第26話 出雲大社
出雲の朝は、静かだった。
白いカーテンの向こうから差し込む光は、山沿いの拠点で見た朝よりも少しだけ柔らかい。遠くで車の音がして、どこかの廊下を人が歩く気配がする。けれど、その全部の奥に、言葉にならない古さが沈んでいるように悠斗には感じられた。
神代古代文化財団が押さえた一時拠点は、出雲市内の古い宿泊施設を改装した建物だった。表向きは、文化財調査チームの宿泊と打ち合わせ場所。裏では、玲奈の端末が昨夜からずっと周辺の監視情報を拾っている。
会議用の小さな部屋に、地図が広げられていた。
「今日は出雲大社周辺を歩きます」
神代玲奈は、赤い印をいくつか地図に置いた。
「表向きは、古代信仰と伝承記録の現地確認です。ただし、全員で固まって歩くと目立ちます。御影先生と私は調査関係者として動き、白峰悠斗さんと美耶さんは、観光客に見える形で周辺を確認してください」
「観光客」
悠斗は、美耶をちらりと見た。
美耶は真剣な顔で頷いている。
「観光客とは、どのように振る舞うものですか」
「自然に歩いて、景色を見て、写真を撮ったり、店を見たりします」
「自然に」
美耶は、その言葉を大事そうに繰り返した。
悠斗は少し不安になった。
美耶は真面目だ。真面目すぎるくらい真面目だ。現代に慣れようとする時ほど、その真面目さが妙な方向へ走ることがある。
玲奈は、椅子の背に掛けていた袋を美耶へ差し出した。
「現代服です。昨日までの服でも問題ありませんが、今日は人の多い場所を歩くので、さらに馴染みやすいものにします」
美耶は袋を両手で受け取った。
「私が、現代の女の子のように見えるための服ですね」
「はい」
「分かりました。現代の女の子として、自然に振る舞います」
その決意の強さが、すでに少し自然ではない。
宗一郎が隣で口元を押さえている。
「先生、笑ってます?」
「いや、若い者の努力はまぶしいと思っておるだけじゃ」
* 1 *
美耶が着替えて戻ってきた時、悠斗は一瞬だけ言葉を忘れた。
白いブラウスに、淡い水色のカーディガン。動きやすそうな膝丈のスカート。髪には莉央からもらった髪飾りがそのまま挿してある。昨日までより少し現代の街に馴染んでいるはずなのに、柔らかな色合いのせいで、美耶自身の静かな明るさがよけい目立って見えた。
「変、でしょうか」
美耶が不安そうに聞いた。
「変じゃない」
悠斗は、少し遅れて答えた。
「すごく似合ってる」
美耶の頬が、見る間に赤くなる。
「悠斗にそう言っていただけると、安心します」
その言い方がまっすぐすぎて、悠斗の方が目をそらした。
玲奈が端末を見ながら、わずかに咳払いをする。
「お二人は、親しい男女が観光に来ているように見えれば十分です」
「親しい男女」
美耶が首を傾げた。
「それは、どの程度親しければよいのでしょう」
「手でもつないで歩けば、それらしく見えるじゃろう」
宗一郎が、完全に面白がって言った。
悠斗は咄嗟に宗一郎を見た。
「先生」
「何じゃ。実用的な助言じゃろう」
美耶は真剣な顔で悠斗を見た。
「悠斗と手はつなぎたいです」
部屋の空気が、妙に止まった。
「……いけませんか」
美耶の声が少しだけ弱くなる。
「いけなくない」
悠斗は慌てて言った。
「いけなくは、ない」
「では、つなぎます」
美耶はほっとしたように笑い、そっと悠斗の手を取った。
指先は少し冷たかった。
怖いのだと思った。
出雲大社へ行くこと。消された記録の奥へ近づくこと。昨日の監視員の気配。全部を抱えたまま、美耶は手をつなぎたいと言った。
悠斗は、その手を握り返した。
「離さないから」
小さく言うと、美耶がこちらを見上げる。
「はい」
玲奈は二人を見ないふりをして、地図を閉じた。
「では、出発します。白峰さん」
「はい」
「余計なことを言わない、に加えて、今日は不自然に慌てないでください」
「注意事項が増えてる」
「現地運用です」
宗一郎が楽しそうに鞄を持ち上げた。
「若い者は大変じゃのう」
「先生も外部協力者として自然にお願いします」
「わしはいつでも自然体じゃ」
玲奈は無言で宗一郎の資料鞄を見た。
「……必要なものじゃ」
「分かりました」
分かっていない声だった。
* 2 *
出雲大社の参道に入ると、空気が変わった。
観光客の声、砂利を踏む音、土産物屋から流れる明るい音楽。現代の観光地としての賑わいは確かにある。写真を撮る人も、子供の手を引く親も、地図を見ながら歩く人もいる。
それでも、奥へ進むほど、軽い音の下に古い沈黙が重なっていく。
大きな鳥居を見上げ、美耶は足を止めた。
「ここは、神の場所なのですね」
その言葉に、悠斗は同じように鳥居を見上げた。
神。
今まで何度も聞いてきた言葉なのに、ここで聞くと少し違って響いた。ヤーマやイーラのような存在の話を知った後でも、人が長い時間をかけて祈りを重ねてきた場所には、別の重さがある。
「美耶の国の祈りとは、違う?」
「違います。でも、少し似ています」
美耶は、つないだ手に力を込めた。
「人が、見えないものへ向かって言葉を置いている感じがします」
悠斗は、すぐに返事ができなかった。
美耶の言葉は、時々、現代の説明よりもずっと簡単に核心へ触れる。
少し離れたところで、玲奈が調査員らしく資料を確認している。宗一郎は外部協力者らしく真剣な顔で境内を見ているが、時々感動が顔に出ている。たぶん、自然体というより、ただ抑えきれていない。
「熱田の時と、感じ方は違う?」
悠斗は小声で聞いた。
「はい」
美耶はゆっくり頷いた。
「熱田では、人の目が怖かったです。見張られている、誘われている、という感じがありました。でも、ここは……」
美耶は参道の奥を見る。
「奥の方に、傷のようなものがあります。剣なのか、場所なのか、もっと古い何かなのかは分かりません。ただ、近くに来ている気がします」
悠斗は、胸の奥が冷えるのを感じた。
近い。
その言葉は、希望にも聞こえる。危険にも聞こえる。
少し離れた参道の端で、観光客らしい男が足を止めた。
帽子をかぶり、手にはパンフレットを持っている。境内を見回しながら歩く姿は、周囲の人たちとほとんど変わらない。
男はパンフレットを見下ろすふりをして、襟元に指を添えた。
「対象二名を確認。白峰悠斗、および四代目陽巫女と思われる少女。観光客を装い、出雲大社周辺を移動中。陽巫女は現代服。白峰悠斗と手をつないでいます」
耳に返ってきた声は短かった。
「接触。反応を見るだけでいい。確保はまだ行うな」
「了解」
男はパンフレットを畳み、観光客の顔に戻って歩き出した。
「すみません」
人当たりのよい笑みだった。
「お二人、観光ですか?」
その瞬間、美耶の背筋が伸びた。
悠斗は嫌な予感がした。
「え」
美耶は、真剣な顔で男を見た。
「ちーす」
悠斗の心臓が、変な跳ね方をした。
「うちら、出雲エモいねって話してて」
男の笑顔が、ほんの少し固まった。
「マジ神ってるというか……神社なので、神ってるのは当然っしょ」
悠斗は、全力で表情を動かさないようにした。
無理だった。
「映えがすごく尊いです、みたいな?」
美耶は言い切った。
敬語と若者言葉と、神社への妙に丁寧な敬意が、奇跡的に噛み合わないまま宙に浮いた。
男は、すぐに返事をしなかった。
悠斗にも、分からなかったのだと思う。
失敗なのか。
作戦なのか。
異文化なのか。
全部なのか。
「……そうですか。楽しんでください」
男は笑顔を保ったまま、一歩引いた。
「はい。楽しみます。ガチで」
美耶が丁寧に頭を下げた。
男は完全に判断を諦めたような顔で去っていった。
参道から少し離れたところで、男はパンフレットを開き直した。
「接触終了。対象少女は現代女子を装った発話を実施。ただし、敬語、若者言葉、神社への感想が不自然に混在。発言内容は、出雲エモい、神社なので神ってるのは当然、映えがすごく尊い、楽しみますガチで、以上」
通信の向こうで、短い沈黙が落ちた。
「……もう一度言え」
男は、わずかに眉を寄せた。
「出雲エモい。神社なので神ってるのは当然。映えがすごく尊い。楽しみますガチで、です」
通信の向こうの沈黙が、さらに重くなった。
「単なる会話の失敗とは限らん。こちらの接触を察知したうえで、意味の取れない若年層語彙を混ぜ、こちらの判断を遅らせた可能性がある」
「意図的な攪乱、という判断ですか」
「断定はしない。白峰悠斗による即席の偽装指導か、陽巫女本人の精神的動揺か、あるいは八咫烏側が想定した会話防御かもしれん。いずれにせよ、普通の観光客として処理するな」
「了解。対象は、想定より高度な攪乱を行う可能性あり」
さらに別の声が、低く割り込んだ。
「それは別項目に分けておけ」
悠斗は、呼吸を思い出すまで数秒かかった。
* 3 *
「今の……なんだか、すごかったね」
男が離れてから、悠斗はようやく言った。
美耶は少し不安そうにこちらを見る。
「現代の女の子として、不自然でしたか」
「不自然というか、独自だった」
「独自」
「どこで覚えたの」
「私は、現代の女の子といえば莉央しか知りませんので」
胸の中で、莉央の声が蘇った。
美耶ちゃん、マジかわいすぎ。
お兄、これもう完全に彼女じゃん。
尊い。
エモい。
ガチ。
悠斗は、額に手を当てた。
「ああ……莉央か……」
「莉央は、現代の女の子として間違っているのですか」
「間違ってはいない。間違ってはいないんだけど、莉央はだいぶ強い」
「強いのですか」
「うん」
少し離れたところから、宗一郎が近づいてきた。表情が真剣すぎる。
「今のは作戦か」
「偶然です」
玲奈が即答した。
「偶然で監視員を退けたのか」
「結果としては」
玲奈は端末に何かを入力しかけ、手を止めた。
「どうしました?」
悠斗が聞く。
「正式な調査記録に、今の会話をどこまで書くべきか迷っています」
「書かないでください」
「私もそう思いました」
美耶が、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「攪乱したつもりはありません」
「だから余計に効いたんだと思う」
悠斗が言うと、美耶はますます分からない顔をした。
軽い笑いが、四人の間に生まれた。
けれど、玲奈の目はすぐに周囲へ戻った。
「今ので相手は確実にこちらを確認しました。接触の目的は、反応を見ることだった可能性が高いです」
「美耶の?」
「美耶さんと、白峰さんの両方です。陽巫女本人の警戒反応、周囲の護衛距離、こちらが監視を認識しているかどうか」
玲奈の声が冷える。
「ただ、向こうも少し混乱したはずです」
「美耶のおかげ?」
「はい。意図的でないところが、かえって読みづらい」
美耶は、胸元の鏡に触れた。
「なら、よかったです」
「いや、よかったのかな」
「悠斗?」
「ううん。助かった」
その時、美耶の表情が変わった。
笑いの名残が消え、彼女は参道の奥へ目を向ける。
「美耶?」
「今、少し」
美耶は胸元を押さえた。
布の下で、天岩戸八咫鏡がかすかに震えた。
昨日のような、言葉への反応ではない。もっと細く、深い場所から引かれるような震えだった。
玲奈がすぐに端末を取り出す。
「痛みは」
「ありません。でも、空気が薄く裂けているような感じがします」
「場所を指せますか」
美耶は周囲を見回した。
鳥居、参道、奥へ続く人の流れ。木々の影。社の屋根。
「はっきりとは。でも、奥ではありません。少し外れたところ……人が祈る場所の中心ではなく、その近くに置き忘れられたもののような」
宗一郎の目つきが変わった。
「社そのものではなく、周辺か」
「神代家の海路記録にありました。社を避け、山影にて祈る」
玲奈は、地図に小さな点を打った。
「今日の目的は、ここまでです」
「もう?」
悠斗は思わず聞いた。
「はい。美耶さんの反応地点、監視員の接触、周辺の人の流れ。これ以上進むと、向こうに必要以上の情報を渡します」
美耶はまだ奥を見ていた。
行きたいのだと思った。
知りたい。近づきたい。佐依が届かなかったもの、壱与の願いを受けた道、その先にある何かへ。
けれど美耶は、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
悠斗は、その横顔を見た。
強くなった、と思う。
無理に進むことだけが強さではない。止まること、戻ること、誰かと相談すること。それも、美耶が佐依と同じ孤独へ向かわないための強さなのだと思った。
* 4 *
少し離れた駐車場へ戻る途中、悠斗は何度か背後を意識した。
見られている。
それはもう気のせいではない。
けれど、さっきまでと違って、怖さの形が少し見えてきた。相手はこちらを捕まえに来たのではない。少なくとも今は、反応を測っている。
何に反応するのか。
美耶か。
鏡か。
出雲の場所か。
それとも、その全部か。
車に戻ると、玲奈はすぐに端末を開いた。宗一郎は黙って地図を覗き込み、美耶は悠斗の隣に座る。つないでいた手は一度離れたが、座ったあと、彼女はそっと指先を重ねてきた。
「怖かった?」
悠斗が聞く。
「はい」
美耶は素直に頷いた。
「でも、熱田の時とは違いました」
「さっきも言ってたね」
「熱田では、誰かの目が先にありました。ここでは、目よりも先に場所があります。人が隠したものよりも、もっと古い傷が先にある気がします」
玲奈が、端末にその言葉を打ち込んだ。
今度は迷っていない。
「反応地点は、出雲大社周辺の中心部から少し外れています。神代家の海路記録と照合します」
「今日はこれ以上動かん方がよいな」
宗一郎が言った。
「ええ。向こうもこちらの動きを見ています」
玲奈は、別画面を開いた。
「ただし、ひとつ分かりました。天叢機関は、出雲周辺に監視網を持っています。偶然ではありません」
「つまり、向こうもここが重要だと知っている」
「少なくとも、重要な可能性があると判断しています」
悠斗は窓の外を見た。
観光客の車が出入りしている。誰かにとっては普通の旅で、誰かにとっては祈りの場所で、誰かにとっては監視対象の区域。
同じ場所なのに、見ているものが違う。
美耶が小さく息を吐いた。
「私は、先ほどの話し方を、もう少し練習した方がよいでしょうか」
車内が止まった。
悠斗はゆっくり美耶を見る。
「どの話し方?」
「出雲エモい、です」
「練習しなくていいと思う」
「でも、効果がありました」
「効果はあったけど」
玲奈が真顔で言った。
「切り札として温存しましょう」
「玲奈さん?」
「多用すると、相手が慣れます」
「戦術扱いしないでください」
宗一郎が吹き出した。
美耶は真剣に頷いている。
「分かりました。ここぞという時に使います」
「美耶、今のはたぶん冗談」
「冗談でしたか」
「半分は」
玲奈の声が静かに落ちる。
悠斗は、もう訂正するのを諦めた。
笑いがある。
監視もある。
祈りの場所も、古い傷もある。
その全部が、今日の出雲大社だった。
美耶の鏡は、もう震えていない。
けれど悠斗には、さっきの細い震えが手の中に残っているような気がした。見えない何かが、ほんの少しだけ息をした。その場所を、美耶だけが感じ取った。
玲奈が地図に印をつける。
出雲大社の中心から、少し外れた場所。
まだ答えではない。
けれど、ただの欠落でもなくなった。
車が一時拠点へ向けて動き出す。
窓の外で、大きな鳥居が少しずつ遠ざかっていく。
美耶はそれを見つめ、ぽつりと言った。
「近いです」
悠斗は、彼女の手を握った。
今度は何も聞かなかった。
近い。
その一言だけで、十分だった。
出雲の空の下で、消された道は、もう沈黙だけではいられなくなっていた。




