第14話 簒奪の継承者
九条。
たった二文字の名が、資料室の空気を変えた。
金属棚に貼られた小さなラベルを見たまま、美耶は胸元の天岩戸八咫鏡に手を添えていた。さっきまで神代家と八咫烏の記録を聞いていた時とは違う。指先に、はっきりと力が入っている。
悠斗は、その半歩前に立ったまま動けなかった。
ここは神代古代文化財団の限定資料室だ。外には警備があり、分厚い扉があり、神代玲奈がいる。今すぐ誰かが襲ってくるわけではない。
それでも、九条という名は、目に見えない刃物のように思えた。
御影宗一郎が、低く言う。
「とうとう出たか」
「御影先生は、九条家についてどこまでご存じですか」
玲奈が尋ねると、宗一郎は鼻で笑った。
「学者の世界では、表に出てくる名前ではない。だが、古い記録を追っていると、どうにも妙な空白にぶつかる。その空白の縁に、同じ家名がちらつく」
「その認識で、ほぼ合っています」
玲奈は棚から薄い箱を取り出し、机の上へ置いた。
中には、複数の写しが収められていた。古文書の写真、後世の読み下し、地図、系譜の一部。悠斗には読めない文字ばかりだが、赤い付箋と注釈が、そこに何か危険なものがあると告げているようだった。
「さきほど見た記録は、神代家が壱与様との約束を継いだ記録です」
玲奈は、紙の束を一つ開いた。
「こちらは、奪った側の記録です」
「奪った側」
美耶が、かすれた声で繰り返す。
玲奈はうなずいた。
「九条家は、現代の天叢機関の中枢にいる一族です。公的な書類の上では別の名前、別の役職、別の組織に散っています。けれど、神器情報を追う流れの中心に、代々この家がいました」
「どうして、そんな家が」
悠斗は聞いた。
「最初から邪馬台国を狙っていたんですか」
「最初からではありません」
玲奈は資料の一枚を指した。
「最初に神器の情報へ手を伸ばしたのは、九条家ではありません」
資料室の照明が、紙の上に白く落ちる。
「張政という男です」
悠斗は息を止めた。
つい先ほど聞いた名だった。
壱与が、神代家の祖先へ悔いとともに告げた名。
「壱与様が陽の世界で接触した人物の一人です。彼は壱与様から神器の一部を知り、狗奴国と結びました。神器を使えないか、探った」
「狗奴国と」
「はい。卑弥呼の時代、邪馬台国と対立したとされる国です。張政は、神器の力を王権や国の争いに利用できると考えた。けれど、神器は名と役割を知っただけで扱えるものではありませんでした」
美耶が、胸元の鏡に手を添えた。
天岩戸八咫鏡は、彼女の命と結びついている。触れれば使える道具ではない。悠斗は、それを知っている。
「張政は、使えなかったんですね」
「ええ。欲し、使えず、それでも諦めなかった」
玲奈の声が、少し低くなった。
「その後、壱与様は殺されました」
資料室の空気が、ふっと重くなった。
美耶が目を伏せる。宗一郎も口を開かなかった。
「張政と狗奴国側に残った断片は、後の時代まで残りました。そして狗奴国が大和王権に滅ぼされた後、その地へ派遣された一族がありました」
「それが、九条家の前身」
「はい」
玲奈は短く頷いた。
「九条家はそこで、張政由来の情報と狗奴国側の口伝に触れました。邪馬台国がただ滅びたのではないこと。三種の神器が、王権の祭祀道具ではなく、世界の境に関わる力を持つこと」
「なら、大和王権に伝えたんですか」
悠斗の問いに、玲奈は首を横に振った。
「伝えませんでした」
短い答えだった。
「なぜ」
「神器を、王のための力ではなく、自分たちが握るべき力だと考えたからです」
資料室が静まり返る。
「九条家は最初の簒奪者ではありません。けれど、簒奪された情報を受け継ぎ、隠し、整え、自分たちの力へ変えた」
美耶の指が、鏡を押さえたまま震えた。
「では、邪馬台国のことを知っていた人たちは」
玲奈は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、悠斗は嫌な予感がした。
「消されました」
美耶の息が止まる。
「村ごと、ですか」
「記録に残る限りでは、村単位、集落単位です。火災、疫病、反乱鎮圧、山崩れ。理由は時代によって違います。ですが、不自然に同じ地域の口伝が途切れている」
玲奈の声は淡々としている。
けれど、その淡々さがかえって重かった。
「神器を知る者。邪馬台国が消えたことを語る者。陽巫女の名を残そうとした者。そうした人々が、歴史の表から消されています」
悠斗は、拳を握った。
消された。
その言葉は、簡単すぎる。
そこには家があったはずだ。食卓があり、親がいて、子どもがいて、誰かが誰かの帰りを待っていたはずだ。
それを、記録の上では火災や疫病にしてしまう。
そんなことが、ただの昔話で終わっていいはずがなかった。
「美耶」
呼ぶと、美耶はゆっくり顔を上げた。
青ざめている。
でも、目はそらしていなかった。
「大丈夫、ではありません」
美耶は小さく言った。
「けれど、聞きます」
その声に、悠斗は何も言えなくなった。
怖いなら怖いと言っていい。そう言ったのは悠斗だ。
美耶は今、怖いと言ったうえで、聞くことを選んでいる。
玲奈も、それを受け止めるように一度だけ頭を下げた。
「九条家は、張政と狗奴国側に残った断片を整理していきました。ただし、完全な真実ではありません。壱与様が神代家の祖先へ託したものは、彼らの手には渡っていない」
「だから、今も探している」
宗一郎が言う。
「その通りです」
玲奈は別の紙を開いた。
そこには、近代以降の組織図のようなものがあった。政府機関、研究機関、財団、企業、警察関係の部署。線が複雑に伸び、その中心の一部に九条の名がある。
「現代では、九条家は天叢機関の強硬派を動かしています。表向きの名称は、内閣時空災害対策室。けれど、内部で使われる秘匿名が天叢機関」
「時空災害」
悠斗はその言葉を噛みしめた。
いかにも正しそうな名前だ。災害対策。国民を守る。危険を管理する。
だが、その裏で美耶を追っている。
「彼らは、陰の世界を災害源、資源、技術、交渉材料として見ています」
玲奈は言った。
「邪馬台国を救う対象としては見ていません」
「美耶は」
悠斗の声が低くなった。
「美耶のことは、どう見てるんですか」
聞くまでもない。
それでも聞かずにはいられなかった。
玲奈は、わずかに目を伏せた。
「生体鍵です」
美耶の肩が震えた。
すでに聞いた言葉だ。けれど、資料室で九条家の歴史を聞いた後では、さらに冷たく響いた。
「陽巫女の身体と、天岩戸八咫鏡との接続。彼らにとって重要なのはそれだけです。意思も、恐怖も、帰る場所も、計算には入りません」
「ふざけるな」
悠斗の口から、声がこぼれた。
資料室で叫ぶほどではなかった。だが、自分でも驚くくらい、低かった。
「人を、そんな名前で呼ぶなよ」
美耶が、悠斗を見る。
玲奈は否定しなかった。
「だから、渡せません」
その一言だけは、迷いがなかった。
宗一郎が、机に置かれた資料を睨む。
「九条景臣」
玲奈が、次の資料を出した。
写真が一枚ある。
中年の男だった。
整った髪。穏やかな目。役所の会議室にいても、大学の講演会にいても不自然ではない顔。表情は柔らかいのに、なぜか目の奥だけが何も映していないように見える。
「現代の九条家を率いる人物です。表向きは複数の審議会や研究支援団体に関わる有識者。公には、文化財保護や災害対策にも理解のある人物として扱われています」
「表向きは、か」
宗一郎が吐き捨てる。
「実際には、天叢機関の強硬派を動かしています。神器の確保、美耶様の拘束、陰の世界への干渉。それらを推進している中心人物の一人です」
悠斗は写真から目を離せなかった。
加賀見迅也のように、現場で追ってくる男とは違う。もっと奥にいる。手を汚さずに命令を出し、正しそうな言葉で人を囲い込む大人。
そういう怖さがあった。
「この人が、美耶を」
「はい」
玲奈は言った。
「彼にとって、美耶様は人質でも保護対象でもありません。開けられていない扉を開くための鍵です」
美耶の顔色がさらに白くなる。
悠斗は一歩、美耶の近くへ寄った。
「見なくていい」
思わずそう言っていた。
「つらいなら、見なくていい」
美耶は写真を見つめたまま、首を横に振った。
「見ます」
「美耶」
「この方が、私を鍵と呼ぶのなら」
美耶は、鏡を抱える手に力を込めた。
「私も、この方の顔を知っておきたいです」
弱い声だった。
でも、逃げる声ではなかった。
悠斗は唇を噛んだ。
守りたい。
けれど、守るというのは、見せないことだけではないのかもしれない。美耶が知ると決めたなら、隣に立つことしかできない時もある。
玲奈は写真をしまい、別の地図を出した。
「ここからは、界裂草薙剣の話へ戻ります」
地図にはいくつかの地名が記されている。その中で最も太い線が、熱田神社へ向かっていた。
「草薙剣は熱田にある。現代の一般的な伝承としては、そう知られています」
「それが罠だと?」
宗一郎が問う。
「罠である可能性が高い、です」
玲奈は慎重に言った。
「九条家が関わった時代以降、草薙剣に関する情報は熱田へ集まりすぎています。自然な伝承の揺れというより、誰かが流れを整えたように見える」
「探す者を、そこへ誘導するため」
悠斗が言うと、玲奈はうなずいた。
「監視しやすくするためでもあります。草薙剣を追う者、邪馬台国の真実に近づく者、神器の本質に気づく者。そうした人間が、熱田へ向かうようにしておけば、見つけやすい」
「餌じゃな」
宗一郎の声が苦かった。
「ずいぶん上等な餌を吊るしたものじゃ」
玲奈は、また別の資料を表示した。
「過去十年だけでも、熱田周辺の草薙剣伝承を深く追った研究者や郷土史家が、急に研究をやめた例があります。事故、転職、体調不良、家族の事情。理由はそれぞれ違いますが、時期が重なりすぎている」
悠斗の背筋が冷えた。
「消されたんですか」
「全員がそうとは断定できません。ただ、天叢機関が接触した可能性はあります」
「接触って」
「警告、買収、資料の押収、社会的な圧力。必要なら拘束」
淡々と並ぶ言葉が、どれも現代の形をしているのが嫌だった。
刀で斬るのではない。
書類で、肩書で、警察で、職場で、人を黙らせる。
古代に村ごと消していたものが、現代では別の形で続いている。
「継承者、か」
悠斗はつぶやいた。
玲奈が視線を向ける。
「神代家は、約束を継いだ」
悠斗は机の上の資料を見た。
「九条家は、奪うことを継いだ」
言葉にすると、胸の奥が重くなった。
血筋だけの話ではない。何を受け取り、何を次へ渡すのか。その違いが、長い時間を越えて今ここに来ている。
美耶が小さく言った。
「私は、奪われるために来たのではありません」
誰もすぐには答えなかった。
美耶は写真のあった場所を見つめている。
「私は、邪馬台国を戻すために来ました。母と父と祖母と、民のいる場所へ帰るために来ました」
声は震えていた。
「でも、怖いです」
その一言を聞いて、悠斗は胸をつかまれたようになった。
美耶は強い。
けれど、怖くないわけではない。
それを隠さずに言えるようになったことが、悠斗には痛いほど大切に思えた。
「怖くていい」
悠斗は言った。
「怖いまま、行こう。怖くないふりをしなくていい」
美耶が、悠斗を見る。
「悠斗も、怖いですか」
「怖いよ」
即答だった。
格好はつかない。でも嘘はつきたくなかった。
「相手は大人で、組織で、国の仕組みまで使える。こっちは知らないことばかりで、ただの高校生だし」
美耶の目が揺れる。
「でも、美耶を鍵なんて呼ぶ人たちに渡したくない」
それだけは、迷わなかった。
「だから、知る。逃げるだけじゃなくて、何を相手にしてるのか知る」
宗一郎が、ふっと息を吐いた。
「若いのに、ずいぶん腹が据わってきたのう」
「据わってません」
「据わっておる者は、だいたいそう言う」
宗一郎はそう言って、資料へ目を戻した。
「玲奈くん。熱田が餌だとして、わしらはどう動く」
玲奈は少し考えた。
「避けるだけでは進めません。熱田情報が罠なら、その罠を誰がどう管理しているかを見る必要があります」
「つまり、あえて近づく」
「正面からではありません」
玲奈は地図を拡大した。
「熱田神社そのものへ無防備に入るのは危険です。まずは周辺の監視、過去に接触された研究者、情報が流れた経路を確認します」
「それでも危険じゃ」
宗一郎が言う。
「はい」
玲奈は認めた。
「ですが、界裂草薙剣へ近づくには、熱田情報を避けて通れません。偽の道だとしても、偽の道を作った者の足跡が残っている」
悠斗は地図を見つめた。
熱田。
そこに本物があるとは限らない。むしろ、ない可能性が高い。
それでも行く。
敵が用意した道かもしれない場所へ。
「美耶様」
玲奈が静かに呼んだ。
「ここから先は、さらに危険になります。ですが、あなたの意思を確認します」
美耶は、胸元の鏡から手を離さなかった。
それでも、顔を上げる。
「行きます」
「理由を、聞いてもよろしいですか」
「逃げているだけでは、邪馬台国へ帰れません」
美耶の声は細い。
けれど、まっすぐだった。
「それに、私を鍵と呼ぶ方々がいるのなら、私は私の名前で立っていたいです」
玲奈の表情が、一瞬だけ揺れた。
宗一郎は黙ってうなずいた。
悠斗は、美耶の横に立った。
「一緒に行きます」
美耶が、少しだけこちらを見る。
不安は消えていない。
でも、ひとりではない。
玲奈は資料を閉じ、端末を操作した。
「では、出発準備に入ります。明け方前にこの施設を出ます。移動先は、熱田周辺の一時拠点です」
熱田。
その地名が、もう一度、資料室に落ちる。
神代家が継いだ約束。
九条家が継いだ簒奪。
その二つの線が、次に向かう場所で交わろうとしていた。
悠斗は机の上に置かれた九条景臣の写真を見た。
穏やかな顔をした男。
美耶を、鍵と呼ぶ男。
その目の奥に何があるのか、まだ分からない。
けれど、分からないまま奪われるつもりはなかった。
資料室の扉が閉じる。
重い音が、夜の奥に沈んだ。
次に向かうのは、熱田の影。
そこには、剣へ続く道ではなく、剣を追う者を捕らえるための闇が待っているのかもしれなかった。




