第18話 逃がすことしかできなかった
宗一郎は、少しだけ黙った。
会議室の窓から朝の光が入っている。山沿いの一時拠点は静かで、遠くから鳥の声が聞こえた。けれど、その穏やかさは、宗一郎の語ろうとしている過去とはまるで合っていなかった。
美耶は膝の上の天岩戸八咫鏡を抱えたまま、息を潜めるようにして座っている。
祖母の話だ。
けれど、それはただ懐かしい話ではない。四十年前、美那がこの世界で追われた話。宗一郎が、美那を信じた話。そして、守りきれなかった話。
悠斗は、宗一郎の横顔を見た。
年老いた考古学者の顔に、若い頃の頼りなさは残っていない。けれど、後悔だけは消えていないのだと分かった。
「追っ手が現れたのは、美那を部屋に入れてから数日後じゃった」
宗一郎は言った。
「それまでのわしは、まだどこかで逃げ道を残しておった。変な女を拾った。事情があるらしい。邪馬台国だの陽巫女だのは信じられんが、放っておくのも寝覚めが悪い。そんな程度じゃ」
自分を責めるような言い方だった。
「だが、敵は待ってくれん」
四十年前。
若い宗一郎は、古いアパートの一室で目を覚ました。
畳の上には、脱ぎ散らかした服。ちゃぶ台には、読みかけの本と開きっぱなしのノート。台所には洗っていない食器が積まれている。
その部屋の隅で、美那は古いテレビをじっと見ていた。
画面には朝のニュースが流れている。美那は正座したまま、映るアナウンサーに向かって小さく会釈していた。
「出られない方に、毎朝挨拶する必要はない」
若い宗一郎が寝ぼけた声で言うと、美那は真面目に振り返った。
「ですが、この方は毎朝こちらを見ています」
「見てない。映ってるだけだ」
「映るとは、不思議ですね」
「昨日も言った」
「昨日聞いても、今日も不思議です」
美那は本気だった。
それが、若い宗一郎には少し面倒で、少し可笑しかった。
彼女は何にでも驚いた。水道の蛇口をひねれば水が出ることに驚き、ガスコンロの火に身を引き、電車の音が遠くから聞こえるだけで窓へ駆け寄る。
だが、ただ浮かれているわけではない。
夜になると、胸元の鏡を抱えて眠る。人の足音が廊下で止まると、すぐに息を潜める。外へ出る時は、白い衣の上に宗一郎の古い上着を羽織っても、目立つことを気にしていた。
自分が危険な場所にいることを、美那は理解していた。
それでも、彼女は探そうとした。
「今日も、草薙剣を調べに行くのですか」
美那が尋ねる。
「行くには行くが、期待するな」
若い宗一郎は頭をかいた。
「大学の資料室なんぞ、まともに使ったことがない。どの本を見ればいいのかも分からん」
「でも、昨日より少し分かりました」
「何が」
「くさなぎ、という字です」
「そこからか」
美那は頷いた。
「一つ分かれば、次も分かります」
その言い方があまりにもまっすぐで、若い宗一郎は返す言葉を失った。
美那は頼りない。
現代のことを何も知らない。硬貨の使い方も、信号の見方も、電話の意味も分からない。放っておけば、また自動販売機に話しかけるだろう。
けれど、目的だけは揺れていなかった。
邪馬台国を戻す。
そのために、界裂草薙剣の手がかりを探す。
若い宗一郎は、半分も信じていなかった。それでも、美那が笑ったり、驚いたり、眠る前に小さく故郷の名をつぶやいたりするたび、嘘だと決めつけることもできなくなっていた。
昼前、二人は大学へ向かった。
美那には、宗一郎の古いシャツと上着を着せた。裾も袖も合っていない。髪はできるだけ目立たないように結ばせたが、それでもどこか浮いていた。
「変ではありませんか」
美那が不安そうに聞いた。
「変だ」
「そうですか」
「ただ、白い衣で歩くよりはましだ」
「では、ましで行きます」
「言い方」
若い宗一郎はそう言いながら、少しだけ笑った。
大学の資料室で、宗一郎は久しぶりに真面目な顔で本を開いた。
邪馬台国。卑弥呼。台与。草薙剣。熱田。古代王権。
文字はある。名前もある。けれど、美那が語る世界とは噛み合わない。界裂草薙剣という名は出てこない。陰の世界も、陽巫女の役目も、どこにも書かれていない。
「ないな」
若い宗一郎は本を閉じた。
「どこにも、そんな剣は載っていない」
美那は膝の上で手を重ねた。
「隠されたのかもしれません」
「都合よく考えるな」
「都合よくではありません」
美那の声が、少しだけ強くなった。
「邪馬台国が消えたことを、陽の世界の人々は正しく覚えていません。なら、剣の名も正しく残っていないかもしれません」
若い宗一郎は黙った。
その理屈は、乱暴だ。だが、完全には否定できなかった。
正しく残っていない。
歴史をまともに学ぼうとしなかった宗一郎にとって、その言葉は嫌に引っかかった。
資料室を出た帰り道で、最初の異変があった。
アパートの近くにある小さな商店の前で、顔なじみの店主が宗一郎を呼び止めた。
「御影くん」
「何です」
「昨日、変な人たちが来てたよ」
「変な人?」
「背広の男が二人。白い服の女の子を見なかったかって。警察みたいな口ぶりだったけど、名乗りはしなかったね」
宗一郎の背中に、冷たいものが落ちた。
隣で美那の足が止まる。
店主は気づかず続けた。
「この辺じゃ見ない子だろうって聞いて回ってた。御影くん、何か知らない?」
「知りませんよ」
若い宗一郎は、思ったより自然に嘘をついた。
「そうかい。まあ、変なことに巻き込まれないようにね」
店主が店の奥へ戻る。
宗一郎は、しばらく動けなかった。
白い服の女。
美那が語っていた、陽の世界で陽巫女を狙う者たち。
それが、今、自分の生活圏に来ている。
妄想ではない。
作り話ではない。
少なくとも、美那を探している誰かは実在する。
「宗一郎」
初めて、美那が名を呼んだ。
若い宗一郎は振り返る。
美那の顔から、血の気が引いていた。
「あの者たちかもしれません」
「分かってる」
「私は、ここを離れます」
「待て」
「私がいれば、そなたも危ない」
「今さらだろうが」
口から出た言葉に、宗一郎自身が驚いた。
今さら。
そうだ。もう今さらだった。
美那を部屋に入れた。資料室にも連れていった。近所の店主には見られたかもしれない。知らないふりで切り抜けられる段階は、とっくに過ぎている。
「部屋に戻るぞ」
「ですが」
「荷物を取る。鏡もある。白い衣もある。置いていくな」
美那は少しだけ目を見開いた。
「……はい」
二人は足早にアパートへ戻った。
だが、遅かった。
階段の下に、背広の男が一人立っていた。
夏なのに、汗一つかいていないように見える男だった。年齢は三十代半ばほど。穏やかな顔をしているのに、目だけが人を測るように冷たい。
男は、宗一郎と美那を見た。
それだけで、美那の手が宗一郎の袖をつかんだ。
「御影宗一郎さんですね」
男が言った。
若い宗一郎は息を止めた。
「どちら様で」
「少し、お話を伺いたい」
「忙しいんで」
「そちらの女性についてです」
男の視線が、美那に向く。
宗一郎は、考えるより先に一歩前へ出ていた。
「知らない女です」
「そうですか」
男は薄く笑った。
「では、なぜ庇う」
答えられなかった。
答えられないまま、二階の廊下から別の足音がした。
もう一人いる。
挟まれている。
若い宗一郎の頭の中が、真っ白になった。
どうする。
警察を呼ぶか。叫ぶか。殴るか。逃げるか。
どれも正解に思えず、どれも遅い気がした。
美那の指が、袖を強く握る。
その感触で、宗一郎の体が先に動いた。
「走れ!」
美那の手をつかんで、横の路地へ飛び込む。
「どこへですか」
「分からん!」
「分からずに走っているのですか」
「だから走るんだよ!」
背後で男たちの足音が鳴った。
狭い路地を抜け、ゴミ置き場を越え、商店街の裏へ出る。美那は現代の靴に慣れておらず、何度も足をもつれさせた。
「美那、こっちだ!」
「はい」
名前を呼んだ。
それが自然に出たことに、若い宗一郎は気づかなかった。
車道へ出る直前、男の一人が追いついた。
美那の腕をつかむ。
「っ」
美那が小さく声を上げた。
その瞬間、宗一郎の中で何かが切れた。
殴り方なんて知らない。
喧嘩に強かったわけでもない。
だが、体だけは入った。
宗一郎は男と美那の間に肩から飛び込み、二人まとめて地面に倒れ込んだ。
肘を打ち、息が詰まり、頬を擦った。痛みで視界が白くなる。
「行け!」
若い宗一郎は叫んだ。
だが、美那は逃げなかった。
倒れた宗一郎の腕をつかみ、必死に引っ張る。
「宗一郎も!」
その呼び方に、宗一郎は息を呑んだ。
美那は、初めて彼をただの案内役ではなく、名前で呼んだ。
「立ってください!」
「無茶言うな……!」
「無茶でも、立ってください!」
美那の声が震えている。
怖いのに、逃げない。
宗一郎は歯を食いしばって立ち上がった。
二人は、通りに出て、ちょうど発車しかけていた路線バスに飛び乗った。運転手が怒鳴ったが、宗一郎は小銭をばらばらと運賃箱へ放り込み、後ろの席へ美那を押し込む。
バスが動き出す。
窓の外で、背広の男たちが小さくなっていった。
美那は息を切らしながら、宗一郎の頬を見た。
「血が」
「かすり傷だ」
「痛いですか」
「痛いに決まってる」
「すみません」
「謝るな」
宗一郎は窓の外を見た。
手が震えていた。
怖かった。
本当に怖かった。
だが、それ以上に腹が立っていた。
何も知らないまま、美那を笑っていた自分に。信じるかどうかを、どこか他人事のように考えていた自分に。
追っ手は実在した。
美那は、現実に狙われていた。
それなら、彼女が語る邪馬台国も、陽巫女も、界裂草薙剣も、もうただの作り話として片づけることはできない。
「美那」
「はい」
「話せ」
若い宗一郎は言った。
「分かるところからでいい。邪馬台国のこと。お前の役目。何を探していて、何から逃げているのか。全部だ」
美那は、宗一郎を見つめた。
その目に、驚きと、ほんの少しの安堵が混じる。
「信じて、くださるのですか」
「信じるしかないだろうが」
宗一郎は乱暴に答えた。
「あんな連中に追われてる女を、変な女で済ませられるか」
美那は、泣きそうに笑った。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。俺は何も分かってない」
「それでも」
美那は胸元の鏡を抱いた。
「一人ではないと思えました」
バスは知らない町へ向かって走っていた。
若い宗一郎には、目的地などなかった。ただ、アパートへは戻れない。大学にも行けない。金もほとんどない。頼れる知人もいない。
それでも、美那の手だけは離せなかった。
その日の夜、二人は駅から離れた安い宿に身を隠した。
宗一郎の財布はほとんど空になった。宿帳にはでたらめな名前を書いた。美那は小さな部屋に入ると、まず窓の外を確認し、それから鏡を畳の上に置いた。
「長くは、いられません」
美那は言った。
「追っ手は、また来ます」
「分かってる」
「宗一郎」
美那の声は静かだった。
「私は、邪馬台国へ戻ります」
若い宗一郎は、すぐには返事ができなかった。
「何だと」
「捕まる前に、戻らなければなりません」
「剣はどうする」
「見つけられませんでした」
「まだ探せる」
「いいえ」
美那は首を振った。
「私が捕まれば、鏡も、陽巫女の役目も、邪馬台国のことも知られてしまいます。そうなれば、次の陽巫女も危うくなります」
「次の陽巫女って何だ」
「私が戻れず、役目を果たせなかった時、それでもいつか、また誰かが陽の世界へ来ます」
その声は、十八歳の少女のものとは思えないほど重かった。
けれど、震えていた。
怖くないわけがない。
美那も、逃げたいのだ。助かりたいのだ。誰かに任せたいのだ。
それでも、自分が捕まる前に帰るしかないと分かっている。
「嫌だ」
宗一郎は言った。
自分でも驚くほど、子供じみた声だった。
「そんなの、何も解決してないだろうが」
「はい」
「剣も見つかってない」
「はい」
「敵の正体も分からん」
「はい」
「俺は、何もできてない」
美那は、少しだけ目を伏せた。
「宗一郎は、私を逃がしてくれました」
「逃がしただけだ」
「それでも、助かりました」
「違う」
若い宗一郎は拳を握った。
「違うんだよ。そんなものは、助けたうちに入らん」
美那は困ったように笑った。
「そなたは、頼りない方ですね」
「今それを言うか」
「はい」
美那は宗一郎をまっすぐ見た。
「でも、悪い方ではありません」
言葉が胸に刺さった。
褒められたのか、呆れられたのか、分からない。けれど、その声は優しかった。
「宗一郎」
美那は、膝の上で手を重ねた。
「邪馬台国のことを、忘れないでください」
「忘れるわけないだろ」
「いつか、次の陽巫女が現れた時は」
美那の声が、少しだけ揺れた。
「その子を、助けてください」
若い宗一郎は、すぐには答えられなかった。
次の陽巫女。
美那ではない誰か。
つまり、美那は、自分が戻った後も、この役目が終わらないことを知っている。
そして、自分ではない誰かのために、目の前の頼りない男へ願いを預けようとしている。
「ふざけるな」
宗一郎は低く言った。
美那が目を見開く。
「俺は、おぬしを助けたいんだ」
「……はい」
「次の誰かじゃない」
「はい」
「なのに、お前はもう次の話をしている」
「それが、陽巫女の役目です」
「そんな役目、知るか」
言ってから、宗一郎は唇を噛んだ。
美那を傷つけたかもしれない。
だが、美那は怒らなかった。
「宗一郎がそう言ってくれることが、少し嬉しいです」
その言葉の方が、よほど残酷だった。
少し嬉しい。
それだけで足りると思っているような声だった。
深夜、鏡が淡く光り始めた。
天岩戸八咫鏡。
美那が来た時に持っていた神器。その光は、現代の蛍光灯とも、街灯とも違っていた。白く、静かで、触れれば向こう側へ落ちてしまいそうな光。
「時間です」
美那は立ち上がった。
「待て」
宗一郎も立ち上がる。
「まだ何も聞けてない。邪馬台国の場所も、陰の世界のことも、剣の手がかりも」
「すべては話せません。話せば、宗一郎も狙われます」
「もう狙われてる」
「それでも、これ以上は」
美那は首を振った。
「そなたは、陽の世界の人です」
「だから何だ」
「生きてください」
宗一郎は、言葉を失った。
美那は胸元の鏡へ手を添え、それから宗一郎へ向き直る。
「宗一郎」
「何だ」
「もし、次の陽巫女が来たら」
「聞いた」
「今度は、逃がすだけで終わらせないでください」
その言葉が、若い宗一郎の心を貫いた。
逃がすだけ。
美那は分かっていた。
宗一郎が今、どれほど無力か。何も分からず、何も持たず、ただ追っ手から走って逃げることしかできなかったことを。
責めているのではない。
だからこそ、つらかった。
「約束する」
宗一郎は言った。
「今度は、逃がすだけじゃ終わらせない」
美那は、少しだけ笑った。
「はい」
光が強くなる。
宗一郎は、手を伸ばした。
「美那」
呼ぶと、美那は振り返った。
「また会えるか」
美那は答えなかった。
代わりに、困ったように笑った。
その笑みだけで、宗一郎は答えを知ってしまった。
会える保証などない。
美那は、帰らなければならない。宗一郎のいる時代ではなく、彼女の国へ。崩れかけた邪馬台国へ。
それでも、宗一郎は言った。
「必ず、また会う」
美那は光の中で目を細めた。
「宗一郎」
「何だ」
「甘い水は、おいしかったです」
そんなことを言うのか、と宗一郎は思った。
こんな時に。
別れの言葉が、それなのか。
だが、美那らしいと思ってしまった。
次の瞬間、光が部屋を満たした。
宗一郎は目を開けていられなかった。
光が収まった時、そこに美那はいなかった。
畳の上には、彼女が着ていた古い上着だけが落ちていた。
宗一郎は、しばらく立ち尽くした。
追っ手から逃げた。
美那を帰した。
約束をした。
けれど、何一つ解決していなかった。
界裂草薙剣は見つからない。敵の名も分からない。邪馬台国がどこにあるのかも、どう戻せばいいのかも分からない。
ただ、美那だけが消えた。
若い宗一郎は、その夜、初めて本気で歴史の本を開いた。
そこに美那の名はなかった。
邪馬台国の消失も、陽巫女の役目も、界裂草薙剣の真実も、どこにも書かれていなかった。
なら、探すしかない。
四十年前のその夜、御影宗一郎はようやく、逃げるのをやめた。
* 1 *
宗一郎の語りが途切れた。
会議室には、誰の声もなかった。
美耶は鏡を抱えたまま、じっと俯いている。唇を噛んではいない。泣いてもいない。ただ、祖母がこの世界で何を見て、何を託して帰ったのかを、ひとつずつ胸に入れているようだった。
悠斗は、言葉を探した。
けれど、簡単な慰めは出てこなかった。
宗一郎が何もできなかったわけではない。美那を逃がした。名前を呼び、手を引き、追っ手から守ろうとした。
でも、宗一郎自身はそれを助けたとは思っていない。
逃がすことしかできなかった。
その言葉の重さが、今になって分かった。
「祖母は」
美耶が静かに言った。
「御影様のことを、覚えています」
宗一郎の指が、かすかに動いた。
「そうか」
「頼りないけれど、優しい方だったと」
宗一郎は、目を閉じた。
深い息が、ゆっくりと吐き出される。
「最後まで頼りないままじゃったか」
「でも」
美耶は顔を上げた。
「祖母は、御影様のことを悪く言ったことはありません」
宗一郎は答えなかった。
玲奈が、端末を閉じる音がした。
「御影先生」
「何じゃ」
「八咫烏は、四十年前も三代目陽巫女を守れなかった。その負債は、組織として引き受けるべきものです」
宗一郎は小さく笑った。
「おぬしがそう言うとはの」
「美耶さんを、同じように逃がすだけで終わらせるつもりはありません」
玲奈の声は硬かった。
だが、ただの任務の硬さではなかった。
悠斗は、美耶を見た。
昨夜、星を見ながら約束した。
美耶が元の時代へ戻っても、同じ星を見て互いを想うと。
でも、それはただ帰せばいいという意味ではない。
逃がすだけで終わらせてはいけない。
美耶の帰る場所を、ちゃんと戻す。美耶が、追われて、傷ついて、仕方なく消えるのではなく、自分の意思で帰れるようにする。
そのために、悠斗はここにいる。
「俺も」
悠斗は言った。
声が少し震えた。
それでも、言わなければならないと思った。
「俺も、逃がすだけで終わらせたくないです」
宗一郎が悠斗を見る。
美耶も、こちらを向いた。
「美耶を守りたいです。でも、それだけじゃ足りないんですよね」
昨夜の星を思い出す。
同じものを見る約束。
離れる未来から目を逸らさない約束。
「美耶が帰る場所も、ちゃんと守りたい」
美耶の瞳が揺れた。
「悠斗……」
「だから、逃げるだけじゃなくて、戻す方法を探します」
宗一郎は、長い沈黙の後で頷いた。
「それでよい」
その声は、少しだけ掠れていた。
「わしが四十年かけて、ようやくたどり着いたところじゃ。おぬしは、そこから始めればよい」
悠斗は頷いた。
美耶は鏡を抱えた手を、少しだけ緩めた。
宗一郎の過去は、終わった話ではなかった。
四十年前に逃がすことしかできなかった少女の願いは、今、美耶へつながっている。
そして悠斗は、その願いを、ただ受け取るだけでは済まされない場所に立っていた。
朝の光が、会議室の机を照らしている。
外では、鳥が鳴いている。
世界は何事もなかったように明るくなっていく。
けれど悠斗の中では、ひとつの言葉が消えずに残っていた。
逃がすだけで、終わらせない。




