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邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


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第41話 時空の夏

 大地の轟きは、足元からではなく、世界の奥から響いていた。


 悠斗は界裂草薙剣を支えたまま、揺れる地平を見つめた。


 邪馬台国を包んでいた灰色の空に、無数の亀裂が走っている。亀裂の向こうには青があった。細く覗いていた青は、雲を押し分け、押し広げ、やがて空そのものを塗り替えていく。


 その変化は、あまりに静かだった。


 陰の世界を満たしていた低い唸りが遠のく。


 代わりに聞こえたのは、葉の擦れる音だった。


 風が吹いた。


 草の匂いを含んだ風が、悠斗の髪を揺らした。頬に触れる温度がある。湿り気がある。どこかで花が咲いているらしい、かすかな甘い香りまで混じっていた。


「風……」


 美耶が、鏡を抱いたまま呟いた。


 長いあいだ動かなかった灰色の雲が、空の端へ流されていく。


 雲の切れ間から陽射しが降りた。


 岩場を照らし、黒い森を越え、遠くの邪馬台国へ届く。


 陰の世界では色を失っていた大地が、土の褐色を取り戻す。草原に緑が走る。森の木々が風を受け、一斉に枝を揺らした。


 悠斗の両手から、剣を押し返していた重さが消えた。


 裂け目が閉じるのではない。


 裂け目を境に分かれていた二つの景色が重なり、陰の世界のほうが薄れていく。


「始まったのではありません」


 美那の声が震えた。


 禍津八尺瓊勾玉を胸元へ抱き、空を見上げている。


「今、帰ったのです」


 最後の灰色が、空から剥がれ落ちた。


 青空が広がった。


 どこまでも高く、何にも閉ざされていない夏の空だった。


 その瞬間、遠い国の方角から声が上がった。


 一人の声ではない。


 何百、何千という人々の叫びが、風に乗って岩場まで届いた。


 歓声とも悲鳴ともつかない声だった。


 空を知らずに生まれた者たちが、初めて空を見た声だった。


      * 1 *


 邪馬台国へ戻る道で、誰もほとんど言葉を発しなかった。


 行きに越えた黒い森は、もう黒くなかった。


 幹には濃い茶色の筋が走り、枝の先には青い葉が揺れている。あれほど執拗に追ってきた妖しきものの気配もない。足元を駆け抜けた小さな獣が、茂みへ飛び込んでいった。


 鳥の声がした。


 美耶が足を止める。


 木の上を見回し、声の主を探した。


 もう一度、高く澄んだ鳴き声が降ってくる。


「鳥は、あのように鳴くのですね」


「見たことがなかったのか」


 悠斗が尋ねると、美耶は首を横に振った。


「陰の世界にも鳥はいました。でも、あんな声ではありませんでした。何かに怯えているような声ばかりで」


 三度目の鳴き声に、美耶は笑った。


 ただ鳥が鳴いただけだった。


 それだけのことで、美耶の頬を涙が伝った。


 悠斗は何も言えなかった。


 美耶が帰したかったものが、ようやく分かった気がした。


 国とは、宮殿でも土地でもない。


 風の匂い。鳥の声。草を踏んだときの柔らかさ。朝になれば明るくなり、夜になれば星が出るという当たり前。


 美耶は、それを一度も知らない人々のために帰ってきたのだ。


 森を抜けると、邪馬台国が見えた。


 結界は消えていた。


 国を覆っていた半透明の壁も、頭上に垂れ込めていた濁った天井もない。


 門の外まで人が溢れていた。


 兵士も、老人も、子供も、みな空を見上げている。


 ある者は両手を広げ、ある者は地面へ膝をつき、ある者は隣にいる者へしがみついて泣いていた。


 母親に抱き上げられた幼い子が、空を指さす。


「あれが、青?」


 母親は答えようとして、声を出せなかった。


 何度もうなずき、子供の髪へ顔を埋める。


 年老いた男が、震える手で陽射しを受けていた。


「温かい」


 手のひらを返し、確かめる。


「日の光は、温かいのだな」


 誰かが笑った。


 笑いながら泣き、その声につられるように、周囲の人々も泣き笑った。


 美耶は門の前で立ち尽くしていた。


「美耶!」


 人々の中から、美都が駆けてきた。


 裾を乱し、阿岐よりも先に娘へたどり着く。


 美耶を抱きしめ、その背中を何度も撫でた。


「お母様」


「見て、美耶。空よ」


 美都は娘を抱いたまま、何度も同じことを言った。


「本当に、空があるの」


 追いついた阿岐が、二人をまとめて抱き寄せる。


 美耶は両親の間で涙をこぼしながら、悠斗を見た。


 悠斗は笑って、うなずいた。


 これでよかった。


 胸の奥が痛んでも、そう思った。


      * 2 *


 美那は、門をくぐったところから動けずにいた。


 陽射しの中へ片手を伸ばしている。


「四十年前、陽の世界へ渡ったときにも、空を見ました」


 隣に立った宗一郎へ語りかける。


「けれど、あれは私の国の空ではなかった。美しいと思うたび、邪馬台国に残した人々を思い出しました」


 美那は地面へ目を落とした。


 草の一本を指で撫でる。


「ここにも、生えている」


 宗一郎が腰をかがめた。


「ああ」


「同じ緑です」


「ああ」


 宗一郎は、それしか言えなかった。


 美那は笑っていた。


 少女のころに果たせなかった願いを、四十年後の今、ようやく目の前にしている。


 宗一郎の目にも涙が浮かんだ。


「遅くなった」


 絞り出すように言う。


「わしは、あまりに遅かった」


「いいえ」


 美那は首を振った。


「あなたは、来てくれました」


 四十年を挟んだ二人の手が重なる。


 その姿を見ていた悠斗の胸に、熱いものが込み上げた。


 宗一郎は、美那を帰した。


 自分のそばにいてほしいと願いながら、彼女の国へ帰した。


 そして四十年かけて、もう一度ここまで来た。


「白峰さん」


 玲奈の鋭い声がした。


 悠斗は振り返った。


 玲奈が、自分の右手を見つめている。


 指先の輪郭が揺れていた。


 陽炎のように透け、すぐ元へ戻る。


「玲奈さん、それ」


「あなたもよ」


 言われて、悠斗は剣を持つ手を見た。


 指の向こうに、地面が見えた。


 身体が薄くなったのではない。


 今いる場所と、別の場所が重なり始めている。


 加賀見の肩も揺らいだ。


 周囲の人々には何も起きていない。


 美耶も、美那も、はっきりそこに立っている。


「帰還の反動か」


 加賀見が自分の腕を確かめる。


「違う」


 悠斗には分かってしまった。


 邪馬台国は、本来あるべき時代へ戻った。


 ここは現代ではない。


 千八百年近く前の、邪馬台国がまだ歴史から消える前の夏だ。


 本来ここに存在しない者を、世界が押し戻そうとしている。


 美耶が両親の腕を離れ、悠斗へ駆け寄った。


「悠斗!」


 伸ばされた手を取る。


 触れている。


 けれど、一瞬だけ指先の感覚が消えた。


 美耶も気づいたらしい。悠斗の手を、痛いほど強く握る。


「嫌です」


 まだ何も言っていないのに、美耶が首を振った。


「せっかく帰れたのに。どうして、すぐに」


 天岩戸八咫鏡が、美耶の胸元で震えた。


      * 3 *


 鏡面から、見覚えのある景色が浮かび上がった。


 出雲の山中。


 木立に囲まれた仮設指揮所と、その前に残る空間の傷。


 悠斗たちが、陽の門を越えて陰の世界へ渡った場所だった。


 鏡は、現代への帰路を映している。


「どれほど保つ」


 加賀見が尋ねた。


 美耶は鏡へ手を当て、息を詰める。


「分かりません。邪馬台国を帰すために、神器はほとんどの力を使いました」


 鏡の景色が波打つ。


 映っていた木立が崩れ、白い靄に消えかける。


 玲奈はすぐに周囲を見回した。


「なら、迷っている時間はない。戻れる者から戻るべきよ」


 声は冷静だったが、握った拳が震えていた。


 加賀見がうなずき、玲奈へ早く行けと手を振る。美耶は鏡を両手で支え直し、消えかける景色をつなぎ止めようとした。


 現代へ戻らなければならない者たちの声と動きが、にわかに重なる。


 その中で、宗一郎だけが動かなかった。


 美那の隣に立ち、重ねた手を離さず、騒めきの向こうにある青空を静かに見上げている。


 迷って立ち止まっているのではない。


 もう、行く先を決めた者の顔だった。


「先生」


 玲奈が、鏡へ向かうよう促す。


「玲奈くん」


 宗一郎は美那の手を握ったまま、振り返った。


「わしは、ここに残る」


「何を言っているんです。ここは古代です。先生の身体だって、もう」


 宗一郎の輪郭も揺らいでいた。


 それでも、彼は穏やかに笑った。


「分かっておる」


「分かっていて、残るつもりですか」


「ああ。そのために来た」


 迷いのない声だった。


 美那が宗一郎を見る。


「宗一郎」


「四十年前、わしはおぬしを帰した」


 宗一郎は、空を仰いだ。


「あのときは、それしかできんかった。おぬしの帰る場所を守るには、手を離すしかないと思っておった」


 陽射しを受けた皺だらけの顔が、少年のように笑う。


「だが今度は違う。わしは、自分でここまで来た」


「戻れなくなるかもしれません」


「戻るつもりはない」


 美那の瞳から、涙が溢れた。


「ここには、電気も、本も、あなたの研究室もありません」


「研究するものなら、目の前に山ほどある」


 宗一郎らしい答えに、美那が泣きながら笑った。


「それに」


 宗一郎は重ねた手へ、もう片方の手を添えた。


「わしの止まった時間は、ずっとここにあった」


 四十年前の別れを悔やみ、邪馬台国を追い続けた人。


 狂人と笑われても諦めなかった人。


 宗一郎はようやく、自分の帰る場所を選んだのだ。


 玲奈は何かを言おうとした。


 だが、唇を結び直し、深く頭を下げた。


「先生。これまで、ありがとうございました」


「過去形にするな。わしは死ぬわけではないぞ」


「連絡もできない人は、だいたい同じです」


「相変わらず手厳しいのう」


 加賀見が宗一郎へ向き直る。


「御影先生」


「加賀見。玲奈くんと白峰君を頼む」


「承知しました」


 短い言葉のあと、加賀見は深く頭を下げた。


 悠斗は宗一郎を見つめた。


 胸の中にあった問いの答えを、目の前で見せられた気がした。


 好きだから、そばに残る。


 好きだから、帰す。


 どちらが正しいのではない。


 相手の生きる場所を見て、自分が引き受けるべきものを選ぶ。


 四十年前の宗一郎は、美那と共に行く道を持たず、帰すことしかできなかった。


 今の悠斗には、美耶を連れて帰ることができない。


      * 4 *


 鏡に映る現代の景色が、また大きく揺れた。


「急いで」


 美耶が言った。


 その声に反して、悠斗の手を離そうとしない。


「玲奈さんと加賀見さんは、先に」


「白峰さんは?」


「俺も行きます」


 悠斗が答えると、美耶の指にさらに力がこもった。


 玲奈は二人を見た。


 何かを悟ったように目を伏せ、加賀見へ合図する。


「向こうで待っています」


 二人が鏡の前へ立つ。


 鏡面が水のように盛り上がり、二人の身体を包んだ。


 輪郭が薄れ、現代の景色へ溶けていく。


 加賀見が最後に一度振り返った。


「白峰。必ず戻れ」


「はい」


 二人の姿が消えた。


 残ったのは、悠斗と美耶、美那、宗一郎。


 そして門の向こうで、初めての青空を見上げる人々だった。


 美耶の母と父が、少し離れたところから娘を見ている。


 呼び止めようとはしない。


 ただ、待っている。


 美那も何も言わなかった。


 宗一郎は悠斗を見ていた。


 悠斗は、美耶の手の温度を覚えようとした。


 白峰家へ帰る。


 玄関を開ければ、母が夕飯の支度をしている。


 莉央はきっと、美耶の服や髪を見て騒ぐ。聞いたこともない言葉をまた教えて、美耶を困らせて、自分だけ笑う。


 父には、今度こそきちんと紹介したかった。


 邪馬台国を探していたら出会った少女ではなく、自分が大切に思っている人として。


 そんな未来を、何度も考えた。


 美耶も白峰家へ帰りたいと言ってくれた。


 あの家を、自分の帰る場所の一つにしてくれた。


 だからこそ、言わなければならない。


 美耶に選ばせてはいけない。


 家族と国を取るか、悠斗を取るか。そんな選択を、美耶の優しさへ押しつけてはいけない。


「悠斗」


 美耶が、泣きそうな顔で笑った。


「帰りましょう」


 鏡を持ち上げる。


「一緒に、白峰家へ」


 胸の奥で、何かが裂けた。


 それでも悠斗は、美耶の手を握り返した。


「うん」


 一度だけ、答えた。


 美耶と帰りたかった自分のために。


 それから、つないでいた指をゆっくりほどいた。


 美耶の笑顔が消える。


「美耶」


 名前を呼ぶ。


 この夏、何度も呼んだ名前だった。


 最初は、時空の向こうから現れた不思議な少女だった。


 今は違う。


 自分の止まっていた時間を動かしてくれた、大切な人だ。


「俺は、美耶を連れて帰りたかった」


 声が震えた。


 隠したままでは、ただ突き放すことになる。


「白峰家に帰って、母さんのご飯を一緒に食べて」


「莉央にまた変な言葉を教わって」


「父さんに、ちゃんと紹介して」


 美耶の目に涙が溜まっていく。


「そういう未来を、見たかった」


「なら」


 美耶が手を伸ばす。


「なら、一緒に――」


 悠斗は、その手を取らなかった。


 取れば、離せなくなる。


 美耶の後ろには、美都と阿岐がいる。


 美那がいる。


 彼女が命を懸けて帰した国と、初めて取り戻した空がある。


 悠斗は唇を噛み、息を吸った。


「君は、ここに残るんだ」


 美耶の手が止まった。


「……え?」


「君の帰る場所は、ここだから」


 鏡の中で、現代の夏草が風に揺れた。


 邪馬台国の空でも、同じ風が吹いていた。


 二つの夏の間に立ち、悠斗は美耶をまっすぐ見つめた。


 手放したくない。


 それでも、今度は逃げなかった。


 美耶を大切に思う自分のままで、別れを引き受けた。


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