第38話 鬼の道
結界の前では、風が二つに分かれていた。
邪馬台国側から吹く風には、土と炊煙の匂いがある。薄い光の壁を隔てた向こう側からは、湿った鉄のような匂いが流れ込んでいた。
西の結界には、黒い亀裂が走っている。
人が一人通れるほどに広がった裂け目の向こうで、灰色の草が波打っていた。
「一度出れば、同じ場所から戻れるとは限りません」
美那が禍津八尺瓊勾玉を握る。
「結界そのものが動いています」
玲奈が全員を見渡した。
「順番を決めます。加賀見さんが先頭。私が最後尾。美耶さんと美那様は中央へ。白峰さんと御影先生は二人から離れないでください」
「俺を先に行かせるのか」
加賀見が眉を上げる。
「現場を見る目があるのでしょう」
「信用したわけではないと」
「あなたも同じでしょう」
加賀見は答えず、腰から小型の照明を抜いた。
光が結界の向こうをなぞる。
草原には何もいない。
だが、何もいないことが安全には見えなかった。
「行くぞ」
加賀見が亀裂を越えた。
続いて宗一郎、美那、美耶、悠斗、玲奈が外へ出る。
足が灰色の土へ着いた瞬間、悠斗は息を止めた。
寒くはない。
空も地面も、結界の内側から見たものと大きく変わらない。
それなのに、身体がここを拒んでいた。
風が吹いているのに、草の擦れる音が遅れて届く。遠くの岩は目を離すたびに形を変え、空に浮かぶ黒い雲は風と逆へ流れている。
陽の世界と似た形を借りながら、どこか一つずつ間違えている。
「悠斗」
美耶が手を伸ばす。
悠斗はその手を握った。
「大丈夫」
言った途端、右手の草むらで何かが笑った。
* 1 *
全員が止まった。
子どもの声に似ていた。
けれど、こんな場所に子どもがいるはずがない。
加賀見が照明を向ける。
灰色の草の間から、白い顔が覗いた。
顔だけだった。
身体は草の下に沈んでいる。目は細く、口は耳の近くまで裂けていた。
それが、もう一度笑う。
「見るな。走れ!」
加賀見の声で、全員が動いた。
白い顔が草の上へ跳ねる。
その下から現れた身体は、獣のように四本の脚を持ちながら、関節が人間とは逆に曲がっていた。
一体ではない。
笑い声が左右から重なる。
「左へ寄れ! 右の地面が沈んでいる!」
加賀見が先頭を切る。
言われて初めて、悠斗にも分かった。右側の草は揺れているのではない。地面ごと、ゆっくり呼吸している。
美那の勾玉が鈍く光った。
「こちらです!」
美那は草原の先にある岩場を指す。
美耶の鏡にも細い白光が浮かんだ。
二つの光が重なり、灰色の地面に一本の筋を描く。
剣の残した傷だ。
一行はその筋を追った。
背後から、草を掻き分ける音が迫る。
玲奈が振り返り、警棒を振り抜いた。飛びかかった白い顔の鼻先を打ち、軌道を逸らす。
怪物は地面を転がると、何事もなかったように起き上がった。
「効いていません!」
「倒す必要はありません。距離を取ります」
玲奈が後退しながら答える。
加賀見は走る速度を落とさず、前方と左右を見ていた。
「岩場まで百メートル。後ろに六、右に三。左は――」
言葉が途切れる。
左前方の地面から、太い腕が突き出した。
土を割り、巨体が立ち上がる。
人の形をしていた。
身の丈は二メートルを越え、頭には片方だけ折れた角がある。赤黒い皮膚の上を、縄のような血管が走っていた。
巨大な口から漏れた息が、白く濁る。
「鬼……」
宗一郎が呟いた。
鬼が腕を振り下ろす。
「散れ!」
加賀見の声と同時に、全員が左右へ飛んだ。
拳が地面を砕く。
衝撃で悠斗の身体が浮いた。
倒れる寸前、美耶の手が腕に絡む。悠斗も美耶の肩を抱き、二人で地面を転がった。
「美耶!」
「平気です」
答えながらも、美耶の頬には土がついていた。
鬼が二人へ顔を向ける。
美耶の胸元で鏡が光った。
* 2 *
鬼の動きが止まった。
鏡から放たれた光が、空中に薄い壁を映している。
結界の光だった。
完全な壁ではない。今にも消えそうな残像にすぎない。
それでも鬼は一歩退いた。
「結界を恐れている」
美那が駆け寄る。
「美耶、そのまま鏡を向けて」
美那が勾玉を鏡の背へ近づけた。
白い光に、黒い波が混じる。
光の壁が左右へ広がった。
草原を追ってきた白い顔の怪物たちが、甲高い声を上げて散っていく。
鬼も両腕で顔を覆った。
「今です!」
全員が岩場へ走る。
美耶は後ろ向きに鏡を掲げたまま進んだ。悠斗が腰へ腕を回し、足元を支える。
「右に石!」
「はい!」
呼吸を合わせ、一歩ずつ下がる。
鏡の光が揺らぐ。
美耶の顔から血の気が引いていた。
「もう少しだ!」
加賀見が叫ぶ。
最後の一人が岩陰へ入った瞬間、美耶は鏡を下ろした。
光の壁が消える。
鬼の咆哮が草原を震わせた。
だが巨体はすぐには追ってこない。消えた光のあった場所を警戒し、地面を何度も叩いている。
玲奈が美耶を支えた。
「無理をしないでください」
「まだ、進めます」
「進めることと、無理をしていないことは別です」
美耶は言い返そうとして、息を整える方を選んだ。
宗一郎は岩陰から鬼を見ていた。
「平安の都には、鬼や物の怪が現れたという話が多い」
「今、昔話を始める気か」
加賀見が低く言う。
「違う。あれが裂け目へ迷い込み、時の歪みで平安の世へ出たのだとすれば、伝承の一部は作り話ではなかったのかもしれん」
宗一郎の目は、恐怖の中でも考古学者の光を失っていなかった。
「鬼も物の怪も、陽の世界の人間がつけた名にすぎん。こちらには、こちらの生き物がおる」
「考察は生きて帰ってから書け」
「そのつもりじゃ」
宗一郎が答えると、美那が小さく笑った。
「やはり、変わりましたね」
「どこがじゃ」
「昔は、怖いものを見れば目を閉じていました」
「今も怖い。じゃが、目を閉じればお前たちを見失う」
美那は何も言わず、勾玉を握り直した。
* 3 *
岩場の先には、黒い森が広がっていた。
幹も枝も墨で塗ったように暗い。葉は一枚もないのに、枝同士が絡み合い、空を塞いでいる。
美那の勾玉から伸びた光は、その森へ続いていた。
「あの中です」
美耶の鏡にも同じ方向が映る。
背後では鬼がまだ岩場の周囲を歩いている。戻る道はない。
加賀見が森の入口へ照明を向けた。
「道幅は狭い。一列になる。前から俺、白峰、美耶、美那、御影、神代」
「なぜ俺が前なんですか」
「足場を伝えろ。後ろの二人は神器に集中させる」
玲奈が短く頷いた。
「妥当です」
悠斗は美耶を見る。
「行ける?」
「はい」
声には疲れがあった。それでも目は逸れていない。
一行は森へ入った。
外の灰色の光は、数歩で見えなくなった。
足元には黒い根が這っている。踏んだはずの枝が折れず、柔らかく沈む。どこかで水滴の音がするが、水の匂いはなかった。
加賀見の照明が、幹の間を横切るものを捉える。
細長い影だった。
人の腕ほどの太さで、木から木へ音もなく移っていく。
「止まるな」
加賀見が言う。
誰も声を出さない。
美那の勾玉が右へ引かれるように揺れた。
「こちらです」
進路を変える。
そのたびに森の奥から気配が増えた。
枝の上。根の下。背後。
何かが一行を見ている。
やがて前方に、青白い光が浮かんだ。
「結界か?」
加賀見が足を止める。
「違います」
美耶の声が震えた。
「道が、傷ついた跡です」
空間に細い亀裂が走っていた。
開いてはいない。閉じた傷のように、青白い光だけが残っている。
その周囲では木々が外側へ倒れ、地面が大きく抉れていた。
陽の門から流されたものが、ここへ落ちたのだ。
勾玉と鏡の光が強くなる。
悠斗の鼓動も速くなった。
剣が近い。
* 4 *
森の奥で、何かが吠えた。
草原の鬼とは違う。
低い声が幹を伝い、四方から返ってくる。
「囲まれ始めた」
加賀見が照明を回す。
黒い木々の隙間に、赤い目が一つ、二つと灯った。
玲奈が後方へ向き直る。
「戻れません。先へ」
美那が勾玉を掲げた。
黒い光が、地面に残る歪みを浮かび上がらせる。
美耶も鏡を重ねた。
白い光が一本の線となり、倒れた木々の向こうへ伸びた。
「あそこです!」
線の先には、大きな黒い岩があった。
岩の中央が裂けている。
その裂け目に、一本の剣が突き刺さっていた。
長い柄。
土と黒い靄に覆われながらも、刀身の一部から青白い光が漏れている。
界裂草薙剣。
陽の世界で九条が開いた門から消えた神器が、そこにあった。
「見つけた」
宗一郎の声が震える。
美耶が一歩進もうとする。
その足を、美那が止めた。
「待って」
剣の周囲で、黒い靄が脈打っている。
森の赤い目が一斉に動いた。
こちらへ近づいてくる。
「残り二十秒もない」
加賀見が言った。
「誰かが取りに行く間、ここを保たせる」
玲奈が悠斗を見る。
美那も、美耶も、同じように悠斗を見た。
剣は、道を開く神器だ。
そして悠斗は、ここまで美耶と道を歩いてきた。
「俺が行きます」
美耶が息を呑む。
「悠斗」
「美耶は鏡を。美那さんは勾玉を使わなきゃいけない」
「ですが」
「一人で行くんじゃない」
悠斗は美耶の目を見る。
「声が届くところにいて」
美耶は唇を噛み、やがて強く頷いた。
「必ず、呼びます」
「うん」
赤い目が迫る。
玲奈と加賀見が左右へ開いた。
宗一郎は美那を守る位置に立ち、美那と美耶が二つの神器を掲げる。
黒と白の光が重なり、剣までの道を照らした。
悠斗は走り出す。
黒い靄の向こうで、界裂草薙剣が待っていた。




