第37話 三代目陽巫女
美那に導かれ、悠斗たちは宮殿へ戻った。
つい先ほどまで人で埋まっていた廊下には、兵士たちの慌ただしい足音が響いている。結界を確かめる者、民を宮殿近くへ集める者、食糧を運ぶ者。女王を失った国は、立ち止まる暇さえ与えられず、自分たちの手で動き始めていた。
その頭上で、また低い音が鳴った。
石の壁がわずかに震え、天井から白い砂が落ちる。
「急ぎましょう」
美那は前を向いたまま言った。
宗一郎は、そのすぐ後ろを歩いている。
広場で重ねた手は、もう離れていた。けれど二人の間には、触れていた時よりも強く互いを意識する沈黙があった。
美耶は悠斗の隣を歩いている。母と父には、勾玉を確かめてから会いに行くと伝えた。会いたくないはずがない。それでも今は、帰る道を失わないために先へ進むことを選んだ。
女王の間へ入る。
ヤーマの座っていた段差は空のままだった。青白い炎だけが残り、主を失った広間を冷たく照らしている。
美那は段差の脇を通り、その奥にある壁へ手を当てた。
「ここは、代々の陽巫女だけが入ることを許された場所です」
壁には扉らしい継ぎ目もない。
美耶が胸元の天岩戸八咫鏡へ触れた。鏡は光らない。
「私も、入ったことがありません」
「あなたが陽の世界へ渡る前に、伝えるはずでした」
美那の指が石の上を滑る。
「ですが、ヤーマ様はお許しにならなかった。四代目は帰らぬかもしれないから、知る必要はないと」
美耶の顔が強張った。
美那は振り返り、孫の頬へそっと触れる。
「もう、あの方の許しを待つ必要はありません」
その声に喜びはなかった。
長く仕えた相手から解放された安堵より、これから自分たちで選び続ける重さがあった。
美那が壁の一点を押す。
低い音とともに石が奥へ沈み、暗い通路が現れた。
* 1 *
通路は、一人ずつしか進めないほど狭かった。
美那が持つ小さな灯火を頼りに、石段を下りていく。湿った空気には土と古い香の匂いが混じっていた。
「三代目陽巫女として、ここへ入ったのは二度目です」
美那が静かに語り始める。
「一度目は、陽の世界へ渡る前でした」
美耶が顔を上げる。
「おばあ様は、ここで何を?」
「勾玉に触れました。私たちの国が、どのように陰の世界へ落とされたのかを知るために」
石段を踏む音が続く。
「怖くはなかったのですか」
「怖かったですよ」
美那は少し笑った。
「陽巫女に選ばれれば、恐れなくなるわけではありません。私は何度も逃げたいと思いました」
「でも、行かれた」
「私の前の陽巫女が、帰らなかったからです」
美那の灯火が揺れる。
「誰かが次へ渡らなければ、道はそこで消える。私は強かったのではありません。ただ、自分の番で終わらせることが怖かった」
美耶は胸元の鏡を握った。
悠斗は、陽巫女という役目を初めて近くに感じた。
選ばれた者だけが持つ力ではない。怖がりながらも、前の誰かから渡されたものを次へ運ぶ役目だ。
「四十年前、私は陽の世界へ渡りました」
美那の声が、狭い石壁に反響する。
「界裂草薙剣を探しました。けれど、何ひとつ見つけられなかった。文字も暮らしも違う世界で、どこへ行けばよいのかさえ分からなかった」
宗一郎の足が止まりかける。
「美那」
「はい」
「あの時、わしにもっと知識があれば」
宗一郎の声が、暗闇の中で掠れた。
「考古学を真面目に学んでおれば。八咫烏を知っておれば。剣の手掛かりを一つでも見つけておれば、お前を何も持たせず帰すことはなかった」
美那は歩みを止めた。
細い通路で、二人が向き合う。
「わしは、逃がすことしかできんかった」
四十年前から、宗一郎が何度も口にしてきた言葉だった。
けれど今、それを聞く美那は、光の中へ消えた少女ではない。
同じ四十年を生きた女として、宗一郎を見つめていた。
「宗一郎」
「すまなかった」
「いいえ」
美那は、はっきりと首を振った。
「あなたは、私を逃がしたのではありません」
* 2 *
宗一郎が顔を上げる。
「私を、帰してくれたのです」
「同じことじゃ」
「違います」
美那は一歩、宗一郎へ近づいた。
「あの夜、あなたが手を引いてくれなければ、私は捕らえられていました。邪馬台国へ帰ることも、美都を育てることも、美耶に陽の世界の話を伝えることもできなかった」
美耶が息を呑む。
「あなたは剣を見つけられなかった。私も見つけられなかった。けれど、そこで道が絶えたわけではありません」
美那の目が、悠斗と美耶へ向く。
「あなたは四十年間、私の言葉を捨てなかった。調べ続け、人へつなぎ、次の陽巫女が一人にならない場所を作った」
玲奈が黙って宗一郎を見る。
「あなたがつないだ道を、この二人が歩いてきてくれました」
宗一郎の口が震える。
「じゃが、四十年も待たせた」
「私も、四十年待ちました」
美那は笑った。
「お互い様でしょう」
宗一郎が顔を伏せた。
泣き声を隠すように、深く息を吸う。それでも肩の震えまでは隠せなかった。
美那が手を差し出す。
宗一郎はためらった後、その手を取った。
「今度は、逃がすだけでは終わらせん」
「はい」
「お前たちの国を、必ず帰す」
「一人で背負わないでください」
宗一郎が目を見開く。
「それは、先ほどイーラ様が美耶に言うた言葉じゃ」
「良い言葉は、何度使ってもよいのです」
美那の笑みが、四十年前を知らない悠斗にも、きっと昔の彼女と同じなのだと思わせた。
美耶が悠斗の袖をつかむ。
「悠斗」
「うん」
いつか自分たちにも、離れなければならない時が来る。
その恐怖は消えない。
けれど離れることと、道が途切れることは同じではない。
悠斗は美耶の手を取った。
「俺たちも、つなごう」
「はい」
美耶の指が、強く握り返してきた。
* 3 *
石段の先に、小さな部屋があった。
中央に黒い石の台が置かれている。その上には、幾重もの白い布に包まれたものがあった。
美那が灯火を脇へ置き、布を一枚ずつ解いていく。
最後の布が外れた瞬間、空気が重くなった。
勾玉だった。
拳に収まるほどの大きさ。深い翡翠色の表面を、黒い筋が脈のように走っている。
「禍津八尺瓊勾玉」
美耶がその名を呼ぶ。
美那はすぐには触れなかった。
「これは、ヤーマ様が国を陰の世界へ移した神器です。道を歪めた時の記憶が、今も中に残っています」
「記憶?」
悠斗が尋ねる。
「人の記憶とは違います。力が通った跡です。どこから、どちらへ、何を引きずり込んだのか。その傷を覚えている」
美那が右手を差し出す。
「美耶。鏡を」
美耶は天岩戸八咫鏡を外し、両手で構えた。
美那の指が勾玉へ触れる。
黒い筋が一斉に光った。
足元が消えた。
悠斗の目の前を、夜より暗いものが覆う。
地面が裂ける。
空が裏返る。
山も、家も、人も、巨大な流れに引かれていく。悲鳴は聞こえない。ただ無数の光が、黒い裂け目の向こうへ落ちていく。
その中心で、一本の歪んだ筋が伸びていた。
遠くへ続き、途中でねじれ、二つの世界を無理やり縫い合わせている。
美耶の鏡が白く光る。
黒い光景の中に、細い道が映った。
国を呑み込んだ大きな傷とは別に、後から切り開かれた鋭い傷がある。
「剣の跡です!」
美耶の声が響く。
光景が途切れた。
悠斗は石床へ片膝をついていた。息が荒い。ほんの一瞬だったはずなのに、身体ごと暗闇へ引き込まれたような感覚が残っている。
美那も石台へ手をつき、呼吸を整えていた。
「おばあ様」
美耶が支える。
「大丈夫です」
美那は勾玉を白い布で包み直した。
「今の道筋は、陽の門が開いたことで新しく刻まれたものです。剣はやはり、陰の世界の裂け目近くへ流されています」
「場所は分かるんですか」
「正確には分かりません。ですが、鏡と勾玉があれば、剣の残した傷を追えます」
その時、地の底から鈍い衝撃が突き上げた。
石台が揺れ、灯火が消える。
暗闇の中で、遠くから獣のような声が聞こえた。
結界の外で聞いた声だった。
* 4 *
地上へ戻ると、女王の間には兵士が待っていた。
「陽巫女様!」
「何がありました」
「西の結界に大きな亀裂が。外のものが集まり始めています」
美那の表情が引き締まる。
勾玉は布で包み、美那が胸元に収めている。美耶は鏡を持ち、宗一郎はその二人の間に立った。
「結界が破れる前に、剣を見つけなければなりません」
玲奈が加賀見を見る。
「あなたはどうします」
加賀見は少し黙った。
九条はもういない。従う命令も、帰る手段も失っている。
「ここに残っても、結界が破れれば同じだ」
腰の装備を確かめる。
「外へ出るなら、俺も行く。九条局長のためではない。生きて元の世界へ戻るためだ」
玲奈は頷いた。
「現場では私の指示に従ってください」
「状況次第だ」
「では、従うべき状況かどうかは私が判断します」
加賀見は苦い顔をしたが、反論はしなかった。
悠斗たちは宮殿を出た。
広場には、美耶の母と父が来ていた。
美耶の足が止まる。
二人も美耶を見つけ、駆け寄ろうとする。
けれど空が鳴り、都を覆う結界に黒い亀裂が走った。
美耶は泣きそうな顔で両親を見た。
それから、自分の足で二人のもとへ走る。
母と父を一度に抱きしめた。
「ただいま戻りました」
短い言葉だった。
四十年ではなくても、離れていた時間のすべてが、その声に込められていた。
二人は美耶を抱きしめ返した。
美耶はすぐには離れなかった。
やがて顔を上げる。
「もう一度、行ってまいります」
父が何かを言おうとして、唇を閉じた。
代わりに、美耶の頭へ手を置く。
「帰ってきなさい」
「はい」
美耶は二人から離れ、悠斗のもとへ戻ってきた。
悠斗は何も言わず、その手を取る。
美耶の反対側には美那がいる。美那の隣には宗一郎がいた。
三代目と四代目。
四十年前に途切れなかった道が、二組の間をつないでいる。
宮殿の門が開いた。
その先に、弱り続ける結界と、灰色の空が見える。
さらに向こうでは、黒い影がいくつも蠢いていた。
美那が勾玉を握る。
美耶が鏡を掲げる。
二つの神器が、暗い国の中でかすかに光を重ねた。
「剣のところへ、案内します」
美那の声に、迷いはなかった。
一行は、崩れかけた結界へ向かって歩き出した。




