第15話 熱田の影
夜が、少しずつ薄くなっていた。
神代古代文化財団の管理施設を出た時、空はまだ黒かった。けれど、東の端だけが墨を水で薄めたように淡くなっている。
白峰悠斗は後部座席で、膝の上の手を握っていた。
九条。
奪うことを継いできた家。その名が、まだ体の奥に沈んでいる。隣では、美耶が胸元の天岩戸八咫鏡に手を添え、もう片方の手で莉央からもらったヘアピンを握っていた。
遠い国へ戻るための神具と、現代の家で受け取った小さな守り。その二つを同時に持っていることが、美耶そのもののようだった。
「少し眠れそうか」
悠斗が小声で尋ねると、美耶は顔を上げた。
「眠ったら、置いていかれそうで」
「置いていかない」
すぐに答えてから、悠斗は自分の声に少し驚いた。前なら、たぶん言えなかった。大丈夫かどうか分からないことを、はっきり口にするのが怖かった。
けれど今は、言わない方が怖い。
運転席の神代玲奈が、ルームミラー越しに言った。
「熱田周辺の一時拠点までは、あと二十分ほどです。到着後、短時間だけ休みます。その後、周辺確認に入ります」
「熱田神宮へ直接行くわけではないんじゃな」
助手席の御影宗一郎が、低く言った。
「はい。正面から近づけば、こちらから名乗るようなものです」
熱田。草薙剣が祀られているとされる場所。日本神話を少しでも調べれば出てくる名。だからこそ、分かりやすすぎる。
本物がそこにあるとは限らない。むしろ、ない可能性の方が高い。
それでも行く。剣ではなく、剣へ近づこうとする者を捕らえる仕組みを確かめるために。
車は古いビルと低い住宅が混じる地区に入った。玲奈は何度も道を変え、同じ交差点を違う角度から抜けた。追跡を確かめているのだと、悠斗にも分かった。
小さな事務所のような建物の地下駐車場に車を入れると、玲奈はエンジンを切った。
「ここが一時拠点です。表向きは神代海洋開発の資材保管所です」
「資材保管所にしては、ずいぶん鍵が多いのう」
「必要なものを置いてあります。着替え、周辺地図、過去の調査資料。それから、休める部屋も」
着替え、と聞いた瞬間、美耶が小さく固まった。
彼女は白峰家で借りた服を着ている。けれど、少しだけ目立つ。逃げている今、周囲に紛れる服へ変える必要があるのは分かる。
分かるのだが。
玲奈に案内された部屋の前で、美耶は畳まれた服を見つめていた。
「これを、私が」
「はい。扱いが難しければ、私が手伝います」
美耶は真剣な顔でうなずいた。
「お願いします」
玲奈が部屋へ入ろうとして、ふと悠斗を見た。
「白峰さん」
「分かってる。外にいる」
悠斗はすぐに背を向けた。宗一郎が横で「若いのう」と呟いた気がしたが、聞こえなかったことにした。
廊下に出ると、妙に心臓がうるさい。
美耶が現代の服を着る。
ただそれだけのことなのに、落ち着かなかった。白い壁を見ているだけなのに、視線の置き場に困る。
扉が開いた。
振り向いた瞬間、悠斗は息を詰めた。
美耶は淡い色のブラウスに、動きやすそうなスカートを合わせていた。上には薄いカーディガン。髪は玲奈が軽くまとめ、莉央のヘアピンが横で小さく光っている。
古代の巫女ではない。でも、ただの現代の少女でもない。彼女は彼女のままだった。
「変では、ありませんか」
美耶が不安そうに尋ねる。
悠斗は一瞬、言葉を探した。褒め方なんて知らない。けれど、ここで曖昧にしたら駄目だと思った。
「変じゃない。似合ってる」
「本当ですか」
「本当」
「現代の人に見えますか」
「見える。でも、美耶だって分かる」
言ってから、悠斗は少し恥ずかしくなった。けれど、美耶は笑った。その笑顔だけが、朝の空気をほんの少し温かくした。
「ありがとうございます。悠斗にそう言っていただけると、安心します」
玲奈は端末を開き、地図を映した。
熱田神宮を中心に、いくつもの印が置かれている。参道入口、駐車場、周辺道路、古い資料館。線が複雑に伸び、いくつかの点が赤く光っていた。
「過去十年で、熱田周辺の草薙剣伝承を深く追った研究者、郷土史家、個人調査者を洗いました」
「個人で調べた人まで分かるのか」
「公開講演、寄稿、古書店への照会、資料館の閲覧記録。すべてではありませんが、痕跡は残ります」
玲奈は赤い点を順に示した。
「このうち数名が、急に活動を止めています。病気、転居、家族の事情、研究方針の変更。理由はそれぞれ違います。ですが、止まった時期と接触していた資料が重なりすぎている」
「消された、ということか」
宗一郎の声は低い。
「断定はできません。ただ、怖がらせるには十分です」
悠斗は画面を見つめた。日付、資料名、講演中止の記録。紙の上では静かな事実に見える。けれど、その裏には、知ろうとして口を閉ざした誰かがいる。
美耶が、小さく言った。
「知ろうとしただけで、ですか」
玲奈はすぐには答えなかった。
「九条家にとって、知ることは従わないことと同じなのだと思います」
美耶の手が、胸元へ動く。
悠斗は、その手が鏡だけではなくヘアピンにも触れていることに気づいた。
「行きましょう」
美耶が言った。
「怖くないわけではありません。けれど、怖いから見ないままでいたら、きっともっと怖くなります」
「俺も行く」
悠斗が言うと、玲奈が端末を閉じた。
「白峰さんには、周囲を見る役をお願いします。美耶様が何かを感じた場合、立ち止まる可能性があります。その瞬間が一番危険です」
「自然に動かせ、ということか」
「はい。不自然に守れば、監視に見つかります」
守る。けれど、守っていると見せない。逃げる。けれど、逃げていると見せない。
それでも、やるしかない。
熱田の町は、朝になれば普通の顔をしていた。
駅へ向かう人がいる。コンビニから出てくる作業着の男がいる。参拝へ向かうらしい人の流れもある。
何も知らなければ、ただの朝だった。
玲奈は悠斗たちを正面へは連れていかなかった。少し離れた通りから、熱田神宮の森が見える位置まで歩く。
「普通に見えます」
美耶が呟いた。
「普通に見えるようにしてあるんです」
玲奈の返事は静かだった。
悠斗は周囲へ視線を流す。
参道入口の近くでスマートフォンを見ている男。駐車場の端に停まったままの車。道路の反対側で、同じ新聞を開いたまま動かない老人。地図の点と重ねると、偶然には見えなくなる。
熱田へ向かう人を見る場所。立ち止まる人を見る場所。戻ろうとする人を見る場所。網の目が、町の中に薄く張られている。
「悠斗」
美耶の声がした。
振り向くと、彼女は森の方を見つめていた。顔色が少し白い。
「どうした」
「今、少しだけ」
美耶は言葉を探した。
「剣の気配に、似たものが」
悠斗の背筋が冷えた。
本物か。罠か。分からない。
だが、分からないまま立ち止まることが危ないのは分かった。
道路の向こうで、スマートフォンを見ていた男の顔がわずかに上がる。
悠斗は考えるより先に、美耶の手を取った。
「行こう」
「え」
「そのまま歩いて」
声を小さくして、けれど強く言う。美耶は一瞬だけ驚いたが、すぐに歩き出した。
悠斗は速度を落としすぎず、急ぎすぎず、彼女の手を引く。参拝へ向かう若い二人に見えればいい。そう思うと、顔が熱くなった。
けれど、手は離さなかった。
美耶の指先は少し冷たかった。その冷たさが、悠斗を落ち着かせた。
守る相手は、ここにいる。鍵ではない。怖がりながらも、知ろうとしている女の子だ。
背後で玲奈が自然に位置を変え、宗一郎が看板を眺めるふりをして足を止めた。視線がずれた。その隙に、悠斗は美耶を横道へ誘導する。
角を曲がり、森の見えない道へ入ったところで、美耶が小さく息を吐いた。
「今のは」
「見られかけた。次も言って。俺が動かす」
美耶は目を見開いた。
悠斗自身も、少しだけ驚いていた。けれど、言葉を戻すつもりはなかった。
「俺一人じゃ、剣の気配なんて分からない。美耶が感じて、俺が周りを見る。それでいい」
美耶は、握られた手を見下ろした。
「では、私は一人で立ち止まらないようにします。悠斗が、連れていってください」
胸の奥に、静かに熱が灯った。
「分かった」
その時、後ろから玲奈が追いついた。表情は変わらないが、声だけが少し鋭い。
「離れます。先ほどの反応で、確認できました」
「何が」
「熱田そのものより、周辺を見る者がいます。しかも、こちらが神具の気配に反応するかどうかを待っている」
宗一郎も横道へ入ってきた。
「つまり、剣らしき気配も餌か」
「可能性が高いです。本物の気配ではなく、神具に反応する人間をあぶり出すための仕掛けかもしれません」
美耶の顔がこわばる。
「では、私が感じたものも」
「無意味ではありません。罠なら、罠を置いた者がいます」
玲奈は周辺地図を端末に出した。
「熱田神宮そのものを追っても、こちらが消耗するだけです。切り替えます」
「どこへ」
悠斗が尋ねる。
「熱田へ情報を集めた側です」
玲奈の指が、地図上の別の点を示した。
「過去の研究者が最後に接触した資料。熱田情報が強く固定され始めた時期。その二つが重なる場所があります」
宗一郎の目が細くなる。
「剣そのものではなく、剣がそこにあると思わせた手を追うわけじゃな」
「はい」
玲奈はうなずいた。
「影を追います。熱田に落ちている影を」
悠斗は、もう一度だけ熱田の森の方を振り返った。
朝の光を受けて、木々は静かに揺れている。普通の神域に見える。けれど、その周りには目がある。剣を探す者を待つ目。美耶を鍵と呼ぶ者たちの目。
悠斗は、美耶の手をまだ握っていることに気づいた。離そうとした瞬間、美耶の指が少しだけ握り返してきた。
離さなくていい。
そう言われた気がした。
「行こう」
悠斗が言うと、美耶はうなずいた。
熱田に剣があるとは限らない。むしろ、そこにあるのは剣へ続く道ではなく、剣を追う者を捕らえるための闇かもしれない。
けれど、その闇にも形がある。形があるなら、辿れる。
悠斗たちは熱田の森を背にして歩き出した。
追うべきものは、神域の奥ではない。
その影を作った者たちの足跡だった。




