第10話 夏の逃亡
追跡車のライトが見えなくなったのは、住宅街を抜けてしばらくしてからだった。
それでも、車内の空気は緩まなかった。
神代玲奈は大通りを避け、細い道を縫うように車を走らせている。悠斗には、どこを走っているのか分からない。自分の住む町のはずなのに、夜の道は知らない迷路のようだった。
隣では、美耶が悠斗の袖を握っている。
光の中から現れた少女を隣に乗せ、秘密機関に追われ、見知らぬ女の運転する車で夜道を走っている。
現実感はなかった。
けれど、袖をつかむ指の震えだけは、はっきりと本物だった。
「白峰さん」
玲奈が言った。
「後ろを見すぎないでください。美耶様が不安になります」
悠斗ははっとして美耶を見る。
美耶は、窓の外ではなく悠斗の顔を見ていた。怖がっている。それでも、悠斗が振り返るたびに、自分も後ろを見そうになるのを我慢していたのだと分かった。
「ごめん」
「いえ」
美耶は小さく首を振った。
「私も、気になります。でも、悠斗が見てくださっているので」
「僕が見ても、何かできるわけじゃないけど」
「それでも、です」
そう言って、美耶は袖を握る指に少しだけ力を込めた。
悠斗は返事に詰まった。
助手席で、御影宗一郎が低く息を吐く。
「まったく、若い者は非常時でも忙しいのう」
「先生」
「何も言っとらん」
「言いましたよね」
「年寄りの独り言じゃ」
宗一郎は前を見たまま言った。
美耶が少しだけ不思議そうに二人を見る。
その小さな間が、車内の張りついた空気をわずかにほどいた。
* 1 *
玲奈は何度も道を変えた。
大きな通りを避け、暗い住宅地を抜け、コンビニの明かりが見えた手前でまた曲がる。しばらく走ると、後ろのライトは見えなくなった。
「撒いたんですか」
「一時的には」
玲奈は短く答える。
「ですが、車両そのものを追跡される可能性があります。長くは使えません」
「じゃあ、どこに向かってるんですか」
「安全な場所です」
「またそれですか」
悠斗は思わず声を強めた。
「こっちは何も分からないまま連れていかれてるんです。美耶だって怖がってる。せめて、どこへ行くのかくらい教えてください」
玲奈はすぐには答えなかった。
沈黙が少しだけ続く。
「港の近くに、古い倉庫があります」
「倉庫?」
「表向きは、神代グループ系列会社が保有する保管施設です。今夜だけなら身を隠せます」
神代グループ。
その言葉に、宗一郎の反応が変わった。
「神代グループと言ったか」
「はい」
「神代海洋開発の神代かね」
玲奈は、わずかに間を置いた。
「その神代です」
宗一郎の目が細くなる。
「海運、港湾物流、海洋資源調査。ついでに文化財保護と古代航路研究にも手を出しておる、あの神代家か」
「よくご存じですね」
「邪馬台国を四十年調べておれば、海の古代史に金を出している家の名前くらい目につく」
宗一郎の声は硬かった。
「まさか、その神代家が八咫烏の財布だったとはのう」
「財布だけではありません」
玲奈は言った。
「神代家は、八咫烏の一部です」
悠斗は、玲奈を見る。
「じゃあ、あなたはその神代家の人間なんですか」
「はい」
「それ、天叢機関には知られてないんですよね」
「少なくとも、確証は掴まれていないはずです」
「はず?」
「完全に安全な秘密などありません」
玲奈は淡々と言う。
「だから、私の名前や神代家との接続を、現場で不用意に出させるわけにはいきません。今夜、彼らが認識したのは八咫烏の介入までです」
悠斗は、少しだけ黙った。
さっきまで玲奈を疑っていた。
今も、信用したわけではない。
でも、その言い方には筋が通っていた。
「天叢機関は、八咫烏の存在を知ってるんですよね」
「はい。ですが、八咫烏の全体像までは掴んでいません。掴まれていれば、私たちは今ここにいません」
「解体されてる、ということか」
宗一郎が言った。
「その通りです」
玲奈はうなずいた。
「彼らは国家組織です。行政、警察、監視網、記録の改竄。使える手段が違います。八咫烏は、存在そのものを曖昧にし続けることで残ってきました」
「つまり、信用できる姿を見せられん組織ということじゃな」
「そうです」
玲奈は否定しない。
「私たちは、疑われる形でしか現れられません」
車内が静かになった。
美耶はその会話を聞きながら、胸元の鏡を押さえている。
悠斗は気づいた。
美耶は玲奈を見ている。
怖がってはいるが、目をそらしてはいない。
「美耶」
「はい」
「大丈夫?」
「……分かりません」
正直な答えだった。
「神代様の話は、難しいです。八咫烏も、天叢機関も、まだよく分かりません」
美耶は少しだけ視線を落とす。
「でも、私を無理に連れていこうとはしませんでした」
それから、悠斗の袖を見た。
「悠斗と一緒でよいと、言ってくださいました」
「それだけで信用するのは危ないよ」
「はい。分かっています」
美耶は素直にうなずいた。
「でも、私は今、それが少しだけ嬉しかったのです」
胸の奥が、また妙に熱くなった。
悠斗は窓の外へ目を向ける。
夜の道が流れていく。
何も考えずに美耶の方を見ていたら、何か余計なことを言ってしまいそうだった。
* 2 *
車は町の中心から離れていった。
住宅街が途切れ、倉庫や工場の影が増える。遠くから、低い機械音が聞こえ始めた。潮の匂いもする。
「海の近くですか」
悠斗が聞く。
「はい。港湾地区の外れです」
美耶が窓の外を見る。
「港……ですか」
「海のそばに、船とか荷物を置く場所があるんだ」
「船」
美耶の声が少しだけ変わった。
「邪馬台国にも、船はあります。大きな川や海へ出る者たちが使います」
「じゃあ、港は少し分かる?」
「はい。でも、悠斗の世界の港は……きっと、とても大きいのでしょうね」
「たぶん、美耶が想像してるより大きい」
車が角を曲がる。
その先に、巨大な箱のようなものがいくつも並んでいた。
コンテナだった。
美耶が目を見開く。
「あれは、家ですか」
「荷物を入れる箱、かな」
「あの大きさで、箱なのですか」
「うん」
「悠斗の世界は、箱まで大きいのですね」
真剣な声だった。
宗一郎が肩を震わせる。
「笑ってませんか、先生」
「いや、箱まで大きい世界とは良い表現じゃと思ってな」
美耶が不安そうに悠斗を見る。
「変でしたか」
「変じゃない。たぶん、すごく正しい」
「そうなのですか」
美耶は少し安心したようにうなずいた。
その顔を見て、悠斗も少しだけ息をつけた。
逃亡中だ。
追われている。
でも、美耶がこうして驚くたび、この世界を怖いだけの場所にしたくないと思う。
車は港湾地区の外れにある古い倉庫の前で止まった。
錆びたシャッター。
剥がれかけた会社名の看板。
ひび割れたアスファルト。
表から見れば、使われていない倉庫にしか見えない。
玲奈は車を建物の横へ入れ、エンジンを切った。
「降ります。足元に気をつけてください」
外へ出た瞬間、潮の匂いが強くなった。
夜風が吹き、美耶が上着の襟を押さえる。
「寒い?」
「少しだけです」
「中に入ろう」
「はい」
玲奈が暗証番号を押すと、倉庫の小さな扉が開いた。
中は薄暗い。
けれど、思ったよりも整理されていた。折りたたみ式の机、簡易ベッド、段ボール、飲料水の箱。奥には発電機らしきものもある。
「一時退避用の施設です」
玲奈が説明する。
「長くは使えませんが、今夜はここで休めます」
「休めます、か」
宗一郎が鞄を置きながら言った。
「年寄りにはありがたい言葉じゃが、休める気はせんのう」
「見張りはこちらでします」
「こちらで、とは誰じゃ。君一人ではあるまい」
玲奈は少しだけ黙った。
「周辺に協力者がいます。ただし、詳しくは話せません」
「話せないことばかりじゃな」
「はい」
また否定しない。
宗一郎は呆れたように息を吐いた。
「まあよい。今夜は、君の話せない事情に命を預けるしかなさそうじゃ」
「ありがとうございます」
「礼を言うところではない」
玲奈は少しだけ頭を下げた。
悠斗は、美耶を簡易ベッドのそばへ連れていく。
「座って」
「でも、悠斗は」
「僕は大丈夫」
言ってから、悠斗は少しだけ苦笑した。
また大丈夫と言っている。
美耶もそれに気づいたのか、ほんの少しだけ目を細めた。
「悠斗は、よく大丈夫と言います」
「そうかも」
「本当に大丈夫ですか」
「……今は、あんまり」
正直に言うと、美耶は少し驚いた。
それから、なぜかほっとしたように微笑んだ。
「それなら、私と同じです」
その言葉が、胸に残った。
同じ。
怖いのは、自分だけではない。
強がっているのも、自分だけではない。
悠斗は簡易ベッドの横に腰を下ろした。
* 3 *
玲奈は入口近くで端末を開き、何かを確認していた。
宗一郎はその横に立ち、腕を組んでいる。
「玲奈くん」
「はい」
「君ら八咫烏は、本当に美耶さんを守る側なのか」
玲奈の指が止まった。
少しだけ、空気が変わる。
「今夜は、そこまで話せません」
「またそれか」
「はい」
玲奈は否定しなかった。
「ですが、隠したいからではありません。まだ、あなた方に判断材料を渡しきれていないからです」
悠斗は黙って聞いていた。
さっき玲奈に抱いた違和感が、また胸の中に戻ってくる。
天叢機関とは違う。
でも、完全に美耶の味方とも言い切れない。
「美耶の意思は、ちゃんと聞くんですか」
悠斗は聞いた。
玲奈は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、不安は消えなかった。
「今は、その問いに十分な答えを返せません」
「それって、逃げてますよね」
「はい」
玲奈はまっすぐ答えた。
「今の質問には、逃げました」
悠斗は言葉に詰まる。
腹は立つ。
でも、嘘をつかれたわけではない。
「ただ、天叢機関に渡せば、美耶様が自分で選ぶ余地さえ奪われます」
玲奈は美耶を見た。
「だから今は、奪われない場所まで逃がす。それが私の判断です」
美耶は静かに聞いていた。
そして、小さくうなずく。
「私は、逃げるつもりはありません」
細い声だった。
「邪馬台国には、帰らなければなりません。母も、父も、祖母も、みんな待っています」
「美耶」
「でも」
美耶は悠斗を見る。
「今は、少しだけ休みたいです」
それは、初めて聞く弱音だった。
悠斗はすぐにうなずいた。
「休もう」
「はい」
美耶は簡易ベッドに腰を下ろし、上着を握ったままゆっくり横になった。
眠るつもりはないのだろう。
それでも、身体は限界に近かった。
転移して、神器の話を聞き、家族と国の話をして、追われて、車で逃げた。
無理もない。
玲奈が照明を少し落とす。
倉庫の中が、薄い闇に沈んだ。
* 4 *
どれくらい時間が経ったのか、悠斗には分からなかった。
外では遠くの港の機械音が鳴っている。
宗一郎は机に広げた地図を見ている。
玲奈は入口近くで見張りを続けている。
悠斗は、美耶のそばに座っていた。
眠る美耶は、さっきより幼く見えた。
胸元の鏡を片手で押さえ、もう片方の手は布団の端を握っている。
不安が、眠っても消えていないのだと思った。
悠斗は、自分の手を見る。
まだ震えていた。
逃げ切れたわけではない。
明日になれば、また追われるかもしれない。
家族には何も伝えられていない。
白峰家では、今ごろ自分の部屋が空になっている。
母は心配しているだろうか。
父は何かに気づくだろうか。
莉央は、怒るだろうか。
胸が痛む。
戻りたい。
そう思わないわけではない。
でも、隣で眠る美耶を見ると、戻るという言葉が簡単には出てこなかった。
「……悠斗」
小さな声がした。
美耶の目は閉じたままだった。
寝言だと分かるまで、一瞬かかった。
悠斗は息を止める。
美耶は、眠ったままもう一度、ほんのかすかに呼んだ。
「悠斗……」
胸の奥が、静かに締めつけられる。
逃げ出せない。
そう思った。
義務だからではない。
使命だからでもない。
美耶が自分の名前を呼んだ。
それだけで、もう逃げ出せなくなっていた。
悠斗は声を落とす。
「いるよ」
美耶の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
その変化を見て、悠斗は夜の倉庫の中で静かに息を吐いた。
外では、港の音が低く響いている。
日常は、もう遠い。
けれど、袖をつかむ少女のそばにいることだけは、今の悠斗にとって確かな現実だった。
逃亡は、始まったばかりだった。




