第40話 三つの神器
灰色の地平へ垂れた黒い線が、少しずつ太くなっていた。
近づくほど、それがただの亀裂ではないと分かる。
空が裂けている。
裂け目の周囲では雲が渦を巻き、岩も砂も、音さえも暗闇へ引かれていた。
悠斗は界裂草薙剣を両手で握り、先頭を歩いた。
刀身の青白い輝きが、足元に細い道を作っている。その両脇では地面が波のようにうねり、ときおり岩の形が崩れて消えた。
「足を光の外へ出すな」
加賀見が背後へ声を飛ばす。
「地面に見えても、そこにあるとは限らない」
玲奈が最後尾から周囲を見張っている。
黒い森で聞こえていた咆哮は遠ざかった。代わりに、裂け目から低い音が響いてくる。
風の音にも、獣の唸りにも似ていない。
巨大な何かが、眠りながら息をしているような音だった。
美耶の手が、悠斗の袖に触れた。
「悠斗」
「大丈夫」
そう答えた直後、剣が重くなった。
腕を下へ引かれる。
悠斗は足を止め、柄を握り直した。
「どうしました」
「剣が、先へ行くのを嫌がってる」
美那の勾玉から伸びる闇色の筋は、まっすぐ裂け目を指している。美耶の鏡にも同じ場所が映っていた。
方向は間違っていない。
それでも界裂草薙剣は、黒い線へ近づくほど悠斗の手から逃れようと震えた。
「嫌がっているのではありません」
美那が勾玉を両手で包む。
「あの裂け目に触れれば、剣も引き込まれます。道を開くものだからこそ、閉じられた場所の力を強く受けるのです」
宗一郎が裂け目を見上げた。
「あれが、邪馬台国をこの世界へ縫いつけておるのか」
「はい」
美耶が答える。
「あの向こうに、本来の世界があります」
声には願いと同じだけ、恐れがあった。
国を帰すための場所。
同時に、美耶が悠斗のいない時代へ帰るための場所でもある。
悠斗は、その考えを胸の奥へ押し込んだ。
今は、道を開く。
「行こう」
剣を持ち上げる。
「あそこまで、俺が道をつなぐ」
美耶が悠斗の横へ並んだ。
「私が、帰る場所を映します」
二人の後ろで、美那の勾玉が脈打つ。
「ならば私は、残された歪みを解きます」
三つの神器が、同じ黒い線へ向いた。
* 1 *
裂け目の前には、円形に地面が沈んだ場所があった。
底の見えない窪みの中心を、黒い線が空まで貫いている。
光も吸い込む暗闇の中に、ときおり別の景色が瞬いた。
青い空。
木々の緑。
土の上に落ちる、明るい陽射し。
だが、次の瞬間にはねじれ、灰色の闇へ戻る。
「本当に、向こう側がある」
玲奈が小さく息を呑んだ。
宗一郎は答えず、目を細めて青空の残像を見つめている。
四十年前、美那を帰した光。
それを今度は、自分も越えるためにここまで来た。
美那が宗一郎の隣へ立った。
「始めます」
美耶が鏡を掲げる。
鏡面は初め、裂け目と同じ暗闇しか映さなかった。
美耶は目を閉じる。
「天岩戸八咫鏡は、道を映す」
祈りではない。
誰かへ許しを求める声でもなかった。
自分が帰す国を、自分で選ぶ声だった。
「邪馬台国が、本来あるべき場所を」
鏡の中央に、夜明け前の星ほどの輝きが生まれる。
それが広がり、青い空を映す。
森がある。
川が光っている。
その向こうには、まだ建物のない丘と、見覚えのない山並みが続いていた。
現代ではない。
邪馬台国が消える前の、本来の時代だ。
「見えました」
美耶の頬を涙が伝った。
「私たちの空です」
悠斗は鏡に映る空を見た。
美耶がずっと帰りたかった場所。
自分がずっと、見ないふりをしたかった場所。
剣を持つ手へ力を込める。
「開く」
界裂草薙剣を振り上げた。
鏡から伸びた白い軌跡へ、青白い刃を重ねる。
剣を通して、二つの場所が同時に流れ込んできた。
足元にある陰の世界。
鏡に映る陽の世界。
遠すぎる二つの場所を、一本の道としてつなぐ。
黒い線へ剣を振り下ろした。
一閃が裂け目を走る。
一瞬、暗闇の中に道が開いた。
だが、すぐに黒い力が噴き出した。
「悠斗!」
身体が後ろへ弾かれる。
美耶が腕をつかみ、玲奈と加賀見が二人の背を支えた。
開いたはずの道がねじれ、青空が細かく砕けていく。
「押し戻される!」
悠斗は剣を地面へ突き立てた。
裂け目から流れ出した闇が、何本もの腕のように刀身へ絡みつく。
剣だけでは足りない。
映して、開いても、その先で道そのものが曲げられている。
美那の持つ勾玉が、大きく脈打った。
* 2 *
禍津八尺瓊勾玉から、闇色の力が溢れた。
美那の両腕を這い上がり、胸元まで覆う。
「美那!」
宗一郎が肩を抱く。
美那は返事をしなかった。
目を開いているのに、裂け目を見ていない。
遠い何かを見つめている。
「おばあ様」
美耶が鏡を支えたまま呼ぶ。
次の瞬間、鏡の青空が黒く染まった。
美耶の身体が震える。
声にならない息が漏れた。
「美耶!」
悠斗は剣から手を離せない。
それが、勾玉から鏡へ渡っている。
その中に感情があった。
怒り。
どうして自分を選ばないのか。
なぜ離れていくのか。
これほど与えたのに、なぜ人は自分のものにならないのか。
国を失う痛み。
一人になる恐怖。
置いていかれるくらいなら、すべてを道連れにしてしまいたいほどの孤独。
「ヤーマ様……」
美耶の唇から名前がこぼれた。
鏡を持つ腕が下がっていく。
映っていた青空が消えかける。
「見るな、美耶!」
悠斗が叫ぶ。
「それは美耶の気持ちじゃない!」
「違いません」
美耶は苦しそうに首を振った。
「私にも、あります」
鏡の縁を握りしめる。
「帰りたいのに、帰りたくない」
悠斗を見る。
「国を救いたいのに、悠斗と離れたくない」
闇が鏡を覆っていく。
「この気持ちが大きくなれば、私も、誰かの道を曲げてしまうかもしれません」
悠斗は言葉を失った。
大丈夫だとは言えない。
美耶の痛みを、なかったことにはできない。
剣が震える。
開きかけた道が、また閉じようとしていた。
「美耶」
美那の声がした。
闇に包まれながら、美那は美耶を見ていた。
「受け止めてはいけません」
「でも、これはヤーマ様が――」
「あの方の痛みです。あなたの役目ではありません」
美那は勾玉を胸元から離した。
勾玉から溢れた力が引き伸ばされ、無数の糸になって見える。
互いに絡み合い、結びつき、裂け目の奥へ続いている。
「陽巫女は、すべてを耐える者ではない」
美那は最も太い糸へ指を触れた。
「誰かの怒りも、孤独も、背負う必要はありません」
糸がさらにきつく締まり、美那の指が震える。
宗一郎がその手を包んだ。
「美那。一人でやるな」
美那は宗一郎を見た。
痛みの中で、わずかに笑う。
「はい」
そして、美耶へ手を伸ばした。
「受け止めるのではなく、解くのです」
美耶は黒く染まった鏡を見つめた。
それから鏡を片手で支え、美那へ手を伸ばす。
四代目陽巫女の手が、三代目陽巫女の手に重なった。
* 3 *
勾玉の力が、二人の間を流れた。
美那が最初の糸をたぐる。
「これは、国を失う恐れ」
美耶が結び目へ触れる。
「恐れても、国を閉じ込める理由にはなりません」
二人の指が離れると、結び目がほどけた。
糸が細かな粒になって消える。
次の糸。
「これは、一人になる孤独」
「寂しくても、誰かを縛ってはいけません」
また一つ、結び目がほどける。
裂け目が激しく揺れた。
地面が割れ、窪みの縁が崩れる。
「長くは保たない!」
加賀見が叫び、落ちてきた岩を蹴り落とす。
玲奈は美耶たちの背後に立ち、飛んでくる石を腕で防いだ。
「白峰さん、道を!」
悠斗は剣を引き抜いた。
押し返すのではない。
美耶と美那が解いた先へ、道を通す。
鏡に青空が戻る。
美耶は片手で美那とつながったまま、もう片方の手で鏡を掲げた。
「悠斗!」
「見えてる!」
青白い刃を、鏡が示す青空へ重ねる。
今度は、押し返す力がぶつかってこない。
ほどけた糸の間を抜け、一閃が裂け目の奥へ走っていく。
剣を振るたび、細い亀裂が一本、また一本と暗闇に刻まれた。
勾玉が、その周囲に残る歪みを解く。
亀裂は互いにつながり、やがて人が通れるほどの大きさへ広がっていく。
その向こうに、青い空と大地が見えた。
風が吹いた。
陰の世界にはなかった、草と土の匂いがする。
宗一郎が息を震わせた。
「陽の世界じゃ」
美那の目から涙が落ちる。
「私たちの、帰る場所です」
だが、開いた場所につながっているのは、この岩場だけだった。
邪馬台国は遠い。
結界も、宮殿も、そこに残る民も、まだ陰の世界にある。
美耶が国のある方角を振り返った。
「ここだけでは駄目です」
「分かってる」
悠斗にも、剣を通して感じられた。
開いた道を、国まで届けなければならない。
だが、腕はもう痺れていた。
刀身の輝きが弱まっている。
裂け目の向こうまで道を開くだけで、力を使い果たしかけていた。
「悠斗、私を見てください」
美耶の声に顔を上げる。
「一人で開く道ではありません」
黒い森で、自分が言った言葉だった。
美耶の鏡から白い軌跡が伸び、剣を包む。
美那の勾玉が脈打ち、刀身に残った歪みをほどいていく。
悠斗は息を吸った。
「うん」
三つの神器は、誰か一人が使うものではない。
美耶と美那の力が、痺れた腕へ流れ込んでくる。
三人の意思が重なったとき、剣が再び青白く輝いた。
* 4 *
悠斗は、邪馬台国の方角へ剣を向けた。
遠く、灰色の闇の中に結界の残光が見える。
崩れかけた結界だ。
その内側で、美耶の両親が待っている。
兵士がいる。
ヤーマが去ったあとも、この国で生きると決めた民がいる。
「届けます」
美耶が鏡をそちらへ向けた。
鏡の中で、青空の下の大地と邪馬台国が重なる。
まだそこにない景色。
これから取り戻す景色。
「道は見えました」
美那が勾玉を掲げる。
最後まで残っていた太い糸が、裂け目から邪馬台国へ伸びていた。
ヤーマが国を切り離した日に結ばれた歪み。
美那と美耶が、左右からその結び目へ手を触れる。
「これは、私たちが背負うものではありません」
美耶が静かに言った。
拒絶ではない。
憎しみでもない。
それを抱えたまま、国を進ませないための別れだった。
「私たちは、私たちの空へ帰ります」
結び目がほどけた。
音が消える。
裂け目を覆っていた黒い力が、一斉に崩れた。
「悠斗!」
美耶の声と同時に、悠斗は剣を振り下ろした。
青白い光が大地を走る。
岩場を越え、黒い森を貫き、鬼のいる草原を抜ける。
弱りきった結界へ届いた。
白い軌跡が、その後を追う。
鏡に映された青空が、細い帯となって陰の世界を横切る。
勾玉の力が地中へ沈み、長いあいだ絡みついていた歪みを一つずつ解いていく。
三つの力が、邪馬台国で重なった。
遠くの結界が膨らむ。
割れるのではない。
閉じ込めていた殻を、自ら脱ぎ捨てるように広がっていく。
地面が大きく揺れた。
空に無数の青白い線が走る。
灰色の雲の向こうから、光が差した。
ほんの一筋。
けれど、それは陰の世界の光ではなかった。
温かい。
頬へ触れた瞬間、悠斗には分かった。
陽の光だ。
美耶が息を呑む。
美那は宗一郎の手を握った。
玲奈と加賀見も、言葉を失って空を見上げている。
陽射しは一本から二本へ、二本から無数へ増えていく。
邪馬台国の大地が、低く轟いた。
国全体が、千八百年の眠りから動き始める。
「帰るんですね」
美耶が呟いた。
涙を流しながら、笑っていた。
「私たちの国が」
悠斗は隣に立つ美耶を見た。
陽の光を受ける横顔が、あまりにもきれいだった。
その光が二人をどこへ連れていくのか、もう分かっている。
それでも今は、美耶と同じ空を見上げた。
三つの神器が呼応し、邪馬台国の帰還が始まった。




