第33話 理の外側
灰色の世界が、息を止めていた。
女王の間の中央に立つイーラは、ヤーマから目を逸らさない。
「これは、我が残した道だ」
その言葉が消えても、誰も動けなかった。
青白い炎だけが、音もなく揺れている。
美耶は床へ両手をついたまま、イーラを見上げていた。帰る道を授けた存在。陽巫女へ使命を残しながら、その姿を見せることのなかった者。
けれど今、二人の間にあるものは再会の安堵ではない。
悠斗には、長い間閉じていた傷口が、ようやく開いたように見えた。
「やはり、貴様か」
ヤーマが言った。
怒鳴り声ではない。
それでも、柱の奥で何かが軋んだ。
「面白くはある」
ヤーマは段差へ肘をつき、イーラを見下ろす。
「だが、少し腹立たしい」
「そうか」
「我に隠れて道を残し、我の陽巫女へ歩かせた」
美耶の肩が震えた。
イーラの視線が、わずかに美耶へ向く。
「陽巫女は、自ら歩いた」
「言葉を与えたのは貴様だ」
「選んだのは、その者だ」
二人の声は静かだった。
だからこそ、悠斗は怖かった。
人間なら、怒れば声を荒らげる。殴りかかる前には肩が動く。怖い相手にも、何かしら予兆がある。
この二人には、それがない。
今ここで何が壊れてもおかしくないのに、二人とも風の話でもするように言葉を交わしている。
「イーラ様」
美耶が、震える声を絞り出した。
「私が、間違えたのでしょうか」
悠斗は美耶を見る。
「天岩戸へ戻れず、結界の外へ出ました。皆様まで巻き込んでしまいました。私が剣の使い方を誤ったから――」
「違う」
イーラは短く断った。
「貴様一人の過ちではない」
美耶の唇が、かすかに開く。
「では、なぜ」
「道へ入った者が多すぎた」
イーラの目が、悠斗たちを順に映した。
悠斗。宗一郎。玲奈。九条。加賀見。
「本来、天岩戸八咫鏡が導くのは、鏡を持つ陽巫女一人。陽の世界から戻る時も、行き着く先は天岩戸だ」
美耶の手が、胸元の鏡へ触れる。
「ですが、あの時は」
「界裂草薙剣が、陽の世界側の裂け目を開いた」
イーラの声に、ヤーマの目が細くなる。
その名を聞くたび、ヤーマはわずかに反応する。
知っていたものを確かめているのではない。
自分の知らないところでイーラが何をしたのか、一つずつ拾い集めている。
悠斗は、そう感じた。
「剣が開いた道へ、鏡を持つ陽巫女だけでなく、五人の人間が同時に入った。異なる力、異なる望み、異なる時を持つ者たちが、一つの裂け目へ殺到した」
女王の間の床へ、薄い波紋が広がった。
水ではない。
イーラの足元から、空間そのものに皺が寄っていく。
六つの小さな光が現れ、一本の細い線へ重なろうとする。だが、触れた瞬間に線は大きく歪み、灰色の闇へ弾き出された。
結界の外で見た空が、悠斗の脳裏によみがえる。
形の定まらない影。
足元を這った黒いもの。
美耶の手を離せば、二度と見つけられないと思った恐怖。
「それで、結界の外へ……」
玲奈が呟いた。
「座標が乱れた」
イーラが告げると、床の光は消えた。
「本来の帰還ではない。道が、最も近い安定した場所を選ぶ前に、貴様ら自身が道を歪めた」
宗一郎が鞄を抱え直す。
「わしらが、一緒に入ったからか」
「それだけではない」
イーラは九条を見る。
「道を開く力を、人の意思で乱暴に引き出した」
九条の顔は動かなかった。
加賀見の指先だけが、わずかに強張る。
あの門は事故ではない。
九条が開かせた。
剣を封じていた容器が砕け、美耶も悠斗たちも巻き込まれた。それでも九条は、自分のしたことを後悔しているようには見えない。
「それでも」
九条が口を開いた。
玲奈がすぐに腰を浮かせる。
「黙りなさい」
「事実を述べるだけだ」
九条は玲奈ではなく、イーラを見た。
「不完全だった。座標も乱れた。だが、到達した」
結界の外で死にかけたことさえ、九条の声からは消えていた。
失敗ではない。
次に成功するための結果。
この男は本気で、そう考えている。
* 1 *
「到達した、か」
ヤーマが繰り返した。
九条は立ち上がった。
兵士たちが槍を構える。
加賀見が止めようと腕を伸ばしたが、九条は手のひらで制した。
「女王ヤーマ」
「我を、その名で呼ぶか」
「あなた方がこの国を統べていると理解しています」
九条の声が変わっていた。
命令する声ではない。会議室で相手の反応を読み、条件を積み上げる時の声だ。
この場所でも、九条は交渉を始めようとしている。
「私は陽の世界の政府機関に属する者です」
「政府」
ヤーマは、知らない言葉を口の中で転がすように言った。
「国を治める仕組みです」
「人が人を縛る仕組みか」
「秩序を作る仕組みです」
ヤーマが笑った。
「同じことだ」
九条の眉が、ごくわずかに動く。
「陽の世界には、ここにない技術があります。医療、農業、建築、輸送。あなた方の国が必要とするものを提供できる」
悠斗は都で見た顔を思い出した。
何度も葺き直された屋根。
灰色の空を見上げる子供。
長い冬を終えられないまま生きてきた人々。
九条の言葉だけを聞けば、救いに思える。
美耶も一瞬、顔を上げた。
だが、九条の目は美耶を見ていなかった。
この国の人々も見ていない。
見ているのは、交換した先で自分が何を得るかだけだ。
「その代わりに、何を望む」
ヤーマが問う。
「互いの世界に利益のある関係を」
「利益」
たった一語だった。
九条の背後に、巨大な影が立った。
悠斗には、そう見えた。
実際には何もない。九条は一人で立っている。
それなのに、言葉の裏へ隠したはずのものが、すべて引きずり出された気がした。
都を測った目。
結界を値踏みした目。
鏡を、剣を、美耶を、人ではなく利用価値として見た目。
「技術」
ヤーマが指を一本立てる。
「資源」
二本目。
「知識。国家。産業。軍事。物流」
九条がまだ口にしていない言葉まで、ヤーマは並べた。
九条の顔から表情が消える。
「貴様の頭の中は、騒がしいな」
「私個人の欲望ではありません。陽の世界全体にとっての可能性です」
「大勢の名を使えば、欲が清らかになるとでも思うか」
「現実の話をしています」
「ならば、現実を教えてやろう」
ヤーマが立ち上がった。
それだけで、女王の間が狭くなった。
人の姿をした何かが立ったのではない。
空も、大地も、この国を覆う結界も、すべてがこちらを向いた。
悠斗の肺から空気が抜ける。
「この世界に、貴様らが欲するような資源はない」
九条は黙っている。
「この地は、我が切り離した場所」
美耶の指が鏡を握る。
「人の世の金属も、燃料も、富も、貴様らが夢見る宝もない。あるのは、貴様らが外で見たものと、我が残した国だけだ」
宗一郎が息を呑む。
美耶の顔が強張った。
残した国。
守った、ではない。
ヤーマは自分で邪馬台国をここへ移した。その事実を、まるで部屋の場所を変えたように口にした。
「では、この国は百六十年もの間、何を糧に生き延びてきたのです」
宗一郎の問いには、怒りが混じっていた。
「人は、何もなくとも生きようとする」
ヤーマは宗一郎を見た。
「それが人の面白いところだ」
「面白い、じゃと」
宗一郎が立ち上がりかける。
玲奈が腕をつかんだ。
「御影先生」
「分かっとる」
そう答えながら、宗一郎の拳は震えていた。
この国には美那がいる。
四十年間、会いたかった人が、この空の下で生きてきた。
宗一郎にとって、ヤーマの言葉は遠い国の話ではない。
* 2 *
「資源がないとしても」
九条が言った。
諦めていない。
むしろ、不要な選択肢を一つ消しただけの顔だった。
「三種の神器がある」
美耶が鏡を抱く。
悠斗は一歩、美耶の隣へ寄った。
前には出ない。
けれど、九条の視線と美耶の間に、自分もいると分かる位置へ。
「実物が存在するなら、観測できる。構造を調べ、再現条件を探り、解析することができる」
「まだ言うのですか」
玲奈の声は低かった。
「あなたは剣を使って、全員を死なせかけた」
「使えたから、ここにいる」
「制御できなかった」
「制御は、次の課題だ」
加賀見が目を伏せた。
悠斗は、九条の言葉に寒気を覚えた。
死ぬかもしれなかった。
それを、この男は課題と呼ぶ。
美耶が鏡を握る手へ、力を込めた。
「これは、道具ではありません」
「道具でないものを、人は手に持たない」
九条の視線が、美耶の胸元へ落ちる。
「鏡には形がある。剣にも形があった。形があるなら測定できる。測定できるなら、理解できる」
「扱えぬ」
イーラが言った。
九条が初めて、言葉を止めた。
「何を根拠に」
「我が、そう定めた」
静かな声だった。
威圧も怒りもない。
なのに九条の問いが、あまりに小さく聞こえた。
「界裂草薙剣を作ったのは、貴様か」
ヤーマが問う。
女王の間に、新しい緊張が走る。
イーラはヤーマを見る。
「そうだ」
美耶が息を呑んだ。
ヤーマは笑わなかった。
「いつだ」
「貴様が邪馬台国をこちらへ引き込んだ時」
青白い炎が、一斉に細くなる。
「陽の世界に裂け目が生じた。わずかな間だけ開いた、戻るための傷だ」
イーラの声には、悔いも誇りもなかった。
ただ、起きたことを告げている。
「我は、その場で剣を作り、裂け目へ投じた」
ヤーマの指が止まる。
「我に隠して」
「貴様に知らせれば、閉じただろう」
「当然だ」
「ゆえに、知らせなかった」
二人の間に、百六十年より長い沈黙が落ちた。
美耶は、胸元の鏡を見下ろす。
陽巫女に与えられた使命。
天岩戸へこもり、鏡で陽の世界へ渡り、帰る道を探す。
それはヤーマとイーラが共に決めた役目ではなかった。
イーラがヤーマへ隠した、細い反逆だった。
「では、天岩戸も」
美耶が尋ねる。
「私たち陽巫女が、鏡を持って陽の世界へ渡ったことも、ヤーマ様は……」
最後まで言えなかった。
ヤーマの目が、美耶へ向いたからだ。
「我は、陽巫女が天岩戸で苦しむものと思っていた」
あまりにも平然とした答えだった。
悠斗の奥で、怒りが燃えた。
美耶も、美那も、その前の陽巫女たちも。
命を懸けて道を探した。
ヤーマは、その苦しみを知りながら放っておいた。
「苦しむことを、知っていて」
悠斗の声が出た。
「止めなかったのか」
ヤーマは悠斗を見る。
「人は皆、苦しむ」
「同じじゃない」
「貴様が決めることか」
「少なくとも、美耶が苦しむのを面白がるかどうかは、決められる」
怖かった。
それでも、言葉を引っ込める気にはなれなかった。
美耶が悠斗の袖をつかむ。
止めるためではない。
震える指で、ここにいることを確かめるように。
* 3 *
「短い命は、よく燃える」
ヤーマは悠斗と美耶を見比べた。
「だから退屈しない」
「ヤーマ」
イーラの声が、わずかに低くなる。
ヤーマは肩をすくめ、九条へ視線を戻した。
「話が逸れたな。人間は、神器を測れると言ったか」
九条は、二人の間で交わされた真実に怯んでいなかった。
「少なくとも、測定を試みることはできる」
「貴様は、あれを剣だと思っている」
イーラが言う。
「剣の形をしていました」
「鏡は鏡か。勾玉は勾玉か」
「そう呼ぶだけの形と性質がある」
「逆だ」
イーラが手を上げた。
何も持っていない手だった。
だが悠斗は、その指の間に、見てはいけない何かがあるように感じた。
「人間が手に取れる形を、与えただけだ」
女王の間の柱が、一瞬だけ消えた。
壁も、床もない。
果てのない暗闇に、細い光が無数に走っている。
光は絡み、分かれ、交わらないはずの場所で重なり、また消える。
見えたと思った瞬間には、もう別の形になっている。
悠斗は目を閉じた。
頭の奥へ、針を差し込まれたように痛む。
隣で美耶が息を詰めた。
宗一郎は床へ手をつき、玲奈は片目を押さえている。加賀見も九条を支える余裕を失っていた。
九条だけが、目を開けようとしていた。
理解できているからではない。
理解できないものを、理解できないまま見逃すことに耐えられないのだ。
次の瞬間、女王の間が戻った。
柱も床も、何も変わっていない。
「今のは」
九条の声が掠れる。
「貴様が、剣と呼んだものの一端だ」
「記録装置があれば――」
「まだ分からぬか」
イーラの声に、初めて冷たさが混じった。
「見えぬものを観測する技術と、理の外にあるものを扱うことは違う」
九条は答えない。
その沈黙を、敗北とは認めていない顔だった。
ヤーマが楽しそうに笑う。
「語ってやれ、イーラ」
段差へ座り直し、頬杖をつく。
「我も聞いてやろう」
その目は九条を見ている。
「人間が絶望する音は、退屈しのぎにはなる」
イーラはしばらくヤーマを見つめた。
それから、九条へ向き直る。
「九条景臣」
名前を呼ばれただけで、九条の体が固まった。
「貴様は、三種の神器を解析できると言った」
「可能性の話です」
「では聞くがよい」
青白い炎が消えた。
暗闇の中で、イーラの輪郭だけが見える。
「貴様ら人間が、何を見ているのか」
一つずつ、言葉が落ちる。
「そして、何を決して扱えぬのか」
悠斗は、美耶の指を握った。
鏡が、二人の間でかすかに震える。
答えを示す震えではない。
これから語られるものを、鏡さえ恐れているようだった。
イーラの声が、暗い女王の間に響いた。
「人間は、理の中にある」




