第44話 星空で会いましょう
夏休みが終わる三日前、悠斗はノートの最後のページを開いた。
窓の外では、蝉の声が少し遠くなっていた。
机の上には、宗一郎から託された家の鍵と、学校から届いた封筒が並んでいる。
返事のない星空へ「明日も見る」と告げた夜から、悠斗は毎日少しずつノートを書いた。
古代中国の記録。消えた地名。三つの神器。歴代の陽巫女。宗一郎と出会ってから知ったことを、最初から読み直した。
本当のことを、すべて残すことはできない。
陰の世界も、ヤーマとイーラも、千八百年近い時を隔てた少女と出会ったことも、誰かに証明できる形では書けなかった。
けれど、書けないからといって、なかったことにはしたくない。
悠斗は最後のページへ、ゆっくりとペンを走らせた。
――邪馬台国は、消えたのではない。
一度、手を止める。
青空を見上げた美耶の顔が浮かんだ。
初めて風を知り、鳥の声を聞き、陽射しの中で両親に抱きしめられた少女。
あの夏は、夢ではない。
悠斗は続きを書いた。
――帰るべき場所へ、帰った。
その下に、日付と自分の名前を記す。
ペンを置いた。
机の前で、長く息を吐く。
「終わった」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
父に、何か夢中になれるものを探してみたらどうかと言われて始めたものだった。
学校へ出すためではない。誰かに褒めてもらうためでもない。
自分で始め、自分の足で答えまでたどり着き、自分で終わらせた。
表紙を閉じる。
――邪馬台国はどこへ消えたのか。
その問いを追いかけた先で、悠斗は美耶と出会った。
答えを得た今も、美耶はいない。
胸の痛みは、何一つ終わっていなかった。
それでも、止まっていたものが一つ、確かに最後まで動いた。
悠斗は学校からの封筒を手に取った。
今度は、開いた。
* 1 *
新学期の朝。
鏡の中に、制服姿の自分がいた。
袖へ腕を通しただけで、胸が苦しくなる。
一年前、最後に教室へ入った日の声が蘇った。
笑い声。机を蹴る音。こちらを見ながら交わされる、聞こえるように抑えた囁き。
身体は覚えていた。
指先が冷たい。呼吸が浅くなる。
鞄を持ったまま、部屋の扉を開けられない。
学校へ戻ることを、ずっと怖いと思っていた。
けれど、制服を着て玄関へ向かおうとしている今、不思議と、以前ほど大きなものには感じなかった。
政府の秘密組織に追われた。妖しきものの群れに襲われ、陰の世界を歩き、神のような存在と向き合った。美耶たちと力を合わせ、一つの国が帰る道を開いた。
それに比べれば、教室で向けられる悪意は、もう世界の終わりではなかった。
怖くないわけではない。あの場所で受けた痛みが、消えたわけでもない。
ただ、以前の悠斗にとって、世界はこの家と学校だけだった。
家の外へ出れば学校があり、そこで居場所を失えば、世界のすべてから拒まれたように思えた。
今は違う。
世界は、教室よりもはるかに広い。
海の向こうにも、歴史の向こうにも、時空の向こうにさえ、人が生きる場所がある。自分を信じてくれた人がいる。命を懸けて守りたいと思った人がいる。
その広さを知った自分は、もう一年前の自分ではなかった。
悠斗はそこで初めて、この夏に自分が変わったことを、はっきりと感じた。
悠斗は鞄の中を確かめた。
教科書の隣に、完成したノートを入れてある。
学校へ提出するためではない。
自分がこの夏を生きた証を、置いていかないためだった。
階段を下りる。
玄関では、直人が靴を履く悠斗を待っていた。春香は少し離れたところで、弁当箱を包み直している。
莉央は階段の途中から顔を出した。
「お兄、ガチで行くの?」
「うん」
「無理そうなら帰ってくればいいんじゃね? 一日行っただけで全部クリアとか、そんなゲームじゃないっしょ」
春香が振り返る。
「莉央」
「なに。うち、いいこと言ったっしょ?」
「そうね」
春香が笑うと、莉央は得意そうに胸を張った。
悠斗は少し笑った。
「ありがとう、莉央」
「うわ、素直。今日のお兄、逆に怖いんだけど」
春香が弁当を差し出した。
「いってらっしゃい」
それだけだった。
頑張れとも、もう大丈夫とも言わない。
悠斗は弁当を受け取った。
「行けそうか」
直人が尋ねる。
行ける、と言い切る自信はなかった。
学校へ着いて、校門の前で動けなくなるかもしれない。教室の声を聞いた瞬間、引き返すかもしれない。
それでも、今ここで選べる答えは一つだった。
「うん」
悠斗は玄関の戸を開けた。
「行ってきます」
* 2 *
校門を越えると、心臓の音が大きくなった。
昇降口。廊下。階段。
知っている場所なのに、どこも遠かった。
すれ違う生徒が悠斗を見る。
すぐに目を逸らす者。友人へ何かを囁く者。驚いた顔のまま立ち止まる者。
その視線を一つずつ数えていたら、教室にはたどり着けない。
悠斗は前を見た。
教室の扉がある。
手をかける。
指が震えた。
美耶の手を思い出した。
怖いとき、何度も握ってくれた手。
今、その手はない。
だから、自分の手で開ける。
扉を横へ引いた。
教室の声が止まった。
何十もの顔が、いっせいに悠斗へ向く。
喉が塞がる。
足が床へ貼りついたように動かない。
窓際にいた男子生徒が、口元だけで笑った。
「また来たんだ」
一年前なら、その一言で俯いていた。
言い返せばもっと笑われる。黙っていれば早く終わる。そう思って、自分がそこにいることまで小さくしていた。
今も怖かった。
声を出せば震えると分かっていた。
それでも悠斗は、相手を見た。
「来たよ」
声は少し掠れた。
けれど、届いた。
その瞬間、悠斗は気づいた。
ずっと巨大に見えていたものは、実際に向き合ってみれば、思っていたほど大したものではなかった。
目の前にあるのは、一つの教室にすぎなかった。
かつては世界そのものに見えた場所が、今は広い世界の中にある、小さな一室へ戻っている。
教室が小さくなったのではない。
悠斗の知る世界が、広くなったのだ。
それ以上は言わない。
勝ち負けにする必要もない。相手を言い負かして、過去をなかったことにする必要もない。
自分の席まで歩く。
椅子を引き、座る。
誰かがまた小さく笑った。
別の誰かが、気まずそうに教科書を開いた。
担任が入ってきて、朝のホームルームが始まる。
窓の外には、夏の終わりの空があった。
授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。
昼休みには弁当を半分しか食べられなかった。
何度も帰りたいと思った。
それでも、悠斗は最後のチャイムまで席にいた。
一日で何かを取り戻したわけではない。
明日も来られるかは、まだ分からない。
けれど今日は、自分で扉を開け、自分で席へ座った。
それで十分だった。
* 3 *
放課後、悠斗は宗一郎の家へ向かった。
制服のポケットには、あの鍵が入っている。
庭の草は伸びたままだった。
閉じた窓。古びた戸。人の気配のない家。
前に来たときは、玄関の前から動けなかった。
悠斗は鍵を取り出した。
「先生」
呼んでも返事はない。
鍵穴へ差し込み、回す。
小さな金属音がした。
戸を開ける。
閉じ込められていた紙と畳の匂いが流れ出した。
「お邪魔します」
誰もいない家へ声をかけ、靴を脱いだ。
廊下には、以前と同じように本が積まれている。研究室の机には資料が広げられ、壁には書き込みだらけの地図が貼られていた。
宗一郎だけがいない。
机の上を探した。
引き出しも開けた。
どこにも、悠斗へ宛てた手紙はなかった。
胸のどこかで、期待していたのかもしれない。
戻らないと決めた宗一郎が、すべてを説明する言葉を残していることを。
けれど、この家に残っているのは、答えではなかった。
読み込まれた本。書き損じた紙。何度も線を引き直した地図。四十年という時間を使って、それでも諦めなかった人の跡だった。
悠斗は机の前に座った。
鞄から自分のノートを取り出し、宗一郎が書き込みを重ねた研究ノートの隣へ置く。
二冊のノートの厚さは、比べるまでもない。
それでも、自分の時間もここへ続いている。
「使わせてもらいます」
悠斗は立ち上がり、誰もいない部屋へ頭を下げた。
「先生が残したものを、俺が生きるために」
研究者になるかは分からない。
邪馬台国の真実を世へ出せる日が来るのかも分からない。
今すぐ将来を決める必要はなかった。
ただ、宗一郎が止まらなかったように、自分もここから考え続けることはできる。
戸締まりをして外へ出る。
夕暮れの空に、一番星が見え始めていた。
悠斗は白峰家とは違う方角へ歩き出した。
この夏の始まりに、美耶と出会った場所へ。
* 4 *
草の匂いを含んだ風が吹いていた。
あの夜、空間が裂け、美耶が光の中から現れた場所。
今は何もない。
焼けた跡も、光も、世界の境目も残っていなかった。
頭上には星空だけがある。
悠斗は草の上へ座った。
夏の大三角形を探す。
ベガとアルタイルは、今夜も変わらず輝いていた。
「学校へ行ったよ」
星へ話しかける。
「最後まで、教室にいた」
返事はない。
「研究も終わった」
風が草を揺らした。
「先生の家にも入ったよ」
伝えたいことが、たくさんあった。
美耶が隣にいたなら、きっと目を輝かせて聞いてくれた。
学校へ行ったことを、自分のことのように喜んでくれた。
宗一郎の家へ入れたことを、静かにうなずいてくれた。
悠斗は膝を抱えた。
「美耶も今、あの星を見てるのかな」
「はい」
声がした。
あまりにも近くから。
「見ていますよ」
息が止まった。
振り返ることができない。
聞き間違えるはずのない声だった。
毎晩、もう一度だけ聞きたいと願った声。
それでも、振り向いて何もいなかったら、今度こそ立てなくなる気がした。
「悠斗」
名前を呼ばれた。
悠斗は、ゆっくり振り返った。
星明かりの下に、美耶が立っていた。
長い黒髪が、夏の風に揺れている。
髪には、莉央が渡した小さなヘアピンが留まっていた。
白い衣。胸元の天岩戸八咫鏡。涙を浮かべながら、それでもまっすぐ悠斗を見る瞳。
あの夜、初めて出会ったときとは違う。
怯えていない。
帰る場所を失って、助けを求めて現れた少女ではない。
自分で行く場所を選び、自分の足でここへ来た美耶だった。
「どうして」
声が震えた。
「どうして、ここに」
美耶は両手に持っていたものを、胸の前へ上げた。
一通の手紙だった。
表には、見覚えのある少し癖の強い字で書かれている。
――白峰君へ。
「宗一郎様からです」
美耶が一歩近づく。
「悠斗に渡してほしいと、預かってきました」
悠斗は立ち上がった。
足元が揺れているようだった。
手紙へ伸ばした指が、美耶の指に触れる。
温かい。
幻ではない。
白い靄の向こうへ消えた温度が、そこにある。
「美耶」
名前を呼ぶと、美耶の瞳から涙が落ちた。
「はい」
「本当に、美耶なんだね」
「はい」
美耶は泣きながら笑った。
「ただいま、悠斗」
その一言で、悠斗の視界も滲んだ。
「おかえり」
ずっと言いたかった言葉だった。
* 5 *
悠斗は震える手で封を開いた。
美耶が隣に座る。
肩が触れた。
それだけで何度も手紙から目を離し、美耶がいることを確かめたくなる。
紙には、宗一郎の字が並んでいた。
――白峰君へ。
――元気にしとるか。
――お前さんが帰った後のことを、少しだけ書いておく。
そこから先を、悠斗は声に出さず読んだ。
ヤーマが去り、神に守られ、神に縛られていた大国は終わった。
邪馬台国の民がすぐに滅びたわけではない。だが、以前と同じ一つの国として残ることもなかった。
海へ向かった者。山へ入った者。別の集落に身を寄せた者。
人々は、自分で生きる場所を選び、それぞれの土地へ散っていった。
美耶も、もう一人で国を背負う陽巫女ではない。
そこまで読んで、悠斗は隣を見た。
美耶がうなずく。
「お母様とお父様は、人々と一緒に新しい集落へ移りました。おばあ様も、宗一郎様と共に皆を助けています」
「国は、なくなったの?」
「ヤーマ様に守られた大国は、終わりました」
美耶は静かに答えた。
「でも、人々は生きています。それぞれの場所で、自分たちの明日を選んでいます」
滅びたのではない。
形を変え、後の時代へ散っていった。
だから、歴史から一つの国の名が消えても、その国に生きた人々まで消えたわけではない。
悠斗は手紙へ目を戻した。
――わしは美那と残った。
――四十年待たせたぶん、これからの余生くらいは一緒に楽しませてもらう。
胸の奥に、宗一郎の笑い声が聞こえた気がした。
――わしの家は、お前さんが好きに使え。
――本も資料も、邪馬台国を追い続けた時間も、全部あそこに置いてある。
――今度は、お前さんが生きるために使えばいい。
今日、あの机へ置いてきた自分のノートを思う。
宗一郎は知らないはずなのに、まるで見ていたような言葉だった。
最後の数行を読む。
――美耶さんをよろしく頼む。
――まあ、よろしくやりすぎて、おふくろさんとおやじさんに怒られん程度にな。
――御影宗一郎。
悠斗は手紙を下ろした。
「先生らしい」
涙の中から、笑いがこぼれた。
「本当に、最後まで勝手な人だ」
「はい」
美耶も笑った。
「おばあ様に叱られても、毎日楽しそうにしています」
「美那さんが一緒なら、先生は大丈夫だね」
「はい。とても」
笑いが静まると、悠斗は美耶を見つめた。
聞かなければならないことがある。
「美耶は、帰らなくていいの?」
言葉にしただけで怖かった。
もう一度、この手を離さなければならないのかもしれない。
けれど、確かめずに引き止めることはできない。
美耶は夜空を見上げた。
「夜空は、どこで見ても同じだと思っていました」
ベガとアルタイルが、二人の頭上で輝いている。
「でも、違いました」
美耶は悠斗へ向き直った。
「お母様とお父様に、すべて話しました。おばあ様にも、宗一郎様にも」
「うん」
「私は、自分の国が帰るところを見届けました。人々が、自分で生きる場所を選ぶところも」
胸元の鏡へ手を添える。
「そのうえで、私も選びました」
美耶は一歩、悠斗へ近づいた。
「やっぱり私は、悠斗の隣で見る夜空がいいです」
「美耶……」
「悠斗」
涙を浮かべたまま、幸せそうに笑う。
「今度は、私が来ました」
悠斗は美耶を抱きしめた。
美耶の腕が背中へ回る。
温かい。
今度は、消えない。
「大好きだ」
もう、遅くならないように伝えた。
「俺も、美耶の隣がいい」
「はい」
美耶の声が胸元で震えた。
「私も、大好きです」
二人の間で、天岩戸八咫鏡が一度だけ淡く光った。
道を開いた力は、それきり静かに消えた。
遠い時代のどこかで、誰かがほんの少しだけ笑ったような気がした。
悠斗は美耶の手を取った。
これから白峰家へ帰る。
春香と直人へ、今度こそきちんと話すことがある。
莉央はきっと大声を上げ、美耶を抱きしめ、どこへ行っていたのかと問い詰める。
明日も学校へ行けるかは分からない。
怖くなって、立ち止まる日もあるだろう。
美耶がいれば何も怖くない、とは思わない。
けれど、止まったときには、また自分で動き始めればいい。
今度は一人ではない。
美耶が隣にいる。
二人は手をつないだまま、もう一度空を見上げた。
星空は、今度こそ、二人の上にあった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




