第19話 帰る場所
逃がすだけで、終わらせない。
その言葉は、会議室の空気が動き始めても、悠斗の胸の奥に残っていた。
宗一郎の過去話が終わってから、しばらく誰も大きな声を出さなかった。山沿いの一時拠点には朝の光が差し込み、窓の外では鳥が鳴いている。世界は何も知らないように明るい。
けれど、悠斗の中では四十年前の夜がまだ続いていた。
若い宗一郎が、美那の手を引いて逃げた路地。
追っ手の足音。
天岩戸八咫鏡の白い光。
そして、逃がすことしかできなかったという後悔。
美耶は、鏡を抱えたまま黙っていた。泣いてはいない。けれど、何かをずっと受け止めている顔だった。
祖母が、この世界で見たもの。
祖母が、宗一郎に託したもの。
それが今、自分へつながっていることを、静かに確かめているようだった。
「少し、休憩しましょう」
玲奈が言った。
端末を閉じる音が、やけにはっきり響いた。
「御影先生も、美耶さんも、一度お茶を」
「おぬしに気遣われる日が来るとはの」
宗一郎が少しだけ笑った。
「必要な休息です」
「そういうところは変わらんのう」
「何がですか」
「優しさまで任務の形にするところじゃ」
玲奈は答えなかった。ただ、少しだけ視線を外した。
簡単な台所で湯を沸かし、紙コップに茶を入れる。悠斗は美耶の前にそっと置いた。
「飲めそう?」
「はい」
美耶は両手で紙コップを包んだ。
その仕草が、昨夜、湯呑みを受け取った時と似ていて、悠斗は少し胸が痛くなった。あの時は星を見上げて、離れた時代でも同じものを見ようと約束した。
今は、その約束がもっと重くなっている。
離れるかもしれない、ではない。
美耶には、本当に帰る場所がある。
「祖母は」
美耶が紙コップを見つめたまま言った。
「今も、あのような方です」
宗一郎の顔が、少しだけ動いた。
「あのような、とは」
「好奇心が強くて」
美耶の声に、かすかな温かさが戻った。
「新しい薬草を見つけると、子供のように嬉しそうにします。変わった形の石を見つけても、これは何かに使えるかもしれないと持ち帰って、祖父に叱られていました」
「叱られておったのか」
「はい」
美耶は少しだけ笑った。
「でも、祖母はいつも言うのです。役に立つかどうかは、すぐには分からない。分からないものを捨ててしまったら、いつか必要になった時に困る、と」
宗一郎は目を細めた。
「美那らしい」
その呼び方は、自然だった。
四十年前の少女を、今も同じ距離で呼んでいる声だった。
「陽の世界の話も、時々してくれました」
美耶は続ける。
「甘い水のこと。箱の中に冬があること。遠くの人が板の中に映ること。何度聞いても、子供の頃の私は信じられませんでした」
「冷蔵庫とテレビじゃな」
「はい。今なら分かります」
美耶は紙コップの茶を一口飲んだ。
「でも、祖母はその話をする時だけ、少し寂しそうでした」
宗一郎は何も言わなかった。
「私は、ずっと不思議でした。祖母は陽の世界を楽しそうに話すのに、なぜ寂しそうなのだろうと」
美耶の視線が、宗一郎へ向く。
「今なら、少し分かります」
宗一郎の指が、紙コップの縁に触れた。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、その一言の中に四十年があった。
悠斗は、胸の奥が重くなるのを感じた。
美那は生きている。
邪馬台国に戻り、家族を持ち、孫である美耶を育てた。好奇心旺盛で、薬草や石に目を輝かせ、陽の世界の不思議な道具を語った。
でも、その中に宗一郎との数日が残っていた。
宗一郎の方にも、美那との数日が残り続けた。
たった数日で、人生は変わる。
悠斗は、隣にいる美耶を見た。
光の中から美耶が現れてから、まだ長い時間が経ったわけではない。なのに、自分の中の何かはもう大きく変わってしまっている。
このまま一緒にいたい。
そう思う。
言葉にしなくても、胸の底ではとっくに芽生えている。
けれど、その願いだけを大事にしたら、きっと間違える。
美耶には帰る場所がある。
「美耶」
悠斗は静かに呼んだ。
「邪馬台国には、美那さん以外にも、家族がいるんだよね」
「はい」
美耶は頷いた。
「母の美都と、父の阿岐がいます」
その名を口にした時、美耶の表情が柔らかくなった。
「母は、薬草や布の扱いに詳しい人です。私が幼い頃、転んで膝をすりむくと、いつも苦い薬を塗ってくれました」
「苦い薬って、塗るのに苦いの?」
「匂いが苦いのです」
「なるほど」
美耶は小さく笑った。
「父は、あまり多くを話す人ではありません。でも、私が陽巫女の役目で不安になっていると、何も言わずにそばで道具を直してくれました」
「道具?」
「弓の弦や、籠や、壊れた戸などです。父は手が器用なのです」
父の話をする美耶は、どこか誇らしげだった。
「祖母は、よく私を連れ出しました。母には内緒で、危ない場所ではないからといって、少し遠くの丘まで」
「内緒で?」
「はい」
美耶は少し目を伏せる。
「空が、見える場所でした。陰の世界に移ってから、邪馬台国の空は昔ほど明るくないそうです。それでも祖母は、ここからなら少しだけ遠くが見える、と言いました」
昨夜の星空が、悠斗の中でよみがえる。
美耶は続けた。
「私が怖いと言うと、祖母は言いました。怖いと思えるなら、まだ大丈夫だと」
「どういう意味?」
「怖いと思うのは、生きたいと思っているから。帰りたい場所があるから。だから、怖いことを恥じなくていいと」
宗一郎が、静かに目を閉じた。
「美那は、そんなことを言うようになったのか」
「昔は、違いましたか」
「怖がっておったよ」
宗一郎は答えた。
「それでも、怖いと言わんようにしておった」
美耶は少しだけ黙った。
「祖母も、変わったのですね」
「人は変わる」
宗一郎は悠斗を見た。
「変わらねば、四十年も生きておれん」
その言葉は、悠斗にも向けられていた。
止まった一年。
部屋の中で、自分だけが取り残されたように感じていた夏。
でも今は、ここにいる。美耶の隣に座り、邪馬台国の帰る場所を聞いている。
「白峰さん」
玲奈が、静かに話を引き戻した。
「美耶さんの家族を知ることは重要です。ただ、感情だけで動くと危険です」
「分かってます」
「いえ。分かっているなら、確認します」
玲奈の目は真剣だった。
「あなたは、美耶さんを現代に留めたいと思いますか」
美耶が息を呑む。
悠斗も、すぐには答えられなかった。
問いが鋭すぎた。
思わない、と即答するには、胸の中が正直すぎる。
思う。
美耶がそばにいてくれたらいいと思う。白峰家の食卓で、春香の味噌汁に驚いて、莉央の言葉を真似して、直人に静かに礼を言う。そんな光景を、もっと見たい。
昨日の夜のように、星を見上げて隣にいてほしい。
けれど。
「思います」
悠斗は言った。
美耶の目が揺れた。
「でも、それを選んじゃいけないとも思っています」
言葉にすると、胸が痛んだ。
「美耶がここに残ればいいって、一瞬でも思わないわけじゃないです。でも、美耶には美都さんも、阿岐さんも、美那さんもいて、待っている人たちがいる。邪馬台国にも、美耶を待っている人たちがいる」
悠斗は美耶を見る。
「それを見ないふりして、美耶だけそばにいてほしいって言うのは、違うと思う」
美耶は何も言わなかった。
ただ、目を逸らさずに悠斗を見ていた。
宗一郎が低く言う。
「誰かを想うなら、その子の帰る場所も見なければならん」
悠斗は宗一郎を見た。
「その子だけを見ていては、いつか間違える」
四十年前、美那だけを逃がすことしかできなかった宗一郎の言葉だった。
だから、重い。
「はい」
悠斗は頷いた。
「美耶の帰る場所を、見ないふりはしたくないです」
美耶の指が、鏡の布をそっと撫でた。
「悠斗」
「うん」
「私は、邪馬台国へ帰りたいです」
その言葉は、まっすぐだった。
胸が痛む。
でも、その痛みを理由に目を逸らしてはいけない。
「分かってる」
「母に会いたいです。父に会いたいです。祖母にも、ただいまと言いたいです」
「うん」
「でも」
美耶は、少しだけ声を震わせた。
「悠斗の家も、好きです」
悠斗は息を止めた。
「春香様の食事も、直人様の静かな声も、莉央の明るい言葉も。全部、温かかったです」
莉央だけ呼び捨てなのは、きっと本人にそう言われたからだろう。
美耶は続ける。
「私には帰る場所があります。でも、悠斗にも帰る場所があります」
白峰家。
母の春香。父の直人。妹の莉央。
不登校になっても、止まったままでも、待っていてくれた場所。
悠斗は、今さらのように思い出した。
自分にも帰る場所がある。
それを捨てて美耶を追うことが、正しいわけではない。
美耶を守りたいなら、自分の帰る場所も壊してはいけない。
「私も」
美耶は言った。
「悠斗の帰る場所を、大切にしたいです」
その言葉に、悠斗の胸が熱くなった。
美耶は、自分の国へ帰りたいと言いながら、悠斗の家も大切にしたいと言ってくれている。
どちらかだけではない。
どちらも、失いたくない。
「じゃあ」
悠斗は言った。
「どっちも守ろう」
美耶が瞬きをする。
「どちらも、ですか」
「うん。美耶の帰る場所も、俺の帰る場所も」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
大きすぎることを言っている。
自分に何ができるのかなんて、まだ分からない。剣の本物の場所も知らない。陰の世界へ行く方法も分からない。天叢機関は強大で、九条景臣にはまだ会ってすらいない。
それでも、言わなければ始まらない気がした。
「俺一人じゃ無理だけど」
悠斗は続けた。
「でも、そうしたい」
美耶は、ゆっくりと頷いた。
「はい」
その返事は、小さかったけれど、確かだった。
「私も、そうしたいです」
宗一郎が、ふっと息を吐いた。
「若いのう」
「またそれですか」
「いや」
宗一郎は少しだけ笑った。
「今のは、悪くない若さじゃ」
玲奈が端末を開いた。
空気が少しだけ現実へ戻る。
「では、先へ進みます」
「余韻というものを知らんのか、おぬしは」
「追跡網は余韻を待ちません」
「正論じゃから腹が立つ」
宗一郎がぼやく。
玲奈は画面に資料を表示した。
「熱田周辺の直接調査は罠の可能性が高い。今後追うべきは、草薙剣そのものではなく、熱田情報がどのように固定されたかです」
「情報を流した側、ですね」
悠斗が言うと、玲奈は頷いた。
「はい。特に重要なのは、二代目陽巫女の記録です」
美耶の表情が変わった。
「二代目……佐依様」
「神代家の記録にも、佐依様に関する記述は少ない。ですが、熱田情報の固定と、陽巫女の危険性を考える上で避けられません」
宗一郎の顔も険しくなる。
「佐依の記録は、重いぞ」
「はい」
玲奈は短く答えた。
「ただ、その前に初代陽巫女・壱与様の記録も整理する必要があります。壱与様から神代家へ託された約束と、張政へ漏れた情報。その両方を理解しなければ、佐依様の記録は読めません」
壱与。
神代家の祖先へ願いを託した初代陽巫女。
張政に神器情報の一部を話してしまい、その後に殺された人。
約束と欲望の分かれ目にいた人。
悠斗は、机の上に表示された古い記録の画像を見た。
文字はかすれ、欠けている。けれど、その奥に誰かの人生がある。
壱与。
佐依。
美那。
そして、美耶。
陽巫女という役目は、ただの言葉ではない。何人もの少女が、それぞれの時代で傷つき、選び、託してきたものだ。
美耶を同じ終わり方にしない。
そのためには、知らなければならない。
美耶の痛みだけではなく、彼女の前にいた人たちの痛みも。
「大丈夫?」
悠斗が小さく聞くと、美耶は少しだけ息を吸った。
「怖いです」
正直な声だった。
「でも、知りたいです」
悠斗は頷いた。
「俺も、一緒に聞く」
美耶は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「はい」
窓の外では、朝の光が強くなっていた。
美耶には帰る場所がある。
悠斗にも帰る場所がある。
そして、その二つを守るために、次に開かれるのは、さらに古い陽巫女の記録だった。
逃げるだけでは終わらせない。
帰る場所を、奪わせない。
悠斗はそう胸の中で繰り返しながら、玲奈の示す記録へ目を向けた。




