第12話 白峰家の夜
白峰家に着いたころには、空はもう夕方の色を失いかけていた。
港の倉庫を出たのは朝だった。それなのに、車はまっすぐ家へ向かわなかった。神代玲奈は幹線道路を避け、途中で何度も車を変え、駐車場の出口や駅前の人混みで周囲を確認した。
美耶はそのたびに、悠斗の隣で小さく息を詰めた。
天叢機関がどこにいるのかは分からない。黒い車も、無線の声も、もう見えない。けれど、見えないから安全なのではないと、昨夜から嫌というほど思い知らされている。
そして、見慣れた住宅街に入った瞬間、悠斗の胸は別の意味で苦しくなった。
いつも歩いていた道だった。
コンビニの明かり。角の電柱。雨の日に滑りやすいマンホール。小学生のころ、莉央と競争して走った細い坂。
何も変わっていない。
その変わっていなさが、今は怖かった。
「白峰さん」
車を一つ手前の路地に停めて、玲奈が振り返った。
「私と御影先生は近くで待機します。家の中には、白峰さんと美耶様だけで入ってください」
「先生も?」
助手席の御影宗一郎が、少し不満そうに眉を上げた。
「わしは直人くんに紹介した張本人じゃぞ」
「だからこそです。御影先生まで一緒に入れば、説明が増えます」
「むう」
宗一郎は反論しかけて、やめた。
玲奈の判断は正しい。悠斗にも分かっていた。家族に本当のことは言えない。邪馬台国、陽巫女、八咫烏、神器。そんな言葉を並べても、家族を巻き込むだけだ。
「時間は長く取れません」
玲奈は続ける。
「必要なのは三つです。白峰さんが無事であることを示す。短期間、家を離れる理由を作る。ご家族が警察や関係先に不用意な連絡をしないよう、自然に納得してもらう」
「自然に、ですか」
「はい。嘘は少ない方がいい。ですが、真実を全部話す必要はありません」
悠斗はうなずいた。
少ない嘘。
それがどこまで許されるのかは、まだ分からない。でも今は、美耶と家族の両方を守るために、そうするしかなかった。
美耶が、膝の上で手を重ねる。
「私は、どうすればよいでしょうか」
「普通にしていて」
悠斗は答えたあと、すぐに苦笑した。
「……って言っても、難しいよね」
「はい。普通というものが、まだよく分かりません」
そのまっすぐな返事に、宗一郎が小さく笑った。
「白峰くんの家族なら、多少おかしくても温かく受け止めてくれるじゃろう」
「多少、で済みますか」
「済ませるんじゃ」
簡単に言う。
けれど、その言葉に少しだけ救われた。
悠斗は車を降りた。美耶も続く。彼女は現代の服の裾をそっと押さえ、胸元の天岩戸八咫鏡が見えないよう、上着の内側へ隠している。
家の門灯がついていた。
その明かりを見た瞬間、悠斗は足を止めそうになった。
戻ってきた。
一年間、外の世界から逃げるように閉じこもっていた家に。昨夜、何も言わずに出ていった家に。今度は、自分の意思で戻ってきた。
「悠斗」
美耶が隣で名を呼んだ。
「大丈夫ですか」
聞かれて、悠斗は息を吐いた。
「大丈夫。行こう」
チャイムを押す前に、玄関のドアが開いた。
「悠斗?」
春香だった。
エプロン姿のまま、戸口で立ち尽くしている。目が大きく開かれ、次の瞬間には駆け寄りそうになった。けれど、美耶の姿を見て、足を止める。
「……えっと」
「母さん」
悠斗の声は、思ったよりかすれていた。
「ごめん。連絡できなくて」
春香はしばらく悠斗を見ていた。怒るのかと思った。泣くのかとも思った。
けれど、春香はまず、静かに息を吐いた。
「無事ならいい」
その一言で、悠斗の胸が詰まった。
「うん」
「でも、心配はしたからね」
「……ごめん」
春香はもう一度、今度は美耶を見た。
美耶は緊張した顔で、両手を前に重ねる。
「は、初めまして。美耶と申します」
深く頭を下げた。
あまりに丁寧な礼に、春香が一瞬だけ目を丸くする。それから、ふっと表情をやわらげた。
「初めまして。悠斗の母の春香です。外、暑かったでしょう。とりあえず、入って」
「よろしいのですか」
「もちろん」
その自然な返事に、美耶の目がかすかに揺れた。
家に入ると、味噌汁の匂いがした。
いつもの匂いだった。台所の灯り。リビングのテレビの音。廊下に置かれた莉央のスニーカー。何もかもが、昨日までの生活の続きに見える。
けれど、悠斗の隣には美耶がいる。
その事実だけで、家の中の空気が少し違って感じられた。
「お兄、ちーす……って、え」
リビングから顔を出した莉央が、そこで固まった。
手にはスマホ。髪はゆるくまとめて、部屋着なのに妙にこなれている。いつも通りの妹だった。
ただし、目だけが一瞬で輝いた。
「え、待って。お兄、女の子連れて帰ってきたんだけど」
「莉央」
「いや待って待って待って。普通にかわいすぎ。なにこの子、透明感えぐ。てか服も似合ってるし、空気がもう尊い」
美耶が、困惑した顔で悠斗を見る。
「とうとい、とは」
「えっと」
悠斗が答える前に、莉央が一歩近づいた。
「あ、ごめんごめん。初対面で圧強かったっしょ。白峰莉央でーす。お兄の妹。ちーす」
莉央は軽く手を上げた。
美耶はその手をじっと見つめ、少し迷ってから、同じように小さく手を上げる。
「ち、ちーす」
春香が台所の方で吹き出した。
悠斗は頭を抱えたくなった。
「莉央、変な言葉教えないで」
「変じゃないし。現代の基本あいさつっしょ」
「基本じゃない」
「お兄が古いだけ。で、美耶ちゃん? 名前までかわいいとか、情報量多すぎじゃん」
「情報量、ですか」
「あー、そこ拾うのもかわい。ガチで守りたい」
莉央の言葉の半分も、美耶には分かっていないだろう。
けれど、莉央に悪意がないことは伝わったらしい。美耶は戸惑いながらも、少しだけ表情を緩めた。
「莉央様は、明るい方なのですね」
「様!?」
莉央の声が跳ねた。
「待って、様呼びはさすがにエモい。お兄、なにこの子。どこのお姫様連れてきたの」
「お姫様じゃない」
言ってから、悠斗は少し焦った。
完全に違うとも言いきれない。少なくとも、美耶は悠斗の知っている普通の高校生ではない。
春香が助け舟を出すように、廊下にスリッパを並べた。
「莉央、質問はあと。美耶ちゃん、よかったらリビングへどうぞ。ご飯、まだ食べられる?」
「ご飯」
美耶の目が、少しだけ輝いた。
「はい。いただけるのでしたら」
「じゃあ、少し温め直すね」
春香はそれ以上、何も聞かなかった。
その優しさが、悠斗には痛かった。
リビングに入ると、直人がソファから立ち上がった。
仕事帰りらしく、まだシャツ姿だった。テーブルの上には読みかけの本と湯呑みが置かれている。悠斗を見る目は静かだったが、安心したように肩の力が抜けるのが分かった。
「帰ったか」
「うん」
「連絡がないから、母さんが心配していた」
「ごめん」
「俺も心配した」
直人はそう付け加えた。
それだけで、悠斗は顔を上げられなくなりそうだった。
「すみません」
美耶が横から頭を下げた。
「私のために、悠斗は」
「美耶」
悠斗は慌てて止める。
真実に近づきすぎる。美耶もそれに気づいたのか、口を閉じた。
直人は、そんな二人をしばらく見ていた。
「美耶さん、でいいかな」
「はい」
「白峰直人です。悠斗の父です」
「初めまして。美耶と申します」
また深い礼。
莉央が小声で「所作きれいすぎ、尊い」とつぶやいた。悠斗は聞こえないふりをした。
春香が温め直した夕食を出してくれた。
白いご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き。特別な料理ではない。けれど、美耶は箸を前にして、しばらく動けずにいた。
「箸、使える?」
春香が聞く。
「はい。たぶん」
美耶は慎重に箸を持った。
ぎこちない。けれど、見よう見まねで米をつまみ、口へ運ぶ。
次の瞬間、美耶の表情がほころんだ。
「温かいです」
ただそれだけの言葉だった。
でも、春香の顔が少しだけやわらかくなった。
「たくさん食べてね」
「はい」
美耶は小さくうなずき、味噌汁を一口飲んだ。
「……おいしい」
声が、ほとんどため息のようだった。
莉央が両手で口元を押さえる。
「待って。味噌汁でその反応は反則。美耶ちゃん、存在がエモい。普通に泣けるんだけど」
「莉央、食事中」
「はいはい。でもお兄、これもう彼女じゃん」
「違う」
悠斗は即答した。
美耶が首を傾げる。
「彼女、とは何でしょうか」
リビングの空気が、妙な形で止まった。
莉央の目が、さらに輝く。
「え、そこから? ピュアすぎ。彼女っていうのはね」
「莉央」
春香と悠斗の声が重なった。
莉央は肩をすくめる。
「はいはい、後でね。てか、お兄がちゃんと止めたの初めて見たかも。男子してるじゃん」
「してない」
「してるっしょ」
美耶は、まだ分からない顔をしている。
けれど、笑い声の中にいることは分かったのだろう。少しだけ安心したように、箸を進めた。
食後、悠斗は直人に話を切り出した。
春香は台所で食器を洗い、莉央はリビングのラグに座ってスマホを触っている。だが、耳はこちらに向いているのが丸分かりだった。
「父さん」
「うん」
「しばらく、家を空けるかもしれない」
直人は湯呑みを置いた。
春香の手も、台所で一瞬だけ止まった。
「理由は?」
「御影先生の調査に、ついていく」
嘘ではない。
宗一郎はいる。調査もある。行き先は神代古代文化財団の管理施設で、古代史に関わる記録を確認する。
けれど、肝心な部分は言えない。
「美耶は、その調査に関係してる。詳しくは、言えない」
直人は黙っていた。
その沈黙が、悠斗には痛い。
「でも、危ないことは」
ない、と言いかけて、言葉が止まった。
危ない。
もうとっくに危ない。
美耶が見ている。嘘を重ねれば、たぶん彼女にも分かる。
「……あるかもしれない」
春香が振り返った。
莉央もスマホを下ろした。
悠斗は拳を握る。
「でも、行きたい。というか、行かないといけない。僕が全部できるわけじゃないけど、美耶を一人にしたくない」
美耶が息を呑んだ。
直人は、しばらく悠斗を見ていた。
責める目ではなかった。
何かを測るような目だった。
「夏休み明けは?」
「今さら、だけど」
悠斗は苦く笑った。
「ずっと止まってた。学校にも行けなくて、家にもいて、何かを決めるのが怖かった。でも、これは自分で決めた」
リビングが静かになった。
テレビの音だけが遠く聞こえる。
直人は腕を組み、少しだけ目を伏せた。
「御影先生には、俺からも連絡を入れる」
「父さん」
「詳しく話せないなら、話せるところまででいい。ただし、連絡は取れる形にしなさい。母さんを不安にさせるな」
「うん」
「それから」
直人の目が、美耶へ向く。
「美耶さんを大切に思っているなら、悲しませるようなことはするな」
悠斗の喉が詰まった。
それは、どこかで聞いたような格好いい父親の言葉ではなかった。
目の前にいる父が、本当に心配して、本当に言っている言葉だった。
「分かった」
「返事が軽い」
「分かりました」
直人は少しだけ笑った。
「それでいい」
莉央が、そこで耐えきれなくなったように口を挟んだ。
「いや、今のちょっとエモすぎ。お父さん、急にドラマじゃん」
「莉央」
「だってさー。お兄が『自分で決めた』とか言うの、普通にレアっしょ。泣くとこじゃん。てか美耶ちゃんも泣きそうだし」
言われて、美耶が慌てて目元に手をやる。
「私は、泣いてなど」
「泣いてないのに泣きそうな顔、いちばん尊いやつ」
「尊い」
美耶が小さく繰り返した。
莉央がぱっと顔を明るくする。
「そう、それ! いい? 尊いっていうのは、心がぎゅってなる感じ。かわいくて、きれいで、大事にしたいってなるやつ」
「大事に、したい」
「そうそう。美耶ちゃん、覚え早。ガチすご」
美耶は真剣な顔でうなずいた。
悠斗は嫌な予感がした。
この言葉を、美耶は本当に覚える。
しかも、かなり真面目に。
春香が食器を拭きながら、笑いをこらえている。
「莉央、ほどほどにね」
「はーい。でも美耶ちゃん、また来てね。うち、いつでも歓迎だから」
美耶は顔を上げた。
「また、来てもよいのですか」
「当たり前っしょ。てか来て。普通に来て。次は服とか見よ。美耶ちゃん絶対ワンピ似合うし、髪アレンジしたら最強」
「最強」
「うん、最強」
美耶はその言葉を、宝物のように受け取った顔をした。
春香が、やわらかく言う。
「またいつでもいらっしゃい」
美耶の目が、大きく揺れた。
邪馬台国には、彼女の帰る場所がある。
母がいて、父がいて、祖母がいて、民がいる。
それでも、この家の「またいつでも」は、美耶にとって初めての現代の居場所になったのかもしれない。
悠斗は、それを見ていた。
守りたいものが増えるのは、怖い。
でも、増えたからこそ、逃げるだけではいられない。
出発の時間は、すぐに来た。
春香は小さな袋に飲み物とおにぎりを入れてくれた。莉央は自分のヘアピンを一つ、美耶に渡した。
「これ、あげる。守りのアイテム的な?」
「守りの、アイテム」
「そう。つけたらちょっとテンション上がるやつ」
美耶は両手でヘアピンを受け取った。
「ありがとうございます、莉央様」
「様は強いって。莉央でいいよ」
「莉央」
「はい優勝。呼び捨てエモ」
美耶は意味が分からないまま、少し笑った。
玄関の外には、夜が落ちていた。
少し離れた路地に、玲奈の車が停まっている。宗一郎の影も見えた。
直人が、悠斗に封筒を渡した。
「少しだけ入っている」
「いいの?」
「前借りだ。返せるようになったら返せ」
「……ありがとう」
直人はうなずき、それから低く言った。
「無事に帰ってこい」
「うん」
春香が美耶の手をそっと握った。
「悠斗のこと、よろしくね」
「はい」
美耶はまっすぐに答えた。
「悠斗のことは、私が大切にします」
悠斗は思わず咳き込んだ。
莉央が玄関で両手を叩く。
「はい出ました。尊い。今のは完全に尊い」
「莉央、黙って」
「無理っしょ。これは言うっしょ」
春香が笑い、直人も少しだけ口元を緩めた。
そんな家族の顔を見て、悠斗は胸の奥に痛みを覚えた。
ここに帰ってきたい。
美耶を連れて、もう一度。
今度は嘘や危険ではなく、ただ普通に、ただいまと言うために。
「行ってきます」
悠斗は言った。
その言葉を、久しぶりにちゃんと言えた気がした。
「行ってらっしゃい」
春香が答える。
「気をつけてな」
直人が言う。
「お兄、美耶ちゃん泣かせたらガチ許さんから」
莉央が言う。
「分かってる」
悠斗は振り返り、美耶と並んで夜の道へ歩き出した。
背中に、家の明かりがある。
前には、神代古代文化財団の管理施設へ続く道がある。
美耶が、隣で小さくつぶやいた。
「ちーす、尊い、エモい」
「今、覚えなくていい言葉も混ざってた」
「けれど、莉央は楽しそうでした」
「まあ、楽しそうではあったね」
美耶はヘアピンを胸の前で握りしめた。
「白峰家は、温かい場所ですね」
悠斗は、もう一度だけ振り返った。
玄関の明かりは、まだついている。
「うん」
その温かさを背にして、悠斗たちは夜の中へ戻っていった。
次に向かうのは、神代古代文化財団の管理施設。
邪馬台国を帰すための記録が眠る場所だった。




