第29話 裂け目
朝になっても、出雲の空は重かった。
雨が降っているわけではない。雲が低いわけでもない。窓の向こうには観光地らしい朝の光があり、遠くではバスのエンジン音も聞こえている。
それでも悠斗には、夜がまだどこかに残っているように思えた。
左腕には包帯が巻かれている。骨に異常はない、と医師は言った。けれど、掴まれた場所は熱を持ち、少し動かすだけで鈍い痛みが走る。
その痛みよりも、悠斗の胸に残っているものの方が重かった。
美耶が、自分を差し出そうとした瞬間。
美耶の瞳から、自分というものが消えかけた瞬間。
あれを思い出すたび、悠斗は喉の奥が詰まる。
「痛みますか」
隣から、美耶が小さく尋ねた。
出雲市内の一時拠点。神代古代文化財団が用意した宿泊施設の一室で、玲奈は机に資料を広げ、宗一郎は古い写しの束を読み返している。
美耶は悠斗の斜め前に座っていた。昨日の夜、自分から手を取った時と同じように、すぐ手の届く距離にいる。
「大丈夫。昨日よりはまし」
「それは、本当ですか」
「半分くらい」
「半分は嘘なのですね」
美耶が眉を下げる。
悠斗は苦笑した。
「ばれた」
「ばれます」
短いやり取りだった。
けれど、昨日の夜より呼吸がしやすくなった。
美耶は鍵ではない。陽巫女という役目は消えない。それでも、美耶が美耶でなくなるわけではない。
それを、二人で確かめたばかりだった。
玲奈が地図の上に透明なシートを重ねた。
「昨日までの美耶さんの感覚、鏡の揺れ、周辺の地形、古い記録の欠落地点を重ねました」
赤い印がいくつも打たれている。
出雲大社の周辺。観光客が歩く道から少し外れた場所。神社そのものではなく、けれど無関係とも言えない距離。
「集まっておるな」
宗一郎が眼鏡を押し上げた。
「ええ。ただし、天叢機関が剣を置いていると思われる場所とは、少しずれています」
「ずれている?」
悠斗は地図を覗き込んだ。
玲奈は、赤い印の一つを指先で押さえる。
「剣そのものの保管場所ではなく、剣を使うべき場所。そう考える方が自然です」
「使うべき場所……」
悠斗の言葉を、宗一郎が引き取った。
「鍵は、鍵だけでは意味を持たん。鍵穴があって初めて、扉を開ける」
その言い方に、美耶が胸元の鏡へ手を添えた。
天岩戸八咫鏡。
美耶が現代へ来た時から、ずっと彼女の胸元にあるもの。
「草薙剣が、鍵」
悠斗は言った。
「それを使うべき場所が、鍵穴」
「仮説です」
玲奈はすぐに釘を刺した。
「ですが、界裂草薙剣が空間を裂く神器であるなら、何もない場所を無理に斬るのではなく、もともと世界に傷が残っている場所に触れると考える方が筋は通ります」
「世界の、傷」
美耶がその言葉を繰り返した。
声が少し震えている。
「美耶」
「大丈夫です」
美耶はすぐに答えた。
けれど、胸元の鏡に置いた指は離れない。
「怖いです。でも、怖いから見ない、ということはできません」
昨日の美耶なら、そこで「私が行きます」と言ったかもしれない。
今日の美耶は違った。
彼女は悠斗を見た。
「一緒に、確認してください」
悠斗はうなずいた。
「うん。一緒に行こう」
玲奈は二人を見て、ほんのわずかに目を伏せた。
「目的を整理します。今日やることは三つです。反応地点の確認。天叢機関が剣を移動させる兆候の確認。そして、危険と判断した場合の撤退」
「奪還は?」
宗一郎が尋ねる。
「可能なら考えます。ただし、最優先は美耶さんの安全です」
その言葉に、美耶が小さく息を呑んだ。
玲奈は迷わず続ける。
「昨日、私は決めました。八咫烏の使命のために、美耶さん本人の意思を後回しにはしません」
「玲奈さん……」
「そのうえで、止めなければならないものは止めます。九条景臣は、次に必ず剣を使おうとします」
部屋の空気が冷えた。
悠斗の腕が、じくりと痛んだ。
昨日の接触が失敗しても、天叢機関は周辺から退かなかった。人の流れを作り、剣を動かし、反応を測り続けている。それだけで、九条が止まるつもりのないことは分かった。
「でも」
悠斗は地図を見つめたまま言った。
「現代の出雲で裂け目を開いたら、邪馬台国はどうなるんですか」
誰もすぐには答えなかった。
「もし、ここが鍵穴で、草薙剣で開けるとして……それで邪馬台国が現代に戻るなら、歴史がめちゃくちゃになる」
美耶の肩がわずかに強張った。
悠斗は慌てて言葉を足す。
「ごめん。戻れないって言いたいんじゃない」
「分かっています」
美耶は首を横に振った。
「でも、私も考えていました。私たちの国が戻る場所は、どこなのだろうと」
宗一郎が深く息を吐いた。
「そこが、最後の謎じゃろうな」
「最後の?」
「剣を作った者なら、知っておるはずじゃ」
宗一郎の目が、机の上の古い写しへ落ちる。
「イーラ。あの者が、何も考えずに剣だけを残したとは思えん」
美耶は黙ってうなずいた。
イーラ。
壱与が信じた存在。界裂草薙剣を残した者。けれど、まだ誰も会ってはいない。
答えは、そこにある。
けれど今は、答えに届く前に、九条が扉を壊そうとしている。
* 1 *
出雲大社周辺は、昨日より人が少なかった。
表向きには、文化財保全作業のため一部通行制限が行われているという案内が出ている。観光客は迂回路へ流され、工事用のフェンスと警備員が自然に人目を切っていた。
自然すぎた。
だからこそ、不自然だった。
「天叢機関ですね」
玲奈が小声で言った。
「手際がよすぎる」
宗一郎も苦い顔をする。
悠斗たちは観光客に見える服装のまま、制限区域の外側を歩いていた。玲奈の指示で、目立つ動きはしない。宗一郎は帽子を深くかぶり、いかにも足の悪い老人のようにゆっくり歩く。
美耶は悠斗の隣にいた。
昨日と違うのは、手をつないでいることだった。
昨日は、守ることと縛ることを同じにしないため、あえて一歩分の距離を選んだ。罠を抜けたあと、美耶は自分から悠斗の手を取った。
今朝も同じだった。隠れるためでも、観光客らしく見せるためでもない。昨夜交わした「一緒に止める」という約束を、指先で確かめるように、美耶が手を伸ばした。
強く握りすぎないように気をつけながら、指先に力を込めた。
美耶も、静かに握り返してくる。
その温度があるから、悠斗は前を見ていられた。
「……近いです」
美耶が立ち止まった。
彼女の視線は、フェンスの向こうではなく、その少し先の木立へ向いている。
観光地の景色としてなら、何もおかしくない。木があり、古い石があり、湿った土の匂いがある。
けれど、悠斗にも分かった。
そこだけ、景色が薄い。
うまく言葉にできない。写真の上に、少しだけ別の写真を重ねたみたいに、輪郭がずれている。
「あれは……」
悠斗が声を漏らすと、美耶がうなずいた。
美耶の声は、かすれていた。
「昨日より、傷が深くなっています。閉じているのに、その向こうから押されているようです」
胸元の鏡が、淡く震えた。
音ではない。光でもない。けれど、悠斗の手の中にある美耶の指先から、細かな震えが伝わってくる。
玲奈がすぐに周囲へ目を走らせた。
「長居はできません。確認できました。撤退します」
「まだ、何も」
悠斗は言いかけたが、玲奈の表情を見て口を閉じた。
確認できた。
それだけで十分危険なのだ。
宗一郎も地面を見つめたまま、低く言った。
「ここは、開けてよい場所ではない」
「でも、開けなければ帰れない場所でもある」
悠斗の言葉に、宗一郎は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
その時、美耶が顔を上げた。
「剣です」
「え?」
「剣が、近づいています」
美耶の声が変わった。
怯えだけではない。もっと深い場所から引かれるような、抗いにくい感覚。
悠斗は美耶の手を握り直した。
「美耶、俺を見る」
美耶の目が、揺れながら悠斗へ戻る。
「俺の手、分かる?」
「……はい」
「じゃあ大丈夫。行くなら一緒。戻るなら一緒」
「はい」
美耶は小さく息を吸った。
「一緒に、戻ります」
玲奈の端末が震えた。
彼女は画面を見て、表情を硬くする。
「周辺の封鎖が強まりました。地下搬入口側に不自然な動きがあります」
「剣を運んでおるのか」
「おそらく」
天叢機関が、何かを反応地点へ運び込んでいる。
剣だと考える材料は揃っていた。だが、本物だと断じるのは、まだ早い。
悠斗の背筋に冷たいものが走った。
遠くで、低い機械音がした。
観光地には似合わない、重いものを運ぶ音。
* 2 *
天叢機関の移送車両は、白いシートで覆われていた。
表向きには文化財保全機材。けれど、その周囲に立つ警備員の目は、作業員のものではない。
地下から引き上げられた封印容器が、ゆっくりと運ばれていく。
九条景臣は、少し離れた仮設指揮所でモニターを見ていた。
加賀見が隣に立っている。
「反応値、上昇」
オペレーターの声が響く。
「陽巫女と鏡の位置推定、昨日より鮮明です」
九条は薄く笑った。
「やはり、いる」
「局長。これは危険です」
加賀見は低く言った。
「昨日の試験とは条件が違います。剣を裂け目候補へ近づければ、制御不能域に入る可能性があります」
「裂け目候補」
九条はその言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「まだ候補か」
「断定する材料はありません」
「ならば、断定できるところまで近づければいい」
加賀見の眉が動いた。
「現場には観光客も残っています」
「だから封鎖している」
「完全ではありません」
「完全を待っている間に、八咫烏が来る」
九条の視線は、モニターの中の封印容器へ向けられたままだった。
「彼らは昨日、陽巫女を渡さなかった。ならば次は、渡すかどうかではなく、止めるかどうかを選ばせる」
「白峰悠斗を脅しても、失敗しました」
「脅しでは足りなかっただけだ」
九条は淡々と言った。
「人は、自分が選んでいると思う時ほど、こちらの設計に乗る」
加賀見は黙った。
その沈黙の中で、モニターの数値が跳ねた。
封印容器の表面に、白い線が走る。
界裂草薙剣。
剣であって、剣ではないもの。
容器越しでも、周囲の映像がわずかに歪んでいた。
「移送を続けろ」
九条が命じた。
「接近限界まで」
「局長」
「開けとは言っていない。近づけろと言っている」
加賀見は短く息を吐いた。
「了解」
その声には、了承ではなく諦めが混じっていた。
同じ頃、悠斗たちの前で空気の線が広がった。
細い。
けれど、確かにそこにある。
木々の向こうに、存在しないはずの暗い空が重なる。遠くで水が流れる音がした。冷たい風が、閉じた空間の向こう側から漏れてくる。
美耶が震えた。
「開いてしまいます」
玲奈がすぐに言う。
「離れます。全員、今すぐ」
「でも、あれを放っておいたら」
「止めるために近づく段階ではありません。剣も手順も向こうにあります。こちらが巻き込まれれば終わりです」
玲奈の判断は正しかった。
正しいのに、足が動かない。
悠斗は、裂け目の奥を見ていた。
向こうにあるのは、邪馬台国なのか。
美耶の家族がいる場所なのか。
それとも、ただ世界が裂けた先の暗がりなのか。
「悠斗」
美耶の声で、悠斗は我に返った。
美耶が、今度は悠斗の手を引いた。
「戻ります」
その一言で、悠斗の足が動いた。
「うん」
四人は身を低くしてその場を離れた。
背後で、空気が軋むような音がした。
音があるのに、耳では聞こえない。胸の奥を直接撫でられるような、不快な震え。
美耶は振り返らない。
悠斗も振り返らなかった。
見れば、引かれる。
そんな気がした。
フェンスの影を抜け、人気のない脇道へ入る。玲奈が端末で別ルートを確認し、宗一郎が息を切らしながらもついてくる。
そこまで来て、ようやく美耶の足が止まった。
彼女は胸元の鏡を両手で押さえ、深く息を吸った。
「剣は、本物です」
その声は、小さかった。
「あれは、界裂草薙剣です」
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
玲奈が唇を引き結ぶ。
「天叢機関が本物を保有している。これで確定です」
宗一郎は壁に手をつき、苦しそうに笑った。
「四十年探して、ようやくここまで来たというのに……先に持っておるのが、あやつらか」
「御影先生」
「分かっておる。嘆くのは後じゃ」
宗一郎は顔を上げた。
その目には、老人の疲れだけではないものがあった。
「あれは鍵じゃ。だが、鍵だけでは足りん。場所が要る。鏡が要る。陽巫女が要る。そして、おそらく……まだ足りんものがある」
「イーラですか」
悠斗が言うと、宗一郎はうなずいた。
「答えは、あの者が持っておる」
美耶は、裂け目のあった方向を見た。
「でも、九条は待ちません」
その呼び方に、悠斗は少し驚いた。
美耶は身分ある相手への礼を失わない。けれど、人を道具として扱う者にまで、役目の外から敬意を差し出す必要はないと、自分で決めたのだろう。
その小さな笑みは、すぐに消えた。
玲奈の端末が再び震える。
「反応値が下がりました。剣を離したようです」
「助かった……のか?」
「今日だけは」
玲奈は厳しい表情のまま答えた。
「ですが、向こうも必要なことを知ったはずです」
悠斗は、裂け目の奥で見えた暗い空を思い出した。
あれは道ではない。
美耶はそう言った。
まだ閉じている。世界の傷。
けれど、剣が近づけば開きかけた。
九条がそれを知った。
* 3 *
仮設指揮所では、警告音が鳴っていた。
「反応値、制御域を超えます」
「容器外壁に歪み」
「周辺空間、局所変動」
加賀見は即座に命じた。
「下げろ。剣を離せ」
オペレーターが九条を見る。
九条はしばらく何も言わなかった。
モニターの向こうで、裂け目候補の空間が細く開いている。
その奥には、暗いものがあった。
九条の口元が、わずかに上がる。
「局長」
加賀見の声が鋭くなる。
「このままでは、周辺ごと巻き込みます」
「……下げろ」
ようやく九条が言った。
封印容器が後退する。
数値が落ちていく。
モニターの中の空間の線も、少しずつ細くなった。
完全に消える直前、九条はその向こうを見ていた。
邪馬台国かどうかなど、まだ分からない。
けれど、道はある。
あると分かれば、十分だった。
「必要な情報は得た」
九条は静かに言った。
加賀見は険しい顔で振り返る。
「得たのは、危険性です」
「危険でない扉に価値はない」
「制御できる保証がありません」
「制御する必要はない」
九条は、机の上の命令書へ手を伸ばした。
「開けばいい」
加賀見は、すぐには返事をしなかった。
九条はペンを取り、次の作戦指示へ署名する。
「八咫烏が奪還を考えるなら、その前にこちらが使う。陽巫女が鍵ではないと言うなら、それでも構わん」
署名の音が、紙の上に乾いて響いた。
「彼女は必ず来る。白峰悠斗も来る。神代玲奈も、御影宗一郎も」
九条は顔を上げた。
「彼らは、止めに来る」
その声には、勝ち誇った響きすらあった。
止めに来る。
だから、誘い込める。
陽巫女を奪えないなら、陽巫女が自分の意思で走り込む場所を作ればいい。
九条景臣にとって、人の意思とは尊重するものではなかった。
設計するものだった。
出雲の夕方、悠斗たちは一時拠点へ戻った。
窓の外には、何も知らない観光客の灯りがにじんでいる。昨日と同じ町。同じ道路。同じ店の看板。
なのに悠斗には、町の下に別の空が重なっているように思えた。
美耶は、窓辺に立っていた。
胸元の鏡は静かになっている。
「美耶」
悠斗が声をかけると、美耶は振り向いた。
「はい」
「怖い?」
美耶は少し考えてから、うなずいた。
「怖いです」
「うん」
「でも、昨日の怖さとは違います」
美耶は、胸元の鏡ではなく、自分の手を見た。
「昨日は、私が私でなくなることが怖かったのだと思います。今日は……私が私のまま、選ばなければならないことが怖いです」
悠斗は、その言葉をすぐには受け止めきれなかった。
逃げる方が簡単だ。
差し出される方が、もっと簡単かもしれない。
自分で選ぶというのは、逃げ道を自分で消すことでもある。
「俺も怖い」
悠斗は言った。
「裂け目の向こうが何なのかも、開いたらどうなるのかも、全然分からない。美耶を帰したいのに、帰した先がどこなのかも分からない」
美耶は静かに聞いている。
「でも、九条に決めさせたくない」
それだけは、はっきりしていた。
「美耶が鍵だとか、俺を餌にするとか、そういうやり方で道を開かせたくない」
「はい」
「だから、止めよう」
美耶はうなずいた。
「止めます」
そして、昨日の夜と同じように、悠斗の手を取った。
痛い方ではない手。
指先が重なる。
「でも、悠斗」
「うん」
「止めるために、進まなければならない時があります」
悠斗は、美耶の手を見た。
その手は震えている。
けれど、離れない。
「その時は」
美耶は言った。
「一緒に、進んでください」
悠斗は息を吸った。
止まっていた一年。
部屋の中で、何も選ばずにいた時間。
あの頃の自分なら、きっとこの手を取れなかった。
怖いから。
分からないから。
自分なんかが関わっていいことではないから。
いくらでも理由をつけて、動かないことを選んだ。
でも、今は違う。
美耶の手がここにある。
世界の傷が、出雲の空の下にある。
九条が、それを開こうとしている。
「行くよ」
悠斗は答えた。
「一緒に」
美耶は、泣きそうな顔で笑った。
「はい」
その夜、出雲の地下で界裂草薙剣は再び封印容器に収められた。
けれど、容器の表面には細い亀裂が残っていた。
誰にも聞こえないほど小さく、空間が軋む。
閉じたはずの世界の傷は、まだ完全には眠っていなかった。




