第27話 封じられた剣
出雲大社から戻ったあとも、美耶はしばらく黙っていた。
一時拠点の小さな会議室には、地図と端末と、昨日買った土産袋が並んでいる。窓の外では、夕方の光が建物の壁を薄く染めていた。観光地の一日が終わっていく音が、遠くから聞こえる。
けれど、部屋の中だけは、まだ参道の途中に取り残されているようだった。
「昨日、美耶さんが立ち止まったのはここです」
神代玲奈が、地図の上に細い赤線を引いた。
出雲大社の中心ではない。人が多く集まる参道でも、社の奥でもない。観光客の流れから半歩だけずれた、見落としそうな空白。
「御影先生」
「ふむ」
御影宗一郎は、古い写しの束を地図の横に置いた。
「神代家の海路記録にあった言葉と、妙に重なるのう。雲立つ地、海より入り、社を避け、山影にて祈る。社を避ける、というのは、中心から離れよという意味だったのかもしれん」
悠斗は地図を見つめた。
昨日、美耶が低くこぼした一言が、今も悠斗の耳に残っている。
「出雲が本命……なんですよね」
口に出した瞬間、自分でも少し焦っているのが分かった。
玲奈はすぐには頷かなかった。
「本命である可能性は高まりました」
彼女は慎重に言った。
「ですが、まだ界裂草薙剣の所在を掴んだわけではありません。昨日分かったのは、熱田とは違う種類の違和感が出雲にある、ということだけです」
「でも、熱田とは違った」
悠斗は昨日の参道を思い出す。
熱田では、人の視線が先にあった。出雲では、まず場所がある。人間が張った罠より古い何かが、地面の下で息を潜めているようだった。
「はい」
美耶が静かに答えた。
彼女は胸元の天岩戸八咫鏡に指を添えている。震えてはいない。それでも、触れていないと落ち着かないのだと思う。
「目を閉じると、まだ分かります」
「昨日の場所?」
「はい。何かが、奥にあります。眠っているようで……でも、眠らされているようでもあります」
眠っているのと、眠らされているのは違う。
その差が、部屋の温度を下げた。
「踏み込んではいけない、という感じもします。けれど、放っておいてはいけない気もします」
「美耶」
悠斗が呼ぶと、美耶は少しだけ顔を上げた。
「今日は無理に行かなくていい。昨日だって、玲奈さんが止めたから戻ってきたんだし」
「分かっています。一人で進みません。悠斗が、そうしてほしくないと言ってくださったので」
玲奈が端末から顔を上げる。
「今日は、確認だけにします。昨日より少し広い範囲を歩きますが、危険が見えた時点で撤退します」
「監視は?」
「あります」
玲奈は即答した。
「昨日の接触後、周辺の目は増えています。ただし、露骨な確保態勢ではありません。向こうもまだ測っている段階です」
「美耶を、試している」
悠斗の声が低くなる。
「美耶さんと鏡。そして、おそらく私たちの判断も」
宗一郎が地図から目を離さずに言った。
「向こうが何を持っておるにせよ、使い方を完全には分かっておらんのじゃろう。分かっておるなら、泳がせる必要がない」
「つまり」
悠斗は言葉を飲み込んでから続けた。
「天叢機関は、剣を押さえているんですか」
宗一郎は、しばらく黙った。
「その可能性はある。あるいは、もっと悪い」
「もっと悪い?」
「すでに持っておるが、開け方が分からん」
その言葉は、予想していたのに重かった。
空調の風で、部屋の隅の土産袋がかすかに揺れた。
* 1 *
出雲市内の地下には、地図に載らない区画があった。
表の看板は、文化財保全関連の保管施設。だが、三重の認証扉を抜けた先の空間は、文化財という言葉では隠しきれない冷たさを持っていた。
中央に、封印容器があった。
金属の箱のようだった。だが、表面には鈍い光が浮かび、刻まれた制御線が呼吸のように明滅していた。
加賀見迅也は、観測室のガラス越しにそれを見ていた。
「昨日の陽巫女接近以降、通常域へ戻っていません」
白衣姿の職員が報告する。
「鏡か、陽巫女本人か、出雲大社周辺の特定地点か。切り分けはまだです」
「昨日の接触報告は」
「整理済みです。発話攪乱の件は参考扱いにしました」
加賀見は短く息を吐いた。
「会話に引きずられるな。見るべきは、鏡の動きと護衛距離だ」
「了解しました」
観測室の扉が開いた。
九条景臣が入ってきた。いつものように整ったスーツ姿で、地下の白い光の中でも顔色ひとつ変えない。
「剣は」
「微弱な揺れが継続しています」
加賀見が答える。
「陽巫女か、鏡か、場所かは不明です」
「不明で構わない」
九条は封印容器へ向き直った。
「分かっていないからこそ、彼女に示してもらう」
「四代目陽巫女を誘導するつもりですか」
「誘導ではない。彼女自身を確認するだけだ」
言葉だけなら穏やかだった。
だが加賀見は知っている。九条景臣にとって、人の意思も恐怖も、条件を満たすための材料でしかない。
「剣はある」
九条は言った。
「だが、それだけでは至れない。陽巫女が要る。鏡が要る。そして、振るうべき場所が要る。昨日、その輪郭が出た」
「まだ影です。確定には遠い」
「ならば、距離を詰めればいい」
九条の視線が、封印容器の奥へ沈む。
「封じられた剣も、いつまでも眠っているだけでは退屈だろう」
直後だった。
容器の表面を、細い光が走った。空間の切れ目が一瞬だけ白く浮いたように見えた。
観測室の数値が跳ねる。
「数値上昇」
職員の声が鋭くなる。
「昨日のピークには届きませんが、上昇傾向です」
九条は、笑った。
「来ているな」
加賀見は封印容器を見つめた。
中にあるものは、剣と呼ばれている。けれど、一度だけ対面したそれは普通の刀ではなかった。刃でありながら刃ではなく、空間のずれに近い。
界裂草薙剣。
世界を裂くために作られたもの。
九条はそれを力として扱っている。
加賀見には、それが時折、災害そのものだった。
* 2 *
翌朝、悠斗たちは再び出雲大社周辺へ向かった。
昨日よりも人の流れが少し変わっている。案内板のひとつに修繕中の札が掛かり、通路の端には簡易柵が置かれていた。
普通に見れば、よくある工事中の風景だった。けれど、玲奈の目はそこで止まった。
「人の流れが、作られています」
「封鎖ですか」
「封鎖というほど露骨ではありません。ですが、通りやすい道と通りにくい道を作って、自然に特定の方角へ向かわせています」
悠斗は周囲を確かめた。看板、柵、警備員、写真を撮る人たちの立ち位置。小さな障害物が、進みやすい方角だけを残している。
「向こうが、俺たちを?」
「可能性は高いです」
玲奈は端末をしまった。
「ただし、こちらがあの地点へ入るには、この流れを完全に避けることもできません。無理を感じたら止まります」
美耶は頷いた。
今日の彼女は、昨日と同じ現代服で、莉央の髪飾りもそのままだ。ただ、表情は昨日より静かだった。
「手を」
美耶が小さく言った。
悠斗は少しだけ驚いて彼女を見る。
「今日は、現代の女の子としてではなく……私が、そうしたいからです」
胸が、不意に熱くなった。
「うん」
悠斗は手を差し出した。
美耶の指が重なる。
細くて、少し冷たい。けれど、力はある。昨日よりも、自分で選んで握っている手だった。
「行こう」
美耶は、はい、と答えた。
宗一郎は周囲の古い小社や木々の位置を見ながら歩く。玲奈は少し離れて、調査員らしく資料を確認するふりをしていた。
人の流れを外れた先に、小さな案内板があった。文字は新しい。けれど、その後ろにある小社は古く、土台の石だけが周囲の明るさから沈んで見えた。
さらに奥には、修繕中の封鎖区域と、木々の影。
美耶が足を止めた。
「ここです」
声が震えていた。
悠斗は手を握り直す。
「鏡?」
「はい。でも、鏡だけではありません」
美耶は胸元を押さえた。
その下で、天岩戸八咫鏡が明らかに震えている。昨日の微かな震えとは違う。小さな鼓動のようだった。
「何が見える?」
宗一郎が低く聞いた。
美耶は目を閉じた。
「暗い場所」
ゆっくりと言葉を探す。
「いくつも重なった封じ目。冷たい石。音のしない箱。そこに、何かが閉じ込められています」
「剣?」
「分かりません」
美耶は首を振った。
「剣の形は見えません。ただ、大切なものです。閉じ込められて、眠らされて……こちらを向いています」
物がこちらを向く。そんなはずはないと思いたいのに、否定しきれない。
玲奈が端末に位置を記録する。
「昨日より輪郭は出ました。ただし、ここが保管場所とは限りません。感じているものは、別の場所にある可能性があります」
「ずれている?」
「美耶さんの感覚は、ここを通して別の場所へ届いているのかもしれません」
宗一郎が険しい顔をした。
「鍵と鍵穴じゃな」
「先生?」
「剣が鍵なら、鍵穴が要る。だが、鍵そのものと鍵穴は同じ場所にあるとは限らん。むしろ、分けておいた方が安全じゃ」
悠斗は、目の前の木々を見た。そこに何かが見えるわけではない。けれど、視界の端で、空気がほんの少しだけずれた気がした。
景色の輪郭が、糸のように細く揺れる。
「今」
悠斗は思わず呟いた。
「見えた?」
美耶が目を開ける。
「細い線みたいなものが」
玲奈の表情が変わった。
「白峰さんにも?」
「一瞬だけです。気のせいかもしれません」
「気のせいで済ませない方がいい」
宗一郎は、目の前の空気を睨んだ。
「美耶さん。これは道か」
美耶は少しだけ前に出た。
悠斗も一緒に動く。手は離さない。
「いいえ」
美耶は、はっきりと言った。
「これは、道ではありません。まだ閉じています。でも……傷です。とても古い、世界の傷」
* 3 *
地下保管区画で、警報が鳴った。
短く抑えられた電子音が、観測室の空気を鋭く切る。
「封印容器表面に干渉波」
「外部要因は」
加賀見が問う。
「出雲大社周辺の監視班より報告。対象四名、昨日の地点付近に接近。四代目陽巫女、鏡へ接触。白峰悠斗も近接しています」
九条は、観測画面の数値を追っていた。
「候補地点を絞ったか」
その言葉の直後、彼は小さく首を振る。
「いや。まだ条件地点の候補にすぎん」
加賀見はその訂正を聞き逃さなかった。九条もまだ分かっていない。だから危険なのだ。
「移送は早すぎます」
加賀見は言った。
「原因を特定できていません。封印区画外へ出せば、制御不能になる可能性があります」
「制御不能になるかどうかは、動かしてみなければ分からない」
「試験対象が通常の器物ではありません」
「だからこそ、価値がある」
九条は、職員へ視線を向けた。
「封印容器の移送準備。外へ出す必要はない。まずは接近限界まで動かす」
「九条局長」
加賀見の声が低くなる。
「接近限界まで動かすだけでも、数値が跳ねる可能性があります」
「ならば、跳ねた先を見る」
「人がいる場所です」
「だから、殺すなと命じている」
九条は静かに言った。
「壊すな。捕らえるな。今はまだ、扉を開かせる段階ではない。陽巫女が何を恐れ、何を守ろうとするのかを見る」
「彼女は人間です」
「だから使える」
観測室の空気が凍った。
悪意を込めた言い方ではない。だからこそ、加賀見には冷たく聞こえた。
「四代目陽巫女は、ただの鍵ではない。恐怖し、迷い、守りたいものを持つ。白峰悠斗という少年が隣にいれば、なおさらだ」
九条は端末の監視映像を見た。悠斗と美耶が、手をつないでいる。
「剣は、条件を満たした場所に置くだけでは動かない。動く理由が要る」
「白峰悠斗を、その理由にするつもりですか」
「必要なら」
九条は答えた。
「ただし今日は、まだ殺すな。彼女が自分の意思で扉を開きたくなる状況を作る。そのために、何が効くかを見る」
加賀見は、何も言えなかった。
命令系統は明確だ。九条の判断を止める権限は、今の自分にはない。
封印容器が、ゆっくりと台座ごと移動を始める。その奥で、剣が光を吸い込むように震えた。
* 4 *
美耶が、はっと顔を上げた。
「動きました」
その声は、昨日のものとは違っていた。向こうから距離を詰めてくる。
悠斗の背筋に冷たいものが走った。
「何が」
「分かりません。でも、さっきの暗い場所にあったものが、こちらへ寄っています」
玲奈がすぐに周囲を確認する。
「撤退します」
「もう?」
「はい。こちらが場所を絞った直後です。偶然とは見ません」
美耶の鏡が、さらに強く震えた。
悠斗の手の中で、美耶の指が震える。
「美耶」
「剣、かもしれません」
美耶は青ざめていた。
「はっきり見えません。でも、これは……切るものです。道を開くものです」
直後、空気が歪んだ。
目の前の木々の奥に、存在しないはずの暗い色が重なる。空の青ではない。社の影でもない。もっと冷たい、湿った黒。
悠斗の目にも、焼きついた。
細い線が、ほんの少しだけ広がる。世界の紙に、爪でつけたような傷が走っている。
「開いてしまいます」
美耶が震えた。
「まだ、だめです。これは、道ではありません。無理に広げたら、何が起こるか分かりません」
玲奈が端末を閉じる。
「撤退。今すぐ」
宗一郎も頷いた。
「剣も手順もない。まして相手が動かしておるなら、ここに留まる理由はない」
悠斗は美耶の手を引いた。
「行こう」
「はい」
美耶はすぐに頷いた。
一歩下がった瞬間、鏡の震えが少しだけ弱まる。
だが、背後で何かが鳴った気がした。音ではない。封じられた場所から視線だけが届くような感覚。
悠斗は振り返りそうになった。
美耶の手が、それを止めるように強く握られた。
「見ないでください」
「分かった」
悠斗は前を向いた。
人の流れへ戻ると、世界は急に普通の顔を取り戻した。観光客が歩き、売店の方から明るい声が聞こえる。
さっきの暗い空など、どこにもない。
けれど、悠斗の手には冷たさが残っている。
一時拠点へ戻る車内で、誰もすぐには話さなかった。
玲奈は記録を確認し、宗一郎は地図を睨み、美耶は胸元の鏡に手を置いている。悠斗は、その隣で、さっきの細い線を思い出していた。
「天叢機関は」
玲奈がようやく口を開いた。
「界裂草薙剣を、ほぼ手中に置いている可能性が高いと判断します」
「確定ですか」
「保管場所を確認したわけではありません。ですが、美耶さんの感覚、向こうの誘導、その直後の変化。偶然として処理するには材料が揃いすぎています」
宗一郎が重く頷いた。
「剣は鍵じゃ。今日掴んだのは、それを使うべき場所の影かもしれん」
「使うべき場所」
悠斗は、窓の外へ視線を移した。
現代の道路。電柱。車。信号。
もし、この世界で裂け目を開いたら、邪馬台国はどこへ戻るのだろう。
現代の日本に、国ごと現れるのか。そんなことが起きれば、歴史はどうなる。美耶の国は、本当に救われるのか。
「先生」
悠斗は聞いた。
「裂け目をちゃんと開いたら、邪馬台国はどこへ戻るんですか」
宗一郎はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えの難しさを物語っていた。
「分からん」
やがて宗一郎は言った。
「現代に国ごと戻るなら、歴史そのものが壊れる。じゃが、戻れぬと決まったわけでもない。剣を作ったイーラなら、その答えを知っておるはずじゃ」
イーラ。
壱与に希望を残し、陽巫女に道を託した存在。
美耶は、小さく息を吸った。
「私は、まだ知りません。祖母も、すべてを知っていたわけではありません。でも、今日の傷は……邪馬台国へ続く道の端かもしれません」
「端」
「はい。閉じています。けれど、向こう側がまったくないわけではありません」
悠斗は、美耶の手を見る。
彼女は震えている。
それでも、手を離していない。
「美耶」
「はい」
「呼ばれてるから行く、じゃなくてさ」
悠斗は、ゆっくり言った。
「行くかどうかは、美耶が決めていい。」
美耶の目が揺れた。
「はい」
答えは小さかった。
けれど、確かだった。
その夜。
天叢機関の地下保管区画で、九条は数値の推移を追っていた。
加賀見は隣に立っている。顔色は硬い。
「危険域寸前まで上がりました」
「だが、開かなかった」
「それで済んだだけです」
九条は画面から目を離さなかった。
「必要なことは分かった」
「九条局長」
「八咫烏が奪還を考えるなら、その前にこちらが使う」
九条の声は静かだった。
「奪われる前に、開く」
「制御できる保証はありません」
「制御する必要はない」
加賀見が振り向く。
九条は、封印容器の向こうにある見えない刃と向き合っていた。
「開けばいい」
地下の白い光の中で、封じられた剣が、もう一度だけ細く震えた。
出雲の夜は静かだった。
けれど、沈黙の下で、道は目を覚まし始めていた。




