第36話 神なき国
最初に崩れたのは、静けさだった。
「ヤーマ様は、どこへ」
兵士の一人が呟いた。
誰も答えられない。
女王のいなくなった段差には、薄い闇だけが残っている。青白い炎は消えていない。柱も、床も、何一つ変わっていない。
それなのに、女王の間は支えを失った建物のように見えた。
「今の光は何だ」
「イーラ様も消えたぞ」
「九条という男は」
兵士たちの声が重なる。
槍の穂先が揺れた。誰へ向ければいいのか分からないまま、玲奈と宗一郎、加賀見へ向き直る者もいる。
加賀見は、九条が消えた場所に膝をついたままだった。
玲奈がその前へ立つ。
「彼に、これ以上戦う意思はありません」
「何をした」
兵士の一人が問う。
「我らの女王に、何をした!」
「違います」
美耶が声を上げた。
大きな声ではなかった。
それでも兵士たちは、美耶を見た。
天岩戸八咫鏡を胸に抱く、四代目陽巫女。
「この方々が、ヤーマ様をどこかへ追いやったのではありません」
「では、なぜお姿がない」
美耶の唇が止まる。
悠斗には分かった。
本当のことを言えば、何が起きるか分からない。
ヤーマはこの国を百六十年支配してきた。憎む者も、恐れる者もいただろう。それでも邪馬台国の民にとっては、国を覆う結界そのものでもあった。
その女王が、この星に飽いたと言って去った。
どう伝えても、残酷な事実は変わらない。
「美耶」
悠斗が小さく呼ぶ。
代わりに話すつもりはなかった。
ただ、隣にいると伝えたかった。
美耶が悠斗を見る。
怖がっている。
けれど、逃げなかった。
「ヤーマ様とイーラ様は、この星を去られました」
女王の間から音が消えた。
「去った……?」
「国を、捨てたというのか」
「そのようなことがあるものか」
声が一気に膨らむ。
外の廊下にも人が集まり始めていた。異変を感じた侍女や役人、警護の兵士たちが、開いたままの扉の向こうから女王の間を覗いている。
誰かが走り去った。
噂は、もう都へ広がり始めている。
「静まってください!」
美耶の声が響いた。
今度は震えていた。
震えていても、言葉は途切れなかった。
「ヤーマ様は、もう戻られません」
息を呑む音が重なる。
「ですが、邪馬台国が消えると決まったわけではありません」
「結界はヤーマ様のお力だ」
年嵩の兵士が言った。
「ヤーマ様なくして、何が残る」
美耶はすぐには答えなかった。
胸元の鏡を握る。
悠斗は、彼女が何度も口にしたものを思い出した。
母。父。祖母。都の人々。
美耶が帰りたかったのは、女王の座る国ではない。
「私たちが残っています」
美耶は言った。
「ここで生きてきた民がいます。田を耕した人がいます。子を育て、家を守り、今日まで国をつないだ人たちがいます」
廊下の向こうで、誰かが泣き出した。
「ヤーマ様がいなければ、邪馬台国ではないのですか」
兵士は答えない。
「私は、そうは思いません」
美耶の声から、少しずつ震えが消えていく。
「邪馬台国は、私たちの国です」
* 1 *
女王の間から外へ出ると、さらに多くの人が集まっていた。
宮殿前の広場。
痩せた兵士。土のついた衣の男。幼い子を抱く女。杖をついた老人。
都に残っていた人々が、不安に押されるように宮殿を見上げている。
空は相変わらず灰色だった。
だが、雲のように見える暗がりが、さっきより低い。
国全体が息苦しくなったように、空気が重い。
「陽巫女様」
群衆の中から声が上がる。
「ヤーマ様は、本当に」
美耶は宮殿の階段で立ち止まった。
悠斗は一段下に立つ。
美耶を押し上げるためではない。逃げたくなった時に、戻れる場所でいるためだった。
玲奈は宗一郎と加賀見を連れ、少し離れた場所で周囲を見ている。
現代から来た人間が前へ出れば、民の恐怖を煽る。
今ここで語るべきなのは、美耶だった。
「ヤーマ様とイーラ様は、この星を去られました」
美耶は同じ言葉を、今度は民へ告げた。
泣き声が広がる。
怒鳴る者はいなかった。
誰もが、怒るより先に途方に暮れていた。
「結界はどうなる」
「外の妖しきものが入ってくるぞ」
「子どもをどこへ逃がせばいい」
問いが次々に飛ぶ。
美耶の顔が強張る。
答えを持っているわけではない。
陽巫女だから、すべてが分かるわけでもない。
それでも美耶は、目を逸らさなかった。
「邪馬台国を、元の世界へ戻す道があります」
ざわめきが変わった。
「陽の世界へ……?」
「本当に戻れるのか」
「まだ、すべてが揃ったわけではありません」
美耶は希望だけを口にしなかった。
「界裂草薙剣を探し、陰の世界の裂け目へ行かなければなりません。禍津八尺瓊勾玉も必要です。結界の外には、危険なものがいます」
人々の顔に恐れが戻る。
「必ず戻れると、今の私には言えません」
悠斗は美耶を見上げた。
約束してしまえば楽だった。
大丈夫だと、言い切ってしまえば人々は一度は安心する。
けれど、美耶は嘘をつかなかった。
「それでも、道は残っています」
胸元の鏡を両手で包む。
「私は陽巫女として、その道を探します」
一人の老人が膝をついた。
祈るように頭を下げる。
美耶は階段を下り、その人の前へ行った。
「頭を上げてください」
「ですが、陽巫女様」
「私は、皆様の上に立つために戻ったのではありません」
老人の手を取る。
「一緒に帰るために、戻りました」
その言葉が広場へ落ちた。
すぐに歓声が上がることはなかった。
泣いている者も、疑っている者もいる。
それでいいのだと悠斗は思った。
ヤーマのように、恐怖だけで全員を従わせる必要はない。
人が人を信じるには、時間がかかる。
美耶はその時間から逃げず、ここに立っている。
* 2 *
不意に、空が鳴った。
雷とは違う。
巨大な布が引き裂かれたような音が、結界の向こうから響く。
灰色の空に、黒い筋が走った。
人々が悲鳴を上げる。
「結界が!」
兵士たちが一斉に外壁の方を見る。
黒い筋はすぐに塞がった。
だが、その一瞬、結界外の暗い空が覗いた。
何か大きな影が、向こう側を横切った気がした。
悠斗は階段を駆け下り、美耶のそばへ行く。
「今のは」
「結界が弱くなっています」
別の声が答えた。
美耶の身体が止まる。
群衆が左右へ分かれていく。
その間を、一人の女が歩いてきた。
白い衣。
長い黒髪には、白いものが混じっている。顔にも年月は刻まれていた。
けれど、その目を見た瞬間、美耶の口から息が漏れた。
「おばあ様」
女の顔が崩れる。
「美耶」
美耶が走った。
鏡を胸に押さえたまま、広場を駆ける。
女――美那も両腕を広げた。
二人の身体がぶつかる。
「おばあ様……!」
「お帰りなさい、美耶」
美那は美耶を抱きしめた。
「よく、帰ってきましたね」
美耶は返事をしようとした。
けれど声にならなかった。
美那の肩へ顔を埋め、子どものように泣いた。
陽巫女として民の前に立っていた少女が、祖母の腕の中で、ようやく帰ってきた孫に戻る。
美那も泣いていた。
何度も美耶の髪を撫で、生きていることを確かめている。
「母上も、父上も」
「無事です」
美耶が顔を上げる。
「本当に?」
「ええ。あなたが戻ったと聞いて、こちらへ向かっています」
美耶は目を閉じた。
張りつめていたものが、涙と一緒にほどけていく。
悠斗は少し離れた場所で、その姿を見ていた。
よかった。
心から、そう思う。
同時に、胸の奥が痛んだ。
ここが美耶の帰る場所だ。
美耶を待っていた人がいる。
分かっていたはずのことが、目の前で形を持っている。
美耶が振り返った。
涙で濡れた顔のまま、悠斗へ手を伸ばす。
「悠斗」
呼ばれて、痛みが少しだけ薄れた。
悠斗は美耶のそばへ行く。
「おばあ様。この方が、悠斗です」
美那は、悠斗を見た。
何かを探すような目だった。
やがて、穏やかに微笑む。
「あなたが、美耶を一人にしないでいてくださったのですね」
「俺だけじゃありません」
悠斗は玲奈と宗一郎を見る。
「みんながいたから、ここまで来られました」
美那の視線が、悠斗の先を追った。
そして、止まった。
* 3 *
宗一郎は動かなかった。
広場の端で、四十年前から取り残されたように立っている。
美那も動かない。
二人の間を、邪馬台国の民が行き交っている。
泣き声。結界を確かめる兵士の足音。子を呼ぶ声。
それらが遠くなったように、二人だけが見つめ合っていた。
「宗一郎」
美那が名を呼んだ。
宗一郎の肩が震える。
「……美那」
それだけだった。
四十年分の言葉を、一度に口にすることなどできないのだろう。
宗一郎は一歩進み、止まる。
「歳を取りましたね」
美那が泣きながら笑った。
「当たり前じゃ。四十年じゃぞ」
「はい。私も、歳を取りました」
「お互い様じゃな」
宗一郎の声が掠れた。
「目は、変わっていません」
宗一郎は顔を伏せた。
肩が、もう一度大きく震える。
美那は近づいた。
触れようとして、すぐには触れられない。
四十年前、光の向こうへ消えた少女。
四十年間、その背中を追い続けた青年。
二人の手が、ためらいながら重なった。
「会えた」
宗一郎が呟く。
「本当に、おった」
「はい」
美那は手を握り返した。
「私は、ここにいます」
宗一郎は何度も頷いた。
謝罪も、後悔も、まだ口にしなかった。
今はただ、再会できた事実だけで精一杯だった。
悠斗は美耶の手を握る。
美耶も、宗一郎と美那を見つめながら握り返した。
もし自分たちが離れたら。
四十年では済まない。
そんな考えが胸をよぎる。
悠斗は追い払うように、美耶の手へ力を込めた。
その時、再び空が鳴った。
今度は先ほどより長い。
黒い筋が三本、灰色の空を走る。
広場の端で、地面が小さく揺れた。
美那が顔を上げる。
「時間がありません」
再会の温度を残したまま、その声だけが陽巫女のものへ変わった。
「ヤーマ様がおられなくなり、結界は急速に弱まっています」
「どれくらい持つんですか」
悠斗が尋ねる。
「分かりません。これほど大きく揺らいだことはありませんから」
美那は宮殿を振り返る。
「ですが、戻るために必要なものは残っています」
「禍津八尺瓊勾玉」
美耶が言った。
美那が頷く。
「女王の間の奥に封じられています」
「界裂草薙剣は」
「陽の門が開いた時、結界の外に強い裂け目を感じました」
美那は黒い筋の消えた空を見る。
「剣も、その近くへ落ちた可能性があります」
結界の外。
悠斗たちが逃げてきた草原と、その向こうの暗闇。
妖しきものの声を思い出す。
「まず、勾玉を確かめましょう」
美那が言う。
「その後、剣を探しに行きます」
宗一郎が、美那の手を握ったまま顔を上げた。
「今度は、わしも行く」
美那は宗一郎を見る。
四十年前には言えなかった何かが、二人の間に残っている。
それでも今は、静かに頷いた。
美耶が民の方へ振り返る。
泣いている者も、怯えている者も、彼女を見ていた。
女王はもういない。
神もいない。
残されたのは、崩れかけた結界と、帰る道を探す人々だけだ。
それでも、美耶は前を向いた。
「行きましょう」
その声に、もう震えはなかった。




