第11話 八咫烏
港の朝は、思っていたよりも早く来た。
倉庫の高い窓の向こうが、鉛色から薄い青へ変わっていく。海から吹き込む風は湿っていて、鉄と潮と、少しだけ油の匂いがした。どこか遠くで船の汽笛が鳴るたび、眠りの浅い悠斗の体はびくりと反応した。
美耶は、まだ簡易ベッドの上にいた。
昨夜、眠りに落ちる直前まで、彼女は天岩戸八咫鏡を胸に抱えていた。今もその手は鏡を離していない。細い指に力が入りすぎて、白くなっている。
悠斗は床に敷いた毛布の上から、そっと身を起こした。
ほとんど眠れていない。けれど、それは悠斗だけではない。美耶も同じだろう。まぶたの下に薄い影が落ちていて、寝息も何度か途切れていた。
その美耶のまつげが、小さく震えた。
「……悠斗」
目を開けた彼女が、最初に悠斗の名前を呼んだ。
「いるよ」
昨夜と同じ返事をすると、美耶は一瞬だけ安心したように息を吐いた。それから、慌てて体を起こそうとして、鏡を抱え直す。
「す、すみません。私、眠ってしまって」
「謝ることじゃないよ。少しは眠れた?」
「少し、だけです」
美耶は正直に言ってから、頬をかすかに赤くした。
「で、でも、悠斗が近くにいてくださったので、大丈夫でした」
言われた瞬間、悠斗の胸の奥が変に熱くなった。
こんな状況で、照れている場合ではない。分かっている。分かっているのに、美耶の言葉は、昨日からずっと張りつめていた心の硬い部分に、そっと手を置いてくる。
「それなら、よかった」
悠斗はそれだけを返した。
上手いことなど言えない。けれど、いなくならないことだけはできる。今の悠斗には、そのくらいしか差し出せるものがなかった。
倉庫の奥で、古い椅子がきしんだ。御影宗一郎が、寝袋から半身を起こしている。髪は少し乱れていたが、目だけは妙に冴えていた。
「若い者の朝は、まぶしいのう」
「先生、起きてたんですか」
「年寄りは眠りが浅い。あと、床が硬い」
宗一郎は腰をさすりながら立ち上がり、倉庫のシャッターの隙間から外を覗いた。表情はすぐに、いつもの軽さを失う。
「追っ手は?」
「今のところ、近くにはいません」
答えたのは、神代玲奈だった。
いつ戻ってきたのか、入口脇に立っている。黒いジャケットの肩に朝の湿気をまとい、片手には紙袋、もう片方には小型の端末を持っていた。
「昨夜から見張りを交代で置いています。港湾道路、駅、主要な出入口。天叢機関の車両らしき動きは、まだ確認されていません」
「その見張りというのは、例の、顔も名前も出せん仲間かね」
「はい」
玲奈は、悪びれずに答えた。
宗一郎の眉間にしわが寄る。
「秘密組織というのは、どいつもこいつも説明が遅い」
「その点については、昨夜、説明を後回しにしたことを謝罪します」
玲奈は紙袋を簡易テーブルの上に置いた。
「まずは朝食を。話は、そのあとで」
紙袋の中には、コンビニのおにぎりとサンドイッチ、ペットボトルのお茶が入っていた。悠斗にとっては見慣れたものだ。でも、美耶はテーブルの上を見つめたまま、目を丸くしている。
「……これは、食べ物なのですか」
「うん。おにぎり」
「透明な衣に包まれています」
「袋だよ。開けるんだ」
悠斗は一つ手に取って、フィルムの番号を指で示した。
「ここを引いて、横を抜く」
簡単なはずだった。
けれど、美耶は祈るような顔で包装をつまみ、慎重に引いたあと、横のフィルムを抜こうとして海苔ごとずらしてしまった。
ぱり、と音がして、三角形だったはずのおにぎりが少し崩れる。
「……逃げました」
「海苔は逃げないよ」
「で、ですが、黒いものが外へ」
「それが海苔。食べられる」
美耶は半信半疑のまま、小さく口を開けた。白い米と黒い海苔を一緒に噛んだ瞬間、表情がふわりと変わる。
「……おいしいです」
その声があまりにも素直で、悠斗は思わず笑ってしまった。
美耶も、つられるように少し笑った。
たったそれだけのことだった。包装に戸惑って、おにぎりを食べて、笑う。昨日までの悠斗なら、何でもない朝の一部として見落としていたはずの時間。
でも今は、その何でもなさが、守らなければいけないものに思えた。
食事が一段落すると、玲奈は端末を伏せ、三人の正面に立った。
「昨夜の続きです。私が所属している組織について、正式に説明します」
倉庫の空気が、少し重くなる。
美耶は食べかけのおにぎりをそっと置き、鏡に手を添えた。宗一郎は腕を組む。悠斗も自然と背筋を伸ばしていた。
「私たちは、八咫烏と呼ばれています」
八咫烏。
その名前は、昨日も聞いた。けれど、改めて口にされると、ただの名称ではない重さがあった。
「政府機関ではありません。企業でも、宗教団体でもありません。邪馬台国を元の世界へ戻すため、現代まで続いてきた組織です」
「現代まで、ということは」
悠斗は思わず聞いた。
「最初からあったんですか。美耶の時代から」
「正確には、邪馬台国が陰の世界へ消えたあとです。最初の陽巫女、壱与様がこの時代へ残した約束を起点にしています」
壱与。
邪馬台国の王であり、初代の陽巫女。
その名前が出た瞬間、美耶の顔に影が差した。敬意と、寂しさと、まだ言葉にできない感情が混ざった表情だった。
「壱与様は、邪馬台国が陰の世界へ消えたあと、陽の世界へ渡り、いくつかの記録と願いを残しました。八咫烏はそれを受け継ぎ、神器に関する情報、陽巫女に関する伝承、陰の世界へ干渉する技術の痕跡を守ってきました」
「守ってきた、か」
宗一郎の声は低かった。
玲奈は逃げずに、その視線を受け止める。
「はい」
「なら聞かせてもらおう」
宗一郎は一歩前に出た。
倉庫の中で、その小さな足音だけが妙にはっきり響いた。
「美那は一人でこの世界へ来た。何も知らん若造のわしを頼るしかなかった。言葉も、暮らしも、時間の違いも、何もかもわからん世界でじゃ」
美耶が息を呑んだ。
美那。
美耶の祖母。四十年前、この世界へ来て、宗一郎と出会った人。
「君らが本当に陽巫女を守る組織なら、なぜあの子を一人にした」
宗一郎の声は怒鳴ってはいなかった。
だからこそ、深かった。
玲奈はしばらく沈黙した。それから、ほんの少しだけ頭を下げる。
「八咫烏の失態です」
「それで済む話か」
「済みません」
玲奈の答えは短かった。
言い訳をしない。けれど、それが宗一郎の怒りを消すわけでもない。
「当時、八咫烏内部でも情報が分断されていました。天叢機関の前身にあたる勢力が、私たちの監視網を崩していた。美那様が現代へ来られたことを正しく把握したときには、すでに接触が困難になっていました」
「困難、便利な言葉じゃのう」
「はい。便利な言葉です」
玲奈は表情を変えないまま、そう認めた。
「だから、私はそれを免罪符にはしません。美那様を守れなかったことは、八咫烏の負債です」
宗一郎の拳が、ゆっくりとほどけた。
怒りが消えたわけではない。ただ、相手が逃げないことだけは理解したのだと、悠斗には思えた。
悠斗は、玲奈を見た。
彼女は味方に見える。少なくとも、昨日の夜、悠斗たちを助けた。美耶に対しても、乱暴な言葉は使わない。敬意もある。
でも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
「神代さん」
「はい、白峰さん」
「八咫烏は、美耶を守るんですよね」
「守ります」
「でも、美耶を邪馬台国へ戻すための組織でもある」
「その通りです」
玲奈は一切迷わずに答えた。
だからこそ、悠斗はその先を聞かなければならなかった。
「でも、美耶が嫌だって言ったら?」
倉庫の空気が、止まった。
美耶が悠斗を見る。驚いたような、困ったような顔だった。
玲奈はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
悠斗の胃のあたりが、冷たくなる。
「……つまり、八咫烏にとっても、美耶は必要な存在なんですね」
「はい」
「人としてじゃなくて?」
「人としてです」
玲奈の声が、少しだけ強くなった。
「ただし、八咫烏は使命を持つ組織です。邪馬台国を救うこと。陰の世界の崩壊を止めること。そのために陽巫女様の力が必要であるという事実は、変えられません」
正直な言葉だった。
だから、怖かった。
天叢機関は、美耶を奪おうとした。八咫烏は、美耶を守ろうとしている。まったく違う。違うはずなのに、どちらの言葉の中にも「必要」という文字がある。
美耶が、静かに立ち上がった。
「悠斗」
呼ばれて、悠斗は我に返る。
美耶は小さな手で鏡を抱いたまま、まっすぐこちらを見ていた。
「私は、大丈夫です」
「でも」
「邪馬台国には、母も、父も、祖母もいます。民もいます」
一つずつ、確かめるように言う。
その声は震えていた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
美耶の視線が、ほんの一瞬だけ下がる。
その一瞬を、悠斗は見逃せなかった。
「この世界で目を覚ましてから、知らないものばかりでした。音も、灯りも、道も、人の流れも。昨日は、追われて、逃げて、私は何もできませんでした」
「そんなことない」
悠斗はすぐに言った。
「美耶は、ずっと耐えてた」
美耶の唇が、少しだけ動いた。
泣きそうなのをこらえるみたいに。
「でも、私が行かなければ、みんな消えてしまいます」
その言葉は、強かった。
強いのに、痛かった。
美耶は使命を選んでいる。だけど、その選択は自由な場所に立って選んだものではない。背後に消えてしまう国があって、家族がいて、民がいて、逃げ道をふさいでいる。
悠斗は、拳を握った。
美耶が行くと言うなら、止めることはできない。
でも、誰かが「それでいい」と簡単に片づけるのだけは、絶対に違う。
「わかった」
悠斗は言った。
「でも、美耶が怖いなら、怖いって言っていい。嫌なら、嫌って言っていい。使命があるからって、その気持ちまで消さなくていい」
美耶の目が、大きく揺れた。
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、たしかに届いた。
玲奈は、そのやり取りを黙って見ていた。やがて、端末を手に取り、画面をこちらへ向ける。そこには複雑な図と、いくつもの赤い点が表示されていた。
「天叢機関についても説明します」
さっきまでの空気が、また別の冷たさを帯びる。
「彼らは、表向きには存在しません。政治、企業、研究機関、古物市場。複数の組織に根を張り、陰の世界と神器を利用しようとしている集団です」
「利用?」
美耶の声がかすれる。
玲奈は一瞬だけ目を伏せた。
「彼らにとって陽巫女は、陰の世界への扉を開く鍵です」
悠斗の肩に力が入った。
「鍵って」
「生体鍵」
玲奈は、淡々と続けた。
「彼らはそう呼んでいます」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の頭の奥が熱くなった。
生体鍵。
人間に向けて使っていい言葉じゃない。
美耶の指が、鏡を握りしめる。白くなった指先を見て、悠斗は一歩、美耶の近くへ寄った。
「ふざけるな」
自分でも驚くくらい、低い声が出ていた。
玲奈は否定しなかった。
「ふざけていません。だから危険なのです。彼らは、美耶様の意思を必要としません。人格も、感情も、恐怖も、計算に入れない。必要なのは、陽巫女の身体と、神器との接続だけです」
倉庫の中に、波の音が遠く聞こえた。
現実感が、少しずつ削られていく。
昨日まで、悠斗は学校に行けない自分のことで世界がいっぱいだった。家族の心配も、将来の不安も、全部、自分の部屋の中で膨らんでいた。
でも今、美耶を狙う人間たちは、彼女を人間として見ていない。
そんな相手に、何ができるのか。
問いが浮かんだ瞬間、昨夜の自分の声が戻ってきた。
逃げる。
守る。
考える。
今の悠斗にできることが小さくても、ゼロではない。
「天叢機関は、八咫烏のことを知っているんですか」
悠斗は聞いた。
「存在は把握しています。ただし、全容は掴んでいません。神代家とのつながりも、まだ完全には露見していないはずです」
「はず、か」
宗一郎が苦い顔をする。
「完全に安全な秘密などありません」
玲奈は言った。
「だからこそ、慎重に動く必要があります。昨日のように逃げ続けるだけでは、いずれ捕捉されます。こちらも、次に何をすべきかを確定しなければなりません」
「そのために、何が必要なんですか」
「記録です」
玲奈は端末を操作し、別の画面を表示した。
古い文書の写真。見慣れない文字。土器の破片らしきもの。石に刻まれた線。いくつもの画像が並ぶ。
「壱与様から神代家へ伝わった記録があります。陽巫女、神器、陰の世界、そして邪馬台国帰還の条件について。八咫烏の中でも閲覧できる者は限られています」
「どこにある」
宗一郎の目が鋭くなる。
「神代古代文化財団の管理施設です」
「財団?」
「表向きは、古代史と文化財保護のための財団です」
玲奈は画面を消した。
「その裏で、八咫烏の記録を守っています」
神代古代文化財団。
いかにも、社会の表側に置かれた名前だった。博物館や研究所とつながっていても、おかしくない。けれど、その奥に美耶の国へ続く記録が眠っている。
「そこへ行けば、邪馬台国へ戻る方法がわかるんですか」
「可能性があります」
「また、便利な言葉じゃのう」
宗一郎が言うと、玲奈は少しだけ肩を落とした。
「確実と言えないことは、確実とは言えません。ただ、今の私たちが最初に確認すべき場所であることは間違いありません」
美耶が、静かにうなずいた。
「行きます」
迷いのない言葉だった。
でも、悠斗には見えていた。彼女の手が、まだ震えていることを。
「美耶」
「悠斗も、一緒にいてくださいますか」
それは問いかけだった。
使命の宣言ではない。命令でもない。
ただ、怖い場所へ向かう前に、そばにいてほしいという、ひとりの女の子の声だった。
「いる」
悠斗は即答した。
「一緒に行く」
美耶は、目を細めて笑った。
その笑顔を見た瞬間、悠斗の中で何かが決まった。
八咫烏を全部信じるわけではない。
天叢機関から逃げるだけでも足りない。
美耶が自分の足で選べるようにする。そのために、悠斗はここにいる。
玲奈が端末をしまう。
「管理施設へは、今日中に移動します。ただし、その前に一つ、片づけるべき問題があります」
「問題?」
「白峰さんのご家族です」
心臓が、嫌な音を立てた。
母。父。妹の莉央。
昨夜から一度も連絡していない。スマホは遮断袋の中で、電源も落としてある。悠斗がどこにいるのか、家族は知らない。
「白峰さんが行方不明になれば、ご家族は当然、警察に連絡します。天叢機関はそこを利用できます。捜索網、通話履歴、監視カメラ、学校や近隣への聞き込み。表の仕組みを動かされれば、こちらの行動範囲は狭まります」
「家に、迷惑がかかるってことですか」
「迷惑では済まない可能性があります」
玲奈の声は冷静だった。
でも、その冷静さが現実を突きつけてくる。
「ご家族を、彼らに利用される可能性があります」
血の気が引いた。
美耶を守ろうとしている間に、家族が危険に近づく。
そんなこと、考えたくなかった。でも考えなければいけない。
「では、どうするんじゃ」
宗一郎が聞く。
「白峰家へ一度戻ります」
玲奈は言った。
「短時間です。状況を整え、必要最低限の説明をし、白峰さんが自分の意思で行動していることを示す。天叢機関がご家族を手がかりにする前に、こちらから先に動きます」
「美耶も?」
悠斗が聞くと、玲奈は少し考えた。
「一緒です。離す方が危険です」
美耶が、悠斗を見上げる。
白峰家。
悠斗の家に、美耶が来る。
いつか普通に友達を連れて帰る日があったなら、こんなふうではなかったはずだ。母に紹介して、莉央が騒いで、父が妙に静かに観察して。そんな想像が、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
でも、現実は違う。
家の外には、天叢機関がいるかもしれない。
家の中には、悠斗が一年間逃げ続けてきた生活がある。
そこへ、美耶を連れて戻る。
逃亡は、外へ向かうだけではなかった。
悠斗は、自分が置いてきた場所にも戻らなければならない。
「行きます」
悠斗は言った。
声が震えないように、ゆっくり息を吸う。
「白峰家へ。僕が、ちゃんと話します」
美耶が、そっと隣に立った。
「私も、参ります」
宗一郎は腕を組み、深いため息をついた。
「まったく、朝飯の次に行く場所が秘密財団ではなく高校生の実家とはのう。邪馬台国の謎も、現代の家族も、どちらも難物じゃ」
玲奈が入口の方へ歩き、シャッターの隙間から外を確認する。
「出発は三十分後です」
倉庫の外で、また船の汽笛が鳴った。
朝の光が、鉄の床に細く差し込む。
悠斗は遮断袋の中のスマホを見た。画面は見えない。けれど、その向こうに家族の時間がある。
そして隣には、美耶がいる。
もう一つの秘密組織。
もう一つの戦場。
悠斗たちは、港の倉庫から、白峰家へ向かうことになった。




