第13話 約束の継承者
神代古代文化財団の管理施設は、湾岸地区にあった。
白峰家の明かりが見えなくなってから、車内はまた静かになっていた。莉央の声も、春香の「行ってらっしゃい」も、直人の「無事に帰ってこい」も、少しずつ遠ざかっていく。
けれど、消えたわけではなかった。
悠斗の背中には、まだ家の温かさが残っている。
隣の席で、美耶が小さなヘアピンを両手で包むように握っていた。莉央がくれたものだ。
「大丈夫?」
悠斗が聞くと、美耶は顔を上げた。
「はい。少し、不思議な気持ちです」
「不思議?」
「悠斗の家を出たばかりなのに、もう遠い場所のように思えます。でも、ここにあります」
美耶はヘアピンを握り直した。
「莉央がくださった、守りのアイテムです」
「莉央が聞いたら、たぶん喜ぶよ」
「では、次に会えた時、伝えます」
次があると、今は誰も約束できない。それでも美耶は、次に会えた時と言った。
運転席の神代玲奈が、ミラー越しに後部座席を見た。
「あと五分ほどで着きます」
「表から入るのかね」
助手席の御影宗一郎が、窓の外を見ながら聞いた。
「いいえ。研究搬入口から入ります。正面玄関の記録には残しません」
「文化財団の管理施設で、夜中に裏口から入るとはのう。まっとうな研究者のすることではない」
「御影先生がそれをおっしゃいますか」
玲奈の返しは淡々としていた。
宗一郎は一瞬だけ口を閉じ、それから鼻を鳴らした。
「わしはまっとうな研究者ではないからよい」
美耶が目を丸くする。
笑える状況ではない。けれど、宗一郎の軽さがあるだけで、息が詰まりすぎずに済んだ。
車は大通りを外れ、低い倉庫群とオフィスビルが並ぶ道へ入った。
やがて、照明に照らされた横長の建物が見えてくる。白い外壁。大きなガラス窓。敷地の入口には、金属製の看板があった。
神代古代文化財団。
夜のせいで人影は少ない。社会の表側に、何食わぬ顔で立っている建物だった。
「ここが、八咫烏の」
悠斗がつぶやくと、玲奈はハンドルを切りながら答えた。
「八咫烏そのものではありません。表向きは、古代史研究と文化財保護を支援する民間財団です。水中文化遺産の調査、古代航路の研究、大学や博物館への助成。公に出している活動は、すべて実在しています」
「表向きだけ、ではないんですね」
「はい。偽装だけでは長く続きません」
玲奈の声には、少しだけ誇りのようなものがあった。
「その裏で、八咫烏の記録と活動を支えています」
車は建物の側面へ回り、搬入口の前で止まった。玲奈が端末をかざすと、小さな電子音が鳴り、ガラス扉のロックが外れる。
「ここから先は、外部回線を遮断します。白峰さんのスマートフォンは、引き続き遮断袋の中でお願いします」
「分かってます」
悠斗はうなずいた。
スマホの向こうには家族がいる。だが、迂闊に電源を入れれば、そこから天叢機関に辿られるかもしれない。
施設の中は、外観以上に静かだった。壁際には温湿度の表示盤が並び、ガラス越しの部屋には、番号を振られた土器片が整然と置かれている。
美耶は足音を忍ばせるように歩きながら、周囲を見回していた。
「ここは、蔵のような場所なのですか」
「近いかも。古いものを守る場所、かな」
悠斗が答えると、美耶は小さくうなずいた。
「では、ここにあるものは、誰かが忘れたくなかったものなのですね」
玲奈が少しだけ振り返った。
「美耶様のおっしゃる通りです。ここは、失われかけたものを残す場所です」
「邪馬台国も、ですか」
美耶の声は静かだった。
玲奈は歩みを止めた。
「はい」
短い答えだった。
それだけで、廊下の温度が少し変わった気がした。
玲奈は再び歩き出す。
「神代家は、明治期に海運業で財を成しました。現在は海運、港湾物流、海洋資源調査、文化財調査支援など、いくつかの事業を持っています」
「ずいぶん立派な名前が出てきたのう」
宗一郎が言う。
「表の力がなければ、裏の記録は守れません」
玲奈は淡々と答えた。
「隠れ家、移動手段、調査設備、国外の文献確認、研究者への助成。八咫烏が現代まで活動を続けられたのは、神代家が表の社会で力を得たからです」
「……神代さん」
「はい」
「八咫烏は、弱い組織なんですか。強い組織なんですか」
玲奈は少しだけ目を伏せた。
「天叢機関と正面から戦えば、弱いです」
即答だった。
「彼らには国家権力があります。表の手続きを使って人を動かし、記録を押さえ、交通網を監視できる。私たちが表に出れば、潰されます」
「でも、ここまでの施設を持っている」
「はい。だから、完全に無力でもありません」
玲奈はカードキーで奥の扉を開けた。
「八咫烏は、勝ち続けてきた組織ではありません。むしろ、守れなかったものの方が多い。それでも、消えずに残ってきた組織です」
守れなかったものの方が多い。
宗一郎の顔が、わずかに険しくなる。
四十年前、美那を守れなかったこと。八咫烏がその負債を認めたこと。港の倉庫で聞いた言葉が、悠斗の中にも戻ってきた。
会議室の奥に、さらに重そうな扉があった。玲奈が端末を起動し、いくつもの認証を進める。
「この先が、限定資料室です」
「ようやく本丸か」
宗一郎の目が鋭くなる。
「御影先生にも、本来は閲覧権限がありません」
「なら、追い出すかね」
「いいえ。今は必要です」
玲奈は、悠斗と美耶を見た。
「白峰さんと美耶様にも、すべてをお見せするわけではありません。ですが、今知るべき記録は見ていただきます」
「その判断は、誰がするんですか」
悠斗は聞いた。
玲奈の視線が、まっすぐ返ってくる。
「私です」
「分かりました」
悠斗は言った。
「でも、見せるべきものを隠していると思ったら、聞きます」
「そうしてください」
玲奈は、少しだけ表情を和らげた。
「あなたには、その方が向いています」
扉が開いた。
中は広くなかった。壁一面の保管棚。耐火ケース。古い紙の匂いと、金属の冷たさ。
玲奈は奥の棚から黒い箱を取り出し、閲覧机の上へ置いた。
箱そのものは新しい。けれど、中に収められていたものは違った。
薄い木簡。古い布片。写本の束。石片の拓本。どれも、悠斗には価値の見当もつかない。ただ、時間だけは感じた。
「これは、神代家に伝わる最古級の記録群の写しです。原本は別の場所に保管されています」
「写しでも、ここまで厳重なのか」
宗一郎が身を乗り出す。
「原本を動かせないからこそ、写しも厳重に扱います」
玲奈は手袋をはめ、古い紙の一枚を慎重に開いた。
「神代家の祖先についての記録です」
美耶が、息を詰めた。
「神代家の祖先は、もともと邪馬台国の民でした」
玲奈の声が、静かに資料室へ落ちる。
「職は漁師。名は確定していません。ですが、邪馬台国で生まれた人間だったことは、複数の記録で一致しています」
「邪馬台国の、民」
美耶が小さく繰り返した。
「彼は漁に出て、嵐に遭い、陽の世界側の遠い土地へ流れ着きました。当時は狗奴国との関係もあり、自分が邪馬台国の人間だと知られるのは危険でした。彼は素性を隠し、数年を過ごしたとされています」
狗奴国。
その名は、悠斗も資料で見たことがある。邪馬台国と対立していた国。学校の教科書では数行で終わるような名前だった。
でも美耶の顔を見ると、それがただの単語ではないことが分かる。
「彼は、帰ろうとしたのですか」
美耶が聞いた。
玲奈はうなずく。
「はい。やがて時機を見て、邪馬台国へ戻ろうとした。けれど、その時には、すでに国はありませんでした」
美耶の指が、ヘアピンを握りしめる。
「国も、家族も、仲間も、港も、家も。すべてが消えていた」
玲奈は紙面に視線を落とした。
「記録には、こうあります。戻る道に立てど、煙なし。声なし。人の足跡なし」
悠斗は、喉の奥が詰まるのを感じた。
家の明かりが、二度と見えなくなる。
ただいま、と言う場所が、どこにもない。
それがどれほどの絶望なのか、悠斗には想像しきれない。けれど、白峰家を出たばかりの今だからこそ、少しだけ分かる気がした。
「その人は、どうしたんですか」
「探しました。消えた邪馬台国の痕跡を」
玲奈は別の資料を開く。
「その中で、初代陽巫女、壱与様と出会います」
壱与。
港の倉庫でも聞いた名前だ。
美耶の表情が引き締まる。陽巫女としての敬意と、遠い先人への痛みが、同時に浮かんでいた。
「壱与様は、邪馬台国が陰の世界へ転移された後、天岩戸八咫鏡を使って陽の世界へ戻っていました。目的は、邪馬台国を元の場所へ戻す手がかりを探すこと」
「壱与様は、一人で」
「はい」
玲奈の返事は短かった。
「ただし、神代家の祖先は、壱与様を疑いませんでした。彼自身が邪馬台国の民だったからです。消えた国を知っていた。帰る場所を失った痛みを知っていた」
玲奈は、机の上に三つの小さな資料写真を並べた。
一つは鏡の絵。もう一つは剣のような線画。最後は勾玉の形。
「壱与様は彼に、三種の神器について語りました。天岩戸八咫鏡。界裂草薙剣。禍津八尺瓊勾玉」
美耶は胸元の鏡に手を添えた。
「禍津八尺瓊勾玉が、邪馬台国を陰の世界へ移した原因であること。天岩戸八咫鏡が、陽巫女を陽の世界へ渡すこと。界裂草薙剣が、国を戻す鍵になること」
玲奈は一つずつ言葉を置いた。
「そして、いつか現れる陽巫女を助けてほしい、と」
玲奈は、そこで一度だけ言葉を切った。
「壱与様は、その時、もう一つの名も残しています」
「名?」
「張政。魏志倭人伝にも名の残るその男に、神器の一部を話してしまった、と。壱与様は、神代家の祖先へそう告げていました」
宗一郎の眉が、わずかに動いた。
「張政が、先に知っていたのか」
「記録に残る張政と同一人物か、完全には断定できません。ただ、壱与様がその名を悔いとともに残したことは確かです。だからこそ、神代家の祖先には、奪うためではなく守るために伝えた」
そして、その後まもなく、壱与は殺された。
誰が、何を奪おうとしたのか。そこまでは、この記録だけでは追い切れない。
美耶の唇が、震えた。
その願いは、優しいだけではない。次に来る誰かへ、危険を渡す願いでもある。けれど、そこに邪悪さはなかった。国を救うために、誰かへ託すしかなかった人の祈りがあった。
「それが、八咫烏の始まりです」
玲奈は、静かに言った。
「最初から組織だったわけではありません。消えた国を知る一人の男が、壱与様との約束を守るために記録を残した。それを家族へ、協力者へ、次の世代へ伝えた。時代が進むにつれ、地下の協力者網となり、やがて八咫烏と呼ばれるようになった」
八咫烏。
導きの鳥。
でも、その始まりは立派な組織名ではなく、一人の帰れなかった男だった。
「神代さんは、その人の子孫なんですか」
「はい」
玲奈は迷わず答えた。
「神代家は、邪馬台国の民の血を引いています。私にとって邪馬台国は、ただの古代国家ではありません」
彼女の声が、初めて少しだけ揺れた。
「失われた祖国です」
美耶が、顔を上げた。
現代に生きる玲奈と、陰の世界から来た美耶。二人はまったく違う場所で生きてきた。だが、どちらも邪馬台国につながっている。
「では、玲奈も」
美耶の声は、とても小さかった。
「私たちの、同じ国の」
「遠い末裔です」
玲奈はそう言って、深く頭を下げた。
「もっと早く、あなたを守るべきでした」
美耶は驚いたように目を見開いた。
「玲奈が謝ることでは」
「あります」
玲奈は顔を上げる。
「八咫烏は、壱与様との約束を継いできました。けれど、三代目陽巫女の美那様を守れなかった。四代目の陽巫女であるあなたにも、現れる前から安全な道を用意できなかった」
宗一郎が、黙って聞いている。
いつもなら皮肉の一つも言いそうなのに、今は何も言わなかった。
「だから、守ります」
玲奈は続けた。
「ただし、あなたを陽巫女としてだけではなく、一人の人として守る。それを、私個人の責任にします」
美耶は、すぐには答えなかった。
陽巫女としての礼を返すべきか、一人の少女として受け取るべきか、迷っているように見えた。
その時、彼女の手の中で、ヘアピンが小さく光を返した。
美耶はそれを見下ろし、それから少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「私は、陽巫女です。けれど、莉央が言っていました。尊いとは、大事にしたいということだと」
悠斗は思わず息を止めた。
ここで出るのか、その言葉が。
けれど、美耶の顔は真剣だった。
「私は、邪馬台国を大事にしたいです。母も、父も、祖母も、民も、大事にしたい。けれど」
美耶は、ほんの少しだけ悠斗を見る。
「この世界で出会った人たちも、大事にしたいです」
「美耶」
悠斗が呼ぶと、美耶は振り向いた。
「怖い時は、言って」
同じことを、何度も言っている気がする。でも、何度でも言いたかった。
「大事にしたいものが増えたなら、一人で抱えなくていい」
美耶の目が、少し潤んだ。
「はい」
小さく、けれどはっきりと答える。
宗一郎が、わざとらしく咳払いをした。
「若い二人がよい空気を作っておるところ悪いが、爺にも資料を見せてくれんかのう」
美耶がはっとして、頬を赤くする。
悠斗も目をそらした。
玲奈だけが、少しだけ口元を緩めていた。
「次の資料に移ります」
玲奈は、箱の中から別の束を取り出した。
比較的新しい写しだった。古い記録を読み下したものらしい。そこに、いくつかの地名と、神器の名が並んでいる。
「界裂草薙剣についての断片です」
宗一郎の表情が変わった。
「あったのか」
「断片だけです。八咫烏も、完全な所在は掴めていません」
界裂草薙剣。
三種の神器の一つ。邪馬台国を戻す鍵。
美耶がこの世界へ来たのも、最終的にはその剣へ辿り着くためだ。
「壱与様から神代家の祖先へ伝わった情報では、界裂草薙剣は陽の世界側に残されたとされています。ただし、場所は明確ではありません」
「明確ではない、か」
宗一郎は苦い顔をした。
「四十年探してきたわしに、耳が痛い言葉じゃ」
玲奈は画面に地図を表示した。
そこに、一つの地名が強調される。
熱田。
「熱田神社」
悠斗でも知っている名前だった。
草薙剣が祀られているとされる場所。日本神話を少しでも調べれば、必ず出てくる。
「分かりやすすぎるのう」
宗一郎が低く言った。
「本当に隠す気があるものなら、そんなに綺麗に伝わるかという話じゃ」
玲奈もうなずいた。
「私も同意見です。熱田に関する情報は多い。多すぎると言ってもいい」
「誰かが、そこにあるように見せた?」
悠斗が聞くと、玲奈は資料の一部を指した。
「可能性です。この時代以降、草薙剣に関する伝承の流れが不自然に整います。本来、伝承はもっと揺れる。土地ごとの言い伝え、別名、矛盾、欠落。それらが多いほど自然です。ですが、ある時期から、熱田へ向かう線が強くなりすぎている」
「その、ある時期というのは」
宗一郎が聞いた。
玲奈はしばらく沈黙した。
「次に確認する記録と関係します」
「九条か」
宗一郎が言った。
九条。
その名前が出た瞬間、資料室の空気がまた変わった。
悠斗は、まだその名を詳しく知らない。
けれど、玲奈の表情と宗一郎の声で分かる。
ただの古い家名ではない。
「九条家は、天叢機関の中枢にいる一族です」
玲奈は短く説明した。
「神器情報を、古代から追い続けてきた家でもあります」
「追い続けてきた、ではない」
宗一郎の声が、冷えた。
「奪い続けてきた、じゃろう」
美耶が息を呑む。
奪う。
その言葉は、陽巫女や神器という言葉よりも、生々しかった。
玲奈は否定しなかった。
「詳しい話は、次の記録で確認します。今ここで中途半端に触れるより、順を追った方がいい」
「神代さん」
悠斗は玲奈を見た。
「その九条家が、天叢機関を動かしてるんですか」
「少なくとも、強硬派の中心にいます」
玲奈の答えは慎重だった。
「美耶様を生体鍵として確保しようとしている勢力。その背後に、九条家があります」
美耶の手が、胸元の鏡を押さえた。
悠斗は自然と、彼女の半歩前に立っていた。
資料室の中で、何かが襲ってくるわけではない。それでも体が動いた。
玲奈がそれを見て、静かに言う。
「白峰さん。あなたに見てほしいのは、記録だけではありません」
「え?」
「約束を継いできた者たちがいる。その一方で、奪うことを継いできた者たちもいる」
玲奈は机の上の資料を閉じた。
「八咫烏を信じろとは言いません。ですが、敵が何を継いできたのかは、知ってください」
悠斗は、資料室の重い扉を見た。
この建物には、失われかけたものが残されている。
美耶の国へ続く記録。
神代家の祖先が守った約束。壱与の願い。
そして、九条家という名の、別の継承。
もう、他人事には戻れなかった。
「見ます」
悠斗は言った。
「九条家の記録も。天叢機関が何をしてきたのかも」
美耶が、隣で小さくうなずく。
「私も、知りたいです」
その声は怖がっていた。
でも、逃げてはいなかった。
玲奈は資料を抱え、奥の保管棚へ向かう。
「では、次の記録を出します」
金属の棚が、低い音を立てて開いた。
そこに貼られた小さなラベルに、悠斗は目を止める。
九条。
たった二文字。それなのに、紙の上の墨が、夜よりも黒く見えた。
約束を継いだ者たちの記録の奥で、奪う者たちの名が、静かに眠っていた。




