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邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


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第21話 約束と欲望

 約束。


 欲望。


 さっき玲奈が口にした二つの言葉を、悠斗はしばらく胸の中で繰り返していた。


 山沿いの八咫烏やたがらす一時拠点には、朝の静けさが残っていた。端末の光だけが、会議卓の上に並んだ古い文字を白く照らしている。


 壱与いよの名は、まだ画面の端に残っている。


 初代陽巫女ひみこ


 陰の世界へ移された邪馬台国から、最初に陽の世界へ戻った人。帰る港も知る者も失われた陽の世界で、剣と裂け目を探し、帰る道を探し続けた人。


 そして、何かを残して殺された人。


 美耶みやは胸元の天岩戸八咫鏡あまのいわとやたのかがみに手を添えたまま、じっと画面を見ていた。顔色はまだよくない。それでも、さっきのように崩れそうな青さではなかった。


「続けます」


 神代玲奈かみしろ れいなが言った。


「ここからは、壱与様が陽の世界で出会った二人についてです。一人は、神代家の祖先。もう一人は、張政ちょうせい


 御影宗一郎みかげ そういちろうが、腕を組んだまま低くつぶやく。


「同じ女に出会い、片方は約束を継ぎ、片方は欲を継いだわけか」


「結果だけを言えば、そうなります」


 玲奈は端末を操作した。


 画面が切り替わる。古い木簡の画像と、神代家に伝わる口伝を後世に整理した文章が並んだ。


「ただし、壱与様は最初から人を見る目を誤った、という単純な話ではありません。陽の世界へ戻った壱与様は、孤立していました。邪馬台国はもう地上から消えている。帰る港も、知った家も、声をかけられる民もない」


 悠斗は、思わず息を浅くした。


 帰る場所が消える。


 その言葉は、さっき美耶と確かめ合ったばかりの思いに、そのまま刺さる。美耶の帰る場所も、悠斗の帰る場所も守る。そう決めたばかりだった。


「しかも、壱与様はただ逃げてきたのではありません。ヤーマが民へ告げた消滅の理由を知っていた。イーラから、国を戻すために何を探すべきかを聞いていた。天岩戸八咫鏡だけでは国を戻せず、界裂草薙剣かいれつくさなぎのつるぎと、陽の世界側に残された裂け目を見つけなければならないことも知っていた」


 美耶の指が、鏡の縁をそっとなぞった。


「それを、壱与様は一人で」


「はい」


 玲奈は短く答えた。


「最初に確実に信じられる相手を見つけられたわけではありません」


 端末に、張政の名が大きく映る。


「張政は、外から見れば理知的な人物だったはずです。言葉を選び、壱与様を保護し、問いを急がず、少しずつ情報を引き出した」


「優しいふりをした、ということか」


 宗一郎の声が苦かった。


「記録から読み取れる限りでは」


 玲奈は、断定を避けるように言った。


「壱与様がどの瞬間に張政を信じ、どの瞬間に疑ったのかまでは分かりません。ただ、壱与様は衰弱していました。陽の世界へ戻った直後から、十分な保護も食料もなく、追跡を避けながら移動していた可能性があります」


「そこにつけ込まれた」


 悠斗の口から、低い声が出た。


 玲奈は否定しなかった。


「張政が得たのは、断片です。邪馬台国がただ滅びたのではなく、別の世界へ移されたこと。三種の神器が関わること。天岩戸八咫鏡、界裂草薙剣、禍津八尺瓊勾玉まがつやさかにのまがたまという名の一部。そして、陽巫女だけが陰陽の境を渡れるということ」


「それだけ聞けば、十分に危険じゃな」


「はい。けれど、張政が欲した形では使えませんでした」


 画面に、鏡の絵と、短い注釈が表示される。


「天岩戸八咫鏡は、陽巫女と切り離して扱える道具ではない。界裂草薙剣の所在も、壱与様はまだ確かめきれていない。禍津八尺瓊勾玉はヤーマのもとにある。張政が手にしたのは、扉の存在を知るための言葉であって、扉を開ける鍵ではありません」


 欲しい。


 けれど、使えない。


 届きそうで、届かない。


 悠斗は、張政という名の向こうに、顔の見えない男の苛立ちを感じた。


「だから、奪おうとしたんですか」


 美耶が尋ねた。


 玲奈は、少しだけ間を置いた。


「神代家の記録に、張政が壱与様を殺したとあります」


 美耶の肩が、小さく震えた。


 分かっていたことだ。


 それでも、言葉になると重さが違う。


「壱与様は、すべてを話しませんでした。話せなかったのか、途中で気づいて止めたのか、最初から隠していたのか。そこは記録だけでは断定できません」


 玲奈の声は、慎重だった。


「ただ、張政は壱与様を通じて、消えた国と神器の存在を知った。そして、その情報は狗奴国くなこく側へ流れたと見られます」


 狗奴国。


 美耶の表情が、わずかに硬くなる。邪馬台国と争った国の名。それは、彼女にとって教科書の単語ではない。


「神代家の記録は、そこでいったん筆を止めています」


 玲奈は画面を戻した。


「重要なのは、張政が得た情報が救いにはならなかったことです。誰かを帰すためでも、国を救うためでもなく、自分たちの力にするための欲望になった」


 欲望。


 その言葉が、さっきより黒く見えた。


 同じ情報でも、受け取る人間が違えば、まったく違うものになる。


「では、もう一人です」


 玲奈は、別の画像を開いた。


 そこには名がない。


 神代家祖先。


 ただ、それだけが表示されていた。


「神代家の祖先は、名が確定していません。漁師だったこと。邪馬台国の民だったこと。嵐に遭い、流れ着いたこと。狗奴国との関係を恐れ、素性を隠して生きていたこと。そこまでは、複数の記録で一致しています」


 悠斗は、神代家の限定資料室で聞いた話を思い出した。


 帰ろうとして、国が消えていた男。


 帰る場所を失った人。


「彼は、壱与様を疑いませんでした」


 玲奈の声が、少しだけ柔らかくなる。


「なぜなら、彼もまた邪馬台国を失った人だったからです。壱与様が語る国の形、港の位置、祭祀の習わし、民の呼び方。それらは、外の人間が作れる作り話ではなかった」


「同じ国の人だったんですね」


 美耶が言った。


「はい」


 玲奈は頷いた。


「壱与様は、彼に深く話しました。ヤーマが民へ告げたこと。国が陰の世界へ混じったことで、陰陽の均衡が壊れ、いずれ世界ごと崩れて邪馬台国が呑まれること。イーラが密かに託した道筋。鏡は陽巫女一人を渡すためのものであり、国を戻す力そのものではないこと。剣と裂け目を見つけなければならないこと」


 玲奈は、ひとつずつ言葉を置いた。


「そして、未来の陽巫女を助けてほしい、と」


 会議室が静かになった。


 その願いは、あまりにも遠い。


 自分ではもう果たせないかもしれない願いを、未来の誰かへ渡す。渡された側も、自分の代で終わるとは限らない。それでも、途切れないようにする。


 悠斗は、神代家がなぜあれほど記録を守ってきたのか、少しだけ分かった気がした。


「壱与様は、張政の名も彼に伝えています」


「悔いとして、ですね」


 美耶が静かに言った。


「はい。張政に一部を話してしまったこと。そこから何かが流れてしまうかもしれないこと。壱与様はそれを恐れていた」


 宗一郎が、机の上の資料を睨んだ。


「自分が殺されるかもしれんと分かっていたのか」


「分かっていたかもしれません。少なくとも、壱与様は自分がいつまでも動けるとは考えていなかったようです」


 玲奈は古い口伝の読み下しを表示した。


 短い文だった。


 ――もし我が倒るるとも、道を絶やすな。


 美耶が、息を呑む。


「それが、八咫烏の始まりです」


 玲奈は言った。


「神代家の祖先は、壱与様から受け取ったものを力にしようとはしなかった。国を失った者として、同じ国の者の願いを受け取った。だから、記録を残した。隠し、守り、伝えた」


「約束になった」


 悠斗が言うと、玲奈は頷いた。


「はい」


 美耶は、しばらく何も言わなかった。


 画面の文字を見つめ、胸元の鏡を押さえ、何度も小さく息をした。


「壱与様は」


 やがて、美耶が口を開いた。


「張政に会ったことを、悔いていたのですね」


「記録では、そう伝わっています」


「では、神代家の祖先に会えたことは」


 その問いに、玲奈はすぐには答えなかった。


 記録だけでは、心の全部は分からない。


 ヤーマの内心を断定できないように、壱与の最後の救いも断定はできない。


 それでも、玲奈は画面の一部を拡大した。


「神代家の口伝には、壱与様が最後にこう言ったとあります」


 画面に、短い文が表示される。


 ――我らの国を、忘れぬ者がいた。


 美耶の目が、大きく揺れた。


「それだけです。これを救いと呼べるかは、分かりません」


 玲奈は、慎重に言った。


「ただ、壱与様は、自分の国を覚えている人間に会えた。そして、その人へ託した」


 美耶は、唇を引き結んだ。


 泣きそうに見えた。


 でも、泣かなかった。


「よかった」


 とても小さな声だった。


「壱与様が、最後まで本当に一人だったのではなくて」


 悠斗は、何も言わずに美耶の隣へ立った。


 美耶は、画面から目を離さない。


「張政に渡った言葉は、欲望になった」


 玲奈が続けた。


「神代家の祖先に託された言葉は、約束になった」


 同じ壱与の言葉。


 同じ消えた国の話。


 同じ神器の名。


 けれど、受け取った者が違えば、未来が変わる。


「欲望の流れは、狗奴国を経て、のちに別の家へ受け継がれていきます」


 玲奈は、そこで言葉を止めた。


「ただし、壱与様から張政へ流れた断片と、後の陽巫女から別に奪われる断片は、同じものではありません」


「同じ欲でも、出どころが違う」


 宗一郎が言った。


「はい。そこを誤ると、誰が何を奪ったのかを見失います」


 玲奈の視線が、美耶へ向く。


「美耶さん。ここから先、二代目陽巫女・佐依さより様の記録に進む前に、ひとつ確認しておきます」


 美耶が、顔を上げた。


「壱与様が残したものは、失敗だけではありません」


 玲奈の声は、静かだった。


「張政へ渡ったものは、確かに欲望を生みました。けれど、神代家へ託されたものは、今日まで残りました。八咫烏が完全ではなくても、守れなかったものが多くても、それでも今、美耶様の前に記録を出せている」


 美耶の瞳に、端末の光が映る。


「壱与様の約束は、まだ切れていません」


 その言葉に、悠斗は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 美耶は一人でここに来たわけではない。


 壱与も、全部を一人で終わらせたわけではない。


 約束は細く、弱く、何度も切れそうになりながら、それでもここまで来た。


「私も」


 美耶が言った。


 声は細い。


 けれど、はっきりしていた。


「壱与様から続いた約束の先に、います」


 玲奈が深く頷く。


「はい」


「でも」


 美耶は、鏡を握った。


「欲望の先にも、私は見られているのですね」


 誰も、否定できなかった。


 天叢機関。


 九条景臣。


 美耶を生体鍵と呼ぶ者たち。


 そのすべてが、まだ遠くにいる。けれど、誰かの願いを道具に変える欲望は、形を変えながら今も残っている。


「だったら」


 悠斗は、口を開いた。


 美耶がこちらを見る。


「だったら、こっちは約束の方をつなげばいい」


 言ってから、少し単純すぎるかと思った。


 けれど、言葉を引っ込める気にはならなかった。


「欲望が続いてるなら、約束だって続いてる。神代さんたちが残して、宗一郎さんが諦めなくて、美耶がここまで来て」


 悠斗は、美耶を見た。


「俺も、途中からだけど、そこに入る」


 美耶の目が、少しだけ見開かれる。


「悠斗も」


「うん」


 悠斗は頷いた。


「美耶を一人で終わらせないって、もう言ったから」


 美耶は、すぐには答えなかった。


 ただ、鏡を抱えた指の力が、少しだけ緩む。


 宗一郎が、わざとらしくため息をついた。


「若いのう」


「今、そういう話じゃないですよね」


「そういう話でもあるじゃろう。約束というのは、だいたい若い者が無茶を言って始まる」


 玲奈が、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 張りつめていた空気が、わずかにほどける。


 美耶も、小さく息を吐いた。


「無茶でも」


 美耶は、悠斗を見た。


「私は、その約束が嬉しいです」


 今度は悠斗の方が、少し言葉に詰まった。


 玲奈が端末を操作し、次の記録一覧を表示する。


「壱与様の記録は、ここまでです」


 画面に、新しい名が浮かび上がった。


 二代目陽巫女。


 佐依。


 さっきまでとは、また違う重さが部屋に落ちる。


「次は、佐依様の記録です」


 玲奈の声が低くなった。


「壱与様の死を知ったうえで使命を継ぎ、陽の世界へ戻った方です。記録は少なく、途中で途切れています」


 美耶の表情が、静かに強ばった。


 壱与は、約束と欲望を分けた。


 では、次の陽巫女は何を奪われ、何を守ったのか。


 悠斗は、強ばった美耶の横顔から目を逸らさなかった。


 画面の中で、壱与の名が消え、佐依の名が静かに浮かび上がった。


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