第20話 壱与
壱与。
その名が画面に映された時、会議室の空気が少しだけ変わった。
山沿いの一時拠点には、まだ朝の光が残っている。机の上に置かれた端末の光だけは、別の時代から浮かび上がっているようだった。
神代玲奈は、端末に古い記録の画像を表示していた。
焼けたように黒ずんだ木簡。欠けた文字。後世に写された注釈。さらにその横には、神代家に伝わる口伝を近代に整理した文書が並んでいる。外に残った史料ではなく、神代家が家の内側で守ってきた記録だった。
どれも、きれいな答えではない。破片だった。誰かが必死に残そうとしたものに見えた。
「初代陽巫女・壱与様」
玲奈の声は、少し低かった。
「神代家に残る最古級の人物です。八咫烏の始まりは、壱与様が神代家の祖先に託した願いにあります」
「聞いた人だよな」
悠斗は画面から目を離さずに言った。
「神代さんの祖先に、三種の神器を伝えた人。それと、張政にも一部を話してしまった人」
「はい。ただ、そこへ進む前に、壱与様がなぜ陽の世界へ戻ることになったのかを整理する必要があります」
玲奈は別の記録を開いた。
「第十三代の整理文書では、壱与様についてこう記されています。陽巫女の名をもって陽の世へ戻り、失われた剣と裂け目を探した最初の人、と」
陽の世へ戻る。
「戻る、なんだ」
美耶が、鏡を抱えたまま顔を上げる。
玲奈も、悠斗の方を見た。
「そこが重要です。壱与様は、知らない世界へ旅立ったのではありません。壱与様にとって陽の世界は、本来いた世界でした」
御影宗一郎が、紙コップの茶を机に置いた。
「まず、国そのものの成り立ちを整理した方がよいのう。そこを飛ばすと、壱与の行動が分かりにくくなる」
玲奈は頷き、古い訳文を画面に出した。
「後に邪馬台国と呼ばれる国は、最初から大国だったわけではありません。もとは海と山に挟まれた、小さな国の一つでした」
「小さな国……」
「そこに、天より来たりし二人が腰を据えた」
玲奈が、古い文字の横に添えられた注釈を指で示す。
「一人はヤーマ。もう一人はイーラ。神代家の古い口伝では、そう伝わっています」
「天より来たりし、って……神話的な表現ですね」
「外に残った史料だけなら、そう読んで終わりでしょうね」
玲奈は答えた。
「外から来た優れた指導者、あるいは海の向こうから来た異邦人を、後の世が神格化したもの。神代家でも長く、そう解釈してきました。ただ、この記録は外の史料ではありません。神代家の祖先が、壱与様から聞いた話として残したものです」
「ヤーマはその小国をまとめ、大きくした」
宗一郎が続けた。
「周囲の村や国を束ね、祭祀と力で人を従わせた。そうして、ヤーマの治める大国になった」
画面の一部が拡大される。
そこには、悠斗にも読めるように横へ現代語訳が添えられていた。
ヤーマ大国。
「ヤーマ、大国……?」
悠斗は思わず声に出した。
「邪馬台国じゃないのか」
美耶が、不思議そうに瞬きをした。
「私は、ずっとヤーマ大国と申し上げているつもりです」
「え」
悠斗は美耶を見た。
美耶も、なぜ驚かれているのか分からない顔で悠斗を見返している。
宗一郎が、ふっと低く笑った。
「なるほどのう。こちらの耳には、邪馬台国と聞こえておったわけか」
「つまり、訛り……ですか」
「訛りというより、音の変化じゃな。ヤーマの治める大国。ヤーマ大国。外に残った史料では、それが邪馬台国という字で伝わった。わしらはずっと、後世の字面から国を見ておったわけじゃ」
悠斗は、もう一度画面の文字を見た。
歴史の教科書で見た名前。その奥に、ヤーマの名があった。
「つまり、壱与様と、のちに神代家の祖先となる人物は、その時代を実際に生きていた世代です」
玲奈が言った。
「小国だった故郷が、ヤーマ大国と呼ばれるようになっていく時代。その空気を知っている者たちでした」
その事実が、壱与という名を急に近くした。
美耶の指が、鏡の布を少し強く握った。
「陽巫女は、もともとそう呼ばれていた役目ではありませんでした」
玲奈は、ゆっくりと言った。
「初めは、ヤーマのそばに仕える巫女でした。身の回りを整え、祭祀の準備をし、民の声を伝える役目を担っていたとされています」
「血筋じゃないんだな」
悠斗が確認すると、玲奈ははっきり頷いた。
「血筋ではありません。役目です」
その言葉に、美耶は少しだけ息を吐いた。
陽巫女は、生まれつき選ばれた血の器ではない。誰かが背負い、受け継いできた役目だ。
「壱与様は、その役目に、陽巫女という名を与えた最初の方でした」
「陽の、巫女」
悠斗は、声に出してから、その字の意味に気づいた。
陽の世界の巫女。
「はい」
玲奈は頷いた。
「自分たちは陰の世界へ落とされた民ではなく、陽の世界の民である。必ず皆を陽の世界へ戻す。その願いを、壱与様は役目の名に込めたのだと、神代家の記録では解釈されています」
美耶は、胸の前で鏡を抱え直した。
「陽へ戻るための巫女……」
小さな声だった。
けれど、その響きは、美耶自身の中にも深く届いているようだった。
玲奈は記録を読む。
「ヤーマの近くに仕え、民と宮の間を取り持つ者。記録では、壱与様は民の困りごとをよく聞き、食糧の不足や病の広がりをヤーマへ伝えたとあります」
「優しい人だったんだ」
「優しさだけではないじゃろう」
宗一郎が少し眉を上げた。
「ヤーマのそばに仕える以上、賢くもあったはずじゃ。言葉を選び、怒りに触れぬように民の声を運ぶ。簡単な役ではない」
壱与は、そのすぐそばにいた。
民を見て、ヤーマを見て、そしてイーラも見ていた。
「イーラ様は」
美耶が、静かに口を開いた。
「壱与様を、どのように見ていたのでしょうか」
玲奈は画面の端に、別の写しを表示した。
「神代家に残る記録は、イーラの心情を断定していません。ただ、こういう記述があります。空より来たりし男、陽巫女の短き祈りに長き沈黙を破る、と」
「短き祈り……」
美耶が繰り返した。
「人間の祈り、ということじゃろうな」
宗一郎が言った。
「記録上のイーラは、ヤーマと共に外から来た知恵ある者じゃ。だが、壱与はその土地の人間じゃ。腹が減れば苦しみ、病めば弱り、恐れもすれば、誰かのために祈りもする」
「限りがあるから、祈る」
悠斗は呟いた。美耶がゆっくりと頷く。
「はい。限りがあるから、大切にするのだと思います」
玲奈は続けた。
「イーラは、壱与様のそうした人間らしさに心を向けた。その記述からは、そう読むのが自然です」
「そのあとに、何かが起きたんだな」
悠斗が言うと、会議室が静かになった。
誰もすぐには否定しない。けれど、誰も断定もしなかった。
玲奈の視線が、画面へ落ちる。
「そこから先は、記録だけでは断定できません」
「断定できない?」
美耶の声は、怖がっているのに逃げていなかった。
玲奈は頷いた。
「はい。ただ、神代家の口伝には一つの流れがあります。イーラが壱与様に心を向けた後、ヤーマの態度が変わった。そして、その後に禍津八尺瓊勾玉が作られ、国が陰の世界へ移された」
美耶の顔から、血の気が引く。
自分の国を襲った災いの根に、壱与とイーラの名が接している。それを受け止めようとしている顔だった。
「なんで、突然」
悠斗は、思わず口を挟んだ。
「何があったら、そこから国を移す話になるんだ」
「神代家の口伝は、ヤーマが国を救おうとしたとは伝えていません」
玲奈は言った。
「国を陰の世界へ混ぜ、世界の均衡を壊す形で移した。そこまでは、神代家の口伝と、美耶さんの証言を合わせれば読めます」
「国を、丸ごと」
悠斗の声が、低くなった。
「均衡が壊れると、どうなるんだ」
「邪馬台国だけではありません。神代家の口伝では、壱与様は、陰の世界そのものがいずれ崩壊へ向かうと聞かされたと語っています」
玲奈の声が、わずかに低くなった。
「そして、その理由も含めて、邪馬台国の民には知らされていたようです」
「知らされていた?」
悠斗は聞き返した。
玲奈が、画面の一部を拡大する。
「転移の直後、ヤーマは民へ告げたとあります。陽の世界にあるべき国が陰の世界へ混じったことで、二つの世界の均衡は崩れた。陰の世界は、その歪みを抱え続けることになる。やがて世界は均衡を取り戻そうとして崩れ、そこに混じった邪馬台国も巻き込まれて消える、と」
玲奈は、少しだけ間を置いた。
「さらに口伝では、ヤーマは民へ、存分に怯え、絶望に歪む顔を我に見せよ、と告げたとされています。その言葉は民だけではなく、壱与様へ向けられていたのだと、神代家では伝えてきました」
美耶が、鏡を抱く手に力をこめた。
それは美耶が初めて聞く話ではないのだろう。
だからこそ、彼女は驚かなかった。
ただ、知っている痛みをもう一度受け止めるように、唇を結んでいた。
「そこまで、言ったのか」
「はい。隠さなかった、というより、知らせたのでしょう」
玲奈は答えた。
「国ごと見知らぬ場所へ落とされ、帰る道は閉ざされ、ただ終わりを待つしかない。その理由まで含めて、民の前に突きつけたものとして、神代家には伝わっています」
悠斗は拳を握った。
邪馬台国は、ただ事故に巻き込まれたのではない。
少なくとも、神代家の口伝は救済の失敗としては残していない。
ヤーマが本当は何を見ていたのか。
それは、記録の外側にある。
けれど、民に絶望を告げたことだけは残っている。
「でも、それなら」
悠斗は、言葉を選びながら言った。
「その後に国を治める人たちは、どうなるんだ。いずれ滅びるって分かってる国を、ずっと治め続けることになる」
終わりを告げられた国。
それでも朝は来る。食べるものを集め、病人を看て、子どもが生まれ、誰かが死ぬ。
その国を治める者は、どんな顔で民の前に立つのか。
「ヤーマ様は、ご健在です」
美耶が、静かに言った。
室内の音が消えた。
玲奈の指が、端末の上で止まる。宗一郎が、ゆっくりと美耶を見た。
「……今、何と言った」
「ヤーマ様は、今も邪馬台国におられます」
美耶は鏡を抱え直す。
「イーラ様も、ご健在です」
「ちょ、ちょっと待って」
悠斗は、頭の中で組み立てかけていた歴史の年表が崩れるのを感じた。
「壱与さんの時代からいる人、なんだよな。こっちの歴史で言えば、千八百年くらい前の」
「はい」
「なのに、今も生きてる?」
「はい」
美耶は頷いた。
「邪馬台国の側では、国が移されてからおよそ百六十年です。ですが、ヤーマ様とイーラ様は、その百六十年よりもずっと前からおられた方々です」
宗一郎が、深く息を吐いた。
「驚くべき話ではある。じゃが、国ひとつを陰の世界へ移すほどの力を持つ存在なら、人と同じ寿命を前提に考える方が誤りなのかもしれん」
玲奈が、低く息を吸う。
「天より来たりし二人、という記述は、比喩ではない……?」
「比喩ではありません」
美耶の声は硬かった。
「ヤーマ様とイーラ様は、天から来られた方々です」
宗一郎の目が、少年のように見開かれた。
「まさか、本当に地球の外から来た存在、ということか」
「言葉は、分かりません」
美耶は小さく首を振る。
「けれど、少なくとも私たちと同じ人ではありません。長く生き、私たちには扱えない力を扱われます」
悠斗は、画面の古い文字を見た。
天より来たりし二人。
今までなら比喩だと思っただろう。けれど、美耶はその二人を、今もいる存在として語っている。
邪馬台国は、ただ歴史から消えた国ではない。
今も、ヤーマのもとにある国なのだ。
「本人に会わなければ、分からないこともあるんだな」
悠斗が言うと、玲奈は小さく頷いた。
「神代家の口伝では、ヤーマは禍津八尺瓊勾玉を用い、ヤーマ大国を陰の世界へ移したとあります」
玲奈が記録へ戻る。
「人だけではありません。土地、宮、村、山、川。国として成立していた範囲そのものを、陽の世界から引き剥がした」
「さっきの話は、このことか」
悠斗が言うと、玲奈は頷いた。
「はい。ヤーマが民へ告げた消滅の理由と、壱与様が神代家の祖先へ託したイーラの言葉は、同じ出来事を別の側から語っています」
「別の側?」
「民へ告げられたのは、国が陰の世界に混じったことで均衡が崩れ、いずれ世界の崩壊に巻き込まれるという話です。壱与様へ伝えられたのは、もし国を戻したければ、何を探さなければならないか、という話でした」
宗一郎の声が低くなる。
「つまり、ヤーマの転移では、陽の世に残るべき裂け目と、陰の世に生じた裂け目が、つながらぬままになったということか」
「そのため、空間だけでなく時間軸まで歪みました。三代目陽巫女・美那様と、美耶さんが、本来の古代ではなく現代付近へ渡ったのも、その歪みの影響と見られます」
美耶は黙って聞いていた。
自分の転移すら、その歪みの先にあるのだ。
「イーラ様は」
美耶が、やっと声を出した。
「それを止めようとは、されなかったのですか」
玲奈は、すぐには答えなかった。
画面の記録を一つ戻し、別の注釈を表示する。
「止めた、という言い方は少し違うと思います」
「違う?」
「イーラはヤーマと同じ側の存在です。人間とは違う時間感覚と価値観を持っている」
美耶の瞳が揺れる。
イーラ。
陽巫女に希望を託した存在。美耶にとっては、ヤーマとは違うはずの名前。
けれど、玲奈はその名を簡単に救い主とは呼ばなかった。
「ただ、ヤーマとは少し考え方が違った」
玲奈は続ける。
「壱与様が聞いた言葉からは、消える世界をそのまま見送るより、一つくらい逃げ道を残す方へ傾いたように読めます。救いというより、気まぐれに近い憐れみだったのかもしれません」
宗一郎が、重く息を吐いた。
「救済というより、後始末に近いのう」
「はい」
玲奈は否定しなかった。
「壱与様が託した話では、イーラは、ヤーマが国を陰の世界へ強制転移させた瞬間、陽の世界側に生じた裂け目を見逃さなかった。咄嗟に界裂草薙剣を作り、その裂け目へ投げ込んだとされています」
「だから剣だけは、陽の世界側に残った」
「はい。国を戻すために残された鍵です。ただし、剣だけでは足りない。陽の世界側の裂け目を見つけ、陰の世界側の裂け目とつなぐ必要がある」
「陰の世界側の裂け目は」
「イーラが知っている、と神代家の記録にはあります」
悠斗は眉を寄せた。
「じゃあ、イーラが直接やればいいんじゃないのか」
「それができれば、陽巫女は必要なかったでしょう」
玲奈の声は静かだった。
「イーラがあからさまに動けば、ヤーマは気づく。そうなれば、ヤーマが何をするか分からない。残された道そのものを、すぐに潰される可能性すらあった」
悠斗は言葉を失った。
希望を残すにも、隠さなければならない。
救いの道を作ったこと自体が、ヤーマに知られれば終わる。
「そこで、天岩戸です」
玲奈が言った。
美耶の腕の中で、包まれた鏡がわずかに揺れた。
「天岩戸八咫鏡は、陽巫女ひとりが陰の世界と陽の世界を渡るための鏡です。国を戻す力はありません。自由に行き来する道具でもありません」
「でも、陽巫女だけは渡れる」
「はい。道を映し、道を開く。ただし、その道を通るのは陽巫女ひとりです」
玲奈は、画面に天岩戸の記録を表示した。
「邪馬台国では、陽巫女が神聖な務めとして、長く天岩戸にこもる儀式が存在します」
「でも、本当は」
悠斗が言うと、玲奈は頷いた。
「壱与様が神代家の祖先へ託した話では、その間に陽の世界へ渡り、剣と裂け目の手がかりを探す。天岩戸八咫鏡は、そのためにイーラが壱与様へ渡した鏡でした」
美耶は、目を伏せた。
「長く、こもることになっています」
「はい」
玲奈が頷く。
「その間、民には試練として伝えられる。陽巫女は神聖な務めのため天岩戸にこもっている、と」
「ヤーマは、それを疑わなかったのか」
悠斗の声には、怒りが混じっていた。
「疑わなかったというより、疑っていた形跡が残っていない、というべきでしょう」
玲奈は答えた。
「神代家の口伝と美耶さんの証言を合わせると、ヤーマが陽巫女を重く扱った形跡はありません。壱与様は、イーラが人間へ目を向けるきっかけになった存在です。その役目を継ぐ者が、長く天岩戸にこもり、場合によっては戻らない。少なくとも、ヤーマがその名目を崩した記録はありません」
「……止めなかった、ということか」
悠斗が言うと、美耶が小さく息を飲んだ。
宗一郎は、拳を膝の上で握っていた。
「そういうことになります」
玲奈の声は、硬かった。
「そうして、この形は続いた。イーラは、希望を隠すために試練という名目を使った。ヤーマは、その名目を崩さなかった」
美耶は、鏡を強く抱きしめた。
「では、壱与様は」
その声は細い。けれど、折れてはいなかった。
「最初から、そのために天岩戸へ入られたのですね」
「はい」
玲奈の声が、少し柔らかくなる。
「壱与様は、ヤーマのそばにいた。国が消える理由は、ヤーマが民へ告げた言葉として聞いた。そして、イーラから密かに天岩戸八咫鏡を託され、もし国を戻したければ何を探すべきかを聞いた。だからこそ、陽の世界へ戻る最初の陽巫女になった」
玲奈は、記録の注釈へ視線を落とした。
「壱与様にとって陽の世界は故郷のはずでした。ですが、国だけが陰の世界へ移された後の陽の世界は、もう以前と同じではなかった」
画面に、別の記録が映る。
現代語訳には短い文だけがあった。
潮の道は残れど、帰る国はなし。
美耶が、唇を噛んだ。
悠斗にも、その意味は分かった。
海路は残っている。目印も、地名のかけらもある。けれど、その先に帰る国はない。宮も、村も、人の声も、陽の世界からは消えている。
壱与はそこへ戻った。
自分の生まれた世界なのに、自分の国だけが消えた世界へ。
「一人で……?」
悠斗が聞くと、玲奈は頷いた。
「記録上、壱与様に同行者がいた形跡はありません」
「そんなの」
言いかけて、悠斗は言葉を飲み込んだ。
無茶だ。
無理だ。
でも、そう言ったところで何になる。
国を戻す手がかりは陽の世界にある。壱与には行くしかなかった。
「どこに剣があるのか。どこに裂け目があるのか。誰を頼ればいいのか」
玲奈は記録を見つめた。
「壱与様は、すべてを一人で探しました」
美耶の手が、鏡を強く抱く。
美耶もまた、一人でこの世界へ来た。知らない道具に戸惑い、それでも国を救うために立っていた。
同じにしてはいけない。
悠斗は、そう思った。
「壱与様は、失敗したのでしょうか」
美耶が小さく尋ねた。
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
「まだ、そこまでは言えません」
玲奈は静かに答えた。
「壱与様が陽の世界で誰に会い、何を話し、何を託し、何を奪われたのか。そこを読まなければ、失敗とも成功とも言えない」
「張政と、神代家の祖先」
悠斗が言うと、玲奈は頷いた。
「はい。次に見るべきは、その二人です。壱与様が残したものは、片方では約束になり、もう片方では欲望になった」
約束。
欲望。
同じ言葉が、受け取る人間によって違うものになる。
悠斗は、画面に映る壱与の名を見つめた。
「でも、これだけは言えると思う」
美耶が悠斗を見る。
「壱与さんが全部失敗だったら、美耶は一人でここに来て、一人のままだった」
自分の声が、思ったよりはっきり響いた。
「でも、今は違う。宗一郎さんがいて、神代さんがいて、八咫烏の記録があって、俺もいる」
美耶の瞳が揺れる。
「壱与さんが残した何かは、まだ残ってる」
美耶は、鏡を抱えたまま小さく息を吸った。
そして、画面に映る壱与の名へ向き直る。
「私は」
美耶の声は、まだ細い。それでも、折れてはいなかった。
「一人ではありません」
悠斗は、何も言わなかった。
ただ、美耶の隣に立った。
美耶が、ほんの少しだけこちらを見る。
笑顔と言えるほどではない。でも、さっきより呼吸が深くなっていた。
「壱与様も」
美耶は続けた。
「本当は、一人ではなかったのだと、思いたいです」
玲奈が、端末を操作した。
画面に、二つの名前が浮かび上がる。
張政。
そして、神代家祖先の名。
「次は、壱与様が陽の世界で出会った二人について確認します」
玲奈の声は、先ほどより少し重かった。
「ここから、八咫烏の約束と、のちに別の家へ受け継がれていく欲望が分かれていきます」
悠斗はペンを握り直した。
逃げるだけでは終わらせない。
帰る場所を奪わせない。
そして、陽巫女を一人で終わらせない。
画面の中で、壱与の名が静かに光っていた。




