、まだ消えない。
それでも、悠斗は袖を握る美耶の手を、今度は自分からそっと握り返した。
逃亡は、もう始まっていた。




