第32話 消えなかった女王
邪馬台国には、夕焼けがなかった。
灰色の空は明るくも暗くもならず、同じ色のまま都を覆っている。
それでも、人は暮らしていた。
道の脇では、女たちが編みかけの布を抱えて立ち止まり、土壁の家からは煮炊きの煙が上がっている。裸足の子供がこちらへ駆けてきて、槍を持った見張りに止められた。
「美耶様だ」
子供が言った。
「美耶様が、帰ってきた」
その声は、乾いた土へ落ちた一滴の水のように広がった。
戸口から人が出てくる。道の向こうで誰かが名を呼ぶ。驚きが喜びに変わり、けれど美耶の後ろにいる五人を見た途端、その喜びに警戒が混じった。
現代の服を着た悠斗。
スーツ姿の玲奈と加賀見。
鞄を抱えた宗一郎。
そして、九条景臣。
ここでは、全員が異物だった。
兵士たちの槍は下がっている。だが、いつでも上げられる角度を保っている。
悠斗は、美耶の半歩後ろを歩いていた。
隣に立つと言ったのに、気づけば半歩遅れている。
美耶が帰ってきた国だ。
自分が踏み込んでいい場所なのか。その迷いが、足を鈍らせていた。
美耶が振り返る。
何も言わず、手を伸ばした。
悠斗は一瞬だけ迷ってから、その手を握った。
民の視線が集まる。
それでも美耶は離さなかった。
「一緒に来てください」
「うん」
「ここは、私の帰りたかった場所です。でも――」
美耶の指が、少し強く悠斗の手を握る。
「今は、一人で歩くのが怖いです」
悠斗は半歩を詰めた。
「じゃあ、隣を歩く」
今度こそ、同じ速さで歩き出した。
道の先に、都が広がっている。
教科書の復元図とは違った。高床の建物だけが整然と並ぶ、止まった展示物ではない。壊れた柵には新しい木が継がれ、屋根には何度も葺き直した色の違いがある。水を運ぶ者、土器を積む者、泣く子を抱き上げる者。百六十年近い時間を、この閉ざされた空の下で生き延びてきた人々の国だった。
だが、明るくはない。
人々の顔には、長い冬を越えても春が来なかったような疲れがあった。
美耶が小さく息を呑む。
「前は、もっと……」
言葉が続かなかった。
「もっと?」
「光がありました。朝には東が白くなって、日が昇れば、子供たちは眩しいと笑っていました。夏は暑くて、畑へ出るだけで汗が止まらなくて」
美耶は灰色の空を見上げた。
「こんな空では、ありませんでした」
悠斗の脳裏に、白峰家の庭が浮かんだ。
うるさいほどの蝉の声。開けた窓から入る熱気。冷蔵庫を開ける莉央を叱る母の声。縁側で笑った美耶の横顔。
ここには蝉がいない。
風はあるのに、夏の匂いがしない。
美耶があの家で眩しそうに見上げていた青空は、故郷から失われたものだったのだ。
「美耶様」
道端で、年老いた女が膝をついた。
美耶は慌てて駆け寄る。
「どうか、立ってください」
「よくぞ、ご無事で」
女の手が美耶の袖に触れる。確かめるような、震える指だった。
「天岩戸へ入られたと聞いてから、幾日も、幾月も……もう、お戻りにはならぬのではと」
美耶の顔から血の気が引いた。
「私がいなくなってから、どれほど経ちましたか」
女が答えた時間は、悠斗が想像していたものより長かった。
陽の世界で過ぎた日々と、ここで過ぎた日々は、やはり同じではない。
美耶は唇を噛んだ。
「母は。父は。お祖母様は、無事ですか」
「皆様、ご無事です。ただ、美那様は毎日、天岩戸の方角を――」
「美那……」
宗一郎の声が漏れた。
女が顔を上げる。
宗一郎は、それ以上何も言えなかった。
四十年間、追い続けた名。
会えると分かっただけで、足が前へ出なくなるほど大切な人。
美耶は宗一郎を見た。
「御影先生。お祖母様に――」
「先に、女王じゃ」
宗一郎は鞄の取っ手を握り直した。
「ここまで来て順を違えれば、美那に叱られる。わしは、まだ何も守りきっておらん」
笑おうとした顔は、うまく笑えていなかった。
美耶は深く頷く。
「はい。一緒に会いに行きましょう」
宗一郎は目元を押さえ、短く「ああ」と答えた。
* 1 *
都の中心へ近づくほど、空気が重くなった。
結界の外にあった、皮膚を裏返されるような恐怖とは違う。
ここでは、誰もが声を抑えている。
大きな建物の前を通る時、笑っていた子供まで口を閉じる。兵士は背筋を伸ばし、民は道の端へ寄る。
その先に女王がいる。
姿が見えなくても、都全体がそう告げていた。
玲奈が周囲へ目を走らせる。
「監視されています」
「そりゃそうじゃろう」
宗一郎が声を潜める。
「見たこともない格好の人間が五人、陽巫女と一緒に歩いとる」
「五人ではありません」
玲奈の視線が九条へ向く。
「私たち四人と、監視対象が一人です」
「神代玲奈。ここでまで、その呼び方を続けるのか」
「場所が変わっても、あなたがしたことは変わりません」
九条は答えず、建物を見た。
土壁の厚み。見張りの配置。人々が頭を下げる方向。空を覆う結界と、都の中心との位置関係。
悠斗には、九条の目が何を数えているのか分からない。
だが、見惚れている目ではないことだけは分かった。
初めて邪馬台国を見た宗一郎の目には、積み重ねた四十年があった。
九条の目にあるのは、値段だった。
「まだ、奪うものを探しているんですか」
悠斗が言うと、九条が初めてこちらを見た。
「観察している」
「同じに聞こえます」
「知らないものを知ろうとすることまで、罪だと言うつもりか」
「知ることと、自分のものにすることは違う」
九条の目が細くなる。
怖かった。
陽の世界なら、この人は組織も武器も権力も持っている。ここでも、何をするか分からない。
それでも悠斗は視線を逸らさなかった。
美耶が守りたかった国を、また誰かの欲望に食い荒らさせたくない。
「白峰さん」
加賀見が低く言った。
制止の声かと思った。
だが、加賀見は九条を見ていた。
「局長。今は、発言を控えてください」
「お前まで私に命じるのか」
「生存のための進言です」
加賀見の額には、薄く汗が浮いていた。
この世界に来てから、彼の声からは確信が失われている。
「ここは、我々の規則が届く場所ではありません」
九条はしばらく加賀見を見つめ、やがて前へ向き直った。
反論しなかった。
諦めたのではない。
まだ測っている。
悠斗は、その沈黙の方が不気味だった。
やがて、兵士が足を止めた。
都の中心に、ひときわ大きな建物がある。
豪華ではなかった。
金も宝石もない。太い柱と高い床、幾重にも垂らされた布。けれど、周囲のどの建物より古く、どの建物より静かだった。
「この先が、女王の間です」
兵士が告げる。
美耶の手が震えた。
「美耶」
「大丈夫です」
すぐに返ってきた言葉だった。
悠斗は握った手に力を込める。
「大丈夫じゃなくても、一緒に行く」
美耶は目を伏せた。
ほんの少しだけ、泣きそうに笑った。
「はい」
兵士が二人を見た。
陽巫女が、見知らぬ少年と手をつないでいる。
咎められるかもしれない。
美耶は自分から手を離した。
けれど、離れる直前、指先で一度だけ悠斗の手を握った。
ここからは、四代目陽巫女として歩くのだ。
悠斗は、その背中を追った。
* 2 *
女王の間は、暗かった。
火がないわけではない。
壁際の器では青白い炎が揺れている。だが、その光は床へ落ちず、柱にも影を作らない。ただ炎だけが、そこに浮かんでいた。
足を踏み入れた瞬間、悠斗の耳から外の音が消えた。
民の声も、土を踏む足音も、風もない。
自分の心臓だけが、ひどく大きく聞こえる。
奥に、一人の女がいた。
玉座らしいものはない。
女は段差の上へ直接座り、片膝を立てて頬杖をついていた。
長い黒髪。白い肌。古代の衣に似た布をまとっているのに、どの時代にも属していないように見える。
美しい。
そう思った直後、悠斗の体がそれを否定した。
整いすぎている。
呼吸をしているのか分からない。瞬きをする間隔も、人間のものではない。若い女に見えるのに、その目だけが、山や川より長い時間を知っていた。
女の視線が、美耶へ向く。
「戻ったか、陽巫女」
声は大きくなかった。
それでも、部屋そのものが喋ったように響いた。
美耶が膝をつく。
「ヤーマ様」
悠斗たちも兵士に促され、膝をついた。
九条だけが一瞬遅れた。
加賀見が彼の腕へ触れ、ようやく同じ姿勢になる。
ヤーマは美耶を見ている。
帰還を喜んでいるようには見えない。
怒っているとも違う。
長く放置していた道具が、知らない物をいくつも引き連れて戻ってきた。そんな目だった。
「我の結界を外から叩いたのは、貴様か」
「はい」
「天岩戸から戻ることもできず、外を走り回り、あげく陽の者を五人も連れ込んだ」
美耶の肩が揺れる。
「申し訳、ございません」
「詫びを聞きたいのではない」
ヤーマが指先を動かした。
ただ、それだけだった。
美耶の声が消えた。
口は動いている。息もしている。けれど音だけが、どこにも届かない。
悠斗は立ち上がりかけた。
見えない重さが肩へ乗り、膝が床へ押し戻される。
「美耶に何を――」
自分の声は出た。
ヤーマの目が悠斗へ移る。
その瞬間、全身から熱が消えた。
結界の外で化け物に追われた時より怖い。
あれは、襲ってくるものだった。
目の前の女は、襲う必要すらない。
「妙な者だ」
ヤーマが言った。
「陽巫女の前へ出るか」
「前じゃない」
喉が震えた。
「隣にいる」
玲奈が息を呑む気配がした。
宗一郎も、何か言おうとして止まった。
ヤーマは悠斗を見つめた。
怒るでもなく、笑うでもなく。
やがて、ほんのわずかに口元を動かした。
「人は、短い時を大げさに生きる」
肩の重さが消えた。
同時に、美耶の声が戻る。
「悠斗!」
美耶が振り返る。
「大丈夫」
そう答えたが、手の震えは止まらなかった。
ヤーマの視線は、もう悠斗を離れていた。
玲奈。
宗一郎。
加賀見。
九条。
一人ずつではない。
皮膚や服の向こうまで、まとめて見られているようだった。
「陽の世界の者か」
「はい」
美耶が答える。
「この方々に助けていただき、私は帰る道を――」
「助けた?」
ヤーマの目が、また悠斗へ向いた。
「陽巫女が、陽の者に」
声には、薄い嘲りがあった。
「壱与の時から、陽巫女は余計なものを拾う」
壱与。
その名が落ちた瞬間、部屋の緊張が形を変えた。
悠斗は知っている。
初代陽巫女。イーラに想われ、ヤーマの嫉妬の中心に置かれ、陽の世界で殺された少女。
宗一郎の顔が強張った。
玲奈の手が、わずかに動く。
美耶は俯かなかった。
「悠斗は、余計なものではありません」
静かな声だった。
だが、女王の間の誰より、はっきり聞こえた。
* 3 *
ヤーマが頬杖を解いた。
青白い炎が、初めて揺れた。
「我に言い返すか、四代目」
美耶の背中は震えている。
それでも、頭を下げなかった。
「無礼を、お許しください。ですが、悠斗は、私が陽の世界で生きることを助けてくださいました」
「生きる」
ヤーマは、その言葉の意味を確かめるように繰り返した。
「短い命を、少し先へ延ばすことに、よくそれほど意味を見いだせるものだ」
美耶が息を詰める。
悠斗は、ヤーマの言葉の奥にあるものへ触れそうになった。
だが、分からない。
この女王が何を失い、何を諦め、なぜ国をここへ閉じ込めたのか。
今、分かったつもりになってはいけない。
「意味は、あります」
悠斗は言った。
「短くても、生きてる間に会える人がいる。帰りたい場所もできる。だから――」
「悠斗」
美耶が、かすかに首を振った。
止めたいのではない。
先を言わせたくないように見えた。
帰りたい場所。
美耶には二つある。
邪馬台国と、白峰家。
その二つが同じ世界にないことを、二人とも知っている。
ヤーマは、その沈黙まで見抜いたようだった。
「面白い」
声には、喜びがなかった。
「陽の世界は、陽巫女へ未練を教えたか」
美耶は胸元の天岩戸八咫鏡へ手を添えた。
「ヤーマ様。陽の世界で、界裂草薙剣を見つけました」
ヤーマの目が、ほんのわずかに細められる。
「その名を、誰から聞いた」
「イーラ様が、陽巫女へ残された教えです。邪馬台国を戻すために必要な剣だと」
女王の間から、音が消えた。
美耶は続ける。
「ですが、門が開いた時に見失いました。今、どこにあるのかは分かりません」
ヤーマは鏡も、美耶も見なかった。
「また、イーラか」
吐き捨てた声に、初めて明確な苛立ちが混じった。
九条が顔を上げる。
剣という言葉へ反応したのだ。
玲奈がすぐに彼を見る。
加賀見も小さく首を振った。
九条は口を開かなかった。
だが、その目はヤーマではなく、胸元の鏡と、部屋の青い炎と、見えない力が働いた空間を順に追っている。
この場所でも、まだ数えている。
悠斗は拳を握った。
ヤーマが九条を見る。
「貴様」
たった二文字で、九条の視線が止まった。
「はい」
「何を見ている」
九条は一拍だけ黙った。
「この国を」
「違う」
ヤーマは即座に切り捨てた。
「貴様は、己の欲を見ている」
九条の顔から、初めて余裕が消えた。
ヤーマは興味を失ったように目を逸らす。
それ以上は言わない。
九条も、交渉を始めなかった。
この女王の前で、自分がどちら側にいるのかを測りかねている。
人間同士なら通じる肩書きも、組織も、脅しも、ここではまだ何の形も持たない。
美耶が両手を床についた。
「ヤーマ様」
声が震えている。
それでも、逃げなかった。
「私は、邪馬台国を陽の世界へ戻すために参りました」
都で家族の無事を聞いた時より、強い声だった。
「まだ、すべては揃っておりません。正しい道も、私は知りません」
美耶は一度、息を吸う。
「ですが、諦めたくありません。この国を、この空の下で終わらせたくありません」
ヤーマの目が、美耶を映す。
初めて、道具ではなく一人の人間を見るように。
「誰に命じられた」
「え」
「国を戻せと、誰に命じられた」
美耶の喉が動く。
「イーラ様が、陽巫女へ残された使命です」
「では、貴様の望みではないのか」
問いが、美耶の胸を貫いた。
悠斗は口を挟まなかった。
これは、美耶が答えなければならない。
美耶は長く黙った。
女王の間の外で、遠く人の声がした気がした。
この国で生きる家族。待ち続けた祖母。陽の世界でできた家族。悠斗。
「私の、望みです」
美耶は顔を上げた。
「誰かに命じられたからではありません。私は、この国を救いたい。ここにいる皆と、陽の世界で出会った皆を、どちらも失いたくありません」
「両方を望むか」
「はい」
「欲深いな、陽巫女」
ヤーマは、今度こそ笑った。
冷たい笑みだった。
けれど、その奥に一瞬だけ、別の色が浮かんだ。
怒りか。
羨望か。
それとも、とうに捨てたものを見た者の痛みか。
悠斗には分からなかった。
* 4 *
空気が変わった。
風は吹いていない。
青白い炎も揺れていない。
それなのに、部屋の広さが変わったように感じた。
見えている柱も、床も、ヤーマも同じ場所にある。
ただ、今まで人間には触れられなかった何かが、こちらを向いた。
ヤーマの笑みが消える。
「来たか」
女王の間の中央に、男がいた。
扉は開いていない。
足音もしなかった。
光の中から現れたのでも、影から出てきたのでもない。
最初からそこにいたものが、今ようやく人の目に見える形を取った。
そうとしか思えなかった。
長い髪。静かな目。人の姿をしているのに、ヤーマと同じように、その輪郭の内側へ途方もない時間が沈んでいる。
美耶の顔が強張った。
「イーラ様……」
男――イーラは、美耶ではなくヤーマを見る。
「ヤーマ」
低い声が響いた。
「その陽巫女を責めるな」
ヤーマが目を細める。
イーラは静かに続けた。
「これは、我が残した道だ」
邪馬台国を消した女王と、帰る道を残した男。
二人の間で、灰色の世界が息を止めた。




