表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/26

第19話 帰る場所

 逃がすだけで、終わらせない。


 その言葉は、会議室の空気が動き始めても、悠斗の胸の奥に残っていた。


 宗一郎そういちろうの過去話が終わってから、しばらく誰も大きな声を出さなかった。山沿いの一時拠点には朝の光が差し込み、窓の外では鳥が鳴いている。世界は何も知らないように明るい。


 けれど、悠斗の中では四十年前の夜がまだ続いていた。


 若い宗一郎が、美那みなの手を引いて逃げた路地。


 追っ手の足音。


 天岩戸八咫鏡あまのいわとやたのかがみの白い光。


 そして、逃がすことしかできなかったという後悔。


 美耶みやは、鏡を抱えたまま黙っていた。泣いてはいない。けれど、何かをずっと受け止めている顔だった。


 祖母が、この世界で見たもの。


 祖母が、宗一郎に託したもの。


 それが今、自分へつながっていることを、静かに確かめているようだった。


「少し、休憩しましょう」


 玲奈れいなが言った。


 端末を閉じる音が、やけにはっきり響いた。


「御影先生も、美耶さんも、一度お茶を」


「おぬしに気遣われる日が来るとはの」


 宗一郎が少しだけ笑った。


「必要な休息です」


「そういうところは変わらんのう」


「何がですか」


「優しさまで任務の形にするところじゃ」


 玲奈は答えなかった。ただ、少しだけ視線を外した。


 簡単な台所で湯を沸かし、紙コップに茶を入れる。悠斗は美耶の前にそっと置いた。


「飲めそう?」


「はい」


 美耶は両手で紙コップを包んだ。


 その仕草が、昨夜、湯呑みを受け取った時と似ていて、悠斗は少し胸が痛くなった。あの時は星を見上げて、離れた時代でも同じものを見ようと約束した。


 今は、その約束がもっと重くなっている。


 離れるかもしれない、ではない。


 美耶には、本当に帰る場所がある。


「祖母は」


 美耶が紙コップを見つめたまま言った。


「今も、あのような方です」


 宗一郎の顔が、少しだけ動いた。


「あのような、とは」


「好奇心が強くて」


 美耶の声に、かすかな温かさが戻った。


「新しい薬草を見つけると、子供のように嬉しそうにします。変わった形の石を見つけても、これは何かに使えるかもしれないと持ち帰って、祖父に叱られていました」


「叱られておったのか」


「はい」


 美耶は少しだけ笑った。


「でも、祖母はいつも言うのです。役に立つかどうかは、すぐには分からない。分からないものを捨ててしまったら、いつか必要になった時に困る、と」


 宗一郎は目を細めた。


「美那らしい」


 その呼び方は、自然だった。


 四十年前の少女を、今も同じ距離で呼んでいる声だった。


「陽の世界の話も、時々してくれました」


 美耶は続ける。


「甘い水のこと。箱の中に冬があること。遠くの人が板の中に映ること。何度聞いても、子供の頃の私は信じられませんでした」


「冷蔵庫とテレビじゃな」


「はい。今なら分かります」


 美耶は紙コップの茶を一口飲んだ。


「でも、祖母はその話をする時だけ、少し寂しそうでした」


 宗一郎は何も言わなかった。


「私は、ずっと不思議でした。祖母は陽の世界を楽しそうに話すのに、なぜ寂しそうなのだろうと」


 美耶の視線が、宗一郎へ向く。


「今なら、少し分かります」


 宗一郎の指が、紙コップの縁に触れた。


「……そうか」


 それだけだった。


 けれど、その一言の中に四十年があった。


 悠斗は、胸の奥が重くなるのを感じた。


 美那は生きている。


 邪馬台国に戻り、家族を持ち、孫である美耶を育てた。好奇心旺盛で、薬草や石に目を輝かせ、陽の世界の不思議な道具を語った。


 でも、その中に宗一郎との数日が残っていた。


 宗一郎の方にも、美那との数日が残り続けた。


 たった数日で、人生は変わる。


 悠斗は、隣にいる美耶を見た。


 光の中から美耶が現れてから、まだ長い時間が経ったわけではない。なのに、自分の中の何かはもう大きく変わってしまっている。


 このまま一緒にいたい。


 そう思う。


 言葉にしなくても、胸の底ではとっくに芽生えている。


 けれど、その願いだけを大事にしたら、きっと間違える。


 美耶には帰る場所がある。


「美耶」


 悠斗は静かに呼んだ。


「邪馬台国には、美那さん以外にも、家族がいるんだよね」


「はい」


 美耶は頷いた。


「母の美都みとと、父の阿岐あきがいます」


 その名を口にした時、美耶の表情が柔らかくなった。


「母は、薬草や布の扱いに詳しい人です。私が幼い頃、転んで膝をすりむくと、いつも苦い薬を塗ってくれました」


「苦い薬って、塗るのに苦いの?」


「匂いが苦いのです」


「なるほど」


 美耶は小さく笑った。


「父は、あまり多くを話す人ではありません。でも、私が陽巫女の役目で不安になっていると、何も言わずにそばで道具を直してくれました」


「道具?」


「弓の弦や、籠や、壊れた戸などです。父は手が器用なのです」


 父の話をする美耶は、どこか誇らしげだった。


「祖母は、よく私を連れ出しました。母には内緒で、危ない場所ではないからといって、少し遠くの丘まで」


「内緒で?」


「はい」


 美耶は少し目を伏せる。


「空が、見える場所でした。陰の世界に移ってから、邪馬台国の空は昔ほど明るくないそうです。それでも祖母は、ここからなら少しだけ遠くが見える、と言いました」


 昨夜の星空が、悠斗の中でよみがえる。


 美耶は続けた。


「私が怖いと言うと、祖母は言いました。怖いと思えるなら、まだ大丈夫だと」


「どういう意味?」


「怖いと思うのは、生きたいと思っているから。帰りたい場所があるから。だから、怖いことを恥じなくていいと」


 宗一郎が、静かに目を閉じた。


「美那は、そんなことを言うようになったのか」


「昔は、違いましたか」


「怖がっておったよ」


 宗一郎は答えた。


「それでも、怖いと言わんようにしておった」


 美耶は少しだけ黙った。


「祖母も、変わったのですね」


「人は変わる」


 宗一郎は悠斗を見た。


「変わらねば、四十年も生きておれん」


 その言葉は、悠斗にも向けられていた。


 止まった一年。


 部屋の中で、自分だけが取り残されたように感じていた夏。


 でも今は、ここにいる。美耶の隣に座り、邪馬台国の帰る場所を聞いている。


「白峰さん」


 玲奈が、静かに話を引き戻した。


「美耶さんの家族を知ることは重要です。ただ、感情だけで動くと危険です」


「分かってます」


「いえ。分かっているなら、確認します」


 玲奈の目は真剣だった。


「あなたは、美耶さんを現代に留めたいと思いますか」


 美耶が息を呑む。


 悠斗も、すぐには答えられなかった。


 問いが鋭すぎた。


 思わない、と即答するには、胸の中が正直すぎる。


 思う。


 美耶がそばにいてくれたらいいと思う。白峰家の食卓で、春香の味噌汁に驚いて、莉央の言葉を真似して、直人に静かに礼を言う。そんな光景を、もっと見たい。


 昨日の夜のように、星を見上げて隣にいてほしい。


 けれど。


「思います」


 悠斗は言った。


 美耶の目が揺れた。


「でも、それを選んじゃいけないとも思っています」


 言葉にすると、胸が痛んだ。


「美耶がここに残ればいいって、一瞬でも思わないわけじゃないです。でも、美耶には美都さんも、阿岐さんも、美那さんもいて、待っている人たちがいる。邪馬台国にも、美耶を待っている人たちがいる」


 悠斗は美耶を見る。


「それを見ないふりして、美耶だけそばにいてほしいって言うのは、違うと思う」


 美耶は何も言わなかった。


 ただ、目を逸らさずに悠斗を見ていた。


 宗一郎が低く言う。


「誰かを想うなら、その子の帰る場所も見なければならん」


 悠斗は宗一郎を見た。


「その子だけを見ていては、いつか間違える」


 四十年前、美那だけを逃がすことしかできなかった宗一郎の言葉だった。


 だから、重い。


「はい」


 悠斗は頷いた。


「美耶の帰る場所を、見ないふりはしたくないです」


 美耶の指が、鏡の布をそっと撫でた。


「悠斗」


「うん」


「私は、邪馬台国へ帰りたいです」


 その言葉は、まっすぐだった。


 胸が痛む。


 でも、その痛みを理由に目を逸らしてはいけない。


「分かってる」


「母に会いたいです。父に会いたいです。祖母にも、ただいまと言いたいです」


「うん」


「でも」


 美耶は、少しだけ声を震わせた。


「悠斗の家も、好きです」


 悠斗は息を止めた。


「春香様の食事も、直人様の静かな声も、莉央の明るい言葉も。全部、温かかったです」


 莉央だけ呼び捨てなのは、きっと本人にそう言われたからだろう。


 美耶は続ける。


「私には帰る場所があります。でも、悠斗にも帰る場所があります」


 白峰家。


 母の春香。父の直人。妹の莉央。


 不登校になっても、止まったままでも、待っていてくれた場所。


 悠斗は、今さらのように思い出した。


 自分にも帰る場所がある。


 それを捨てて美耶を追うことが、正しいわけではない。


 美耶を守りたいなら、自分の帰る場所も壊してはいけない。


「私も」


 美耶は言った。


「悠斗の帰る場所を、大切にしたいです」


 その言葉に、悠斗の胸が熱くなった。


 美耶は、自分の国へ帰りたいと言いながら、悠斗の家も大切にしたいと言ってくれている。


 どちらかだけではない。


 どちらも、失いたくない。


「じゃあ」


 悠斗は言った。


「どっちも守ろう」


 美耶が瞬きをする。


「どちらも、ですか」


「うん。美耶の帰る場所も、俺の帰る場所も」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


 大きすぎることを言っている。


 自分に何ができるのかなんて、まだ分からない。剣の本物の場所も知らない。陰の世界へ行く方法も分からない。天叢機関は強大で、九条景臣にはまだ会ってすらいない。


 それでも、言わなければ始まらない気がした。


「俺一人じゃ無理だけど」


 悠斗は続けた。


「でも、そうしたい」


 美耶は、ゆっくりと頷いた。


「はい」


 その返事は、小さかったけれど、確かだった。


「私も、そうしたいです」


 宗一郎が、ふっと息を吐いた。


「若いのう」


「またそれですか」


「いや」


 宗一郎は少しだけ笑った。


「今のは、悪くない若さじゃ」


 玲奈が端末を開いた。


 空気が少しだけ現実へ戻る。


「では、先へ進みます」


「余韻というものを知らんのか、おぬしは」


「追跡網は余韻を待ちません」


「正論じゃから腹が立つ」


 宗一郎がぼやく。


 玲奈は画面に資料を表示した。


「熱田周辺の直接調査は罠の可能性が高い。今後追うべきは、草薙剣そのものではなく、熱田情報がどのように固定されたかです」


「情報を流した側、ですね」


 悠斗が言うと、玲奈は頷いた。


「はい。特に重要なのは、二代目陽巫女の記録です」


 美耶の表情が変わった。


「二代目……佐依さより様」


「神代家の記録にも、佐依様に関する記述は少ない。ですが、熱田情報の固定と、陽巫女の危険性を考える上で避けられません」


 宗一郎の顔も険しくなる。


「佐依の記録は、重いぞ」


「はい」


 玲奈は短く答えた。


「ただ、その前に初代陽巫女・壱与様の記録も整理する必要があります。壱与様から神代家へ託された約束と、張政へ漏れた情報。その両方を理解しなければ、佐依様の記録は読めません」


 壱与。


 神代家の祖先へ願いを託した初代陽巫女。


 張政に神器情報の一部を話してしまい、その後に殺された人。


 約束と欲望の分かれ目にいた人。


 悠斗は、机の上に表示された古い記録の画像を見た。


 文字はかすれ、欠けている。けれど、その奥に誰かの人生がある。


 壱与。


 佐依。


 美那。


 そして、美耶。


 陽巫女という役目は、ただの言葉ではない。何人もの少女が、それぞれの時代で傷つき、選び、託してきたものだ。


 美耶を同じ終わり方にしない。


 そのためには、知らなければならない。


 美耶の痛みだけではなく、彼女の前にいた人たちの痛みも。


「大丈夫?」


 悠斗が小さく聞くと、美耶は少しだけ息を吸った。


「怖いです」


 正直な声だった。


「でも、知りたいです」


 悠斗は頷いた。


「俺も、一緒に聞く」


 美耶は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「はい」


 窓の外では、朝の光が強くなっていた。


 美耶には帰る場所がある。


 悠斗にも帰る場所がある。


 そして、その二つを守るために、次に開かれるのは、さらに古い陽巫女の記録だった。


 逃げるだけでは終わらせない。


 帰る場所を、奪わせない。


 悠斗はそう胸の中で繰り返しながら、玲奈の示す記録へ目を向けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ