第42話 さよなら、帰る場所
「君の帰る場所は、ここだから」
言葉は、二人の間に落ちたまま動かなかった。
美耶は伸ばした手を下ろさない。
指先が、触れられる距離にある。
悠斗が一歩踏み出せば届く。手を取って、鏡へ飛び込めばいい。美耶を連れて現代へ戻り、白峰家の玄関を開ければいい。
そうしたい。
身体の全部が、そう叫んでいた。
「私の帰る場所は」
美耶の声が震える。
「白峰家でもあります」
「うん」
「春香様も、直人様も、莉央も待っています」
「うん」
「悠斗が、待っています」
最後の一言に、返事ができなかった。
鏡面に映る出雲の木立が大きく揺れた。
白い靄が景色の端から侵食している。現代へつながる場所は、人ひとりが通れるほどの幅まで縮んでいた。
悠斗の輪郭がまた透ける。
腕の感覚が一瞬消え、握っていた界裂草薙剣の重みまで遠のいた。
「時間がありません」
美那が告げる。
声は静かだったが、美耶を見る目には涙があった。
宗一郎は何も言わない。
悠斗が自分で言葉を選ぶのを、ただ待っている。
「美耶の気持ちを、俺が決めたいんじゃない」
悠斗はようやく言った。
「では、なぜ」
「俺が決められるのは、俺がどうするかだけだから」
悠斗は震える息を吐いた。
「美耶が俺と帰りたいと思ってくれたことは、絶対になかったことにしない」
美耶の瞳から涙が落ちた。
「俺も、美耶と帰りたい。その気持ちは変えない」
「では――」
「でも、俺は帰る」
逃げずに言った。
「美耶をここへ置いていくんじゃない。俺が、美耶のいる場所から離れるんだ」
美耶が息を止める。
「美耶は俺を選ばなかったんじゃない。俺を捨てるんでもない。俺が、自分で帰る」
これで痛みが消えるわけではない。
ただ、美耶が誰かを見捨てたという傷だけは、背負わせたくなかった。
* 1 *
美耶は、長いあいだ俯いていた。
肩が小さく震えている。
悠斗は手を伸ばさなかった。
触れれば、そのまま抱きしめてしまう。
抱きしめれば、もう離せない。
「ずるいです」
美耶が呟いた。
「うん」
「私が何を言っても、自分で帰るつもりだったのですね」
涙に濡れた顔が上がる。
「私を大切にするような顔で、一番つらいことを言うのですね」
「怒っていいよ」
「怒っています」
美耶は唇を噛んだ。
「とても、怒っています」
悠斗はうなずいた。
「ごめん」
「謝らないでください」
「うん」
「何でも、うんと言わないでください」
美耶の声が崩れた。
泣きながら、それでも少しだけ笑った。
「本当に、ずるい人です」
悠斗も笑おうとした。
うまく笑えなかった。
美耶の背後で、美都が阿岐の胸元に顔を伏せている。阿岐は妻の肩を抱き、娘から目を逸らさない。
美耶が帰ってきたことを喜びながら、娘が何を失おうとしているのかも分かっている。
国の門の向こうでは、人々が青空の下に立っていた。
それは、美耶が取り戻した夏だった。
美耶は振り返った。
両親を見る。
美那を見る。
初めて陽射しを浴びた民と、風に揺れる緑を見る。
それから、もう一度悠斗へ向き直った。
「私は、ここに残ります」
悠斗の胸が痛んだ。
自分が言わせたかった言葉ではない。
それでも、美耶は自分の声で言った。
「四代目陽巫女だからではありません」
美耶は涙を拭わない。
「お母様とお父様がいるから。おばあ様がいるから。この国の人たちと、取り戻した空の下で生きたいから」
一つずつ、自分の帰る理由を口にする。
「そして、悠斗が守ってくれた帰る場所を、私も守りたいからです」
「うん」
「でも」
美耶が一歩、近づいた。
「悠斗と帰りたい気持ちも、ここへ置いてはいきません」
今度は悠斗から手を伸ばした。
美耶の手を取る。
「俺も持って帰る」
二人の指が重なった。
「美耶と一緒にいたかった気持ちを、持って帰る」
美耶は、強く握り返した。
* 2 *
鏡面が激しく揺れ、現代の景色が白い靄に削られていく。
出雲の木立はもう半分以上見えない。
「悠斗」
宗一郎が呼んだ。
「行け」
悠斗は宗一郎を見る。
「先生」
「こちらのことは心配するな」
宗一郎は美那の隣に立っていた。
四十年をかけてたどり着いた人の顔だった。
「先生のことは、皆に何と伝えればいいですか」
「勝手な老人であったと伝えてくれ」
「それだけですか」
「それだけで十分じゃ」
宗一郎は笑った。
「分かりました」
「白峰君」
宗一郎の声が少し低くなる。
「よく、ここまで来た」
その一言で、悠斗の目から涙が溢れた。
「先生も」
声が詰まる。
「先生も、やっと来られたんですね」
「ああ」
宗一郎は美那を見た。
「ようやくじゃ」
美那が宗一郎の手に自分の手を重ねる。
「悠斗さん」
美那は深く頭を下げた。
「美耶を、一人にしないでくださって、ありがとうございました」
「俺のほうが、美耶に助けられました」
「それなら、二人で助け合ったのですね」
美那は涙の中で微笑んだ。
「そのことを、忘れないでください」
鏡の白い靄がさらに広がる。
悠斗の足が透けた。
世界が、もう待てないと告げている。
美耶が悠斗の手を両手で包んだ。
「約束、覚えてる?」
悠斗は聞いた。
美耶が目を見開く。
「夜空を見る約束」
泣きながら、何度もうなずく。
「はい。覚えています」
「毎日、俺は夜空を見て美耶を想うよ」
あの夜、二人で見上げた星を思い出す。
ベガとアルタイル。
千八百年離れていても、同じように見える星。
「あの時約束した星を見ながら」
「はい」
「だから、遠く離れていても、俺の思いは美耶と一緒だから」
美耶は悠斗の手を両手で包み、胸の前に抱いた。
「私も毎晩、悠斗を想いながら星空を見ます」
手の甲へ、涙が落ちる。
「悠斗が見ている星を、私も見ます」
* 3 *
鏡に残っていた現代の景色が、一度大きく歪んだ。
木立が消える。
仮設指揮所が消える。
最後に、現代の青空だけが細く残った。
悠斗と美耶の手が透け始める。
つないでいるのに、指の感触が薄れていく。
「嫌です」
美耶が手を握り直す。
「まだ、言いたいことが」
「俺も」
言いたいことはいくらでもあった。
最初に会った夜、もっと優しくすればよかった。
白峰家で笑ったこと。
一緒に歩いたこと。
手をつないだこと。
怖いとき、名前を呼んでくれたこと。
全部に、ありがとうと言いたかった。
全部を、もう一度やりたかった。
「美耶」
悠斗は、消えかける手を引いた。
今度は迷わず、美耶を抱きしめた。
美耶の腕が背中へ回る。
温かい。
まだ、ここにいる。
「ありがとう」
耳元で言った。
「俺の時間を、動かしてくれて」
美耶の肩が震えた。
「私こそ」
声が涙に溶ける。
「私を、陽巫女ではなく、美耶として見つけてくれて」
抱きしめる腕に力を込める。
それでも、感触は薄れていく。
「悠斗」
「うん」
「大好きです」
胸の奥で、止まっていた時間が音を立てた。
悠斗は泣きながら笑った。
「俺も、美耶が大好きだ」
初めて、はっきり伝えた。
遅すぎたとは思わなかった。
今、この瞬間に言うために、ここまで来たのだと思った。
鏡が強く震えた。
身体が後ろへ引かれる。
悠斗は美耶を抱きしめたまま踏ん張った。
「悠斗!」
「美耶!」
重なっていた腕が、すり抜けた。
美耶の顔が遠ざかる。
宗一郎と美那が、その後ろに見える。
美都と阿岐が、娘へ駆け寄る。
「星を見るから!」
悠斗は叫んだ。
「毎日、必ず!」
美耶が両手を伸ばす。
「私も見ます!」
涙で濡れた顔が、それでも笑った。
「同じ星空で、会いましょう!」
白い靄がすべてを覆った。
最後まで見えていたのは、美耶の瞳だった。
* 4 *
土の匂いがした。
蝉の声が、耳を刺した。
悠斗は地面へ倒れ込んだ。
手の中には界裂草薙剣がある。
顔を上げる。
出雲の木立。
倒れた仮設フェンス。
空間の傷があった場所には、何も残っていなかった。
「白峰!」
加賀見が駆け寄ってくる。
玲奈もいた。
二人とも無事だった。
玲奈は悠斗の手から剣を受け取ると、何も聞かず、自分の上着を脱いで刀身を包んだ。
悠斗は立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
「美耶さんは」
玲奈が尋ね、途中で口を閉じた。
悠斗の顔を見て、答えを知ったのだ。
「先生は」
「残りました」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。
「美那さんのそばに」
玲奈は目を閉じた。
短く息を吐き、何も言わず悠斗の肩へ手を置いた。
加賀見は空間の傷が消えた場所へ向き直り、深く頭を下げた。
夏の風が、三人の間を通り抜けた。
美耶のいない、現代の風だった。
その日の夕方、悠斗は白峰家へ帰った。
「ただいま」
玄関を開けると、台所から包丁の音が聞こえた。
「おかえり」
春香の声が、いつもどおり返ってくる。
居間では直人が新聞を畳み、莉央がソファから顔を上げた。
「お兄、ちーす。旅行どうだった?」
「うん」
悠斗は靴を脱いだ。
「すごかったよ」
「なにそれ。語彙なくなってんじゃん」
莉央は笑い、それから手を差し出した。
「で、お土産は?」
何も買っていないことに、そのとき初めて気づいた。
「ごめん。忘れた」
「は? ガチで?」
台所から、春香の笑い声がした。
「夕飯、もうすぐできるからね」
「うん」
家の中には、いつもの夕方があった。
誰も知らない。
宗一郎が千八百年前の国に残ったことも、邪馬台国が本来の時代へ帰ったことも、美耶ともう触れ合えないことも。
悠斗だけが、それを抱えて食卓に座った。
そして夜、家族が眠ったあとで庭へ出た。
空を見上げる。
夏の大三角形が見えた。
ベガとアルタイル。
あの夜と同じ星だった。
「美耶」
名前を呼んだ瞬間、涙が溢れた。
庭に膝をつく。
声を抑えることもできず、泣いた。
もう触れられない。
声も届かない。
千八百年という時間が、二人の間にある。
それでも悠斗は、涙の向こうに星を見た。
悠斗から千八百年近く離れた、古代の夏の夜。
本来の時代へ戻った邪馬台国でも、美耶が夜空を見上げていた。
陽射しを知った国が、本来の空の下で初めて迎える夜だった。
美都と阿岐が少し離れて立っている。
美那と宗一郎もいた。
美耶は一人、夏の大三角形へ手を伸ばした。
「悠斗」
声は届かない。
それでも、同じ星を見ている。
時代が違っても。
遠く離れていても。
あの星を見る一瞬だけは、同じものを見られる。
美耶の頬を涙が伝った。
「約束です」
悠斗は、現代の夜空へ答えた。
「うん。約束だ」
二つの時代に、同じ星が輝いていた。




