第16話 夜空の約束
熱田の森が遠ざかっても、視線の感覚だけはしばらく背中に残っていた。
車の窓の外では、昼の光が少しずつ傾いていく。街並みはいつも通りなのに、いまの悠斗には薄い膜の向こうにあるもののように見えた。
熱田神宮そのものではなく、草薙剣を追う者を待ち受ける影。
玲奈はそう判断し、彼らは神域の奥ではなく、剣があると思わせた者たちの足跡を追うことになった。
けれど、理屈で切り替えられるものばかりではなかった。
悠斗の左手には、まだ美耶の指先の感触が残っている。
熱田の通りで、彼女が剣に似た気配を感じた時、悠斗は考えるより先に手を取った。監視の視線から外すためだった。そう説明できる。実際、そのためだった。
手を離そうとした時、美耶がわずかに握り返した。離さなくていい、と言われたような気がした。
「白峰さん」
助手席の玲奈の声で、悠斗ははっとした。
「はい」
「少し休んでください。次に動くには、あなたの判断力も必要です」
「大丈夫です」
そう答えてから、悠斗は自分でも苦笑した。
その言い方は、今日ずっと美耶がしていたものと同じだった。
隣を見ると、美耶は窓の外へ顔を向けている。現代の服に着替えた彼女は、もう街の中に立っても目立ちすぎることはない。膝の上には天岩戸八咫鏡を包んだ布を置いていた。
髪には、莉央からもらったヘアピンが留まっている。
朝に見た時より、少しだけ表情が固い。
疲れている。悠斗にも分かった。現代の服。車の移動。監視の気配。追われる緊張。
美耶はそれらを全部受け止めながら、それでも自分から「行きます」と言った。怖いまま、進もうとしている。
玲奈の運転する車は、市街地を抜け、やがて山沿いの細い道へ入った。建物の密度が落ち、窓の外に木々の黒い線が増えていく。空は淡い朱色から、藍色へと変わり始めていた。
たどり着いたのは、古い研修所のような建物だった。
二階建ての小さな施設で、表に目立つ看板はない。周囲は林に囲まれ、人の気配は薄かった。
「八咫烏が保有する一時拠点の一つです」
玲奈が車を降りながら説明した。
「通信環境は限定しています。外部からは、古い民間研修施設としてしか見えません。今夜はここで休みます」
「追跡は?」
宗一郎が鞄を肩にかけながら尋ねる。
「熱田周辺では振り切りました。ただし、完全に安全とは言いません」
「おぬしの口から安全という言葉が出る日は来るのかの」
「来ない方が安全です」
宗一郎が鼻で笑った。
美耶はそのやり取りに小さく笑ったが、すぐに口元を押さえた。笑うことにも体力がいるみたいだった。
建物の中は、外観より清潔だった。会議室の隣に、簡単な台所と休憩室がある。
玲奈は手早く室内を確認し、端末を開いた。
「今夜は追跡調査を進めません。こちらの情報整理だけ行います。御影先生は記録の確認を」
「年寄りを働かせるのう」
「寝ると言えば止めません」
「それはそれで、若い者だけに任せるみたいで落ち着かん」
「では働いてください」
宗一郎はぼやきながらも、資料を広げ始めた。
悠斗も手伝おうとしたが、玲奈に視線で止められる。
「白峰さんは、美耶さんを休ませてください」
「え」
「彼女は朝から無理をしています」
隣で美耶が背筋を伸ばした。
「私は大丈夫です」
やっぱり言った。
悠斗は思わず美耶を見る。美耶も、自分の言葉に気づいたのか、少しだけ目を泳がせた。
「……本当に、大丈夫です」
「二回言うと、あんまり大丈夫に聞こえない」
悠斗が言うと、美耶は困ったように眉を寄せた。
「では、どのように言えば大丈夫に聞こえますか」
「休むって言えば、少し安心する」
美耶は目をぱちぱちさせた。
それから、小さくうつむく。
「休んでも、よいのですか」
その問いに、悠斗は胸を突かれた。彼女は、休みたいと言わないのではない。休んでいいと思えていないのだ。
陽巫女だから。邪馬台国を戻す役目があるから。祖母も、家族も、国も待っているから。
けれど、それでも。
「いいよ」
悠斗ははっきり言った。
「休まないと、明日動けない。美耶が倒れたら、俺たち全員困る」
「私が倒れると、困りますか」
「困る」
即答した。
美耶の目が少しだけ丸くなる。
「すごく困る」
言い足すと、美耶は唇を閉じたまま、かすかに笑った。
「では、困らせないように休みます」
「うん」
玲奈が何か言いたげにこちらを見たが、すぐに端末へ視線を戻した。宗一郎は資料に目を落としたまま、口元だけを少し緩めている。
休憩室には、畳の小さな空間があった。美耶はそこへ座ると、鏡を抱えたままほっと息をついた。
悠斗が温かいお茶を渡すと、美耶は両手で受け取り、少しだけ肩の力を抜いた。
「少し、横になって」
「悠斗は?」
「ここにいるよ」
悠斗がそう言うと、美耶は湯呑みの温かさに指を添え、やがて小さく頷いた。
「……少しだけ、休みます」
「うん」
畳に横になった美耶のまぶたは、思ったより早く落ちていった。無理もなかった。全く違う世界へ来て、見知らぬ文化に囲まれ、命を狙われ、朝から監視の目の中を歩いてきたのだ。気を張る糸が少し緩めば、体の方が先に限界を訴える。
悠斗はしばらく、その寝顔を見守っていた。
鏡を抱える指の力が少しずつ抜け、浅かった呼吸が整っていく。まだ不安は残っているはずなのに、眠っている美耶は年相応の少女に見えた。
起こしたくなかった。
だから悠斗は、寝息が乱れないことを確かめてから、音を立てないように静かに立ち上がった。
悠斗は休憩室を出て、廊下を抜けた。会議室では宗一郎が資料をめくり、玲奈が端末に目を落としている。二人の邪魔をしないように玄関から外へ出ると、夜気が肌に触れた。
山沿いの空気は、市街地より少し冷たい。駐車場の端まで歩いて見上げると、空が広かった。
人工の光が少ないせいで、星が思ったより多い。
「……すごいな」
悠斗は一人で呟いた。
家の窓から見ていた夜空とは違う。街の光に薄められていない星が、黒い空の奥に散っている。
父に、何か夢中になれるものを探してみろと言われた。
最初は、本当にそれだけだった。止まったままの自分を少しでも動かすために、邪馬台国の名前をノートに書いた。どこにあったのか。なぜ消えたのか。そんな遠い昔の謎なら、自分の今とは関係ないまま追える気がした。
それが、気づけばとんでもないことになっている。
光の中から美耶が現れた。陽巫女だと知った。天叢機関に追われ、八咫烏に助けられ、壱与の約束と九条家の簒奪を知り、熱田の影から逃れてここにいる。
夢中になれるものを探していただけのはずだった。
なのに今は、ひとつの国と、ひとりの少女の帰る場所を本気で守りたいと思っている。
変な話だ。
けれど、嫌ではなかった。
どれくらい、そうして空を見上げていただろう。
「悠斗」
背後から声がした。
振り返ると、美耶が建物の入口に立っていた。髪には莉央からもらったヘアピンが小さく光っている。
「美耶。休んでてって」
「休んでいました」
「いや、ここにいるけど」
美耶は少しだけ困ったように笑った。
「目が覚めたら、悠斗がいませんでした」
「起こした?」
「いいえ。ただ……」
美耶は胸元の鏡をそっと押さえた。
「そばにいた気配がなくなると、分かるものなのですね。だから、探しに来ちゃいました」
ちゃいました、という言い方がどこかぎこちない。たぶん莉央の言葉を真似している。
悠斗は笑いそうになって、それを飲み込んだ。笑うと、美耶が恥ずかしがって二度と言わなくなる気がした。
「そっか」
「はい」
美耶は悠斗の隣まで歩いてきて、同じように夜空を見上げた。
「綺麗な空ですね……」
「……うん。綺麗だね」
しばらく、二人は何も言わなかった。
風が木々を揺らす。遠くで虫が鳴いている。熱田の通りで感じた視線も、車の音も、ここまでは追ってこないように思えた。
「邪馬台国でも夜空は見えますが、ここまで綺麗ではありません」
「そっか……」
悠斗は美耶の横顔を見た。
彼女の国の空は、どんな色なのだろう。陰の世界に移された国で、星はどれくらい見えるのだろう。
想像しても分からない。
でも、美耶が今この空を綺麗だと思っていることだけは分かった。
また、沈黙が落ちる。
その静けさが、今夜は怖くなかった。
「邪馬台国」
悠斗は空を見上げたまま言った。
「戻せるといいね」
「……はい」
「絶対に戻そう」
「……はい」
美耶の返事は小さかった。けれど、弱くはなかった。
星の光が、彼女の瞳に揺れている。
「戻った後の邪馬台国の空でも」
美耶がぽつりと言った。
「今と同じ空は見えるのでしょうか」
「うん。見えるよ」
悠斗は空の高いところを指さした。
「あの星、見える?」
「はい」
「あれは夏の大三角形って言って、あっちがベガで、あっちがアルタイル」
「べがと、あるたいる?」
美耶が丁寧に繰り返す。
「そう。名前の呼び方は違うかもしれないけど、あの星は千八百年前の空でも、はっきり見えると思う」
「不思議ですね」
「え?」
「時代が違って、遠く離れていても」
美耶は星から目を離さない。
「あの星を見る時は、一瞬で同じものを見られるなんて」
悠斗は返事を忘れた。
それは、ただの天体の話ではなかった。
邪馬台国を戻す。
さっき自分でそう言った。その意味が、星の光の下で急に輪郭を持った。
邪馬台国が戻れば、美耶も戻る。現代ではない。悠斗の隣ではない。千八百年も離れた、本来の時代へ。
守りたいと願っていることは、彼女を遠くへ帰すことでもある。
離れても届く目印。
同じ場所にいられなくても、同じものを見られるという約束。
「私は、あの星を見ながら悠斗を想います」
美耶がこちらを向いた。
「悠斗も、あの星を見ながら私を想ってくれますか?」
「もちろん」
悠斗は迷わなかった。
「俺も、美耶を想いながらあの星を見るよ」
美耶の表情が、泣きそうに揺れた。
「約束です」
「うん、約束」
言葉だけの約束だった。
小指を絡めたわけでも、何かを交換したわけでもない。
それでも、夜空の下で交わしたその言葉は、悠斗の胸の奥に静かに残った。
風が吹いた。
木々がざわめき、美耶の髪が頬にかかる。彼女は小さく肩をすくめた。
「寒い?」
「少しだけ」
「ちょっと待って」
悠斗は上着を脱ごうとした。
しかし、美耶がそっと首を振る。
「大丈夫です」
「でも」
美耶は一歩、近づいた。
そして、ためらいながら悠斗の隣に立ち、肩が触れるほどの距離で体を寄せた。
「これで、温かいですから」
心臓が、はっきりと跳ねた。
美耶の肩が触れている。体温が伝わる。昼間、手を取った時とは違う。逃げるためでも、監視を避けるためでもない。
美耶が、自分の意思で近づいている。
悠斗は動けなかった。
いや、動かなかった。
ここで慌てて離れる方が、彼女の勇気を落としてしまう気がした。
「温かい?」
どうにかそれだけ聞く。
「はい」
美耶は空を見たまま答えた。
「とても」
しばらく二人は、そのまま星を見上げた。
言葉にすると崩れてしまいそうなものが、夜の中に静かに置かれている。
やがて、建物の方から足音が聞こえた。宗一郎だった。少し離れたところで立ち止まり、わざとらしく空を見上げる。
「よい星じゃのう」
悠斗は慌てて離れようとしたが、美耶は肩を寄せたまま動かなかった。宗一郎の眉が少し上がる。けれど、からかう言葉は出てこなかった。
「先生」
後ろから玲奈も出てきた。端末を片手にしているが、画面は閉じられている。
「邪魔をする気はなかったんじゃがな」
「してます」
「手厳しいのう」
宗一郎は苦笑し、それから美耶を見た。
「寒くはないかね」
「大丈夫です」
美耶は答えた。
今度の大丈夫は、不思議と本当に大丈夫そうに聞こえた。宗一郎もそれを感じたのか、静かに頷いた。
「そうか」
玲奈は少し離れた場所で立ち止まり、夜空を見上げる美耶を見ていた。
その横顔は、いつもより硬さが少ない。
宗一郎が低い声で言った。
「陽巫女ではなく、一人の娘として見れば、あれが普通じゃ」
玲奈は答えない。
「怖がりもする。疲れもする。誰かに寄りかかりたくもなる。おぬしたち八咫烏も、わしも、そこを忘れると間違える」
「忘れているつもりはありません」
「つもりでは足りん時がある」
玲奈の指が、端末の縁を少し強く押さえた。
悠斗はその会話を聞いて、玲奈のことも少しだけ考えた。
彼女は助けてくれている。けれど、八咫烏の人間でもある。使命のために情報を選ぶ側でもある。
美耶を人として見ること。
それは悠斗だけの問題ではない。
宗一郎は星を見上げたまま、ぽつりと言った。
「四十年前も、もう少し早くそう思えておればの」
風が抜けた。
その一言だけで、空気が少し重くなる。
美耶が振り返った。
「祖母のことですか」
宗一郎はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷く。
「そうじゃ。美那さんのことじゃ」
美耶の祖母。
三代目の陽巫女。
四十年前に現代へ現れ、若い宗一郎と出会い、そして邪馬台国へ戻った人。
悠斗は、八咫烏の話を聞いた夜を思い出す。宗一郎が守れなかったと悔やみ続けている少女。美耶が、祖母は今も生きていると言った人。
その名前が夜の中に落ちると、星の光まで少し遠くなった気がした。
「今夜は」
宗一郎は言った。
「若い者の約束を見た。なら、わしも逃げてばかりはおれん」
玲奈が宗一郎を見る。
「御影先生」
「明日、話そう」
宗一郎の声は静かだった。
「わしが四十年前に、何を見て、何を信じず、何を取りこぼしたのかを」
美耶の肩が、悠斗に触れたまま少し強張る。
悠斗はそっと手を伸ばした。
今度は、美耶の手を握るためではない。彼女がいつでも握り返せる場所に、自分の手を置くだけだった。
美耶はそれに気づき、迷わず指を重ねた。
夜空の下で交わした約束は、まだ温かい。
けれど、その約束の先には、宗一郎が四十年抱えてきた後悔が待っている。
悠斗は星を見上げた。
同じ空を見る。
そう約束した。
なら、過去から目を逸らすわけにはいかない。
美那という名の少女が、四十年前のこの世界で何を見たのか。
そして宗一郎が、なぜ今もその名を悔いのように抱えているのか。
次に知るべきものは、熱田の影だけではなかった。
夜空の下に残された、もう一つの約束だった。




