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「そんな馬鹿な。あんな剛魔石の厚い壁を…」
「出来たんだからしょうがねぇだろ?それにな、スピードとタイミング合わせりゃ、意外と斬れねぇものなんてないんだ」
「本当にあなたという人は…底が知れない人ですね。こんな方と無謀にも何度も手合わせして貰ったかと思うと…背筋が凍ります」
今しがたの実践のことを言ったのか、ディオは開きかけた口を瞑った。
だがアシェスは何かに気付いたように顎を上げた。
「あ…」
「どうしたのです?」
「ジェシカのこと、すっかり忘れてた」
頭を抱えながら、アシェスはもんどりうった。
スフィアがもはや姿をさらせるのならば、彼女をあそこに幽閉しておくのは酷というもの。
戦いやいざこざで存在自体を忘れていたからか、罪悪感が込み上げて来たらしい。
「ディオ、ジェシカを出してやるようレイド王に伝えてやってくれよ。彼女も不敏だしジェシカが出てくりゃスフィアも余裕が出来るだろ」
「確かに今のこの状況ならもう彼女を幽閉しておく必要もありませんね」
「そういうことなら問題はないだろ」
「ふ…アシェスさんはスフィア様のこと、いつも気に掛けてくれてらっしゃるのですね?」
嫌らしい笑みではなく、素直な感想をディオは言った。
「最近はすっかりお目付け役がハマったようで、私も嬉しいですよ」
「……………」
「すみません…調子に乗りすぎましたね…」
無言のアシェスを見て、感付いたようにディオは謝罪の言葉を並べた。
だが、アシェスは一つ笑みによる吐息を吐くと、
「…そういうことで構わねぇさ。ま、今からでも早速行ってやれ」
手振りだけで促した。
怒った様子もなく、笑みさえ浮かべているアシェスを見て安心したのか、ディオは腰を上げつつ言った。
「ははは、わかりました」
身体にそれなりのダメージを受けているはずなのだが、ディオの動きは軽快だった。
「では、明日もよろしくお願いします」
「ああ、わかったから行けよ」
腰を下ろしたまま、アシェスはディオの背中を見送った。
見上げた空から降りしきる雨は少しばかり激しさを増したようだった。
(気に掛ける…か)
水分を含んだ土を思わず握る。ぐにゃりとした感覚は、やりきれない力の行き場を失ったからか、妙に腹ただしかった。
それは自分自身に対する葛藤によるもの。
「あいつは…エルビスを誘き出す為の餌なんだよ…」
認めたくないがそれが真実であり、偽りのない言葉。
容易く雨音に掻き消えるくらい、それは力のない声量だった。
「こんなこと言ったら、あいつはどんな顔しちまうんだろうな」
妹と似た雰囲気の少女スフィア。
世間知らず、言わば無垢。純粋で不器用でか弱い。
エナという無垢な存在が身近に居たからこそ、アシェスが狂気に走ることはなかった。
汚れさせないように、いつまでも神々しく清楚な存在であれ。
血に塗れた身を、いつも無垢な笑顔が癒してくれた。
自分が狂わないように、自分が自分でいられるように。
自分自身が逃げる場所、それがエナという存在。
そういう存在であるように育ててきたのは他でもない自分自身。
真実を語らず未だ隠し続けている自分が、憎くて仕方がない。
わかってはいた。だが、理由もわからぬ恐怖から抗うことは出来なかった。
(俺は…俺自身が一番の弱者であり、偽善者なのかもな)
エナと同じように、スフィアも偽りの自分で接しているという自負がある。
それは自身の目的を果たすため。
空っぽ、脱け殻のような体たらくを並べ、それを受け入れる。
自分の言葉に笑顔で返す少女、それがどれだけ精神的にきついことなのだと、アシェス自身気付かぬはずはなかった。
(俺は最低なクズ野郎だ)
自己批判を繰り返したところで、咎める言葉も慰める言葉も返ってくるはずはなかった。
ただ言いようのない虚しさだけが虚空に浸透していった。
「エルビスとの決着が着いたとき、俺自身は変わっていられるのだろうか」
勝てるとも限らない、返り討ちにあうかもしれない。強大な力を持つ相手に、生きていられる保障もない。
だが、全てを引き替えにしてまで描き、生きてきた道筋。
それだけは裏切るわけにはいかない。
何もかも、幸などひとかけらも感じたことのない生きざま。
標的を討つことだけが自分の存在意義であると信じて疑わなかった日々。
全身はすでに雨に濡れ、憎々しいほどの鋭い目付きは別世界へと飛び去っていた。
地面の窪みに作られていく水溜まり、アシェスは虚しさに支配された瞳でそれをただ、見つめていた。




