第39話 界裂草薙剣
黒い根が、悠斗の足首を狙って伸びた。
飛び越える。
着地した地面が沈み、身体が傾く。
「右へ!」
美耶の声が届いた。
悠斗は考えるより先に右へ跳んだ。
直後、背後の土から黒い腕が突き出した。指先が服の裾を掠める。
振り返らない。
黒い岩まで、あと十数歩。
界裂草薙剣から漏れる青白い光が、木々の影を長く伸ばしている。
その光の周囲だけ、森の闇が近づけずにいた。
「白峰、止まるな!」
加賀見の怒鳴り声。
硬いものがぶつかる音が続く。玲奈と加賀見が、左右から迫る妖しきものを防いでいる。
悠斗の前へ、細長い影が落ちてきた。
腕に見えたものだ。
木の幹ほど長い胴から、節のない脚が何本も伸びている。顔はない。ただ、腹の中央に並んだ目が一斉に悠斗を見た。
道を塞がれる。
悠斗は足を止めなかった。
「美耶!」
「はい!」
天岩戸八咫鏡の光が、悠斗の肩越しに走る。
影の身体へ白い結界の残像が重なった。
無数の目が閉じる。
影が怯んだ隙に、その脚の間を滑り抜けた。
黒い岩が目の前に迫る。
剣の柄へ手を伸ばす。
「悠斗!」
美耶の声を背に、悠斗は界裂草薙剣をつかんだ。
世界が消えた。
* 1 *
上下も、前後もなかった。
黒い森も、美耶たちの声も消えている。
悠斗は、何もない場所に一人で浮かんでいた。
身体があるのかさえ分からない。
ただ、触れた手から冷たさだけが流れ込んでくる。
次の瞬間、全身を押し潰すような力が襲った。
息ができない。
手を離せと命じられている。
言葉ではない。
剣に意思があるのかも分からない。
それでも、拒まれていることだけは分かった。
悠斗の中に、いくつもの光景が浮かぶ。
閉じた自室。
学校へ行けなくなった朝。
助けた相手に目を逸らされた教室。
何も選ばず、時間が過ぎるのを待っていた一年。
力もない。
知識もない。
ここまで何度も、誰かに助けられてきた。
お前に何ができる。
そんな問いが、冷たさとともに身体を貫く。
「分からない」
声になったかは分からない。
圧力が強くなる。
「俺には、特別な力なんてない」
剣を抜ける理由など、どこにもない。
陽巫女ではない。
神器を作った者のことも、世界の理も、宗一郎ほど理解していない。
戦う訓練を受けた玲奈や加賀見のように、誰かを守る術も持っていない。
指先から感覚が消えていく。
このままでは、現実へ戻れない。
怖かった。
自分の時間が、またここで止まる気がした。
その暗闇の中に、一つだけ光景が浮かぶ。
夕暮れの道。
白い光の中から現れた少女。
怯えながらも、まっすぐ悠斗を見た美耶の目。
「でも」
悠斗は、見えない柄を握り直した。
「美耶を一人にしたくない」
* 2 *
現実では、悠斗の身体が黒岩の前で止まっていた。
柄を握ったまま、動かない。
「悠斗!」
美耶が呼ぶ。
返事はない。
剣から溢れた黒い靄が、悠斗の腕を這い上がっている。
美耶は駆け出そうとした。
「鏡を下ろしてはいけません!」
美那が止める。
「でも、悠斗が!」
「あなたの光が消えれば、あの子までの道が閉じます」
周囲の木々から、赤い目が迫ってくる。
玲奈が一体を警棒で押し返す。その背後から別の影が飛びかかった。
加賀見が体当たりし、軌道を逸らす。
「長くは持たない!」
「分かっています!」
玲奈が答える。
美耶は鏡を両手で握った。
駆け寄りたい。
悠斗の手を、今すぐ引きたい。
けれど、ここで鏡を離せば、彼を暗闇へ一人で置いていくことになる。
「悠斗」
鏡へ向かって呼ぶ。
白い光が細く伸び、黒い靄の中へ入っていく。
「私は、ここにいます」
声が震える。
「聞こえていますか」
返事はない。
それでも美耶は呼び続けた。
「一人で行かないでください」
鏡の光が、悠斗の握る柄に届いた。
「私を、一人にしないでください」
黒い空間に、美耶の声が落ちた。
遠い。
水の底から聞く声のように、輪郭が崩れている。
それでも悠斗には分かった。
美耶が呼んでいる。
待っているのではない。
鏡を掲げ、自分も戦いながら、悠斗へ手を伸ばしている。
「聞こえてる」
悠斗は答えた。
冷たい圧力は消えない。
剣は、まだ悠斗を拒んでいる。
「俺は、美耶を守れるほど強くない」
認める。
「美耶に助けられてばかりだ。ここへ来る道も、美耶がいなければ歩けなかった」
自分だけが誰かを救うのではない。
これまで、ずっとそうだった。
「だから、一緒に歩きたい」
美耶が帰る道を、代わりに決めるつもりはない。
美耶を現代へ留めるためでも、陽巫女の役目を押しつけるためでもない。
「美耶が選ぶ道を、一緒に開きたい」
暗闇の中で、白い光が悠斗の手に触れた。
* 3 *
圧力が変わった。
悠斗を押し返していた力が、白い光へ触れる。
剣が見ている。
悠斗一人ではない。
光の向こうで鏡を掲げる美耶と、その声へ応えようとする悠斗を見ている。
夕暮れの出会い。
港の倉庫。
白峰家の夜。
同じ星を見上げて交わした約束。
どちらか一人が先を歩いた道ではない。
互いに立ち止まり、手を伸ばし、そのたびに歩き直してきた道だった。
冷たさが、ゆっくりとほどける。
暗闇に一本の線が生まれた。
どこかへ続く道のように、青白く伸びていく。
悠斗は、もう一度柄を握った。
「帰ろう」
美耶へ。
邪馬台国の人々へ。
そして、自分自身へ向けて言う。
「一緒に」
青白い線が弾けた。
黒い森の音が戻る。
「悠斗!」
美耶の声が、今度はすぐ近くに聞こえた。
悠斗は黒岩の前に立っている。
腕を覆っていた靄は消えていた。
柄を握る手に、温かさがある。
剣の刀身を包んでいた土が、細かく崩れ落ちた。
「抜ける」
誰かに教えられたわけではない。
それでも分かった。
悠斗は両足を踏みしめた。
黒岩の奥で、何かが軋む。
両手で柄を引く。
青白い光が岩の亀裂を走った。
一度。
二度。
黒岩が内側から割れる。
悠斗は、界裂草薙剣を引き抜いた。
光が森を貫いた。
枝の上にいた妖しきものが一斉に身を縮める。
玲奈と加賀見も腕で目を覆った。
剣は重くなかった。
武器を持った感触とも違う。
握った先に、閉ざされた場所と、その向こう側が同時にあるような感覚だった。
「悠斗、後ろ!」
美耶が叫ぶ。
赤い目を持つ影が、悠斗の背へ飛びかかっていた。
悠斗は振り返り、剣を振った。
* 4 *
刃は、影へ触れなかった。
青白い光が空間を走り、影と悠斗の間に一本の裂け目を作る。
裂け目の向こうには、少し離れた森の地面が見えた。
飛びかかった影はその中へ吸い込まれ、遠くの木の根元へ放り出された。
「斬ったんじゃない」
悠斗は剣を見る。
敵を傷つけた感触はなかった。
ただ、影が進む道を別の場所へつないだ。
「界裂草薙剣は、人を斬るための剣ではありません」
美那の声が届く。
「世界に道を開く神器です」
森の奥から、さらに多くの赤い目が現れる。
悠斗は剣を構え直した。
戦い方など知らない。
けれど、何をするべきかは分かる。
「みんな、こっちへ!」
剣を横へ振る。
青白い線が木々の間を走った。
空間が裂け、その向こうに森の外の岩場が映る。
「長く保つか分かりません!」
加賀見が最初に動いた。
「御影、美那さんを連れて入れ! 美耶もだ!」
宗一郎が美那の手を取り、裂け目へ走る。
美那、美耶が続く。
玲奈は悠斗の手前で振り返った。
「先に行ってください」
「神代さんが先です」
「押し問答をしている場合ですか」
「なら、一緒に!」
悠斗と玲奈が裂け目へ飛び込み、最後に加賀見が転がり込んだ。
直後、青白い線が閉じる。
黒い森が消えた。
一行は岩場へ戻っていた。
草原の鬼の姿はない。遠くから咆哮だけが聞こえている。
美耶が悠斗へ駆け寄った。
「悠斗」
名前を呼び、剣を持っていない方の手を握る。
「戻ってきてくれた」
「声が届いたから」
美耶は泣きそうに笑った。
「約束しましたから」
「うん」
悠斗も握り返す。
美那が勾玉を掲げた。
黒い光の筋が、草原のさらに先へ伸びる。
美耶の鏡にも、同じ方向へ続く白い道が映った。
悠斗の剣が、二つの光へ応える。
三つの神器が揃った。
「陰の裂け目は、あちらです」
美那が灰色の地平を指す。
その先では、空から地面へ黒い線が垂れていた。
遠すぎて細く見える。
だが、周囲の空はゆっくりと歪み、光を呑み込んでいる。
あそこへ剣を運び、道を開く。
鏡で帰る場所を映し、勾玉で歪みを解く。
邪馬台国を、本来の時代と場所へ戻すために。
「行こう、美耶」
「はい」
悠斗は界裂草薙剣を握り、美耶と並んだ。
二人の後ろには、美那と宗一郎、玲奈と加賀見がいる。
一人で開く道ではない。
三つの神器の光が重なり、陰の裂け目へ続く道を照らした。




