第30話 陽の門
出雲の朝は、何も知らない顔で明るかった。
駅前には観光客の姿があり、コンビニの自動ドアはいつも通り開き、道路を走る車の音も途切れない。昨日と同じ町。同じ信号。同じ空。
それなのに、悠斗には、地面の下で巨大なものが息をしているように思えた。
見えない。聞こえない。けれど、そこにある。
昨日、美耶と一緒に見た世界の傷。
あの暗い空と、冷たい風が、まだ胸の奥に残っている。
神代古代文化財団が用意した一時拠点の会議室には、荷物がほとんど残っていなかった。
机の上に広げられているのは、出雲大社周辺の地図、昨夜の観測値、玲奈が書き込んだ手書きの線。宗一郎は古い写しを鞄に収め、玲奈は端末の画面を確認していた。
美耶は窓のそばに立っている。
胸元には天岩戸八咫鏡がある。布越しでも、そこにあることが分かった。昨日からずっと、鏡は眠っていない。
悠斗が近づくと、美耶は振り返り、何も言わずに手を差し出した。
昨夜、二人は怖さも、九条を止めるために一緒に進むことも言葉にした。朝が来たからといって、もう一度決め直す必要はなかった。
悠斗は、痛めていない方の手で握り返した。
「白峰さん、美耶さん」
玲奈が端末から顔を上げた。その声には疲労が混じっていたが、迷いはなかった。
「天叢機関の移動が始まりました。地下保管区画から出たと思われる移送車両が、昨夜の反応地点へ向かっています」
「九条か」
「はい。界裂草薙剣を、もう一度裂け目へ近づけるつもりです」
玲奈は四人を見渡した。
「こちらは正確な起動条件を知りません。目的は門の開放阻止。失敗した場合は人命を最優先し、九条景臣と剣の確保はその次です。美耶さんを前に出す作戦にはしません」
美耶は胸元の鏡を押さえた。
「分かっています。連れて行かれるのではなく、止めるために行きます」
「俺も、そのために行きます」
悠斗が続けると、宗一郎は資料鞄を持ち上げた。
「では、ここで話し直しておる時間はないのう」
玲奈が頷いた。
「出ます」
窓の外で、空が白く光った。
朝日とは違う。
もっと冷たく、もっと鋭い光だった。
* 1 *
反応地点へ向かう道は、すでに封鎖されていた。
表向きの理由は、文化財保全のための緊急調査。観光客は遠巻きに案内され、作業員姿の男たちが機材を運んでいる。
けれど、悠斗たちには分かった。
あれは作業員ではない。天叢機関の人間だ。
玲奈は迂回路を選んだ。
観光地の道から外れ、木立の陰へ入る。足元の土が湿っている。昨日、美耶が見ていた木立だ。そこだけ、空気の色が違って見える。
悠斗は一歩進むたびに、胸の奥が圧迫されるような感覚を覚えた。
この先にある。
世界が、裂けかけている場所が。
「止まってください」
玲奈が手を上げた。
前方、低い仮設フェンスの向こうに黒い車両が並んでいる。その中央に、金属製の箱のような装置があった。
箱は割れていた。
亀裂の内側から、光ではなく影が漏れている。
悠斗はそれを見た瞬間、喉の奥が乾いた。
「あれが……」
「界裂草薙剣です」
美耶が言った。
声が震えていた。
名前を知っているからではない。感じているのだ。鏡が、胸元で小さく鳴っている。
仮設指揮所の前に、九条景臣が立っていた。
隣には加賀見がいる。昨日までより顔色が悪い。彼は端末を握り、何度も数値を確認していた。
「局長、反応値が上限を超えています」
「記録しろ」
「記録では済みません。封印容器の外壁が保ちません」
「ならば、容器の役目は終わったということだ」
九条の声は、こちらまで届いた。
風がないのに、声だけが木立を抜けてくる。
「局長。これは、開門ではなく破裂です」
「言葉を選ぶ余裕があるなら、観測を続けろ」
「制御不能になります」
「制御する必要はない」
九条は、亀裂の入った容器へ手を伸ばした。
「開けばいい」
その瞬間、地面が鳴った。
音ではなかった。足の裏から骨へ、骨から頭の奥へ、何かが直接ぶつかってくる。
美耶が苦しげに胸を押さえた。
「美耶!」
悠斗が支えると、美耶は倒れなかった。倒れそうになりながら、自分の足で踏みとどまった。
「大丈夫です。まだ、立てます」
「無理するな」
「無理ではありません。選んでいます」
その言葉のすぐ後、鏡が鳴った。
澄んだ音ではなかった。古い扉の向こうから、長い間閉じ込められていた光が爪を立てるような音。
空が歪んだ。
木立の向こうに、細い白い線が現れる。
昨日は一瞬だけ見えた傷。
それが今、開こうとしていた。
「九条!」
玲奈が飛び出した。
隠れる意味はもうなかった。
宗一郎が続き、悠斗は美耶の手を握って走った。
天叢機関の男たちが気づき、銃ではない装備を構える。だが、その動きは遅れた。足元が揺れ、空気が粘り、誰も普段の速度で動けない。
九条は振り返った。
悠斗たちを見ても、驚かなかった。
むしろ、待っていたように口元を緩めた。
「来たか」
「やめなさい、九条景臣!」
玲奈が叫ぶ。
九条は容器のそばに立ったまま、悠斗ではなく美耶を見た。
「必要なものがそろった」
悠斗の中で、何かが熱くなった。
「美耶をものみたいに言うな!」
「ものではない。条件だ」
「同じだろ!」
九条は答えなかった。
美耶が、悠斗の手を握り返す。
そして、一歩前へ出た。
「私は、あなたの条件ではありません」
九条の眉が、わずかに動いた。
「私の意思で、ここに来ました。あなたに使われるためではありません。あなたを止めるためです」
「意思は尊い。だが、世界は意思だけでは動かない」
「だからこそ、人を踏みにじってはいけないのです」
鏡の音が大きくなる。
容器の亀裂が広がり、内側から黒い波があふれた。剣の形が一瞬だけ見える。刃ではなく、裂け目そのものを固めたような影。
それが空の白い線へ引かれていく。
加賀見が叫んだ。
「局長、下がってください!」
九条は下がらない。
その目は、門の向こうだけを見ていた。
加賀見が九条の腕を掴む。玲奈が宗一郎を引き寄せる。悠斗は美耶を抱き寄せるように手を伸ばした。
そのすべてが、遅かった。
白い線が、開いた。
* 2 *
世界に、門が生まれた。
形は鳥居に似ていた。
けれど、木でも石でもない。光と影と、割れた空気でできている。
門の向こうには、空があった。
青くない。
昼でも夜でもない。
灰色の光の下に、草原のようなものが見えた。
悠斗は、それを見た瞬間、帰れない場所だと思った。
「離れてください!」
玲奈が叫ぶ。
だが、足元が動かなかった。
地面が悠斗たちを吸い寄せているのではない。空間そのものが、門へ向かって畳まれていく。
木立が曲がる。フェンスが音もなく歪む。天叢機関の装置が床ごと傾く。
人間の体だけが、その中で小さすぎた。
「美耶!」
「離さないでください!」
美耶の声が、風に千切れそうになる。
悠斗は両手でその手を握った。
「離さない!」
宗一郎がよろめいた。
玲奈が腕を掴む。
加賀見は九条を引き戻そうとしていた。九条はまだ門を見ている。狂気というより、長く探した答えの前で、それ以外が見えなくなった人間の顔だった。
容器が砕けた。
界裂草薙剣が浮き上がる。
黒い影の刃は門へ吸われかけ、次の瞬間、逆巻く波にさらわれた。
どこへ消えたのか、悠斗には分からなかった。
剣を追う余裕はなかった。
門が、六人をまとめて呑み込んだからだ。
音が消えた。
重さも消えた。
上下がなくなり、時間の流れさえ千切れた。
悠斗は美耶の手だけを感じていた。
それ以外のすべてが、白く、黒く、遠ざかっていく。
自分はまた、何もできないのか。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
教室で黙っていた一年。
部屋から出られなかった日々。
選ばないまま時間だけが止まっていた夏。
その全部が、門の中で悠斗を引き戻そうとした。
でも、今は手の中に温度があった。
美耶がいる。
怖がりながら、自分で選んで進んだ少女がいる。
悠斗は歯を食いしばった。
止まるな。
今だけは、止まるな。
視界が割れた。
次に息を吸った時、悠斗は土の上に倒れていた。
* 3 *
空が、低かった。
まず、そう思った。
雲ではない。空そのものが地面に近い。光はあるのに、太陽が見えない。世界全体が薄い灰の布をかぶっているようだった。
「っ……」
悠斗は起き上がろうとして、腕に痛みが走った。
昨日痛めたところだ。けれど、動く。折れてはいない。
すぐに手元を見た。
美耶の手が、まだそこにあった。
「美耶」
呼ぶと、美耶が目を開けた。
顔色は悪い。けれど、意識はある。
「悠斗……」
「大丈夫?」
「はい。悠斗は」
「俺も大丈夫」
言ってから、悠斗は周囲を見回した。
草原だった。
ただし、現代のどこにもない草原だ。草は青くない。黒に近い緑で、風が吹くたびに、裏側から銀色の光がのぞく。遠くには山影があり、その稜線は見慣れた日本の山よりも鋭い。
空気は冷たい。
なのに、腐葉土のような甘く重い匂いがする。
「ここが……陰の世界」
悠斗の声は、自分でも驚くほど小さかった。
少し離れた場所で、玲奈が宗一郎を起こしていた。
「御影先生、聞こえますか」
「聞こえとる。年寄りをそう揺するな」
「意識確認です」
「生きとるわい。たぶん、歴史上いちばん奇妙な転倒をした考古学者としてな」
宗一郎の冗談は弱かったが、それでも生きている証拠だった。
さらに向こうで、加賀見が膝をついている。九条は立っていた。
立って、空を見ていた。
「通信不能。測位不能。外部信号なし」
加賀見が端末を叩きながら言った。
「局長、ここは現代ではありません」
「見れば分かる」
「帰還手段も未確認です。剣も見当たりません」
「探せばいい」
九条の声には、焦りがなかった。
悠斗はそのことに、ぞっとした。
この人は、失敗したと思っていない。
自分たちを巻き込み、剣を失い、どこかも分からない世界へ落ちても、まだ先へ進む材料が増えたくらいにしか考えていない。
玲奈が立ち上がり、九条との間に身を入れた。
「九条景臣。あなたを拘束します」
「装備も通信も失った状態でか」
「少なくとも、これ以上美耶さんへ近づけさせません」
「優先順位を誤っている。ここがどこかを知るには、彼女が必要だ」
「必要、という言い方をやめなさい」
玲奈の声は低かった。
加賀見が、二人の間で迷うように目を動かす。命令と現実の間に、初めて深い溝を見つけた顔だった。
美耶が、ゆっくり立ち上がった。
悠斗は支えようとしたが、美耶は首を横に振った。
自分で立つ。
そう言っているようだった。
「ここは、邪馬台国ではありません」
美耶の声に、全員が振り返る。
「分かるのか」
宗一郎が聞いた。
美耶は頷いた。
「空気が違います。国の内側なら、もっと静かで、守られている感じがします。ここは……外です」
「外?」
「ヤーマ様の結界の外です」
その言葉が、草原の冷たい風に混ざった。
悠斗は背筋が寒くなるのを感じた。
「結界の外だと、どうなる」
玲奈が問う。
美耶は唇を結んだ。
「長くいてはいけません。ここには、人だけがいるのではありません」
その瞬間、遠くで何かが鳴いた。
獣の声に似ていた。
けれど、獣ではない。
喉が一つでは足りないような、低い音と高い音が重なった声。
草が、ざわりと揺れた。
悠斗は美耶の前に立った。
玲奈が短い棒状の護身具を構える。宗一郎は鞄を抱え、加賀見は反射的に九条を背にかばった。
九条だけが、目を細めていた。
「観測対象が増えたな」
玲奈が鋭く振り向く。
「黙りなさい」
草原の向こうで、影が動いた。
人の形ではない。
四つ足にも見え、二本足にも見えた。角のようなものがあり、顔の位置が定まらない。黒い体の輪郭が、空気の中で揺れている。
一つではない。
二つ、三つ。
もっといる。
美耶が小さく息を吸った。
「鬼……いえ、妖しきものです。ここにいては、襲われます」
悠斗は震える手を握りしめた。
怖い。
当然だ。こんなものを前にして怖くないはずがない。
けれど、足は下がらなかった。
隣に美耶がいる。
背後には玲奈と宗一郎がいる。
敵であるはずの九条と加賀見さえ、同じ世界に落ちた人間としてそこにいる。
草の海が割れた。
影が、こちらへ向かってくる。
悠斗は美耶の手を取った。
「走れる?」
「はい」
「じゃあ、絶対に離れないで」
美耶は、怖さを隠さない顔で頷いた。
「離しません」
灰色の空の下、最初の影が跳んだ。
悠斗は美耶の手を握ったまま、結界の見えない内側を目指して走り出した。




