第25話 出雲へ
出発の準備というものは、もっと大きな音がするのだと悠斗は思っていた。
けれど、山沿いの八咫烏一時拠点で始まったそれは、拍子抜けするほど静かだった。
神代玲奈は端末を二台並べ、移動経路、宿泊先、表向きの調査名目を淡々と組んでいく。御影宗一郎は古い地図と切り抜きを鞄に詰め、時々「これは要る」「これは今さら要らん」とひとりで呟いていた。
美耶は会議卓の端に座り、胸元の天岩戸八咫鏡に手を添えている。
出雲へ向かう理由も、危険なら退くことも、昨夜すでに四人で確認した。今朝の玲奈は同じ説明を繰り返さず、偽装身分証と緊急連絡手段だけを一人ずつ確かめていく。
答えを見つけた旅ではない。誰かに消された空白が、今度はどこへ続くのかを確かめる旅だ。
宗一郎が紙資料を詰め込んだ鞄を持ち上げると、底が抜けそうな音がした。
「先生、それ全部持っていくんですか」
「紙は電池切れせん」
「先生の方が先に切れます」
美耶が、薄い影を残したまま、それでも小さく笑った。
* 1 *
悠斗は、自分の鞄を開けた。
服は少ない。最低限の着替えと、充電器と、玲奈に渡された身分証に近いもの。現実の旅行なら母に準備を見られ、莉央に冷やかされ、父に行き先を何度も確認されていたかもしれない。
今は、そのどれもない。
代わりに、財布の中に父から渡された小遣いが入っている。
白峰家を出る時、直人は詳しい事情を聞かなかった。聞きたいことは山ほどあったはずなのに、悠斗が話せる範囲だけを受け取り、最後に封筒を渡してくれた。
困った時に使いなさい。
美耶さんにも、必要なものを買ってあげなさい。
そして、帰ってきなさい。
その言葉が、財布の中で重みを持っていた。
「悠斗」
横から美耶が覗き込む。
「それは、何ですか」
「父さんがくれたお金」
「お父様が」
「出かけるなら持っていけって。美耶に必要なものがあったら買えって言ってた」
美耶は、財布ではなく悠斗の顔を見た。
「直人様は、私にも使ってよいとおっしゃったのですか」
「うん」
「私は、白峰家の方々に、いただいてばかりです」
美耶の声が、少しだけ沈んだ。
「春香様のお食事も、莉央の髪飾りも、直人様のお言葉も」
「もらったら、返せばいいんじゃないかな」
「何を返せばよいのでしょう」
悠斗は少し考えた。
「帰ること」
美耶は瞬きをした。
「帰る、ですか」
「父さんも母さんも、たぶんそれが一番嬉しいと思う。俺が帰って、美耶も一緒に来て、無事だったって言うこと」
言いながら、悠斗は自分で少し驚いた。
帰る。
少し前まで、その言葉は自分にとって部屋へ戻ることだった。外で傷つく前に、自分の時間が止まっている場所へ逃げ込むことだった。
でも今は違う。
帰る場所は、逃げ込む場所ではない。
誰かに無事を見せに戻る場所だ。
「……私は、また白峰家へ行ってもよいのでしょうか」
美耶が小さく聞いた。
「当たり前だよ」
「春香様のお味噌汁を、またいただいても」
「母さん、たぶん喜ぶ」
「莉央に、また髪を結っていただいても」
「莉央は絶対喜ぶ。たぶん写真撮りまくる」
「写真は、少し緊張します」
「そこは俺も止める」
美耶は胸元の鏡に触れた。
「邪馬台国へ帰らなければならないことは、変わりません」
「うん」
「でも、白峰家にも、また帰りたいと思ってしまいます」
それは、とても小さな告白だった。
邪馬台国を見捨てない。祖母も、父母も、民も待っている。美耶の使命は変わらない。
それでも、現代に帰りたい場所ができてしまった。
そのことを、彼女は少し申し訳なさそうに言った。
「思っていいよ」
悠斗は言った。
「帰りたい場所は、一つじゃなくてもいいと思う」
美耶は、すぐには返事をしなかった。
けれど、髪に挿した莉央の髪飾りへ、そっと指を添えた。
「はい」
その一言だけで、十分だった。
* 2 *
昼を少し過ぎた頃、拠点の裏手に黒い車が回された。
いかにも秘密組織の車、というわけではない。白いロゴのない、落ち着いた色のワンボックス。玲奈によれば、文化財調査の移動車として登録されているらしい。
「登録されているって、どこにですか」
「必要なところです」
「答えになってない」
「補助員の仕事を思い出してください」
「余計なことを言わない」
「優秀です」
「褒められた気がしない」
宗一郎は後部座席に資料鞄を置き、満足そうに頷いた。
「これで何が出ても困らん」
「先生、その鞄だけで一泊できそうですね」
「資料とは住むものじゃ」
「違うと思います」
美耶は車を見上げ、以前ほど怯えてはいなかった。
最初に車へ乗った時、彼女は鉄の箱に閉じ込められるように身を固くしていた。今も慣れたとは言えない。けれど、悠斗の隣に座ると、自分でシートベルトを手に取った。
「こう、ですね」
「うん。上手くなった」
「上手くなるものなのですか」
「たぶん」
美耶は少し誇らしげに頷いた。
車が動き出す。
山沿いの拠点が窓の外で遠ざかっていく。木々の影が流れ、道が下り、やがて普通の家や店が見え始めた。日常の景色だ。コンビニ、信号、ランドセルを背負った子供、犬を連れた老人、スマホを見ながら歩く高校生。
その全部が、悠斗には少し遠く見えた。
自分も本当なら、あの景色の側にいるはずだった。
でも今、自分は出雲へ向かっている。消された記録を追い、陽巫女の隣に座り、秘密組織の車に乗っている。
現実感がないのに、財布の中の小遣いだけが妙に現実だった。
「悠斗」
美耶が窓の外を見ながら言った。
「陽の世界は、明るいですね」
「邪馬台国は、違う?」
「空はあります。光もあります。でも、どこか薄いのです。祖母は、昔はもっと明るかったと話していました」
祖母。
美那。
宗一郎の肩が、わずかに動いた。
美耶は続ける。
「私は、その昔の明るさを知りません。生まれた時から、邪馬台国は少しずつ暗くなる国でした。だから、陽の世界の空を見ると、胸が苦しくなる時があります」
「苦しい?」
「はい。綺麗だからです」
美耶は、窓に映る自分の顔を見た。
「こんなに明るい場所から、私は帰らなければならない。けれど、私の国にも、本当はこの明るさがあったのだと思うと、悔しいのです」
悠斗は言葉を探した。
慰めでは足りない。
約束でも、まだ軽い。
「戻そう」
結局、それだけを言った。
美耶がこちらを見る。
「俺、詳しい理屈はまだ全部分かってない。何ができるかも分からない。でも、美耶の国が本当はもっと明るかったなら、その明るさを取り戻したい」
美耶の目が、少しだけ揺れた。
「悠斗は、私の国を見たことがありません」
「うん」
「それでも、そう言ってくださるのですか」
「美耶が帰りたい場所だから」
言ってから、胸が熱くなった。
帰りたい場所。
白峰家も、邪馬台国も。
どちらも、美耶にとってなくしていいものではない。
「それに」
悠斗は、少しだけ視線を落とした。
「邪馬台国を戻して、美耶が帰って、俺だけ現代に戻って終わり、みたいなのは嫌だ」
車内が、一瞬静かになった。
玲奈が前を向いたまま動かなくなる。
宗一郎が窓の外を見るふりをする。
美耶だけが、まっすぐ悠斗を見ていた。
「嫌、なのですか」
「嫌だよ」
「それは」
美耶は少しだけ頬を赤くした。
「覚えておいても、よい言葉ですか」
悠斗は、返事に詰まった。
「……少しだけなら」
「少しだけ、覚えておきます」
美耶は、嬉しそうに言った。
前の座席で、玲奈が小さく咳払いをした。
「補助員の会話としては、かなり余計です」
「今のもだめなんですか」
「記録には残しません」
「残さないでください」
宗一郎が、肩を震わせて笑っていた。
* 3 *
休憩に入ったサービスエリアは、夏の匂いがした。
アスファルトの熱、売店から漂う揚げ物の匂い、遠くで鳴る案内放送。観光客らしい家族連れがいて、学生らしい集団がいて、誰も悠斗たちの事情など知らない。
知らないままでいてほしいと思った。
玲奈は駐車位置を選び、周囲を確認してから言った。
「十分だけ休憩します。人の多い場所から離れすぎないでください」
「了解です」
「白峰さん」
「余計なことを言わない」
「今回は、離れすぎない、です」
「すみません、注意事項が増えてきた」
美耶が隣で笑う。
売店には、地域の菓子や小さな土産物が並んでいた。出雲に近づくにつれ、棚には勾玉をかたどった飾りや、縁結びと書かれた品が増えている。
美耶は、その一つ一つを真剣に見ていた。
「これは、祈りの品ですか」
「お土産、かな」
「お土産」
「行った場所で買って、帰った人に渡すもの」
美耶は、はっとしたように悠斗を見た。
「春香様と莉央に、買って帰れますか」
「もちろん」
「直人様にも」
「父さんにも」
悠斗は財布を出した。
父からもらった小遣い。
危険な旅のための現実的な備え。それを、誰かへ帰るための土産に使う。
そのことが、悠斗にはひどく大事に思えた。
「どれがよいでしょう」
美耶は真剣だった。
「春香様には、温かいものがよい気がします。食べ物でしょうか。莉央には、きらきらしたものが似合います。直人様には……」
「父さんは、何でも喜ぶと思う」
「何でもでは困ります」
「じゃあ、渋いやつ」
「渋い」
美耶は棚を見回し、小さな和菓子の箱を手に取った。
「これは、渋いですか」
「たぶん」
「では、直人様に」
悠斗は笑いながら頷いた。
春香には菓子。莉央には小さな勾玉風のストラップ。直人には渋い包装の菓子。
たったそれだけの買い物なのに、美耶はひとつ選ぶたびに、誰かの顔を思い浮かべているようだった。
会計を終えると、美耶は袋を両手で大事そうに持った。
「帰る理由が、増えました」
その言葉に、悠斗は胸を突かれた。
「うん」
帰る理由。
美耶が使命のためだけではなく、誰かに土産を渡すために帰る。それは小さくて、でも強い理由だった。
その時、美耶の指が袋の持ち手をきゅっと握った。
「悠斗」
声が変わっていた。
「見られています」
悠斗は反射的に振り向きかけた。
しかし、その前に玲奈が隣へ来た。
「振り向かないでください」
低い声だった。
悠斗は首を止める。
売店のガラスに、背後の景色が薄く映っていた。人の流れ。ベンチ。自動販売機。その向こうで、スマホを耳に当てた男が一人、こちらを見ていないように立っている。
見ていないように見える。
だからこそ、嫌だった。
「直接接触はありません」
玲奈は、普通の声量に戻した。
「車へ戻ります。急がず、自然に」
美耶は頷いた。
怖がっている。それは分かった。
でも、袋を落とさなかった。
悠斗は、美耶の反対側に立った。宗一郎が少し遅れて合流し、何事もなかったように自動販売機の缶コーヒーを手にしている。
「先生、それ買ってる場合ですか」
「自然に、じゃろう」
「自然さの方向が強い」
美耶が、緊張したまま少しだけ笑った。
その笑いを守りたいと、悠斗は思った。
* 4 *
車が再び走り出してから、玲奈は端末を膝の上で操作した。
「サービスエリア内に、天叢機関系の監視員と思われる人物がいました」
「もう追いつかれたのか」
宗一郎の声が低くなる。
「追いついたというより、広く網を張っているのでしょう。こちらが熱田以外へ動く可能性を見ていた。出雲方面への移動も、いずれ把握されます」
「だったら、今のうちに経路を変えるとか」
「変えます。ただし、完全には撒けません」
玲奈は淡々としていた。
「向こうに見つからないことだけを優先すると、こちらも調査できなくなります。今は、見られている前提で、何を見せるかを選びます」
「何を見せるか」
「文化財調査チームとして出雲方面へ向かう姿です。目的地も手順も核心は見せません」
美耶は、膝の上の土産袋をそっと抱え直した。
「私は、うまく普通の人に見えますか」
「普通の人、ですか」
玲奈が少しだけ考える。
「黙っていれば」
「玲奈さん」
「話す内容を選べば、問題ありません」
「それは、先ほどの悠斗と同じ注意です」
「そうですね」
美耶は真剣に頷いた。
「では、私も補助員です」
「美耶は余計なこと言わない方だと思うけど」
「そうでしょうか」
「俺よりは」
「それは、基準として大丈夫なのですか」
玲奈が、前を向いたまま言った。
「大丈夫ではありません」
悠斗は返す言葉を失った。
車内に、小さな笑いが落ちる。
すぐに消える笑いだ。けれど、消えても跡が残る。緊張の中に、人がいるという跡が。
窓の外の空が、少しずつ広くなっていく。
山の形が変わり、海の気配が遠く混じり始める。地図の上でしか見ていなかった方角が、現実の道になっていく。
美耶は、窓の外をじっと見つめていた。
「近づいています」
その声は、さっきまでの会話とは違っていた。
悠斗は姿勢を正す。
「鏡が反応してる?」
「今は震えていません。ただ、空気の奥が少し違います。熱田の時のように、人の目が集まる怖さではありません」
「じゃあ、何に近い?」
美耶は、答えを探すように目を細めた。
「誰かが待っている、というより……置き去りにされたものが、まだそこにあるような気がします」
置き去りにされたもの。
悠斗は、その言葉を胸の中で繰り返した。
佐依が届けられなかった道。
壱与の願いを受けた家が、曖昧に残した海路。
熱田へ寄せられ、出雲周辺から削られた記録。
人が隠し、人が歪め、人が忘れたふりをしてきたもの。
その奥に、まだ声にならないものがある。
「今日は出雲市内には入りません」
玲奈が言った。
「手前の拠点で止まります。周辺の監視状況を確認してから、明日、現地確認に入ります」
「分かりました」
美耶は頷いた。
悠斗は、窓の外を見た。
空は明るい。
けれど、その明るさの下で、誰かが消した道が少しずつ近づいている。
怖くないわけではない。
むしろ、近づくほど怖さは輪郭を持つ。
それでも、美耶は隣にいる。土産袋を抱え、莉央の髪飾りを揺らし、邪馬台国と白峰家の両方へ帰る理由を持っている。
その理由を、誰かの都合で奪わせたくなかった。
車は西へ進む。
出雲へ続く空の下で、悠斗は膝の上の拳を静かに握った。
まだ答えは見えない。
けれど、帰る場所を持ったまま進む道は、もう逃げ道ではなかった。




