第43話 残された夏
朝になっても、夏は何も変わっていなかった。
蝉は夜明け前から鳴き始め、窓から差し込む陽射しは容赦なく部屋を熱した。
悠斗は目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
眠ったのかどうかも分からない。目を閉じれば、最後に見た美耶の瞳が浮かんだ。手を伸ばせば届きそうなのに、指先は白い靄をつかむだけだった。
机の上には、一冊のノートが置かれている。
表紙には、自分の字で書いた題。
――邪馬台国はどこへ消えたのか。
数日前までは、その答えを追うことが自分のすべてだった。
今は答えを知っている。
邪馬台国は消えてなどいなかった。本来の時代へ帰り、初めての青空を取り戻した。
けれど、それを一行も書けなかった。
ノートを開く。
宗一郎の話。古代中国の記録。消された地名。三つの神器。自分で調べ、考え、何度も書き直した跡が残っている。
最後のページだけが白かった。
悠斗はペンを持った。
何も書けないまま、ペン先が紙の上で止まる。
「お兄、ごはん」
扉の向こうから莉央の声がした。
「聞こえてる? 今日ずっと部屋にこもる気?」
「今行く」
返事をすると、足音はすぐ階段を下りていった。
悠斗はノートを閉じた。
閉じる前、白いページに小さな点が残っているのが見えた。
止めていたペンから、インクが落ちた跡だった。
* 1 *
食卓には、焼いた鮭と卵焼きと味噌汁が並んでいた。
春香は台所と食卓を行き来し、直人は新聞を読んでいる。莉央は片手でパンをかじりながら、もう片方の手でスマートフォンを触っていた。
いつもの朝だった。
悠斗が椅子に座ると、春香が味噌汁を置く。
「熱いから気をつけてね」
「うん。ありがとう」
椀から湯気が上がる。
古代の邪馬台国には、この味噌汁はない。
そんな当たり前のことが、急に胸へ刺さった。
「そういやさ」
莉央がスマートフォンから顔を上げた。
「美耶、いつ帰ってくんの?」
箸を持つ悠斗の手が止まった。
昨夜は帰宅が遅く、旅行の話を詳しく聞く前に一日が終わった。悠斗だけが先に戻り、美耶は向こうへ残ったのだろうと、家族は考えていた。
「帰ったよ」
「え?」
「自分の家に」
嘘ではなかった。
美耶は両親のいる家へ帰った。自分で、そこに残ると決めた。
「マジ? 挨拶もなし?」
「急だったんだ」
「ふうん」
莉央は何か言いかけ、悠斗の顔を見た。
それから、口にしかけた言葉をパンと一緒に飲み込む。
「そっか」
事情を理解したわけではない。ただ、今は聞かないほうがいいと決めただけの顔だった。
春香も尋ねなかった。
「冷めないうちに食べなさい」
そう言って、自分の椅子へ座る。
悠斗は味噌汁を口へ運んだ。
温かかった。
美耶と白峰家で食卓を囲んだ夜を思い出す。莉央に言葉を教わり、意味も分からないまま真似をして、みんなを笑わせた美耶。
その席は、今は空いている。
温かいから、余計に苦しかった。
それでも、悠斗は椀を置かなかった。
一口ずつ、最後まで飲んだ。
食事を終えて部屋へ戻ろうとしたとき、直人が新聞を畳んだ。
「悠斗」
「何?」
「少し、いいか」
二人で庭へ出た。
朝の陽射しはもう強い。あの日、美耶と見上げたのと同じ青空が、白峰家の上に広がっていた。
「美耶さんは、帰ったのか」
「うん」
「そうか」
直人はそれ以上の事情を尋ねなかった。
悠斗は庭の木へ目を向けた。
「帰る場所があったから」
口にすると、別れ際の光景が戻ってきた。
美都と阿岐。美那と宗一郎。初めて陽射しを浴びた国の人々。
「俺が、送ってきた」
直人はしばらく黙っていた。
「なら、お前はちゃんと送ってきたんだな」
その言葉に、悠斗は顔を上げた。
「美耶さんに何があったか、父さんには分からない」
直人は決めつけずに言った。
「だが、大切な人を自分の都合だけで引き止めなかったのなら、それは逃げたわけじゃない」
胸の奥で、押さえていた痛みが動いた。
「逃げたくは、なかった」
「うん」
「本当は、一緒に帰りたかった」
「うん」
直人は、それ以上何も言わなかった。
ただ隣に立って、悠斗と同じ夏空を見上げた。
* 2 *
天叢機関の臨時会議室は、窓をすべて内側から塞がれていた。
加賀見は長机の上へ、黒い記録媒体と数枚の書類を置いた。
「九条景臣から私へ送られた指示記録です」
向かいに座る監査担当者たちは、誰も手を伸ばさなかった。
陰の世界への侵入。陽巫女の確保。神器の強制使用。現場から届いた中止要請の無視。
そこに残された記録は、すべてを九条一人の暴走として終わらせることを許さない。
誰が計画を承認し、誰が危険を知りながら黙認したのか。すべてをたどれる形で残っていた。
「あなた自身に不利な記録も含まれています」
監査担当者の一人が言った。
「承知しています」
「提出すれば、処分を免れない可能性がある」
「それでも提出します」
加賀見は記録媒体から手を離した。
「私は命令に従っていた。だが、見なかったことにはできない」
会議室の隅に立っていた玲奈が、静かに口を開いた。
「この記録が残れば、同じ計画を続けることはできません」
九条は戻らない。
それでも、彼の考えに従う者は残っている。
記録を消せば、いつか別の誰かが、別の少女を鍵と呼ぶ。
「残してください」
玲奈の声には、迷いがなかった。
「二度と、陽巫女を鍵と呼ばせないために」
その日の午後、玲奈は八咫烏の保管庫にいた。
神代家が守ってきた記録。ヤーマとイーラ。邪馬台国。天岩戸八咫鏡。そして、歴代の陽巫女。
古い記録の末尾へ、新しい一文を書き加える。
――陽巫女は、鍵ではない。
短い言葉だった。
そこへ美耶の名は書かなかった。
美耶がどこへ帰ったのかも、宗一郎がどの時代に残ったのかも、公の記録にはできない。
それでも、彼女が自分の意志で選び、国を帰したことだけは、同じ過ちを止める言葉として残せる。
玲奈は筆を置いた。
「先生」
誰もいない保管庫で呟く。
「あなたが追い続けた国は、帰りました」
返事はなかった。
それが、宗一郎が現代へ戻らなかったという現実だった。
* 3 *
翌日の昼前、玲奈から連絡があった。
白峰家の門を出ると、黒い車の横に玲奈が立っていた。
「白峰さん」
「玲奈さん」
玲奈の服装は整っていたが、目の下には薄い影があった。
「天叢機関の調査が始まりました。九条の指示記録は確保されています。すぐに組織そのものがなくなるわけではありませんが、少なくとも、同じ強硬策を続けることはできません」
「加賀見さんは?」
「記録を提出しました。自分の責任も含めて」
悠斗はうなずいた。
許せたわけではない。
九条を止められなかったことも、美耶を鍵として連れ去ろうとしたことも、なかったことにはならない。
だが加賀見は、消すことも逃げることもしなかった。
「それから、これを」
玲奈が小さな鍵を差し出した。
古びた革の札がついている。
「御影先生の家の鍵です」
悠斗は手を伸ばしかけて止めた。
「どうして、俺に」
「自分が戻らなかったときは、白峰さんへ渡してほしいと預かっていました」
いつ預けたのかは分からない。
宗一郎は、戻らない可能性を考えていた。
考えたうえで、美那の隣に残った。
悠斗は鍵を受け取った。
手のひらに、冷たい金属の重さが載る。
「先生の研究資料も、家も、当面はそのままです。どうするかは、急いで決めなくていい」
「はい」
玲奈は一度目を伏せた。
「先生は、最後まで勝手な人でした」
「自分でも、そう伝えてくれって言ってました」
「そうですか」
玲奈の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「いかにも先生らしいですね」
車が去ったあとも、悠斗はしばらく門の前に立っていた。
手の中の鍵を見つめる。
午後、悠斗は宗一郎の家まで歩いた。
初めて訪ねたときと同じように、庭の草は伸び、古い家の窓は閉じていた。
宗一郎が戸を開け、皺だらけの顔を子供のようにほころばせて、招き入れてくれそうな気がした。
玄関の前に立つ。
鍵を取り出す。
鍵穴へ差し込もうとして、手が止まった。
この戸を開けても、宗一郎はいない。
机も、本も、書き込みだらけの地図も残っているだろう。
けれど、どれだけ待っても、あの声は聞こえない。
悠斗は鍵を握りしめた。
「今日は、まだ無理です」
閉じた戸へ告げる。
「でも、また来ます」
逃げるためではない。
次に来るときは、自分の意志でこの戸を開ける。そのために、今日は背を向けた。
* 4 *
家へ帰った夕方、机の上のノートを開いた。
最後の白いページがある。
悠斗は、今度はペンを止めなかった。
宗一郎が四十年追い続けた国。
美耶が命を懸けて帰した国。
すべてをそのまま書くことはできない。誰かに見せることもできない。
それでも、自分で始めたことを、消えたままにはしたくなかった。
一行目を書く。
――俺は、邪馬台国が消えた理由を知っている。
続けて、分かっていることと、書けないことの境目を探しながら言葉を重ねた。
窓の外で蝉が鳴いている。
時間はかかった。
日が暮れかけても、最後のページは埋まらなかった。
けれど、ページの隅にインクの点しかなかった前日の朝とは違う。今は何行もの文字が残っている。
机の端には、学校から届いた封筒が置かれていた。
夏休みが終われば、新学期が始まる。
一年前から、見ないようにしてきた場所だった。
封筒へ手を伸ばす。
開けることはできなかった。
それでも、引き出しへ隠すこともしなかった。
ノートの隣へ置く。
今すぐ元どおりにはなれない。
美耶を失った痛みも、教室への怖さも、消えてはいない。
だが、消えないものを抱えたまま、一歩を選べることを知った。
夜になると、悠斗は庭へ出た。
帰ってきた夜と同じ場所に立ち、空を見上げる。
夏の大三角形が輝いていた。
「見てるよ、美耶」
返事はない。
風が木の葉を揺らす。
声は届かない。星が瞬いているだけだった。
悠斗はしばらく待った。
返事がない現実を、逃げずに受け止めるためだった。
それから、涙を拭った。
「明日も、見るよ」
空へ告げる。
残された夏は、まだ終わっていない。
美耶のいない明日へ、悠斗は自分の足で戻っていく。




