第35話 次元の檻
「触れるな!」
加賀見の叫びが、女王の間に響いた。
九条の指先は止まらない。
目の前に浮かぶ球体は、拳ほどの大きさに見える。だが、その内側では星のような光が遠ざかり、黒い海のようなものが底もなく沈んでいた。
距離も、大きさも、何一つ定まらない。
それでも九条は、そこに手を伸ばした。
「局長!」
加賀見が背後から腕をつかむ。
九条は振り返りもせず、その手を振り払った。
「ならば見ていろ」
声には、もう恐れがなかった。
銃弾が届かなかったことも、自分の知識が通じなかったことも、すべて忘れたような目だった。
「九条家が千年追った力を、私が手にする瞬間を」
指先が、次元球へ触れた。
音はしなかった。
光も弾けなかった。
九条は、勝ち誇ったように口元を持ち上げた。
「見たか……」
言葉は、そこで途切れた。
球へ触れた右手の人差し指が、細く伸びていた。
骨が曲がったのではない。肉が引きちぎられたのでもない。指先から人の形そのものがほどけ、透明な糸になって球体の中へ吸い込まれている。
九条の笑みが消えた。
「何だ、これは」
手を引こうとする。
腕は後ろへ動いた。だが指先だけが球から離れない。伸びた糸がさらに細くなり、手の甲まで歪んでいく。
「離せ!」
九条が左手で右腕をつかむ。
加賀見も腰へ腕を回し、全身で引き戻そうとした。
「手を!」
玲奈が駆け寄る。
「駄目です、触れないでください!」
加賀見が怒鳴った。
その一瞬で、九条の右腕が肩までほどけた。
服も、血も、同じだった。布と肉の区別さえ失い、何本もの細い筋となって球の奥へ落ちていく。
九条の身体が傾く。
加賀見は離さなかった。
「局長!」
「引け、加賀見!」
「引いています!」
加賀見の靴が床を滑る。
槍を構えていた兵士たちも、目の前で起きていることを理解できずに後ずさった。
悠斗は美耶の手を握ったまま動けなかった。
助けなければと思う。
だが、何に触れれば九条を引き戻せるのか分からない。下手に近づけば、加賀見まで巻き込まれる。
「ヤーマ様、止めてください!」
美耶の声が震えた。
ヤーマは段差の上で頬杖をつき、楽しそうに眺めていた。
「なぜだ」
「このままでは、九条が……!」
「欲したものを与えただけだ」
九条の胸が、大きく歪んだ。
身体の半分が球へ向かって伸びる。
加賀見の腕から、九条の重さが消えた。重さだけではない。そこにいたという手触りまで薄れていく。
「私は……私は、九条景臣だぞ!」
九条が叫ぶ。
「知っている」
ヤーマは笑った。
「その名ごと、持っていくがよい」
「私は選ばれた一族の――」
「選ばれてなどいない」
ヤーマの声が、九条の最後の言葉を断ち切った。
次の瞬間、九条の姿が消えた。
加賀見の両腕だけが、何もない空間を抱いていた。
* 1 *
球体が、ゆっくり回っている。
その中に、何かが浮かんだ。
九条の顔だった。
縦に引き伸ばされ、押し潰され、裏返る。遠い場所へ落ちたと思えば、次の瞬間には球の表面まで迫ってくる。
口が開いている。
叫んでいるのだと分かった。
声は聞こえない。
球の中では九条だけが、終わらない落下を続けていた。
「局長……」
加賀見の声が掠れた。
床に膝をついたまま、差し出した両手を下ろせずにいる。
「戻してください」
ヤーマは答えない。
「命令には従います。拘束が必要なら、私がします。陽の世界へ戻った後、責任も取らせます。ですから――」
「戻す?」
ヤーマが不思議そうに首を傾げた。
「あれは次元の中で悠久の時を過ごす」
球の内側で、九条の顔がまた遠ざかる。
「死ぬことも、戻ることもできぬ。欲したものに包まれたのだ。本望であろう」
「そんなものが、本望なわけないだろ」
自分の声が出たことに、悠斗自身が驚いた。
ヤーマの目が向く。
怖かった。
九条を一瞬で消した存在だ。怒らせれば、自分も同じ場所へ落とされるかもしれない。
それでも、黙ることはできなかった。
「九条は、美耶を物みたいに扱った。俺たちを危険な目にも遭わせた。あの人がしたことを、許せるとは思わない」
美耶の指が、悠斗の手を強く握る。
「でも、あんなふうに笑うことじゃないだろ」
女王の間が静まり返った。
兵士たちは悠斗を見た。玲奈も、宗一郎も、息を止めている。
ヤーマだけが、少し目を細めた。
「我に、人間の憐れみを説くか」
「分からないなら、それでいい」
声が震えそうになる。
悠斗は美耶の手の温度を確かめた。
「でも、俺はそう思った」
ヤーマはしばらく悠斗を見ていた。
やがて、次元球を指先で軽く弾く。
球は音もなく宙を滑り、暗闇の奥へ沈んだ。九条の顔も、光も、完全に見えなくなる。
「イーラ」
ヤーマが笑う。
「この少年も、面白いな」
「ヤーマ」
イーラの声には、笑いはなかった。
「この者は、人のまま、ここに立っている」
宗一郎が暗闇を見つめたまま尋ねる。
「九条は……死んだのか」
「人間の言う死とは異なる」
イーラが答えた。
「だが、貴様らの世界へ戻ることはない」
加賀見が俯いた。
悲しんでいるのか、悔いているのか、悠斗には分からない。
ただ、その拳から血がにじむほど、強く握られていた。
九条の命令に従い続けた男が、最後には九条を止めようとした。
届かなかった両手だけが、女王の間に残された。
* 2 *
「ヤーマ」
イーラが段差の上を見た。
「この星を離れる時だ」
美耶が息を呑んだ。
「お待ちください」
ヤーマの視線が美耶へ移る。
「邪馬台国は、どうなるのですか」
「我がいなければ、この国が保てぬと思うか」
美耶は答えられない。
都を覆う結界も、陰の世界へ国を移した力も、ヤーマのものだった。
「当然だ」
ヤーマはあっさりと言った。
「そう作ったのだからな」
美耶の顔から血の気が引く。
悠斗は一歩前へ出かけた。
「だからこそ、戻す」
イーラの声が、悠斗を止めた。
「戻す……?」
美耶が聞き返す。
「陽の世界側の門は、すでに開かれた」
イーラの前に、二本の細い光が現れた。
一方は白く、もう一方は青黒い。
「だが、片側の傷を開いただけでは、この国は戻らぬ」
二本の光の間には、何もない。
イーラが指を動かすと、白い光だけが裂けた。けれど青黒い光には届かず、途中で道が捩れて消える。
「陰の世界にも、裂け目があるのですね」
玲奈が言った。
「そうだ」
「そこでも、界裂草薙剣を使う」
「陽と陰、両側の傷を開き、道を正す」
今度は二本の光が同時に裂けた。
その間に、細い一本の道が生まれる。
「そうすれば、邪馬台国は陽の世界へ戻れるのですか」
美耶の声には、希望と恐れが混じっていた。
「戻る。だが、貴様が渡った時代ではない」
宗一郎が顔を上げる。
「現代ではない……?」
「国ほどの存在を、あるべきでない時代へ置けば、理そのものが壊れる」
イーラの指先で、光の道が大きく揺れた。
「人間数人の転移ならば、未来の揺らぎや分岐として呑み込まれる。だが国は違う。土地も、人も、積み重ねた時も、あまりに大きい」
白い光の中に、一瞬だけ緑の大地が浮かんだ。
今の邪馬台国より明るい空。
山。川。田畑。
それはすぐに消えた。
「世界は、理が壊れることを避ける。邪馬台国は、本来あるべき時代と場所へ戻る」
美耶が胸元の鏡を抱く。
「私たちの国が、消える前へ」
「そうだ」
宗一郎は言葉を失っていた。
四十年をかけて追い続けた国が戻る。
けれど、戻る先は宗一郎が生きる現代ではない。
悠斗は、その意味を考えないようにした。
本来の時代へ戻れば、美耶はどうなる。
自分と美耶の間には、陰と陽だけではなく、千年以上の時間が横たわる。
握った手が、急に遠くなる気がした。
美耶も同じことに気づいたのだろう。
悠斗を見る。
何も言わず、指を絡めた。
「三つの神器は、そのためにあるのですね」
美耶はイーラへ向き直った。
「鏡は道を映す」
イーラの視線が、美耶の胸元へ落ちる。
「剣は道を開く」
所在の分からない界裂草薙剣。
「勾玉は歪みを解く」
女王の間のさらに奥で、何かが低く脈打った気がした。
ヤーマは振り返らない。
「陽側の傷は開いた。剣を探し、陰側の裂け目へ行け。勾玉も必要になる」
「裂け目は、どこにあるのですか」
「道は、鏡が映す」
イーラの答えは、それだけだった。
* 3 *
ヤーマが段差から立ち上がった。
青白い炎が、一斉に小さくなる。
「陽巫女」
「はい」
「その鏡を見せよ」
美耶の肩が強張った。
悠斗は反射的に、美耶との間へ半歩入る。
「何をするつもりですか」
「少年」
ヤーマは悠斗を見た。
「我に問えば、答えが得られると思うな」
美耶が悠斗の袖に触れる。
小さく首を振った。
怖くないはずはない。
それでも美耶は、自分で胸元から天岩戸八咫鏡を外した。
両手に載せ、ヤーマへ差し出す。
「……はい」
ヤーマの指が鏡へ触れる。
今度は、すり抜けなかった。
鏡を受け取り、鏡面を見ることもなく握りしめる。
何かを壊そうとしているようには見えない。
むしろ、鏡の奥にある見えない糸を探り、それを静かにつかんだように見えた。
一度だけ、淡い光がこぼれた。
美耶が息を呑む。
悠斗には、何が起きたのか分からない。
玲奈も宗一郎も、鏡を見つめたまま動かなかった。
光はすぐに消えた。
ヤーマは何事もなかったように、美耶へ鏡を返す。
「持っていけ」
美耶は両手で受け取った。
「それがまだ、貴様に道を映すかどうかは知らぬ」
「ヤーマ様……?」
ヤーマは答えなかった。
美耶の手の中で、鏡はもう光っていない。
ヤーマが女王の間を見渡す。
兵士たちの顔に、動揺が広がる。
この国を百六十年支配してきた女王が、何の別れも告げずに去ろうとしている。
「行くぞ、イーラ」
ヤーマは退屈そうに言った。
「この星にも飽いた」
イーラは美耶へ向き直る。
「陽巫女」
「はい」
「一人で背負うな」
美耶は鏡を胸に抱いた。
「道は、共に歩く者がいて初めて保たれる」
美耶の目が、悠斗へ向く。
「……はい」
深く頭を下げた。
ヤーマは最後に、悠斗を見た。
「少年」
その姿は、もう輪郭を失い始めている。
「その陽巫女を泣かせるな、とは言わぬ」
「え」
「人間は、どうせ泣く」
ヤーマの向こうに、段差と青白い炎が透けて見えた。
「だが、泣いた後の顔くらいは見せてみよ」
意味は分からなかった。
また人間を面白がっているだけなのかもしれない。
それでも、突き放すためだけの言葉には聞こえなかった。
悠斗は答える代わりに、美耶の手を握った。
美耶も握り返す。
ヤーマとイーラの姿が薄れていく。
空間から消えるのではない。
人間の目に見える形をやめ、届かない場所へ静かに遠ざかっていく。
最後に、ヤーマの声だけが残った。
「人間の世は、短く騒がしい」
青白い炎が揺れる。
「だが、退屈しのぎにはなる」
気配が消えた。
人の目に映る形を捨てた二人は、すでに女王の間にはいなかった。
遠ざかる星の光の中で、イーラがヤーマを見る。
「ヤーマ」
「何だ」
「どういう風の吹き回しだ」
ヤーマは振り返らない。
「我は、人間の苦悩に満ちた顔を見るのも好きだ」
遠くで、青い星が小さくなっていく。
「だが、喜ぶ顔も嫌いではない」
「そうか」
「もっとも、その顔ができるかどうかは、あの者たち次第だがな」
イーラはそれ以上、何も尋ねなかった。
二人の言葉が、女王の間へ届くことはなかった。
誰も動かなかった。
女王のいなくなった段差。
九条のいなくなった床。
加賀見は膝をつき、兵士たちは槍を握ったまま立ち尽くしている。
神に支配された国だけが、人の手に残された。
美耶の胸元で、天岩戸八咫鏡はもう光っていない。
ただ、先ほどの淡い光だけが、悠斗の目の奥に残っていた。




