第28話 生体鍵
夜の一時拠点で、美耶は眠れずにいた。
窓の外には、出雲の町の灯りが遠く散っている。昼間、出雲大社の外れで感じた冷たさは、もう胸元の天岩戸八咫鏡から離れていた。それでも、体の奥に残った震えだけは抜けきらない。
机の上には、白峰家へ買った土産袋が置かれている。それを見ていると、胸が痛くなる。
帰りたい場所が増えた。
邪馬台国へ戻りたい。母と父と祖母に会いたい。民を置いていきたくない。
けれど、白峰家にも戻りたい。春香の声を聞き、莉央に変な言葉を教わり、直人にただいまと言いたい。
願いが増えるほど、使命は重くなる。
美耶は胸元へ手を当てた。
鏡は静かだった。
「眠れない?」
扉のそばから声がした。
振り向くと、悠斗が立っていた。廊下の灯りを背にしているせいで、表情は少し見えにくい。それでも、心配していることは分かった。
「はい。少しだけ」
「入っていい?」
「もちろんです」
悠斗は部屋に入り、土産袋を見て少しだけ目を細めた。
「ちゃんと持って帰ろう」
「はい」
美耶は頷いた。
「そのためにも、帰りたいです」
その言葉は、自分で思ったより小さくなった。
悠斗は椅子を引かず、立ったまま美耶を見ていた。急かさず、答えを先に決めず、待ってくれる。
だから、言えた。
「今日、少しだけ思いました」
「うん」
「もし私が行けば、悠斗や玲奈さんや御影先生を危険に巻き込まずに済むのではないかと」
悠斗の顔が強張った。
美耶は急いで続けた。
「行くと決めたわけではありません。ただ、そういう考えが、胸の奥に出てきました。私は陽巫女ですから。私がいなければ開かないものがあるのなら、私が行けば終わるのではないかと」
「終わらないよ」
悠斗はすぐに言った。
強い声だった。
「美耶がいなくなったら、俺たちは終わらない。探す。追いかける。絶対に止まらない」
「悠斗」
「それに、天叢機関が美耶を連れていって、それで邪馬台国が救われる保証なんてない。昨日だって、剣を近づけて美耶がどう反応するか見ていた。美耶の怖さまで、向こうには手がかりにされるかもしれない」
悠斗は一度息を吸った。
「美耶が優しいから、そこを狙ってくる」
美耶は言葉を失った。
優しい、と言われて嬉しいはずなのに、今は苦しかった。自分の中にある守りたい気持ちが、誰かの手で別の形にされる。それが、怖い。
「呼ばれてるから行くんじゃないって、昨日言ってくれました」
「うん」
「でも、守りたいから行く、も同じなのでしょうか」
悠斗は少し迷った。
すぐに正しいことを言おうとはしなかった。
「たぶん、全部が同じじゃない。でも、一人で決めたら危ないと思う」
綺麗な言葉ではなかった。だから、美耶は安心した。
「私が、間違えそうになったら」
「止める」
悠斗はまっすぐ言った。
「美耶が怒っても、止める」
「怒りません」
「分からないよ。俺も言い方を間違えるかもしれないし」
美耶は少しだけ笑った。
「その時は、私も止めます」
「うん。それでいい」
悠斗がそう言った時、廊下の向こうで玲奈の声がした。
「白峰さん。美耶さん。少しよろしいですか」
声は落ち着いている。
けれど、柔らかくはなかった。
* 1 *
会議室には、玲奈と宗一郎がいた。
地図は広げられていない。代わりに、玲奈の端末に監視映像の断片が並んでいる。出雲大社周辺の通路、駐車場、売店の外、工事中の看板。昼間にはただの背景に見えていたものが、画面の中では別の意味を持っていた。
「明日、天叢機関が接触してくる可能性があります」
玲奈は前置きなしに言った。
「確定ですか」
悠斗が聞く。
「確定ではありません。ただ、周辺の配置変更が早すぎます。看板、簡易柵、警備員の立ち位置、観光客に紛れた監視員。あちらは、美耶さんと白峰さんを同じ導線に乗せようとしています」
美耶は、自分の名前と悠斗の名前が並べられたことに気づいた。
自分だけではない。
悠斗も狙われている。
「なら、明日は行かない方がいいんじゃないですか」
悠斗は思わず言った。
行かない。それが一番単純な答えに思えた。美耶を外へ出さない。反応地点にも近づかない。天叢機関が用意した道に乗らない。
けれど、その言葉を口にした瞬間、悠斗は自分の胸の中で何かが引っかかるのを感じた。
美耶を守るために閉じ込める。
それは、天叢機関の言い方とどこが違うのだろう。
玲奈も同じことを考えていたのか、すぐには答えなかった。
「完全に退く選択もあります。ただ、昨日までの動きを見る限り、九条景臣がそれで諦めるとは考えにくい。こちらから見えない場所で、別の接触を試みるおそれがあります」
端末の画面に、昼間の参道が映っている。
夏の日差し。土産物屋の軒先。写真を撮る観光客。普通の一日の中に、細い線のように罠が引かれていた。
「明日は、こちらも分かっていて入ります。無理に反応地点へ進むのではありません。相手が何を仕掛けるかを確認し、危険になれば退く。そのための導線です」
「餌になるってことですか」
悠斗の声が低くなった。
「違います」
玲奈ははっきり否定した。
「餌として差し出すなら、私は美耶さんを一人にします。そうはしません。白峰さんも、美耶さんも、判断できる距離に置きます。御影先生には人目を作っていただく。私は少し離れて全体を見る。接触があれば、撤退を最優先します」
悠斗は唇を結んだ。
それでも危険だ。
けれど、危険だから何も選ばせない、という答えもまた違う。
「私を捕まえるためですか」
「それだけなら、もっと直接的な手段を選ぶはずです」
玲奈は端末を閉じた。
「あちらは、美耶さんが何を選ぶかを見ようとしています」
「昨日、あそこまで剣を近づけたのに」
悠斗は、昨日見た世界の傷を思い出した。剣が近づいた直後、閉じていたはずの線が広がった。天叢機関があの反応を偶然で片づけるとは思えない。
「九条は、もう一度剣を動かすつもりでしょう」
玲奈は言った。
「ですが、分かっていない。剣だけで足りるのか。場所だけで足りるのか。美耶さん本人の意思がどこまで必要なのか。だから、開く前に確かめようとしている」
「人を、試験みたいに」
「はい」
玲奈は短く頷いた。
「だからこそ、こちらが美耶さんの意思を無視して先に閉じ込めたり、遠ざけたりすれば、相手と同じ場所へ落ちます」
「何を……」
美耶の声がかすれる。
宗一郎が低く言った。
「生体鍵、という考え方じゃな」
その単語が、会議室に落ちた。
初めて聞いた時より、ずっと重く響いた。
鍵。
人ではなく、開閉のための部品。
美耶は唇を結んだ。
「私は」
言いかけて、止まる。
何と言えばいいのか分からなかった。怖いと言えばいいのか。腹が立つと言えばいいのか。そんなものではないと言えばいいのか。
玲奈が、静かに立ち上がった。
「美耶さん」
「はい」
「あなたは、鍵ではありません」
短い言葉だった。
玲奈の声は震えていない。感情を大きく出しているわけでもない。けれど、いつもの任務報告とは違った。
「八咫烏は、陽巫女を必要としてきました。私も、最初は美耶様を保護対象として扱っていました。使命を守るために、あなたを安全な場所へ移すことが正しいと考えていました」
玲奈は一度だけ目を伏せた。
「でも、それだけでは天叢機関と同じです」
「玲奈さん」
「私は、美耶さんの意思を守ります。あなたを運ぶのではなく、あなたが選べる状態を守る。それが、今の私の任務です」
美耶は胸の奥が熱くなるのを感じた。
玲奈は「美耶様」ではなく「美耶さん」と呼んだ。
ただ近くなったからではない。役目だけを見る呼び方から、一人の人を見る呼び方へ、意識して変えたのだと分かった。
「ありがとうございます」
美耶は頭を下げた。
「でも、もし私が迷ったら」
「迷うことは、失敗ではありません」
玲奈はすぐに答えた。
「迷わせるために相手は動きます。だから、迷った時点で共有してください。一人で結論を出さないでください」
「はい」
宗一郎が椅子の背にもたれた。
「わしは声を張る役じゃな」
「先生には、周囲の視線を集めていただく場面があるかもしれません」
悠斗は少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
怖さは消えていない。けれど、四人で怖がっている。その事実だけで、さっきより呼吸がしやすくなった。
* 2 *
同じ頃、天叢機関の地下施設では、九条景臣が一枚の写真を机に置いていた。
白峰悠斗。
写真の中の少年は、出雲大社周辺で美耶の手を取っている。監視班が遠距離から撮ったものだ。画像は少し粗い。だが、距離感は十分に読める。
「この少年を使う」
九条は言った。
加賀見迅也は、机の向こうで表情を変えなかった。
「確保対象に追加する、という意味ですか」
「一時拘束で足りる。殺傷は不要。長時間の保持も要らない」
「目的は」
「四代目陽巫女の選択傾向を確認する」
九条は、別の資料を開いた。
陽巫女。鏡。剣。条件地点。接近限界。数値推移。
そこに、美耶の名前はない。
「陽巫女は、白峰悠斗の安全を重視している。少年に危害が及ぶ可能性を示せば、自発的にこちらへ来る確率が上がる」
「脅迫ですか?」
「交渉材料だ」
「本人の意思を歪める行為です」
九条は加賀見を見た。
「意思とは、外部条件で変化するものだ。孤立、恐怖、保護対象の提示。どれも判断を動かす要素になる」
「相手は人間です」
「だから有効だ」
加賀見の顎がわずかに動いた。
九条は気にしなかった。
「陽巫女を物として扱うな、という批判なら聞き飽きた。こちらは機能として評価している」
「同じです」
「違う。物は意思を持たない。彼女は意思を持つ。だから、入力次第で必要な出力を得られる」
部屋の空調音だけが残った。
加賀見は、数秒遅れて口を開いた。
「失敗した場合は」
「次の条件を組む」
「一般人が巻き込まれます」
「避けろ。公衆の前での損傷は不要だ。視線を切り、短時間で済ませる」
九条は写真を指で軽く押さえた。
「白峰悠斗を壊す必要はない。彼女に、壊れるかもしれないと思わせればいい」
加賀見は写真を見た。
少年の顔に特別な力はない。ただ、隣の少女の手を離していない。
九条にとっては、その一点で十分なのだろう。
「配置を出します」
加賀見は言った。
「ただし、現場判断で中止する権限をください」
「危険域に入れば認める」
「人命上の危険です」
「数値上の危険だ」
九条の訂正は冷たかった。
加賀見はそれ以上言わなかった。
命令は下りた。
観測計画ではなく、罠が組まれた。
* 3 *
翌日の出雲大社周辺は、昨日より人が多かった。
晴れていた。観光客が参道を行き交い、店先から明るい声が聞こえる。日常の音があるほど、悠斗には足元が不安定に感じられた。
玲奈は少し離れた位置を歩いている。調査員用の腕章をつけ、資料を持ち、視線だけで周囲を拾っていた。宗一郎は外部協力者としてその近くにいる。美耶は悠斗の隣だ。
今日は手をつないでいない。玲奈の説明を聞いた美耶が、少し迷ってから自分で手を下ろした。
悠斗は、その選択を尊重した。
代わりに、半歩だけ近くを歩いた。
距離は、玲奈が決めたものだった。
一歩以内。声を出せば届く。手を伸ばせば触れられる。けれど、ずっと掴んで歩くわけではない。
「守ることと、縛ることを同じにしたくありません」
出発前、美耶はそう言った。
悠斗は本当は、手を握っていたかった。
昨日、世界の傷を見た場所へ近づいた時のように、確かめるように握っていたかった。けれど、今日の危険は場所だけではない。美耶の意思そのものを動かそうとしてくる。
なら、悠斗が先に美耶の選択を奪ってはいけない。
玲奈は前方の流れ、宗一郎は周囲の視線、悠斗は美耶の呼吸を見る。
そう決めていた。
「大丈夫?」
「はい」
美耶は頷いた。
「怖いです。でも、怖いと分かっているので、大丈夫です」
その言い方が、昨日より少し強かった。
参道から脇へ流れる道に、修繕中の看板が立っていた。昨日とは位置が違う。人の流れは、自然に細い道へ押し出されている。
看板の横には、写真撮影の案内板まで置かれていた。人はそこへ立ち止まり、前の流れがゆるむ。後ろから来た人は、止まった人を避けて脇道へ入る。
誰かに命じられたわけではない。
だから、誰も不自然だと思わない。
夏の観光地にある、ほんの少しの混雑。ほんの少しの親切な誘導。ほんの少しの死角。
その全部が、悠斗たちを細い場所へ押し込んでいた。
玲奈の視線が一瞬だけ悠斗へ向いた。
警戒。
悠斗は頷き返した。
次の角で、前を歩いていた観光客の一団が立ち止まった。写真を撮るために道を塞いだように見える。後ろから別の人たちが来る。悠斗は美耶を端へ寄せようとした。
その隙間に、普通の服の男が入った。手には紙袋。顔は笑っていない。
悠斗の腕が掴まれた。
「っ」
強い力だった。
反射的に振りほどこうとする。だが、男は関節を押さえる位置を知っていた。痛みが腕から肩へ走る。
「悠斗!」
美耶が振り向く。
別の女が、美耶の横へ並んだ。観光客のふりをしたまま、声だけを落とす。
「騒がないでください。白峰悠斗は、あなたがこちらへ来れば無事に戻します」
美耶の顔から血の気が引いた。
悠斗は歯を食いしばった。
「聞くな!」
男が腕をひねる。
痛みで息が詰まった。
それでも悠斗は声を出した。
「美耶、来るな!」
周囲の数人が振り向いた。
女の目が細くなる。
「白峰悠斗の安全を保証できる時間は短いです」
美耶の手が胸元へ動いた。
鏡が、服の下で震える。
場所ではない。
悠斗にも分かった。
美耶の恐怖に、鏡が揺れている。
「私が行けば」
美耶の声がこぼれた。
「悠斗を」
「だめだ!」
悠斗は男の靴を踏んだ。
相手の力が一瞬だけ緩む。悠斗は腕を抜こうとして、半分だけ失敗した。痛みが増した。けれど、体は前に出た。
「俺を助けるために、自分を渡すな!」
美耶が目を見開く。
「でも」
「でもじゃない! 俺は、それを望まない!」
声が少し裏返った。
格好よくはなかった。
必死だった。
「美耶がいなくなったら、助かったことにならない!」
周囲の視線が集まる。
男は悠斗を引き戻そうとした。
その時、宗一郎の声が響いた。
「ちょっと待ちなさい! あなた、今その子の腕をひねったじゃろう!」
老人の大声は、思った以上に人を止めた。
観光客が振り返る。店の人も顔を出す。スマホを向ける者もいた。
玲奈が動いた。
走らない。けれど速い。
「文化財調査中です。関係者への暴力行為を確認しました」
玲奈の声は冷静だった。
「手を離してください」
男は一瞬だけ迷った。
公衆の前で続けられない。
その迷いが出た。
悠斗はもう一度体をひねった。玲奈の手が男の手首を押さえる。関節が外れるような派手な動きではない。ただ、相手の力が抜ける角度を正確に取った。
悠斗の腕が自由になった。
「悠斗!」
美耶が駆け寄ろうとする。
女が進路を塞ぐ。
「今ならまだ間に合います」
美耶は止まった。
震えていた。
けれど、下がらなかった。
「私は」
美耶は胸元の鏡から手を離した。
「行きません」
女の表情が消える。
「白峰悠斗を見捨てるのですか」
「違います」
美耶の声は小さい。
だが、言葉ははっきりしていた。
「悠斗を守りたいです。でも、そのために私を渡したら、悠斗は傷つきます。玲奈さんも、御影先生も、祖母も、きっと悲しみます」
美耶は一度、悠斗を見た。
悠斗は痛む腕を押さえながら頷いた。
大丈夫だ、と言いたかった。
言葉にする余裕はなかった。
それでも、美耶には届いたらしい。
「私は陽巫女です」
美耶は女へ向き直った。
「けれど、あなたたちの道具ではありません」
鏡の震えが弱くなる。
「私は、鍵ではありません」
美耶は、自分の名前を置くように言った。
「私は、美耶です」
女は数秒、何も言わなかった。
周囲の視線が増えている。玲奈は悠斗の前へ入り、宗一郎は大声で店員に警備を呼ぶよう頼んでいる。これ以上は、天叢機関の側が目立つ。
女は小さく舌打ちした。
「撤収」
男が手を離し、人混みに紛れる。
女もすぐに背を向けた。
追えない。
追えば美耶が孤立する。
玲奈はそれを分かっていて、動かなかった。
しかも、相手は逃げたように見えなかった。
男は腕を押さえた観光客の一人になり、女は通話を終えた会社員のように歩いた。さっきまで悠斗の腕をひねっていた力も、美耶を脅した声も、人の流れに混ざった瞬間、形を失う。
スマホを向けていた人たちも、すぐに困った顔になった。何を撮ったのか分からないのだろう。老人が大声を出し、若い男がよろけ、文化財調査員らしい女性が注意した。そう見えてしまえば、そこに誘拐未遂という名前は付かない。
警備員がこちらへ来るころには、男も女も、夏の人混みのただの背中になっていた。
「追跡しません」
玲奈が低く言った。
「今追えば、相手の次の死角へ入ります」
悔しさが、悠斗の喉を焼いた。
分かっていても、動けない。
それが天叢機関の怖さだった。力で奪うだけではない。普通の場所を、普通の人の目を、奪う側に都合よく並べ替える。
悠斗は美耶のところへ行こうとして、足が少しもつれた。
美耶が駆け寄る。
「腕、痛みますか」
「痛い。でも平気」
「平気ではありません」
「うん。平気じゃない。でも、大丈夫」
美耶の目に涙が浮かんだ。
悠斗は、痛くない方の手を上げた。
「戻ろう。ここで終わりにしよう」
「はい」
美耶は頷いた。
「一緒に」
* 4 *
一時拠点へ戻るまで、玲奈はほとんど話さなかった。
車内で悠斗の腕を確認し、骨に異常がないことを確かめる。湿布と包帯を巻く手つきは正確だったが、表情は硬かった。
「すみません」
美耶が言った。
悠斗はすぐに首を振った。
「美耶が謝ることじゃない」
「でも、私が迷いました」
「迷ったけど、来なかった」
悠斗は包帯を巻かれた腕を見た。
「それで十分だよ」
美耶は膝の上で両手を握った。
「一瞬、本当に考えました。私が行けば、悠斗は離してもらえるのではないかと」
「佐依さんと同じ終わり方をしないために読んだんだろ」
悠斗が言うと、美耶は静かに頷いた。
「はい」
「なら、今日止まれたのは、その記録が残っていたからだよ」
美耶の目が揺れた。
「私は、怖かったです」
「うん」
「悠斗が傷つくのを見るのが、とても怖かった」
「俺も怖かった」
悠斗は正直に言った。
「美耶が、こっちに来ないかもしれないって思った」
「行きません」
美耶はすぐに言った。
「もう、一人で決めません」
玲奈が端末から顔を上げた。
「私からも報告があります」
画面には、八咫烏上層部へ送る文面が表示されていた。
「四代目陽巫女の本人意思を最優先。本人同意なき移送、隔離、任務上の利用を認めない。八咫烏は、使命遂行の前に、美耶さんの生命と人格を守る」
宗一郎が小さく息を吐いた。
「強い文じゃのう」
「必要な線引きです」
玲奈は送信ボタンに指を置いた。
「私自身への命令でもあります」
送信音が短く鳴った。
美耶は玲奈を見つめた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「いいえ。言わせてください」
玲奈は少し困ったように目を伏せた。
「では、受け取ります」
部屋の空気が、少しだけ緩んだ。
悠斗には分かっていた。
天叢機関は試したのだ。美耶が何で迷い、何で止まり、誰の声に戻ってくるのかを見た。
その気味の悪さが残っている。
夜、悠斗と美耶は宿泊施設の外へ出た。遠くに、あの約束の夜と同じ星があった。
美耶は包帯を巻いた悠斗の腕を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。
「痛みますか」
「少し多めに」
「それは、少しではありません」
悠斗は苦笑した。美耶の表情も、ほんの少し和らぐ。
「悠斗」
「うん」
「止めてくださって、ありがとうございます」
「俺が勝手に叫んだだけだよ」
「それでも、届きました」
美耶は夜空を見上げた。
「私は、陽巫女です。それは変わりません。でも、陽巫女だからといって、私が私でなくなるわけではありません」
「うん」
「忘れそうになったら、また止めてください」
「何回でも」
悠斗は答えた。
「俺が無茶しそうになったら、美耶も止めて」
「はい」
美耶は、今度は自分から悠斗の手を取った。
痛い方ではない手。
指先が重なる。
「一緒に止めます」
その言い方が、美耶らしくて、悠斗はようやく息を吐いた。
夜空は静かだった。ここには、誰かを試すためではなく、二人で言葉を選ぶための間があった。
同じ夜。
天叢機関の地下施設で、九条は報告を読んでいた。
「拒否したか」
加賀見は黙っている。
「白峰悠斗への拘束は失敗。四代目陽巫女の自発同行も失敗。だが、収穫はある」
九条は画面を閉じた。
「彼女は少年を捨てない。少年も彼女を差し出させない。八咫烏は保護対象の隔離より本人意思を優先する」
「こちらに不利な材料です」
「条件設計には有用だ」
九条は封印区画の映像へ視線を移した。
容器は静かに固定されている。
その奥にある刃は、何も語らない。
「彼女が鍵ではないと言うなら、それでいい」
九条は穏やかに言った。
「次は、彼女でなければ救えない状況を見せる」
加賀見の顔が険しくなる。
「危険域へ入ります」
「接近限界を更新しろ。観測班を再配置。剣は動かせる状態にしておく」
「九条局長」
「彼ら自身に選ばせる」
九条は、命令書へ署名した。
「こちらへ来る理由を、彼らの側に作ればいい」
地下の白い光が、封印容器の表面を冷たく照らしていた。
その時、容器の奥で、何かが細く鳴った。
音ではない。耳に届くものではない。けれど、ガラスの向こうの観測員が一斉に顔を上げるほどには、空気が変わった。
封印容器の表面に、白い線が一瞬だけ走る。
昨日見た世界の傷に似た、細い裂け目。
「反応値、微増」
観測員の声が硬くなる。
「接近操作なし。自発揺動です」
加賀見が画面へ身を乗り出した。
「まだ動かしていないのに」
「だから、動かす価値がある」
九条は淡々と言った。
出雲の夜はまだ閉じている。
だが、次に動くものは、もう決まっていた。




