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邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


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第17話 美那

 朝になっても、夜空の約束は胸の奥に残っていた。


 山沿いの一時拠点は、市街地よりも朝が静かだった。窓の外には薄い霧が残り、林の向こうから鳥の声が聞こえる。熱田の周辺で感じた監視の気配は、少なくともこの場所までは届いていないように思えた。


 それでも、完全に安心できるわけではない。


 悠斗は休憩室の入口で立ち止まり、畳の上に座っている美耶みやを見た。


 美耶は天岩戸八咫鏡あまのいわとやたのかがみを包んだ布を膝に置き、窓の外を見ていた。髪には莉央からもらったヘアピンが留まっている。現代の服にも、少しだけ慣れてきたように見える。


 けれど、昨日までと同じではなかった。


 悠斗が入ってきたことに気づくと、美耶はすぐにこちらを向いた。


「おはようございます、悠斗」


「おはよう。眠れた?」


「はい。……途中で一度、目は覚めましたけれど」


 そこで美耶は、少しだけ目を伏せた。


 悠斗も返す言葉に詰まる。


 途中で目を覚まし、悠斗を探しに来た。その先で、二人で星を見上げた。ベガとアルタイルの名を教えた。離れた時代に戻っても、同じ星を見て互いを想うと約束した。


 そして、美耶は寒いと言って、悠斗に寄り添った。


 思い出しただけで、耳の奥が熱くなる。


「えっと」


「はい」


「体調は、大丈夫?」


 昨夜と同じ言い方になってしまった。美耶もそれに気づいたのか、少しだけ笑う。


「大丈夫です。今日は、本当に」


「二回言ってないから、信じる」


「では、これからは一回だけ言うようにします」


 美耶は真面目な顔でそう言った。


 悠斗は思わず笑いそうになって、どうにか飲み込んだ。彼女は本気だ。こういうところで笑うと、あとで静かに恥ずかしがる。


 その時、廊下の奥から宗一郎そういちろうの声がした。


「若いのう。朝から空気が甘いわい」


 悠斗は肩を跳ねさせた。


「先生」


「なんじゃ。事実を言っただけじゃろう」


「事実じゃないです」


「ほう」


 宗一郎は湯呑みを片手に、にやりと笑った。昨夜、美耶が悠斗に寄り添っていたところを見ているせいで、反論に力が入らない。


 美耶は悠斗と宗一郎を交互に見て、少し首を傾げた。


「空気は、甘いのですか?」


「美耶、そのまま受け取らなくていい」


「甘い空気というものがあるのかと思いました」


「ない。たぶん」


「ふむ。現代には、目に見えぬ甘いものもあるのですね」


「ないって言ったよね」


 宗一郎が肩を揺らして笑う。


 その笑い方は、昨夜より少しだけ軽かった。けれど、目の奥には眠っていないような重さが残っている。


 美那。


 昨夜、宗一郎はその名を口にした。


 美耶の祖母であり、三代目の陽巫女ひみこ。四十年前に現代へ現れ、若い宗一郎と出会い、そして邪馬台国やまたいこくへ戻った人。


 宗一郎が、四十年抱えてきた後悔の中心にいる人。


 悠斗の胸の奥に、昨夜の星とは別の緊張が生まれる。


 会議室には、簡単な朝食が並べられていた。八咫烏やたがらすの備蓄らしいパンとスープ、紙パックの飲み物。玲奈れいなはすでに端末を開き、夜間に集めた情報を確認している。


「追跡反応は、今のところありません」


 玲奈は画面から顔を上げずに言った。


「ただし、熱田周辺の監視網に動きが出ています。昨日の私たちの行動が、完全に見逃されたとは考えない方がいいでしょう」


「やはり長居はできんか」


「できません。ですが、移動前に確認すべきことがあります」


 玲奈の視線が宗一郎へ向く。


「御影先生。昨夜の話です」


 会議室の空気が、静かに変わった。


 美耶の手が、膝の上でわずかに強く握られる。悠斗はその横に座りながら、彼女の表情を見た。


 怖がっている、というよりも、待っている顔だった。


 祖母のことを聞きたい。けれど、聞けば宗一郎の痛みに触れることも分かっている。そんな顔。


 宗一郎は湯呑みを机に置いた。


「格好いい話にはならんぞ」


 その一言は、昨日までの宗一郎からは少し意外だった。


 悠斗の中で、宗一郎はいつもどこか頼れる大人だった。変わり者で、ふざけたことも言う。けれど、邪馬台国のことになると誰より真剣で、美耶の前では後悔を抱えながらも道を示してくれる。


 その宗一郎が、自分から格好悪さを口にした。


「わしは、最初から邪馬台国を信じていたわけではない」


 宗一郎は言った。


美那みなを見た瞬間に、歴史の真実に目覚めたわけでもない。陽巫女を守らねばならんと、立派な覚悟を持っていたわけでもない」


 美耶が小さく息を呑む。


「四十年前のわしは、考古学者ですらなかった」


 宗一郎は、少しだけ苦笑した。


「大学には籍だけ置いておった。講義にはろくに出ん。金はない。酒は飲む。親とは喧嘩して、ほとんど勘当状態。歴史に興味があったかと言われれば、まあ、試験前に教科書を開く程度じゃな」


「先生が、ですか」


 悠斗は思わず言っていた。


「意外か?」


「はい」


「今のわしを見れば、そう思うのも無理はない。立派な老人に見えるじゃろう」


「そこまでは言ってないです」


「言ってよいんじゃぞ」


 宗一郎は笑ったが、その笑みはすぐに薄くなった。


「当時のわしは、立派とは程遠かった。何かを成し遂げるつもりもなく、かといって真面目に捨て鉢になるほどの度胸もない。ただ、その日をやり過ごしておった」


 その言葉に、悠斗は少しだけ息を止めた。


 止まっていた一年。


 自分の部屋から出られず、時間が同じ場所で固まっていたように感じていた日々。


 宗一郎の若い頃と、自分は違う。そう思いたかった。けれど、どこかで重なるものがあった。


 何者でもないまま、次の日を迎えてしまう感じ。


「そんな時じゃ」


 宗一郎の目が、少し遠くを見る。


「わしは、美那と出会った」


 四十年前。


 夏の夕方だったという。


 若い宗一郎は、安い酒を買う金を残すか、夕飯を少しまともにするかで迷いながら、駅前の古い通りを歩いていた。


 今のようにどこも明るく整っていたわけではない。雑居ビルの看板が並び、電柱には古い広告が貼られ、路地の奥から焼き鳥の匂いが漂っていた。


 その道の端に、自動販売機があった。


 そして、その前に白い衣の女が立っていた。


 最初は、祭りの帰りか何かだと思った。時代劇の衣装のようにも見えた。だが、夕暮れの街中で、その姿はあまりにも浮いていた。


 女は自動販売機をじっと見上げていた。


 それから、真剣な声で言った。


「そなたは、何を売る者ですか」


 若い宗一郎は、立ち止まった。


 普通なら関わらない。変な女だと思って通り過ぎる。それで終わりだったはずだ。


 だが、通り過ぎられなかった。


「顔が、好みじゃった」


 宗一郎が淡々と言った瞬間、悠斗は咳き込んだ。


「先生」


「事実じゃ。ここを美談にすると嘘になる」


 玲奈が無言で額に手を当てる。美耶は意味が分かったような、分からないような顔で瞬きをした。


「好み、とは」


「美耶、聞かなくていい」


「ですが、祖母の話です」


「なおさら聞かなくていい気がする」


 宗一郎は気にせず続けた。


「とにかく、若いわしは不純な理由で足を止めた。白い衣の女が自動販売機に話しかけている。しかも、顔が好み。これは何かの縁か、厄介事か、その両方じゃと思った」


 若い宗一郎は、軽い調子で声をかけた。


「それは人じゃない。自販機だ」


 白い衣の女は振り向いた。


 長い髪が夕日に透け、目がまっすぐ宗一郎を見る。警戒よりも、好奇心の方が強い目だった。


「じはんき」


「自動販売機。金を入れると飲み物が出る」


「神具ですか」


「違う」


「では、巫術ですか」


「もっと違う」


 女は自動販売機へ向き直り、硬貨投入口を覗き込んだ。


「この小さな穴に、金を捧げるのですね」


「捧げるな。入れるんだ」


「入れると、甘い水が出るのですか」


「甘いのもある」


 女の目が、ぱっと明るくなった。


「甘い水」


 その反応があまりに素直で、若い宗一郎は少し気をよくした。財布を開くと、ぎりぎり残っていた小銭を入れた。


「どれがいい」


「どれが甘いのですか」


「たぶん、これ」


 宗一郎は缶の果汁飲料を選んだ。機械の中で音がして、取り出し口に缶が落ちる。


 女はびくっと身を引いた。


「中で、何かが落ちました」


「飲み物だよ」


 若い宗一郎が缶を取り出して渡すと、女は両手で受け取った。まるで貴重な祭具でも扱うように、缶の表面を撫でる。


「冷たい」


「飲むものだからな」


「この銀の筒を、どう開けるのですか」


「そこからか」


 若い宗一郎は缶のプルタブを起こしてやった。ぱしゅ、と音がする。女はまた肩を跳ねさせる。


 そして、おそるおそる口をつけた。


 一口飲んだ瞬間、女の表情が変わった。


「甘い」


「そりゃよかった」


「とても、甘い」


 女はもう一度飲み、今度は目を細めた。嬉しそうだった。見知らぬ街の中で、一つだけ宝物を見つけたみたいに。


 若い宗一郎は、その顔を見て思った。


 変な女だ。


 けれど、悪い女ではなさそうだ。


「で、あんた何者だ。祭りの帰りか?」


 女は缶を大事そうに持ったまま、姿勢を正した。


「私は、美那」


 その名を、宗一郎は四十年経っても忘れなかった。


「邪馬台国、三代目陽巫女・美那です」


 若い宗一郎は、しばらく黙った。


 それから、言った。


「なるほど。変な女だったか」


 美那は不思議そうに首を傾げた。


「私は、変なのですか」


「自動販売機に話しかけて、邪馬台国から来たって名乗る女は、だいたい変だ」


「そうなのですか」


「そうだ」


「では、気をつけます」


「気をつけるところ、そこか?」


 美那は真剣に頷いたという。


 その真剣さが、かえって若い宗一郎を困らせた。


 嘘をついているようには見えない。だが、本当のことを言っているとも思えない。邪馬台国。陽巫女。そんなものを信じる理由は、当時の宗一郎にはなかった。


 ただ一つ分かったのは、この女を一人にしておくと、すぐに面倒なことになるということだった。


 車道へ出ようとして車の音に驚き、信号機を祭具かと尋ね、店先のテレビに映る人間を「箱の中に閉じ込められているのですか」と心配する。


 若い宗一郎は、何度も頭を抱えた。


「帰る場所は?」


「邪馬台国です」


「それ以外で」


「今は、ありません」


「知り合いは」


「この陽の世界には、いません」


「金は」


「これは金ですか」


 美那は缶のふたを見せた。


「違う」


「では、ありません」


 若い宗一郎は、夕暮れの通りで深くため息をついた。


 関わらない方がいい。


 そう思った。


 思ったのに、足は動かなかった。


 美那は、街の何もかもを知らなかった。けれど、ただ怯えているだけではない。見たことのないものを一つ一つ確かめ、驚き、目を輝かせる。


 危ういほど無防備で、腹が立つほどまっすぐだった。


「まあ、放っておくと警察に連れていかれそうだったしの」


 現在の宗一郎は、そこで少し肩をすくめた。


「それに、何度も言うが、顔が好みじゃった」


「先生、そこは一回でいいです」


「大事なことじゃ」


 玲奈が低く言う。


「御影先生」


「分かっとる」


 宗一郎は咳払いをした。


「とはいえ、助けたなどと言えるものではない。少なくとも最初はな。わしは、美那を信じたから手を貸したわけではない。ただ、放っておけなかっただけじゃ」


 その言葉が、悠斗の胸に落ちた。


 光の中から現れた美耶を、放っておけなかった。


 最初から邪馬台国のために命を懸ける覚悟があったわけじゃない。陽巫女を守る使命を理解していたわけでもない。美耶が怖がっていて、現代の道で一人では危なっかしくて、宗一郎のところへ連れて戻った。


 それが始まりだった。


 でも、今は違う。


 美耶の帰る場所を守りたいと思っている。


 昨夜、星の下でそう思った。


 宗一郎の過去は、悠斗の今と似ている。けれど、全く同じではない。


「その後、美那さんは先生のところに?」


 悠斗が尋ねると、宗一郎は頷いた。


「当時のわしの住まいは、安い古いアパートじゃ。人を泊めるような部屋ではなかった。畳は傷んでおるし、台所は狭いし、隣の音は筒抜け。今思えば、よくあんなところに連れていったものじゃ」


「美那さんは、怖がらなかったんですか」


 美耶が静かに聞いた。


 宗一郎は少し目を細める。


「怖がってはおったよ。だから、まず聞いた。おぬしは何者で、どこから来て、なぜそんな格好で街に立っておるのかとな」


 若い宗一郎は、狭い部屋の戸を閉めるなり、美那をちゃぶ台の前に座らせた。


 外では車が走り、隣の部屋からはテレビの音が漏れている。そんな普通の生活音の中に、白い衣の女だけが異物のように正座していた。


「で」


 若い宗一郎は腕を組んだ。


「もう一回聞く。名前は」


「美那です」


「どこの人間だ」


「邪馬台国の者です」


「それはさっき聞いた。住所は」


「じゅうしょ」


「住んでいる場所」


「邪馬台国です」


「だから、それがどこにある」


 美那は少し考え、真面目な顔で答えた。


「陰の世界に」


 若い宗一郎は、しばらく黙った。警察か、病院か、変な新興宗教から逃げてきた女か。どれもあり得る気がして、どれもしっくり来なかった。


「年は」


「十八です」


「家族は」


「います。母も、父も」


 そこで、美那の指が缶の表面を少し強く押さえた。


「ですが、今は会えません」


 若い宗一郎は、ふざけた問いを続ける気を失った。


「家出か」


「違います」


「誰かに追われてるのか」


 美那はすぐには答えなかった。


 沈黙が、答えの代わりになった。


「おい」


「……分かりません」


「分からない?」


「陽の世界には、陽巫女を狙う者がいると聞いています。でも、今この近くにいるかどうかは、分かりません」


「陽巫女」


「はい。私は、三代目の陽巫女です。邪馬台国を、元の世界へ戻す役目です」


 美那は胸元の鏡に手を添えた。


 若い宗一郎は、そこで初めて彼女の言葉を笑い飛ばせなくなった。


 話の中身は無茶苦茶だ。邪馬台国。陰の世界。陽巫女。元の世界へ戻す。どれもまともに信じられるものではない。それなのに、美那の声だけは冗談ではなかった。


「……目的は」


「界裂草薙剣を探すことです」


「草薙剣?」


「はい」


「熱田にあるってやつか」


「あつた」


 美那はその名を知らないように繰り返した。


「分からないのか」


「私が知っているのは、イーラ様が陽の世界に残された剣がある、ということだけです」


 若い宗一郎は頭をかいた。


 やはり変だ。変なのに、話が完全に壊れているわけではない。草薙剣。邪馬台国。古代。神話。どこかで聞いた名ばかりが、彼女の口から別の形で出てくる。


「じゃあ、最初にすることは二つだ」


「二つ」


「まず、外をうろつくな。その格好だと目立つ」


「はい」


「それから、腹は」


「腹」


「減ってるか」


 美那は少し驚いた顔をした。


 そして、恥ずかしそうに目を伏せる。


「……少し」


「少しって顔じゃないな」


 若い宗一郎は立ち上がった。


 何を信じたわけでもない。まだ、何一つ分からない。それでも、目の前の女は腹を空かせていて、行く場所がなく、誰かに追われているかもしれなかった。


「ただ、それ以上に忙しそうでもあった」


「忙しい?」


「見るものすべてに驚くからの」


 美那は、部屋に入るなり蛍光灯を見上げた。


「天に火がありません。なのに明るい」


「電気だ」


「でんき」


「説明は難しい」


「では、後で教えてください」


「後でな」


 冷蔵庫を開ければ、冷たい空気に目を丸くした。


「小さな冬が入っています」


「冷蔵庫だ」


「れいぞうこ」


「食べ物を冷やす箱」


「箱の中に冬を閉じ込めるのですね」


「言い方」


 テレビをつければ、画面の中の人間に向かって慌てて正座した。


「この方々は、ここから出られないのですか」


「出られないわけじゃない。映ってるだけだ」


「映る」


「遠くの出来事を、ここで見られる」


「遠見の術ですか」


「そう言った方が早いかもしれん」


 美那は現代の物に触れるたび、子供のように驚いた。


 けれど、無邪気なだけではなかった。


 ふとした瞬間に、胸元の鏡を押さえる。窓の外の音に反応して、すぐに身を固くする。誰かが廊下を歩く足音がすると、息を殺してじっとしている。


 自分が追われていることを、彼女は知っていた。


 若い宗一郎は、それでもまだ半信半疑だった。


 不思議な女を拾った。


 何か事情がある。


 けれど、邪馬台国だの、陽巫女だの、陰の世界だの、そんな話は信じられない。


「祖母は、何を探していたのですか」


 美耶の声が少し震えた。


 宗一郎は、美耶をまっすぐ見た。


界裂草薙剣かいれつくさなぎのつるぎじゃ」


 その名が出た瞬間、会議室の空気が締まる。


「美那は、草薙剣に関わる手がかりを探すために陽の世界へ来た。だが、当時のわしには何も分からん。草薙剣といえば神話の剣、熱田にあるとされるもの。その程度じゃ。邪馬台国とのつながりなど、考えたこともなかった」


「それでも、調べたんですか」


「少しはな。美那があまりに真剣だったからじゃ」


 若い宗一郎は、大学の図書館に久しぶりに足を運んだ。


 邪馬台国。卑弥呼。台与。草薙剣。熱田。古事記。日本書紀。


 それまで試験のために流し読みしていた文字が、美那という一人の少女を通すと、急に別の重さを持ちはじめた。


 ただ、当時の宗一郎には知識がなかった。資料のどこを読めばいいのかも分からない。伝承と史料の違いも曖昧で、何が信じられる記録なのか判断できない。


 美那は隣で、慣れない文字に目を凝らしていた。


「この字は、何と読みますか」


「それは、くさなぎ」


「くさなぎ」


「草を薙ぐ、って書く」


「界裂とは、書かれていないのですね」


「界裂?」


「世界の境を裂く剣です。イーラ様が、陽の世界に残されたもの」


 若い宗一郎は、その時もまだ信じきれなかった。


 だが、美那の声には嘘がなかった。


 作り話にしては、あまりにも痛そうだった。


「その時、先生は信じたんですか」


 悠斗が聞くと、宗一郎は首を横に振った。


「いや」


「まだ、ですか」


「まだじゃ。信じたいと思い始めてはいた。だが、信じたと言うには臆病すぎた」


 宗一郎は、自分の手元を見た。


 年老いた指が、湯呑みの縁に触れている。


「信じるというのは、話を面白がることではない。相手の言葉を本物として、自分も傷つく場所へ足を踏み入れることじゃ」


 悠斗は黙った。


 その言葉は、今の自分にも向けられている気がした。


 美耶が邪馬台国から来たと知った。天叢機関に追われた。八咫烏に助けられた。記録を読んだ。


 それでも、本当に信じるとは何か。


 美耶の帰る場所を守ると決めること。彼女が帰らなければならない未来から、目を逸らさないこと。


 昨夜の約束が、また胸の奥で光る。


「では」


 美耶が静かに口を開いた。


「祖母のことを、本当に信じたのは、いつだったのですか」


 悠斗も同じことを聞きたいと思っていた。


 宗一郎はすぐには答えなかった。


 窓の外では、朝の霧が少しずつ薄くなっている。夜空の星はもう見えない。けれど、昨夜見上げた星の位置だけは、悠斗の中にまだ残っていた。


 宗一郎は深く息を吐いた。


「追っ手が現れた」


 玲奈の指が、端末の上で止まる。


 美耶の肩が小さく揺れた。


「追っ手……」


「ああ」


 宗一郎の声が低くなる。


「白い衣の女を見なかったか。そう聞いて回る男たちが、アパートの近くに現れた。美那が語った陽の世界の敵が、作り話ではなかったと知ったのは、その時じゃ」


 悠斗は息を呑んだ。


 四十年前の追っ手。


 天叢機関の前身か、九条につながる者たちか。今の彼らを追う影と同じ根を持つ敵。


 宗一郎は湯呑みから手を離した。


「そこから先は、もっと格好悪い話になる」


 誰も、茶化さなかった。


 宗一郎の横顔には、昨夜星を見上げていた時と同じ後悔があった。けれど、今は逃げていない。


「わしは美那を守った英雄ではない」


 宗一郎は言った。


「ただ、逃がすことしかできなかった男じゃ」


 美耶が膝の上の鏡を抱きしめる。


 悠斗は、その横で拳を握った。


 四十年前、若い宗一郎は美那を信じた。


 だが、信じただけでは足りなかった。


 その先に何があったのか。


 なぜ宗一郎は、今も美那の名を悔いのように抱えているのか。


 朝の光が会議室に差し込んでくる。


 けれど、宗一郎が開こうとしている過去は、まだ深い夜の底にあった。


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