第22話 佐依
佐依。
その名が画面に浮かんだ瞬間、さっきまでほどけかけていた空気が、もう一度静かに張りつめた。
二代目陽巫女。
壱与の次に、天岩戸八咫鏡を抱いて陽の世界へ戻った少女。
神代玲奈は、すぐには説明を始めなかった。端末の上に並んだ記録は、壱与のものよりさらに少ない。欠けた写し。後世の注釈。焼け残った短い木簡。どれも、誰かが残したというより、消される途中でかろうじて残ったものに見えた。
「佐依様の記録は、多くありません」
玲奈の声は、朝の部屋に低く沈んだ。
「壱与様の記録が、神代家の祖先によって約束として守られたものだとすれば、佐依様の記録は、守ろうとしても守りきれなかったものです」
美耶は、胸元の鏡に手を添えたまま画面を見つめていた。
悠斗は、その横顔を見る。青ざめてはいない。けれど、さっきまで壱与の名に揺れていた瞳が、今はもっと深い場所を見ている。
「鏡が戻ったなら」
美耶が、静かに言った。
「壱与様の死は、邪馬台国にも知られたのですね」
「はい」
玲奈は短く答えた。
「神代家の口伝では、壱与様の死は、鏡が戻ったことで邪馬台国側にも知られたとされています」
その言葉に、部屋の誰も動かなかった。
知らずに行ったのではない。
鏡が戻ったという事実を見て、死を知り、それでも同じ道へ立った。
御影宗一郎が、膝の上で指を組んだ。
「それでも、行かねば国は滅びる。なんとも残酷な役目じゃ」
美耶の指が、鏡の布を少しだけ握った。
「佐依様は、どのような方だったのですか」
「記録では、年若い巫女だったとあります。ただし、詳しい年齢は分かりません」
玲奈は、画面の端を拡大した。
短い文章が映る。
壱与の名を聞きて泣かず。
日ごと岩戸の前に座し、帰らぬ者の道を問う。
「泣かなかった、のか」
悠斗は、思わず呟いた。
「泣けなかったのかもしれません」
玲奈の声は、断定しなかった。
「壱与様が陽の世界で何に出会い、誰に何を託したのか。佐依様は、それを知りませんでした。神代家へ約束が届いたことも、張政に断片が渡ったことも、邪馬台国側へ戻った記録はありません」
「知っていたのは」
悠斗の声は、自分でも分かるほど低かった。
「壱与さんが死んだ、ってことだけか」
玲奈は頷いた。
「はい。鏡が戻った。だから、壱与様は陽の世界で亡くなられた。佐依様が確かに知れたのは、そこまでです」
美耶が、かすかに息を吸った。
「でも、行かれたのですね」
「はい」
玲奈は頷いた。
「佐依様は、壱与様の死を弔うためではなく、壱与様が戻ろうとした道を継ぐために、陽巫女になった」
画面に、別の木簡の写しが出る。
文字は欠けている。残っているのは、わずかな文だけだった。
――我は帰るために行くにあらず。
――帰すために行く。
美耶の喉が、小さく鳴った。
悠斗は、何も言えなかった。
帰るためではない。
帰すために行く。
それは、あまりにも陽巫女の言葉だった。
「佐依様は、慎重にならざるをえませんでした」
玲奈は続ける。
「陽の世界に、知り合いはいない。頼れる家も、迎えに来る者もいない。しかも先に戻った壱与様は、そこで命を落としている。何が危険なのか分からないまま、危険だけは確かにある場所へ戻ったのです」
「一人で探したのか」
「記録上は、そう読めます」
玲奈は少しだけ目を伏せた。
「ただ、佐依様は壱与様と同じ道をなぞったわけではありません。壱与様が誰に会ったのかを知らない以上、同じ道を選びようがなかった」
「神代家のことも」
美耶の声が、小さく揺れた。
玲奈は、しかし頷かなかった。
「会えませんでした」
短い言葉だった。
美耶の指が、鏡の布を強く握る。
「神代家側には、佐依様を見つけようとした形跡があります。けれど、見つける前に、別の手が先に佐依様へ届いた」
画面の文字が変わる。
海路。
社。
剣。
その次の地名は、墨で黒く塗り潰されていた。
「これは、佐依様に関わると見られる写しです。後世のものですが、元になった記録はかなり古い」
玲奈は、墨で塗られた箇所を指で示した。
「界裂草薙剣を探すための記録だと思われます。ただし、場所を示す部分が消されています」
宗一郎の目つきが変わった。
「熱田ではないのか」
「熱田と書かれていたなら、消す理由がありません」
玲奈は静かに言った。
「少なくとも、この記録を書いた者にとって、消す必要のある地名だった」
悠斗は、画面に近づきそうになるのをこらえた。
今、その先を知りたくなる。
でも、それはまだ分からない。
分からないように、誰かが消した。
「佐依様は、剣の正確な所在を掴んだのですか」
美耶が尋ねる。
「そこは分かりません」
玲奈は、はっきりと言った。
「佐依様の神代家側の記録は、そこで途切れています。剣に近づいたのか、近づく前に捕らえられたのか。神代家には、断定できる記録がありません」
捕らえられた。
その言葉が落ちた瞬間、美耶の肩が小さく揺れた。
「誰に、ですか」
「後に大和の記録整理に関わる家筋です。神代家の記録では、まだ九条という名では出てきません」
玲奈は、そこで一度言葉を切った。
「だから、ここを張政の流れと混ぜてはいけません。張政から狗奴国へ流れた断片とは別に、佐依様を追った手があった」
宗一郎が、低く唸った。
「欲望は、一つの道だけを通ったわけではないということか」
「はい。ただし、出どころが違います」
玲奈の声には、強い注意があった。
「佐依様は、張政に話したのではありません。狗奴国に売ったのでもありません。神代家へ届く前に、捕らえられた」
美耶の指が、鏡を抱く手に食い込む。
悠斗は、その手を見た。
声をかけようとして、止める。今、簡単な慰めを置く場所ではない気がした。
「……その後は」
美耶の声は震えていた。
玲奈は、すぐには答えなかった。
「分かっていません」
部屋の空気が、さらに沈んだ。
「捕らえられた後、佐依様が何を問われたのか。何を話したのか。何を黙ったのか。神代家には、確かな記録がありません」
美耶が、息を止めた。
「では、どうして死んだと分かったのですか」
悠斗の口から、反射的に声が出た。
玲奈は、美耶の胸元の鏡を見た。
「鏡が戻ったからです」
その一言で、答えは足りていた。
陽巫女が陽の世界で命を落とせば、鏡は陰の世界へ戻る。
鍵。
その言葉が、悠斗の中で冷たく形を取った。
天叢機関。
九条景臣。
生体鍵。
まだ誰もその名を口にしていないのに、部屋の全員が同じものを思い浮かべた。
「佐依様は」
玲奈は、言葉を選ぶように続けた。
「神代家と会うことができないまま、陽の世界で亡くなられた。それだけは、鏡の帰還によって分かります。けれど、その内側で何があったのかまでは、分かりません」
美耶は、鏡を抱えたまま動かなかった。
悠斗は、胸の奥が冷えるのを感じた。
それは、勇気と呼べるのかもしれない。
けれど、簡単に美しいとは言えない。
何があったのかも分からない終わりを、誰かに背負わせていいはずがない。
「美耶」
悠斗は、やっと声を出した。
美耶が、ゆっくりこちらを見る。
「佐依さんは、すごい人だったと思う」
美耶の瞳が揺れる。
「でも、美耶が同じことをしなきゃいけないって話じゃない」
美耶は、何も言わなかった。
「佐依さんの記録は、美耶が同じ覚悟をするために読むんじゃない。同じ終わり方をしないために読むんだ」
言葉が、部屋に落ちた。
宗一郎が、深く息を吐く。
「その通りじゃ」
老人の声は、珍しく震えていた。
「美那の時、わしは逃がすことしかできんかった。佐依の時代の者たちは、守れなかった。だからこそ、同じ終わりを繰り返してはならん」
玲奈も、静かに頷いた。
「八咫烏も、そこを間違えてはいけません」
彼女の声は、いつもより硬かった。
「陽巫女を守るとは、使命を守ることではなく、陽巫女本人を孤立させないことです」
美耶の目に、少しずつ光が戻る。
「佐依様は」
美耶は、画面の名を見つめた。
「一人で、終わられたのですか」
「分かりません」
玲奈は、また断定しなかった。
「ただ、記録が完全に消えていない以上、佐依様を見ていた誰か、佐依様を捕らえた側の誰か、あるいは佐依様を忘れまいとした誰かがいたはずです」
玲奈は、墨で消された地名の写しを再び表示した。
「そして、佐依様の周辺から消されたものも、完全には消えませんでした」
黒く塗られた文字。
その端に、かすかに残った線。
熱田と読むには、形が合わない。
けれど、まだ何と読むべきかは分からない。
「この地名が、次の手がかりです」
玲奈は言った。
「佐依様の死後、草薙剣の伝承は、ある時期から不自然なほど熱田へ固定化されていきます。けれど、その前に別の系統があった。佐依様が追っていたものは、その系統だった可能性があります」
「つまり」
悠斗は、画面の黒い塗り潰しを見た。
「歴史が分からないんじゃなくて、分からないようにされた」
玲奈が、静かに頷いた。
「はい」
美耶は、鏡に触れたまま、画面へ向き直った。
「佐依様は、渡さなかったのですね」
「そこまでは、分かりません」
玲奈は答えた。
「渡さなかったのか、渡せなかったのか。あるいは、何かを奪われたのか。神代家には、確かめる記録がありません。ただ、後の家筋へ流れた断片がある可能性は高い。だからこそ、次の手がかりを追う必要があります」
美耶は、長く息を吐いた。
泣いてはいなかった。
けれど、泣くよりも深く受け止めている顔だった。
「なら、私は」
美耶は、ゆっくりと言った。
「佐依様が届けられなかったものを、探します」
悠斗は、すぐ隣で頷いた。
「一人じゃない」
美耶が、こちらを見る。
「うん。一緒に探す」
その言葉に、美耶の表情が少しだけ緩んだ。
笑顔ではない。
でも、ひとりで死へ向かう陽巫女の顔ではなかった。
玲奈は端末を操作し、墨で消された地名を拡大した。
黒い墨の縁に、古い紙の繊維が見える。
消されたはずの一画が、そこにかすかに残っている。
「次に確認するのは、熱田へ固定化される前の草薙剣伝承です」
玲奈の声が、静かに部屋を満たした。
「佐依様の記録が途切れた場所。消された地名。そこに、熱田とは別の道が残っています」
悠斗は、画面から目を離せなかった。
壱与は、約束と欲望を分けた。
佐依の道は、神代家へ届く前に途切れた。
なら、その途切れた道の向こうに何があるのか。
黒い墨の奥で、消された文字がまだ沈黙していた。




