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邪馬台国演義 消えた国と時空の夏  作者: 深蒼 理斗


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第31話 結界の外

 草の海が裂けた。


 灰色の空の下、黒い影が跳ぶ。


 それは獣のようで、獣ではなかった。前脚に見えたものが途中で人の腕のように曲がり、背中から角のようなものが伸びている。顔はある。だが、目の位置も、口の位置も、見ているうちに少しずつずれていく。


 見てはいけないものを見ている。


 悠斗の体は、そう理解していた。


「走れ!」


 叫んだのが自分だと気づくより先に、悠斗は美耶の手を引いていた。


「はい!」


 美耶の返事は震えていた。けれど、足は止まらない。


 背後で玲奈が短い護身具を振るった。金属が空気を裂く音がする。影の前脚が弾かれ、黒い草の上をぬるりと滑った。


「御影先生、こちらへ!」


「分かっとる! 年寄り扱いするなと言いたいところじゃが、今だけは年寄り扱いしてくれて構わん!」


 宗一郎が鞄を抱えたまま走る。その息は荒い。だが、目だけは異様に冴えていた。恐怖だけではない。四十年追い続けたものの内側へ、本当に踏み込んでしまった人間の目だった。


 加賀見が九条の肩を支えようとした。


「局長、退避を」


「分かっている」


 九条は走っていた。


 だが、逃げている者の顔ではなかった。未知の危険から身を守るためではなく、未知の現象を少しでも多く見ようとしている顔だった。


「形状が一定しない。輪郭が安定していない。生物か、現象か」


「今は分類している場合ではありません!」


 玲奈が怒鳴る。


 草の海がまた揺れた。


 一体ではない。


 二体、三体。もっといる。


 黒い草の下から、影が湧き上がってくる。足音はしない。代わりに、濡れた布を引きずるような音が、右からも左からも近づいていた。


 悠斗は美耶の手を握り直した。


 汗で滑る。怖くて、指に力が入りすぎる。


「痛くない?」


「大丈夫です」


 美耶は前を見たまま答えた。


「それより、離さないでください」


「うん」


 答えた瞬間、胸の奥で何かが決まった。


 戦えるわけではない。玲奈のように護身具を扱えるわけでも、加賀見のように訓練を受けているわけでもない。宗一郎のような知識も、九条のような冷静さもない。


 それでも、手を離さないことだけはできる。


 怖いまま、走ることだけはできる。


      * 1 *


「美耶さん、方向は分かりますか」


 玲奈が後ろを警戒しながら聞いた。


 美耶は息を切らし、胸元を押さえる。天岩戸八咫鏡が、衣の下でかすかに熱を持っているようだった。


「……完全には。でも、こちらではありません」


「どちらでもない、では困る」


 加賀見が硬い声で言う。


 美耶は一瞬だけそちらを見た。


 その目には恐怖があった。けれど、怯えだけではなかった。


「分かっています」


 美耶は立ち止まりかける足を踏みしめ、胸元から鏡を取り出した。


 灰色の光を受けた鏡面は、現代で見た時よりも深く見えた。そこに空は映っていない。悠斗の顔も、美耶の顔も映らない。


 黒い水の底に、小さな白い筋が沈んでいる。


「結界の気配が、少しだけ」


「どっち?」


 悠斗が聞く。


 美耶は鏡を両手で持ち、ゆっくり向きを変えた。白い筋が、ふっと右へ寄る。


「あちらです」


「全員、右へ!」


 玲奈が即座に指示した。


 九条が口を開く。


「陽巫女の感覚か」


「今その言い方をするな」


 悠斗は反射的に言っていた。


 九条の視線が悠斗へ向く。


「事実を述べただけだ」


「美耶は道具じゃない」


「道具とは言っていない。だが、彼女がこの世界で最も有効な情報源であることは否定できない」


 悠斗の足が止まりかけた。


 怒りが、恐怖より先に喉まで上がる。


 その瞬間、美耶が手を引いた。


「悠斗」


 小さな声だった。


 でも、はっきり聞こえた。


「今は、行きましょう」


 悠斗は奥歯を噛んだ。


 美耶が止めたから、止まれた。


 九条へ言い返すより、美耶を結界の中へ連れていくほうが先だ。


「分かった」


 走る。


 右へ。


 黒い草が膝を打つ。草の葉は細く、刃物のように硬かった。ズボンの布が裂け、足に細い痛みが走る。美耶の衣も裾が引っかかる。悠斗は何度も振り返り、そのたびに美耶の手がまだ自分の手の中にあることを確かめた。


「白峰くん、前!」


 宗一郎の叫び。


 前方の草が盛り上がった。


 影が、地面から起き上がるように現れる。


 悠斗は足を止めた。


 止まったら、後ろから来る。


 でも、前にもいる。


 体が一瞬、固まる。


 玲奈が前に出ようとした。だが、後方の影も距離を詰めている。護身具一本で全員を守れる状況ではなかった。


「伏せろ!」


 加賀見の声が飛んだ。


 悠斗は美耶を抱えるようにして身を低くした。


 乾いた破裂音。


 加賀見の拳銃が火を噴いた。


 影の肩らしき場所が弾ける。黒い霧が散った。


 しかし、影は倒れない。


 裂けた部分が、すぐに別の形でつながっていく。


「効きが浅い」


 加賀見が息を呑む。


「生物なら痛覚か運動阻害が出るはずだが」


「だから分類している場合じゃないと言ったでしょう!」


 玲奈が前へ飛び込み、影の脚を打った。今度は影がぐらりと崩れる。完全に倒れたわけではないが、道が一瞬だけ開く。


「行って!」


 悠斗は美耶を引いた。


 宗一郎が続く。加賀見が九条を押すように走らせる。九条は撃たれた影を見ながら、なおも目を細めていた。


「物理干渉は一定条件下で成立する」


「局長!」


「分かっている。走る」


 その声が、悠斗にはひどく遠く聞こえた。


 ここはもう現代ではない。


 警察も、道路も、スマホも、逃げ込める建物もない。


 常識が役に立たない場所で、九条だけがまだ、常識の延長で世界を測ろうとしていた。


      * 2 *


 走り続けるうちに、空気が変わった。


 最初に気づいたのは美耶だった。


「近いです」


「結界か」


「はい。けれど……」


 美耶の声が曇る。


「いつもの結界と違います。外から見ると、こんなに弱く見えるなんて」


 悠斗には何も見えなかった。


 草原が続いているだけだ。遠くに黒い森があり、その向こうに山影がある。空は相変わらず灰色で、太陽はない。


 だが、美耶は確かに何かを見ていた。


 美耶の目は、空気の奥を探っている。


「どこにあるの」


「あそこです」


 美耶が指差した。


 何もない。


 そう思った直後、悠斗の視界の端で、空気が揺れた。


 水面に細い石を投げたような揺れだった。横へ、縦へ、波紋が走り、すぐに消える。


「見えた」


 悠斗は思わず言った。


 美耶が頷く。


「あれが、結界の端です」


 宗一郎が息を切らしながら、眼鏡を押し上げた。


「見えたのか、白峰くん」


「一瞬だけです」


「なるほどのう。陽の世界の者でも、近すぎる裂け目を通ってきた影響で感覚が引っ張られておるのかもしれん」


「分析はあとにしてください」


 玲奈が言った。だが、その声にも少しだけ希望が混じっていた。


 結界がある。


 なら、逃げ込めるかもしれない。


 そう思った時だった。


 背後の影たちが、同時に鳴いた。


 空気が震える。


 声ではない。音でもない。腹の底を直接掴まれるような振動だった。


 美耶がふらつく。


「美耶!」


「大丈夫、です」


 大丈夫ではない。


 顔色が悪い。鏡を持つ手が震えている。


 それでも、美耶は前を向いた。


「結界は、勝手には開きません。内側のものを守るためのものだから、外から入るには、私が……」


「無理するな」


「無理ではありません」


 美耶は首を振った。


「ここまで来たのは、私だけではありません。悠斗も、玲奈さんも、宗一郎様も……」


 美耶は一度、加賀見を見た。


 そして、九条を見た。


 九条の顔にあるものは、恐怖よりも欲だった。


 それでも美耶は言った。


「今は、全員がここから入らなければなりません」


 悠斗は息を呑んだ。


 敵だった人間まで。


 美耶はそう言っている。


 甘いのではない。


 多分、美耶は分かっている。九条を結界の中へ入れれば危険が増える。邪馬台国へ、天叢機関の欲望を連れていくことになる。


 それでも、ここで見捨てれば、同じ場所へ落ちた人間を妖しきものの餌にすることになる。


 美耶は、それを選ばない。


「美耶さん」


 玲奈が低く言う。


「九条を入れる危険は、私が負います。中へ入った後、必ず拘束します」


「お願いします」


 美耶は短く答えた。


 九条が笑う。


「拘束か。まだそのつもりでいるのか」


「当然です」


「この世界で、現代の権限が通じるとでも?」


「権限ではありません」


 玲奈は護身具を構え直した。


「あなたを自由にしておくと、美耶さんが危ない。理由はそれで十分です」


 九条の表情がわずかに冷える。


 その横で、加賀見が唇を結んだ。命令に従う顔と、目の前の現実を見ている顔。その二つが、彼の中でぶつかっていた。


      * 3 *


 美耶が鏡を掲げた。


「ヤーマ様」


 その名が出た瞬間、空気が少し重くなった気がした。


 影たちが近づいてくる。黒い草が押し倒され、濡れた音が迫る。


 美耶は逃げなかった。


「四代目陽巫女、美耶です」


 声は震えていた。


 でも、届かせようとしていた。


「外より戻りました。どうか、道を」


 鏡面に白い筋が走った。


 細い。


 頼りない。


 今にも切れそうな光だった。


 結界の端が、ほんのわずかに開く。空気に縦の裂け目ができたように見えた。向こう側に、別の色がある。


 黒ではない。


 灰でもない。


 土の色と、木の色と、遠い火の色。


「開いた!」


 宗一郎が叫ぶ。


「全員、入って!」


 玲奈が宗一郎を押し込むように走らせた。


 宗一郎が裂け目を越えた。姿が一瞬歪み、次の瞬間、向こう側へ出る。


 玲奈が続く。


 加賀見は九条を見る。


「局長」


「先に行け」


「できません」


「命令だ」


 加賀見の顔が歪んだ。


 ほんの一瞬、悠斗には見えた。


 加賀見は九条を守ろうとしている。けれど、それは忠誠だけではない。九条をここで自由にさせたままにしてはいけない、という現場の判断も混じっている。


「失礼します」


 加賀見は九条の腕を掴み、強引に引いた。


 九条の眉が動く。


「加賀見」


「撤退優先です」


 二人が裂け目へ向かう。


 その横から、影が跳んだ。


 悠斗の体が動いていた。


 美耶の手を片手で握ったまま、足元の黒い石を拾う。石と呼べるのかも分からない。冷たく、妙に軽かった。


 それを影の顔らしき場所へ投げつける。


 当たった。


 硬い音はしない。石は影の中へ沈み、黒い霧が飛び散る。


 足止めにもならないかもしれない。


 だが、影の動きが一瞬だけ乱れた。


「今!」


 悠斗が叫ぶ。


 加賀見が九条を引きずるように裂け目を越えた。


 残ったのは悠斗と美耶。


 影が近い。


 美耶は鏡を掲げたまま、息を荒げている。開いた道を保つために、全身を使っているようだった。


「美耶、行こう」


「はい」


 悠斗は美耶の手を引いた。


 その直前、背後から黒いものが伸びる。


 腕か、舌か、草か。


 分からない。


 ただ、美耶の足首へ絡みつこうとしていた。


 悠斗は振り返り、美耶を自分のほうへ引き寄せた。


 黒いものが服の袖をかすめる。


 冷たい。


 皮膚の奥を直接撫でられたような寒さが走った。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 それでも、手は離さなかった。


「行くよ!」


 悠斗と美耶は、同時に結界の裂け目へ飛び込んだ。


 世界が裏返る。


 音が消えた。


 灰色の空も、黒い草も、影の声も遠ざかる。


 次に足が地面へ触れた時、匂いが変わっていた。


 土の匂い。


 薪の匂い。


 水の匂い。


 そして、人が暮らしている場所の匂い。


      * 4 *


 悠斗は膝をついた。


 息ができない。


 肺が焼ける。足が震える。袖に触れた寒さが、まだ腕の奥に残っている。


「悠斗」


 美耶が隣に膝をついた。


「怪我は」


「大丈夫。美耶は」


「私も、大丈夫です」


 大丈夫という声は、今にも崩れそうだった。


 それでも、美耶は笑おうとした。


 悠斗はその顔を見て、初めて自分がまだ美耶の手を握っていることに気づいた。


 美耶も気づいたのだろう。


 けれど、離さなかった。


 周囲に目を向ける。


 そこは、草原ではなかった。


 土を踏み固めた道があり、低い柵があり、遠くに木造の建物が見える。屋根は現代の家とは違う。古い資料で見た弥生の建物に似ているが、どこか違う。もっと長く、人が暮らしながら形を変えてきた場所だった。


 空は灰色のままだ。


 しかし、結界の外より明るい。


 見上げると、薄い膜のようなものが空全体を覆っていた。空そのものではなく、空の手前に透明な屋根があるような感覚。


「ここが……」


 宗一郎が立ち尽くしていた。


 声が震えている。


「邪馬台国」


 美耶は静かに頷いた。


「はい」


 その一言で、宗一郎の顔が歪んだ。


 四十年。


 彼は、この国を追ってきた。


 消えた国を、狂人扱いされながら、誰にも信じてもらえなくても追い続けてきた。


 その国が、今、目の前にある。


「本当に……あったんじゃな」


 宗一郎の声は、笑っているのか泣いているのか分からなかった。


 玲奈はすぐに周囲を確認していた。


「全員、生存確認。白峰さん、美耶さん、御影先生、加賀見迅也、九条景臣」


「私は囚人扱いか」


 九条が土を払って立ち上がる。


 玲奈は迷わず護身具を向けた。


「少なくとも、自由行動は認めません」


 加賀見が一歩前に出る。


「局長への攻撃は」


「攻撃ではありません。制止です」


「こちらも、局長の安全確保を優先する」


 二人の間に、また緊張が戻る。


 だが、今度はそこへ美耶の声が入った。


「ここで争わないでください」


 全員が美耶を見た。


 美耶は立ち上がっていた。


 結界を開いた疲労で顔色は白い。鏡を持つ手も震えている。


 それでも、その背筋はまっすぐだった。


「ここは、ヤーマ様の結界の内側です。外のものは簡単には入れません。でも、安心できる場所ではありません」


「なぜですか」


 玲奈が問う。


 美耶は遠くの空を見た。


 透明な膜の向こうで、灰色の雲のようなものがゆっくり流れている。


「結界が、弱くなっています」


 その言葉が落ちた瞬間、悠斗は冷たいものを感じた。


 外の影から逃げ込めた。


 けれど、逃げ込んだ先も安全ではない。


「美耶様!」


 声がした。


 道の向こうから、人が走ってくる。


 槍のようなものを持った男たち。布を重ねた衣。額に巻いた紐。現代のどこにもいない姿なのに、美耶の顔がその声で変わった。


 帰ってきた者の顔になった。


 だが、男たちは近づくにつれ、表情を硬くした。


 美耶の後ろにいる悠斗たちを見たからだ。


 現代の服を着た少年。


 スーツ姿の玲奈と加賀見。


 年老いた宗一郎。


 そして、九条。


 槍の穂先が、一斉に上がる。


「美耶様、その者たちは」


 美耶は一歩前に出た。


「陽の世界から共に来た方々です」


「陽の世界から……六人も?」


 男たちの間にざわめきが広がる。


 美耶は頷いた。


「事情があります。女王の間へ通してください」


 男たちの顔が、さらに険しくなる。


「ヤーマ様へ、ですか」


「はい」


 美耶の声は小さかった。


 けれど、逃げなかった。


「私は、戻りました」


 胸元の鏡が、かすかに光る。


 それは誇らしさの光ではなかった。帰還の喜びだけでもなかった。


 重い使命が、また美耶の肩に乗る音のようだった。


 悠斗はその横に立った。


 何も言わない。


 ただ、隣に立つ。


 男たちはしばらく迷っていたが、やがて一人が深く頭を下げた。


「……承知しました。ですが、武器を持つ者、素性の知れぬ者は監視下に置きます」


 玲奈が頷く。


「妥当です」


 九条が小さく笑った。


「歓迎とはいかないか」


 悠斗はその笑いを聞きながら、奥歯を噛んだ。


 この人を、ここへ連れてきてしまった。


 邪馬台国へ。


 美耶が守りたかった国へ。


 だが、もう戻せない。


 なら、ここで止めるしかない。


 道の向こうに、集落の灯が見える。


 その奥に、ひときわ高い建物の影があった。


 美耶が小さく息を吸う。


「悠斗」


「うん」


「この先に、ヤーマ様がいらっしゃいます」


 悠斗は頷いた。


 灰色の空の下、結界の内側の国が静かに息をしている。


 消えたはずの国。


 美耶が帰りたかった場所。


 そして、まだ何も終わっていない場所。


 悠斗は美耶の隣で、邪馬台国の奥へ向かって歩き出した。


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