第34話 愚かな欲望
「人間は、理の中にある」
イーラの声は、暗闇そのものから響いた。
消えていた青白い炎が、一つずつ戻ってくる。
柱。床。段差へ座るヤーマ。
何も変わっていない。
だが悠斗は、自分が立っている場所を、もうさっきまでと同じ部屋だと思えなかった。
壁の向こうに、あの無数の光がある。
空と大地の下に、人間には見えない何かが走っている。
知ってしまったのではない。
何も知らなかったことだけを、思い知らされた。
「理とは、世界を世界として成り立たせるものだ」
イーラが続ける。
「人間は理の中で生まれ、理の中で命を得る。理の中で見て、触れ、知を積む」
九条は黙って聞いている。
さっきまでの余裕は消えていた。それでも目だけは、イーラの言葉を一つも逃すまいとしている。
「ならば、知を積み続ければ、いずれ届く」
「届かぬ」
イーラは即座に断った。
「なぜ断言できる」
「魚が水の外を泳げぬことに、理由が要るか」
「人は水の外へ出た」
「理の中でな」
九条の唇が止まる。
「貴様らが見えぬものを観測することと、理の外にあるものを扱うことは違う。遠くを見る目を作ろうと、細かなものを測る器を作ろうと、その知はすべて理の中で積まれる」
イーラの視線が、美耶の胸元へ移った。
「三種の神器は、理の外にある力を、人間にも触れられる形へ落としたものだ」
天岩戸八咫鏡が、かすかに震えた。
美耶は両手で鏡を包む。
「天岩戸八咫鏡は、道を映す」
鏡の縁に、淡い光が走る。
「界裂草薙剣は、道を開く」
悠斗は、陽の世界で門が裂けた瞬間を思い出した。
封印容器を砕き、誰の手にも従わず、空間そのものへ傷を作った剣。
「禍津八尺瓊勾玉は、道を歪める」
女王の間の空気が沈んだ。
ヤーマは何も言わない。
自分が作った勾玉によって、この国を陰の世界へ引き込んだ。
その事実を否定もしなければ、悔いてもいない。
「役割が定まっているなら、条件もある」
九条が言った。
「条件が分かれば、再現できる。扱うことも――」
「貴様は、まだ分かっていない」
イーラの声には、怒りより深い隔たりがあった。
「触れられることと、扱えることは同じではない」
九条は美耶の鏡を見る。
「現に、その少女は使っている」
「美耶です」
悠斗は言った。
九条の視線がこちらへ向く。
「その少女じゃない。美耶には名前がある」
「名前で性質は変わらない」
「あんたは、ずっとそうやって人を物にしてきた」
美耶が悠斗の手を握る。
指は冷たかった。
けれど、その力は弱くない。
「私は、鏡を支配しているのではありません」
美耶が九条を見た。
「鏡に助けていただき、道を歩いているだけです」
「言い方を変えただけだ」
「違います」
美耶は首を振った。
「自分が上にいると思っている限り、きっと分かりません」
ヤーマが、小さく笑った。
「陽巫女にまで言われたな、九条景臣」
* 1 *
九条の顔が硬くなる。
ヤーマは頬杖をついたまま、その変化を楽しんでいた。
「貴様は、自分が高みにいると思っているのだな」
「何の話です」
「王朝の影に潜み、国の裏に巣を作り、真実を独占したつもりでいた」
宗一郎と玲奈が同時に九条を見る。
九条家と天叢機関。
歴史から邪馬台国の痕跡を消し、神器の情報を囲い込み、美耶を生体鍵と呼んだ者たち。
「そして今、我の前でなお、自分は交渉できる側だと思っている」
「我々が守ってきたものを、あなたは知らない」
「守った?」
ヤーマの笑みが深くなる。
「滑稽だ」
その一言が、九条の顔を打った。
「貴様は頂に立っていたのではない」
ヤーマは指先で床を示す。
「小さな器の底で、空を支配したつもりになっていただけだ」
九条の呼吸が変わる。
悠斗は初めて見た。
九条の言葉ではなく、感情が先に動くところを。
「九条家は千年以上、この国と神器の真実を継承してきた」
「千年か」
ヤーマは、あまりに短い時間を聞いたように瞬いた。
「人間にしては長いのだろうな」
「その積み重ねを、何も知らないあなたが――」
「だが、我にとっては、瞬きの間に虫が巣を広げた程度のこと」
加賀見が息を呑む。
「局長」
止めようとする声だった。
九条には届いていない。
「九条家を侮辱するか」
ヤーマは、心底不思議そうに首を傾げた。
「侮辱?」
青白い炎が揺れる。
「違うな」
ヤーマは九条をまっすぐ見た。
「我は、ただ見たままを言っている」
九条の右手が、わずかに動いた。
上着の前を確かめるような、小さな動き。
玲奈の目が鋭くなる。
「手を見えるところへ」
九条は従わない。
「貴様らは、真実を守ったのではない」
ヤーマの言葉が続く。
「真実の影に群がり、自分たちだけが選ばれたと酔っていただけだ」
「黙れ」
九条の声が低く落ちた。
女王の間の兵士たちが、槍を上げる。
加賀見が九条の前へ出ようとした。
「お控えください」
「下がれ、加賀見」
「ここは天叢機関ではありません」
「だから何だ」
「我々の武器も、権限も、何の保証にもならない場所です」
九条の目が加賀見へ向く。
「お前まで、私が間違っていると言うのか」
「生きて戻るべきだと申し上げています」
「戻って何を報告する。人間には理解不能でしたとでも言うのか」
加賀見は答えられなかった。
その沈黙が、九条には裏切りに見えたのかもしれない。
ヤーマだけが、九条の右胸を見ていた。
「その武器を使うか」
玲奈が腰を落とす。
九条の手が止まった。
「何のことです」
「鉄の塊を飛ばす道具だ」
ヤーマは自分の胸元を指した。
「よいぞ」
美耶の手が強くなる。
「ヤーマ様」
「貴様が頂に立つ者だと言うのなら、我を撃ち抜いてみせよ」
* 2 *
「挑発に乗ってはなりません!」
玲奈が叫んだ。
同時に、九条の上着へ手を伸ばす。
加賀見も動いた。
だが、二人より先に九条が銃を抜いた。
黒い銃身が、青白い炎を弾く。
邪馬台国の兵士たちには、それが何か分からない。
それでも武器だと察し、槍を九条へ向ける。
悠斗は美耶を引き寄せた。
宗一郎が床へ身を伏せる。
「局長、下ろしてください!」
加賀見が九条の腕をつかむ。
銃口が揺れた。
「離せ」
「撃てば、取り返しがつきません」
「すでに取り返しのつかない場所にいる」
九条は加賀見を振り払った。
ヤーマは動かない。
段差の上で、退屈そうに九条を見ている。
「どうした」
銃口の先で、ヤーマが笑う。
「千年かけて辿り着いた男が、指一本動かすこともできぬのか」
「やめろ!」
悠斗の声と、乾いた破裂音が重なった。
青白い炎が大きく揺れる。
美耶が息を呑み、悠斗の胸へ顔を伏せた。
銃口から細い煙が上がっている。
ヤーマの胸に、小さな穴が開いていた。
そう見えた。
次の瞬間、背後の柱から木片が弾けた。
ヤーマの胸には、傷一つない。
弾丸は、そこに何もなかったように身体を抜け、後ろの柱へ食い込んでいた。
「な……」
九条の口から、初めて意味にならない声が漏れた。
加賀見が銃を持つ手首をねじ上げる。
玲奈が銃を奪い、床へ滑らせた。
兵士たちが一斉に九条を取り囲む。
槍の穂先が、首と胸へ突きつけられた。
九条は抵抗しなかった。
目の前のヤーマから、目を離せずにいる。
「当たったと思ったか」
ヤーマが自分の胸へ手を当てた。
「哀れなものだな」
指先は、何の抵抗もなく衣の上を滑る。
「見えているものを、触れられるものだと思い込むとは」
「映像、なのか」
九条の声が震える。
「違う」
イーラが答えた。
「幻覚か。投影か。光学的な――」
「貴様らが我らを見ているのではない」
九条の言葉が切れる。
「我らが、貴様らに見えるようにしている」
悠斗はヤーマを見る。
そこにいる。
声も聞こえる。床には衣の裾が触れているように見える。
けれど、本当はどこにいるのか。
人の姿の向こうに、何があるのか。
想像しようとしただけで、頭の奥が痛んだ。
「貴様の武器がヤーマに届かなかったのは、ヤーマが避けたからではない」
イーラは九条を見下ろした。
「貴様の武器が届く場所に、ヤーマはいないからだ」
宗一郎が、ゆっくり顔を上げる。
考古学者として、神話と歴史の境を追い続けてきた男。
その顔から、すべての言葉が消えていた。
「……神ではないか」
呟きは、祈りではなかった。
理解できないものを前にした、人間の戦慄だった。
「そう呼ぶ者もいたであろう」
イーラが宗一郎へ答える。
「だが、それは人間が理解できぬものに名を与えただけだ」
ヤーマが笑った。
「神、か」
その響きを、面白がるように繰り返す。
「人間は、理解できぬものに大仰な名をつけたがる」
* 3 *
「九条景臣」
イーラの声で、女王の間から温度が消えた。
青白い炎が、すべてイーラの方へ傾く。
九条を押さえていた兵士たちが、理由も分からないまま後ずさった。
ヤーマの笑みも止まる。
「貴様は、ヤーマへ殺意を向けた」
イーラは動いていない。
声も荒らげていない。
それなのに、悠斗は結界の外で感じたものより深い恐怖に襲われた。
「殺意も、欲も、怒りも、我らには見えている」
九条の足元から、黒い亀裂のようなものが広がる。
床が割れたのではない。
九条の影だけが、底のない場所へ落ちていくように伸びている。
「その殺意を、我が見逃すと思ったか」
九条が初めて、後ろへ逃げようとした。
だが、膝が動かない。
加賀見が九条の肩を抱き、引き戻そうとする。
「お待ちください。撃たせた責任は私にもあります」
「加賀見!」
「黙っていてください!」
加賀見の声が、九条の命令を初めて押し返した。
「イーラ様」
美耶が呼びかける。
イーラの視線は九条から離れない。
その横顔を、ヤーマが見ていた。
「イーラ」
先ほどまでとは違う声だった。
嘲りも退屈もない。
「我への殺意を、怒るのか」
イーラがヤーマを見る。
九条の影を飲み込もうとしていた闇が、止まった。
「ヤーマ」
二人の間に、誰にも触れられない時間が流れる。
「貴様へ向けられた殺意を、我が見過ごす理由はない」
ヤーマは瞬きをした。
初めて、人間の女のように見えた。
「そうか」
声は、ひどく静かだった。
「イーラは、我を見ているのだな」
イーラは答えない。
けれど、目を逸らさなかった。
悠斗には、その沈黙の意味が分からなかった。
九条にも分からないのだろう。
彼は解放された足で逃げようともせず、ヤーマとイーラを見ていた。
恐怖ではない。
その目に、また光が戻っている。
届かなかった。
撃ち抜けなかった。
自分の尺度をすべて否定された。
それでも九条が見ているのは、手に入らないものだった。
「まだ欲しがるか」
ヤーマが九条へ尋ねる。
「今の力を」
九条は答えなかった。
答える必要もなかった。
ヤーマには、すべて見えている。
「愚かなものだ」
ヤーマが片手を上げる。
手のひらの上で、空間が歪んだ。
最初は、陽炎のような揺らぎだった。
やがて揺らぎは丸く閉じ、拳ほどの球になる。
透明なのに、向こう側は見えない。
球の内側で、光と闇が何度も裏返っている。遠い星空のようなものが浮かび、次の瞬間には深い水底のように沈む。
見つめるほど、距離が分からなくなる。
手のひらに乗る大きさなのか。
この部屋より大きいのか。
世界そのものを、小さく丸めたものなのか。
悠斗の目には、判断できなかった。
「欲しければ、くれてやろう」
ヤーマは次元球を、九条の前へ滑らせた。
球は宙に浮いたまま、音もなく回っている。
「触れるがよい」
九条の手が上がる。
「それが、貴様の欲した次元の力だ」
玲奈が九条の肩をつかもうとする。
だが九条は、夢の中を歩くように一歩前へ出た。
その指が、球へ伸びる。
「触れるな!」




