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邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


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19/31

第18話 逃がすことしかできなかった

 宗一郎そういちろうは、少しだけ黙った。


 会議室の窓から朝の光が入っている。山沿いの一時拠点は静かで、遠くから鳥の声が聞こえた。けれど、その穏やかさは、宗一郎の語ろうとしている過去とはまるで合っていなかった。


 美耶みやは膝の上の天岩戸八咫鏡あまのいわとやたのかがみを抱えたまま、息を潜めるようにして座っている。


 祖母の話だ。


 けれど、それはただ懐かしい話ではない。四十年前、美那みながこの世界で追われた話。宗一郎が、美那を信じた話。そして、守りきれなかった話。


 悠斗は、宗一郎の横顔を見た。


 年老いた考古学者の顔に、若い頃の頼りなさは残っていない。けれど、後悔だけは消えていないのだと分かった。


「追っ手が現れたのは、美那を部屋に入れてから数日後じゃった」


 宗一郎は言った。


「それまでのわしは、まだどこかで逃げ道を残しておった。変な女を拾った。事情があるらしい。邪馬台国だの陽巫女だのは信じられんが、放っておくのも寝覚めが悪い。そんな程度じゃ」


 自分を責めるような言い方だった。


「だが、敵は待ってくれん」


 四十年前。


 若い宗一郎は、古いアパートの一室で目を覚ました。


 畳の上には、脱ぎ散らかした服。ちゃぶ台には、読みかけの本と開きっぱなしのノート。台所には洗っていない食器が積まれている。


 その部屋の隅で、美那は古いテレビをじっと見ていた。


 画面には朝のニュースが流れている。美那は正座したまま、映るアナウンサーに向かって小さく会釈していた。


「出られない方に、毎朝挨拶する必要はない」


 若い宗一郎が寝ぼけた声で言うと、美那は真面目に振り返った。


「ですが、この方は毎朝こちらを見ています」


「見てない。映ってるだけだ」


「映るとは、不思議ですね」


「昨日も言った」


「昨日聞いても、今日も不思議です」


 美那は本気だった。


 それが、若い宗一郎には少し面倒で、少し可笑しかった。


 彼女は何にでも驚いた。水道の蛇口をひねれば水が出ることに驚き、ガスコンロの火に身を引き、電車の音が遠くから聞こえるだけで窓へ駆け寄る。


 だが、ただ浮かれているわけではない。


 夜になると、胸元の鏡を抱えて眠る。人の足音が廊下で止まると、すぐに息を潜める。外へ出る時は、白い衣の上に宗一郎の古い上着を羽織っても、目立つことを気にしていた。


 自分が危険な場所にいることを、美那は理解していた。


 それでも、彼女は探そうとした。


「今日も、草薙剣を調べに行くのですか」


 美那が尋ねる。


「行くには行くが、期待するな」


 若い宗一郎は頭をかいた。


「大学の資料室なんぞ、まともに使ったことがない。どの本を見ればいいのかも分からん」


「でも、昨日より少し分かりました」


「何が」


「くさなぎ、という字です」


「そこからか」


 美那は頷いた。


「一つ分かれば、次も分かります」


 その言い方があまりにもまっすぐで、若い宗一郎は返す言葉を失った。


 美那は頼りない。


 現代のことを何も知らない。硬貨の使い方も、信号の見方も、電話の意味も分からない。放っておけば、また自動販売機に話しかけるだろう。


 けれど、目的だけは揺れていなかった。


 邪馬台国を戻す。


 そのために、界裂草薙剣かいれつくさなぎのつるぎの手がかりを探す。


 若い宗一郎は、半分も信じていなかった。それでも、美那が笑ったり、驚いたり、眠る前に小さく故郷の名をつぶやいたりするたび、嘘だと決めつけることもできなくなっていた。


 昼前、二人は大学へ向かった。


 美那には、宗一郎の古いシャツと上着を着せた。裾も袖も合っていない。髪はできるだけ目立たないように結ばせたが、それでもどこか浮いていた。


「変ではありませんか」


 美那が不安そうに聞いた。


「変だ」


「そうですか」


「ただ、白い衣で歩くよりはましだ」


「では、ましで行きます」


「言い方」


 若い宗一郎はそう言いながら、少しだけ笑った。


 大学の資料室で、宗一郎は久しぶりに真面目な顔で本を開いた。


 邪馬台国。卑弥呼。台与。草薙剣。熱田。古代王権。


 文字はある。名前もある。けれど、美那が語る世界とは噛み合わない。界裂草薙剣という名は出てこない。陰の世界も、陽巫女の役目も、どこにも書かれていない。


「ないな」


 若い宗一郎は本を閉じた。


「どこにも、そんな剣は載っていない」


 美那は膝の上で手を重ねた。


「隠されたのかもしれません」


「都合よく考えるな」


「都合よくではありません」


 美那の声が、少しだけ強くなった。


「邪馬台国が消えたことを、陽の世界の人々は正しく覚えていません。なら、剣の名も正しく残っていないかもしれません」


 若い宗一郎は黙った。


 その理屈は、乱暴だ。だが、完全には否定できなかった。


 正しく残っていない。


 歴史をまともに学ぼうとしなかった宗一郎にとって、その言葉は嫌に引っかかった。


 資料室を出た帰り道で、最初の異変があった。


 アパートの近くにある小さな商店の前で、顔なじみの店主が宗一郎を呼び止めた。


「御影くん」


「何です」


「昨日、変な人たちが来てたよ」


「変な人?」


「背広の男が二人。白い服の女の子を見なかったかって。警察みたいな口ぶりだったけど、名乗りはしなかったね」


 宗一郎の背中に、冷たいものが落ちた。


 隣で美那の足が止まる。


 店主は気づかず続けた。


「この辺じゃ見ない子だろうって聞いて回ってた。御影くん、何か知らない?」


「知りませんよ」


 若い宗一郎は、思ったより自然に嘘をついた。


「そうかい。まあ、変なことに巻き込まれないようにね」


 店主が店の奥へ戻る。


 宗一郎は、しばらく動けなかった。


 白い服の女。


 美那が語っていた、陽の世界で陽巫女を狙う者たち。


 それが、今、自分の生活圏に来ている。


 妄想ではない。


 作り話ではない。


 少なくとも、美那を探している誰かは実在する。


「宗一郎」


 初めて、美那が名を呼んだ。


 若い宗一郎は振り返る。


 美那の顔から、血の気が引いていた。


「あの者たちかもしれません」


「分かってる」


「私は、ここを離れます」


「待て」


「私がいれば、そなたも危ない」


「今さらだろうが」


 口から出た言葉に、宗一郎自身が驚いた。


 今さら。


 そうだ。もう今さらだった。


 美那を部屋に入れた。資料室にも連れていった。近所の店主には見られたかもしれない。知らないふりで切り抜けられる段階は、とっくに過ぎている。


「部屋に戻るぞ」


「ですが」


「荷物を取る。鏡もある。白い衣もある。置いていくな」


 美那は少しだけ目を見開いた。


「……はい」


 二人は足早にアパートへ戻った。


 だが、遅かった。


 階段の下に、背広の男が一人立っていた。


 夏なのに、汗一つかいていないように見える男だった。年齢は三十代半ばほど。穏やかな顔をしているのに、目だけが人を測るように冷たい。


 男は、宗一郎と美那を見た。


 それだけで、美那の手が宗一郎の袖をつかんだ。


「御影宗一郎さんですね」


 男が言った。


 若い宗一郎は息を止めた。


「どちら様で」


「少し、お話を伺いたい」


「忙しいんで」


「そちらの女性についてです」


 男の視線が、美那に向く。


 宗一郎は、考えるより先に一歩前へ出ていた。


「知らない女です」


「そうですか」


 男は薄く笑った。


「では、なぜ庇う」


 答えられなかった。


 答えられないまま、二階の廊下から別の足音がした。


 もう一人いる。


 挟まれている。


 若い宗一郎の頭の中が、真っ白になった。


 どうする。


 警察を呼ぶか。叫ぶか。殴るか。逃げるか。


 どれも正解に思えず、どれも遅い気がした。


 美那の指が、袖を強く握る。


 その感触で、宗一郎の体が先に動いた。


「走れ!」


 美那の手をつかんで、横の路地へ飛び込む。


「どこへですか」


「分からん!」


「分からずに走っているのですか」


「だから走るんだよ!」


 背後で男たちの足音が鳴った。


 狭い路地を抜け、ゴミ置き場を越え、商店街の裏へ出る。美那は現代の靴に慣れておらず、何度も足をもつれさせた。


「美那、こっちだ!」


「はい」


 名前を呼んだ。


 それが自然に出たことに、若い宗一郎は気づかなかった。


 車道へ出る直前、男の一人が追いついた。


 美那の腕をつかむ。


「っ」


 美那が小さく声を上げた。


 その瞬間、宗一郎の中で何かが切れた。


 殴り方なんて知らない。


 喧嘩に強かったわけでもない。


 だが、体だけは入った。


 宗一郎は男と美那の間に肩から飛び込み、二人まとめて地面に倒れ込んだ。


 肘を打ち、息が詰まり、頬を擦った。痛みで視界が白くなる。


「行け!」


 若い宗一郎は叫んだ。


 だが、美那は逃げなかった。


 倒れた宗一郎の腕をつかみ、必死に引っ張る。


「宗一郎も!」


 その呼び方に、宗一郎は息を呑んだ。


 美那は、初めて彼をただの案内役ではなく、名前で呼んだ。


「立ってください!」


「無茶言うな……!」


「無茶でも、立ってください!」


 美那の声が震えている。


 怖いのに、逃げない。


 宗一郎は歯を食いしばって立ち上がった。


 二人は、通りに出て、ちょうど発車しかけていた路線バスに飛び乗った。運転手が怒鳴ったが、宗一郎は小銭をばらばらと運賃箱へ放り込み、後ろの席へ美那を押し込む。


 バスが動き出す。


 窓の外で、背広の男たちが小さくなっていった。


 美那は息を切らしながら、宗一郎の頬を見た。


「血が」


「かすり傷だ」


「痛いですか」


「痛いに決まってる」


「すみません」


「謝るな」


 宗一郎は窓の外を見た。


 手が震えていた。


 怖かった。


 本当に怖かった。


 だが、それ以上に腹が立っていた。


 何も知らないまま、美那を笑っていた自分に。信じるかどうかを、どこか他人事のように考えていた自分に。


 追っ手は実在した。


 美那は、現実に狙われていた。


 それなら、彼女が語る邪馬台国も、陽巫女も、界裂草薙剣も、もうただの作り話として片づけることはできない。


「美那」


「はい」


「話せ」


 若い宗一郎は言った。


「分かるところからでいい。邪馬台国のこと。お前の役目。何を探していて、何から逃げているのか。全部だ」


 美那は、宗一郎を見つめた。


 その目に、驚きと、ほんの少しの安堵が混じる。


「信じて、くださるのですか」


「信じるしかないだろうが」


 宗一郎は乱暴に答えた。


「あんな連中に追われてる女を、変な女で済ませられるか」


 美那は、泣きそうに笑った。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは早い。俺は何も分かってない」


「それでも」


 美那は胸元の鏡を抱いた。


「一人ではないと思えました」


 バスは知らない町へ向かって走っていた。


 若い宗一郎には、目的地などなかった。ただ、アパートへは戻れない。大学にも行けない。金もほとんどない。頼れる知人もいない。


 それでも、美那の手だけは離せなかった。


 その日の夜、二人は駅から離れた安い宿に身を隠した。


 宗一郎の財布はほとんど空になった。宿帳にはでたらめな名前を書いた。美那は小さな部屋に入ると、まず窓の外を確認し、それから鏡を畳の上に置いた。


「長くは、いられません」


 美那は言った。


「追っ手は、また来ます」


「分かってる」


「宗一郎」


 美那の声は静かだった。


「私は、邪馬台国へ戻ります」


 若い宗一郎は、すぐには返事ができなかった。


「何だと」


「捕まる前に、戻らなければなりません」


「剣はどうする」


「見つけられませんでした」


「まだ探せる」


「いいえ」


 美那は首を振った。


「私が捕まれば、鏡も、陽巫女の役目も、邪馬台国のことも知られてしまいます。そうなれば、次の陽巫女も危うくなります」


「次の陽巫女って何だ」


「私が戻れず、役目を果たせなかった時、それでもいつか、また誰かが陽の世界へ来ます」


 その声は、十八歳の少女のものとは思えないほど重かった。


 けれど、震えていた。


 怖くないわけがない。


 美那も、逃げたいのだ。助かりたいのだ。誰かに任せたいのだ。


 それでも、自分が捕まる前に帰るしかないと分かっている。


「嫌だ」


 宗一郎は言った。


 自分でも驚くほど、子供じみた声だった。


「そんなの、何も解決してないだろうが」


「はい」


「剣も見つかってない」


「はい」


「敵の正体も分からん」


「はい」


「俺は、何もできてない」


 美那は、少しだけ目を伏せた。


「宗一郎は、私を逃がしてくれました」


「逃がしただけだ」


「それでも、助かりました」


「違う」


 若い宗一郎は拳を握った。


「違うんだよ。そんなものは、助けたうちに入らん」


 美那は困ったように笑った。


「そなたは、頼りない方ですね」


「今それを言うか」


「はい」


 美那は宗一郎をまっすぐ見た。


「でも、悪い方ではありません」


 言葉が胸に刺さった。


 褒められたのか、呆れられたのか、分からない。けれど、その声は優しかった。


「宗一郎」


 美那は、膝の上で手を重ねた。


「邪馬台国のことを、忘れないでください」


「忘れるわけないだろ」


「いつか、次の陽巫女が現れた時は」


 美那の声が、少しだけ揺れた。


「その子を、助けてください」


 若い宗一郎は、すぐには答えられなかった。


 次の陽巫女。


 美那ではない誰か。


 つまり、美那は、自分が戻った後も、この役目が終わらないことを知っている。


 そして、自分ではない誰かのために、目の前の頼りない男へ願いを預けようとしている。


「ふざけるな」


 宗一郎は低く言った。


 美那が目を見開く。


「俺は、おぬしを助けたいんだ」


「……はい」


「次の誰かじゃない」


「はい」


「なのに、お前はもう次の話をしている」


「それが、陽巫女の役目です」


「そんな役目、知るか」


 言ってから、宗一郎は唇を噛んだ。


 美那を傷つけたかもしれない。


 だが、美那は怒らなかった。


「宗一郎がそう言ってくれることが、少し嬉しいです」


 その言葉の方が、よほど残酷だった。


 少し嬉しい。


 それだけで足りると思っているような声だった。


 深夜、鏡が淡く光り始めた。


 天岩戸八咫鏡。


 美那が来た時に持っていた神器。その光は、現代の蛍光灯とも、街灯とも違っていた。白く、静かで、触れれば向こう側へ落ちてしまいそうな光。


「時間です」


 美那は立ち上がった。


「待て」


 宗一郎も立ち上がる。


「まだ何も聞けてない。邪馬台国の場所も、陰の世界のことも、剣の手がかりも」


「すべては話せません。話せば、宗一郎も狙われます」


「もう狙われてる」


「それでも、これ以上は」


 美那は首を振った。


「そなたは、陽の世界の人です」


「だから何だ」


「生きてください」


 宗一郎は、言葉を失った。


 美那は胸元の鏡へ手を添え、それから宗一郎へ向き直る。


「宗一郎」


「何だ」


「もし、次の陽巫女が来たら」


「聞いた」


「今度は、逃がすだけで終わらせないでください」


 その言葉が、若い宗一郎の心を貫いた。


 逃がすだけ。


 美那は分かっていた。


 宗一郎が今、どれほど無力か。何も分からず、何も持たず、ただ追っ手から走って逃げることしかできなかったことを。


 責めているのではない。


 だからこそ、つらかった。


「約束する」


 宗一郎は言った。


「今度は、逃がすだけじゃ終わらせない」


 美那は、少しだけ笑った。


「はい」


 光が強くなる。


 宗一郎は、手を伸ばした。


「美那」


 呼ぶと、美那は振り返った。


「また会えるか」


 美那は答えなかった。


 代わりに、困ったように笑った。


 その笑みだけで、宗一郎は答えを知ってしまった。


 会える保証などない。


 美那は、帰らなければならない。宗一郎のいる時代ではなく、彼女の国へ。崩れかけた邪馬台国へ。


 それでも、宗一郎は言った。


「必ず、また会う」


 美那は光の中で目を細めた。


「宗一郎」


「何だ」


「甘い水は、おいしかったです」


 そんなことを言うのか、と宗一郎は思った。


 こんな時に。


 別れの言葉が、それなのか。


 だが、美那らしいと思ってしまった。


 次の瞬間、光が部屋を満たした。


 宗一郎は目を開けていられなかった。


 光が収まった時、そこに美那はいなかった。


 畳の上には、彼女が着ていた古い上着だけが落ちていた。


 宗一郎は、しばらく立ち尽くした。


 追っ手から逃げた。


 美那を帰した。


 約束をした。


 けれど、何一つ解決していなかった。


 界裂草薙剣は見つからない。敵の名も分からない。邪馬台国がどこにあるのかも、どう戻せばいいのかも分からない。


 ただ、美那だけが消えた。


 若い宗一郎は、その夜、初めて本気で歴史の本を開いた。


 そこに美那の名はなかった。


 邪馬台国の消失も、陽巫女の役目も、界裂草薙剣の真実も、どこにも書かれていなかった。


 なら、探すしかない。


 四十年前のその夜、御影宗一郎はようやく、逃げるのをやめた。


     * 1 *


 宗一郎の語りが途切れた。


 会議室には、誰の声もなかった。


 美耶は鏡を抱えたまま、じっと俯いている。唇を噛んではいない。泣いてもいない。ただ、祖母がこの世界で何を見て、何を託して帰ったのかを、ひとつずつ胸に入れているようだった。


 悠斗は、言葉を探した。


 けれど、簡単な慰めは出てこなかった。


 宗一郎が何もできなかったわけではない。美那を逃がした。名前を呼び、手を引き、追っ手から守ろうとした。


 でも、宗一郎自身はそれを助けたとは思っていない。


 逃がすことしかできなかった。


 その言葉の重さが、今になって分かった。


「祖母は」


 美耶が静かに言った。


「御影様のことを、覚えています」


 宗一郎の指が、かすかに動いた。


「そうか」


「頼りないけれど、優しい方だったと」


 宗一郎は、目を閉じた。


 深い息が、ゆっくりと吐き出される。


「最後まで頼りないままじゃったか」


「でも」


 美耶は顔を上げた。


「祖母は、御影様のことを悪く言ったことはありません」


 宗一郎は答えなかった。


 玲奈が、端末を閉じる音がした。


「御影先生」


「何じゃ」


「八咫烏は、四十年前も三代目陽巫女を守れなかった。その負債は、組織として引き受けるべきものです」


 宗一郎は小さく笑った。


「おぬしがそう言うとはの」


「美耶さんを、同じように逃がすだけで終わらせるつもりはありません」


 玲奈の声は硬かった。


 だが、ただの任務の硬さではなかった。


 悠斗は、美耶を見た。


 昨夜、星を見ながら約束した。


 美耶が元の時代へ戻っても、同じ星を見て互いを想うと。


 でも、それはただ帰せばいいという意味ではない。


 逃がすだけで終わらせてはいけない。


 美耶の帰る場所を、ちゃんと戻す。美耶が、追われて、傷ついて、仕方なく消えるのではなく、自分の意思で帰れるようにする。


 そのために、悠斗はここにいる。


「俺も」


 悠斗は言った。


 声が少し震えた。


 それでも、言わなければならないと思った。


「俺も、逃がすだけで終わらせたくないです」


 宗一郎が悠斗を見る。


 美耶も、こちらを向いた。


「美耶を守りたいです。でも、それだけじゃ足りないんですよね」


 昨夜の星を思い出す。


 同じものを見る約束。


 離れる未来から目を逸らさない約束。


「美耶が帰る場所も、ちゃんと守りたい」


 美耶の瞳が揺れた。


「悠斗……」


「だから、逃げるだけじゃなくて、戻す方法を探します」


 宗一郎は、長い沈黙の後で頷いた。


「それでよい」


 その声は、少しだけ掠れていた。


「わしが四十年かけて、ようやくたどり着いたところじゃ。おぬしは、そこから始めればよい」


 悠斗は頷いた。


 美耶は鏡を抱えた手を、少しだけ緩めた。


 宗一郎の過去は、終わった話ではなかった。


 四十年前に逃がすことしかできなかった少女の願いは、今、美耶へつながっている。


 そして悠斗は、その願いを、ただ受け取るだけでは済まされない場所に立っていた。


 朝の光が、会議室の机を照らしている。


 外では、鳥が鳴いている。


 世界は何事もなかったように明るくなっていく。


 けれど悠斗の中では、ひとつの言葉が消えずに残っていた。


 逃がすだけで、終わらせない。


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