第24話 出雲の欠落
玲奈は、端末の画面を閉じなかった。
代わりに、別の端末を立ち上げ、会議卓の中央へ地図を投影した。古代の海路、後世の社伝、神代家に残る移動記録、熱田へ寄せられた草薙剣伝承。いくつもの薄い線が、半透明の層になって重なっていく。
さっきまでの沈黙とは、部屋の空気が少し違った。
佐依の名が消えたわけではない。その重さは、まだ誰の胸からも離れていない。けれど今、画面に映っているのは、ひとりの少女の終わりではなく、その終わりを覆い隠すために動かされた記録の流れだった。
「ここからは、地名そのものよりも、抜け方を見ます」
神代玲奈はそう言って、熱田周辺を示す線だけを残した。
画面の上で、何本もの線が一点へ寄っていく。
古い写し。後世の注釈。社の由緒。祭祀に関する覚書。時代も書き手も違うはずのものが、最後には同じ場所へ収まっていく。
「多いですね」
悠斗は言った。
「ええ。多いです」
玲奈は頷いた。
「ただ、多いことだけなら不自然とは言い切れません。熱田は、表の伝承として強い場所です。問題は、資料ごとの揺れまで削られているように見えることです」
御影宗一郎が、腕を組んだまま低く笑った。
「昔話というものは、もっと勝手に散らかる。土地が違えば名も変わる。聞いた者が足し、書いた者が削る。矛盾も残る。それが普通じゃ」
「でも、これは散らかっていない」
「そうじゃ。古すぎるのに、行儀がよすぎる」
宗一郎の言葉に、美耶が眉を寄せた。
「行儀がよい記録は、よいものではないのですか」
「場合によるのう」
宗一郎は、熱田へ集まる線を指でなぞるように見た。
「自然に整ったものならよい。だが、誰かが整えたものなら、整えた者の都合が混じる」
玲奈は次に、別の層を表示した。
熱田へ向かっていた線が薄くなり、代わりに空白が浮かび上がる。
それは、線ではなかった。
欠けている場所だった。
海路の途中で途切れた文。
地名だけを削られた注釈。
写本に残った不自然な余白。
同じ地域を通るはずの記録だけが、妙に痩せている。
* 1 *
「こちらは、出雲周辺です」
玲奈が言った。
悠斗は息を止めた。
出雲。
頭に浮かんだ瞬間、口にする前に玲奈の声が重なった。雲立つ地という言葉から連想するのは自然だ。けれど、それを答えにしてはいけない。
「出雲と書かれているんですか」
「はっきりそう書かれている資料は、今ここにはありません」
玲奈の返答は早かった。
「あるのは、出雲を連想させる語、出雲周辺に重なる海路、そして、そこだけが不自然に欠けている資料群です」
美耶は、胸元の天岩戸八咫鏡にそっと触れた。
「欠けていることが、手がかりなのですね」
「はい」
玲奈は、欠落箇所を赤く示した。
「熱田は残されすぎている。出雲周辺は消されすぎている。この差が重要です」
悠斗は地図を見つめた。
残りすぎている場所。
消されすぎている場所。
どちらも自然ではない。片方は目立つように残され、もう片方は目立たないように削られている。
「つまり、熱田は見せるための道で、出雲は見せないための空白」
「まだ仮説です」
玲奈はすぐに釘を刺した。
「ですが、今の資料だけでも、その可能性は高い」
宗一郎が鼻を鳴らした。
「やっと、空白の形が見えてきたか」
「空白の形、ですか」
「消されたものは、何も語らん。だが、消し方は語る。どこを残し、どこを削り、どこへ目を向けさせたか。犯人の癖のようなものじゃ」
犯人。
悠斗は、その言葉に少しだけ喉を詰まらせた。
歴史の話をしているはずなのに、今は本当に誰かの手を追っているようだった。墨を塗った手。写しを削った手。熱田へ線を寄せた手。佐依が届かなかった場所のまわりで、何かを奪い、隠した手。
美耶の横顔は、さっきより静かだった。
悲しみが消えたのではない。怒りに変わったのでもない。ただ、受け止める場所が少し変わったように見えた。
失われた命だけでなく、そのあとに残された歪みへ、視線が移り始めている。
* 2 *
「この文を見てください」
玲奈は、神代家の祖先が残した海路記録を開いた。
――雲立つ地、海より入り、社を避け、山影にて祈る。
前の記録よりも長い。けれど、やはり肝心なところは曖昧だった。
「社を避ける、か」
悠斗は呟いた。
「出雲を連想するなら、社へ行くと書いてあってもよさそうなのに」
「そこが引っかかります」
玲奈は、社という字を拡大する。
「社そのものを避けたのか。社を目印にしながら、別の場所へ向かったのか。あるいは、後から読まれた時に誤解されるよう、わざと曖昧にしたのか」
「壱与さんから託されたあとなら」
悠斗は、画面から目を離さずに言った。
「神代家の祖先も、はっきり書けなかったんですよね」
「その可能性があります。神器に関わる情報は、人を殺す理由になる。壱与様の死を知っていれば、なおさらです」
美耶が、鏡を握る手に力を込めた。
「書かなければ、失われる。でも、書けば奪われる」
誰も、すぐには返事をしなかった。
それは、壱与だけの苦しみではない。
神代家の祖先も、宗一郎も、玲奈たち八咫烏も、同じものを別の形で抱えてきたのだろう。
残すことは、守ることでもある。
同時に、危険を未来へ運ぶことでもある。
「だから、欠けた形で残した」
美耶は小さく言った。
「分かる人だけが、いつか分かるように」
玲奈は、少しだけ目を伏せた。
「そうであってほしい、と私は思います」
断定ではない。
けれど、その慎重さは冷たさではなかった。
美耶も、それを受け取ったように頷いた。
* 3 *
「美耶さん」
玲奈は端末から顔を上げた。
「出雲方面へ向かう理由を、ここで誤らないようにします。私たちは、草薙剣の在処を掴んだわけではありません。そこへ行けば答えに触れられる、という保証もありません」
「はい」
「向かう理由は、記録の欠け方です。熱田へ集められた線の裏で、出雲周辺だけが削られている。その理由を確かめるためです」
美耶は、ゆっくり息を吸った。
「分かりました」
声は細かった。
けれど、先ほどまでとは違い、無理に強く聞かせようとはしていなかった。
「私は、まだ怖いです」
悠斗は、美耶を見る。
美耶は視線を落とさなかった。
「陽の世界で捕まることも、佐依様がどう終わったのか分からないことも、怖いです。でも、怖いからこそ、何も知らないまま同じ道を歩く方がもっと怖い」
悠斗は黙って頷いた。
ここで軽く励ませば、薄くなる。
ここで大丈夫だと言えば、嘘になる。
だから、ただ隣に立つ。
「私は、行きます」
美耶は言った。
「でも、陽巫女として命じられて行くのではありません。佐依様の代わりになるためでもありません。私が、確かめたいから行きます」
玲奈の目が、わずかに揺れた。
宗一郎は、何も言わずに深く頷く。
「それなら、俺も行く」
悠斗は言った。
美耶がこちらを見る。
「何があるか分からない。俺に何ができるかも、正直分からない。でも、美耶が自分で行くって決めたなら、俺はその隣にいたい」
「悠斗」
「それに」
悠斗は、少しだけ息を吐いた。
「分からない場所へ行くなら、一人で悩むより、二人以上で悩んだ方がまだましだと思う」
美耶は、ほんの少しだけ笑った。
「悠斗らしいです」
「褒めてる?」
「はい」
即答されて、悠斗の方が言葉に詰まった。
宗一郎が、わざとらしく咳払いをする。
「若い者が決めたなら、年寄りも荷物をまとめるかのう」
「宗一郎さんも、来てくれるんですよね」
「当然じゃ。四十年追った国の欠け跡を前にして、留守番などできるか」
玲奈は端末を閉じ、別の画面を開いた。
そこからは、空気が一段現実に戻った。
* 4 *
「表向きは、神代古代文化財団による古代海路と文化財関連資料の現地確認にします。移動経路、宿泊先、同行者の身分はこちらで整えます」
「俺と美耶は?」
「私の補助員です」
「補助員って、具体的には」
「余計なことを言わない人です」
「それ、俺に一番難しいやつじゃないですか」
「自覚があるなら、まだ望みがあります」
玲奈の声はいつも通り淡々としていた。
美耶が、堪えきれないように小さく笑う。
その笑いは、明るいものではない。
でも、張り詰めた糸を少しだけ緩めるには十分だった。
その時、玲奈の端末に短い通知が入った。
彼女は内容を確認し、すぐに画面を伏せる。
「熱田方面に残っていた警戒の目が、まだ完全には外れていません」
「もう見られているのか」
悠斗が聞く。
「直接追われているわけではありません。ただ、こちらが熱田以外の資料に触れ始めたことを、どこかで拾われた可能性があります」
「急いだ方がいい、ということじゃな」
宗一郎の声が低くなる。
「はい。ただし、雑には動きません。今夜までに移動準備を整えます」
美耶は、もう一度だけ地図を見た。
熱田へ集まる線。
出雲周辺で途切れる線。
そして、その空白の中に置かれた短い言葉。
――雲立つ地、欠けたる記録を追うべし。
美耶の鏡は、今度は震えなかった。
けれど悠斗には、彼女がその言葉を胸の内側へ沈めたのが分かった。
答えはまだない。
あるのは、誰かが削った跡だけだ。
それでも、跡があるなら追える。
出雲へ向かう理由は、何かを見つけたからではない。
そこだけが、消されすぎているからだ。
悠斗は地図の空白を見つめた。
佐依が届かなかった道。
壱与の願いを受けた家が、曖昧に残した言葉。
誰かが熱田へ寄せ、誰かが別の場所を削った記録。
その全部が、まだ声にならないまま、出雲の方角に沈んでいる。
次に足を向ける方角だけが、静かに定まった。




