32 ハルの恐怖回
雨だった。
地方ライブ終わり。深夜十一時過ぎ。
種馬ズの地方アリーナ公演は無事終了し、メンバーたちは裏口から順番に車へ乗り込もうとしていた。スタッフは慣れた動きで周囲を警戒している。今の種馬ズは、もう「人気アイドル」では済まない。どこに行っても人が集まる。特に最近はハルの主演映画『恋する放課後パレード!』が三十五億を突破し、一気に女性ファン層が増えていた。
だから最近、事務所は妙に神経質だった。
出待ち。
盗撮。
追跡。
彼女面。
「自分は特別」と思い込むタイプ。
売れれば必ず湧く。
だがハルは、その危険性をいまいち理解していなかった。
「おつかれさまでしたー!」
いつものようにニコニコしながらスタッフへ頭を下げる。疲れてはいる。だが、根が素直なので反射的に笑ってしまう。
その瞬間だった。
「ハルくーん♡」
女の声。
雨音の中、やけに近かった。
スタッフが一瞬で顔を上げる。
黒い傘。
細い女。
二十代後半くらい。
髪が濡れて頬に張りついている。
距離が近すぎた。
普通のファンなら柵の外にいる。だが女は、関係者通路のかなり奥まで入り込んでいた。
「今日もかっこよかったよぉ♡」
ハルは反射的に会釈した。
「あ、ありがとうございます!」
その瞬間、マネージャーの顔色が変わる。
女が笑った。
「ハルくんって本当に優しいよね」
妙だった。
初対面の距離感ではない。
まるで、知り合いに話しかけるような声だった。
スタッフが間に入る。
「すみません、こちら関係者エリアなので」
だが女は動かない。
傘の奥から、じっとハルだけを見ている。
「最近ちゃんと寝れてる?」
静かに言う。
ハルが少し固まる。
「映画の宣伝で忙しかったもんねぇ」
スタッフたちの空気が変わった。
何故知っている。
いや、知っていてもおかしくはない。テレビでも言っていた。だが、言い方が妙に生々しい。
「今日、朝はヨーグルトだった?」
ハルの笑顔が止まる。
「……え?」
女は嬉しそうに笑った。
「コンビニで買ってたよね」
沈黙。
雨音だけが響く。
マネージャーが即座にハルを後ろへ下げた。
「車行こう」
「え、あ、はい……」
女はまだ笑っている。
「あのヨーグルト体冷やすからあんまりよくないよぉ?」
その瞬間、レイが後ろから顔を出した。
「のだぁ?」
最悪だった。
空気が読めない。
レイは女を見て首を傾げる。
「誰なのだぁ?」
女の視線がゆっくりレイへ向く。
一瞬だけ。
笑顔が消えた。
冷たい。
本当に一瞬だったが、レイは小動物みたいにピクッと震えた。
女はまた笑う。
「お友達?」
「種馬ズなのだぁ」
「知ってる♡」
声が妙に甘い。
だがレイは珍しく察した。
「……のだぁ」
嫌なタイプだ、と。
スタッフが強引に車へ誘導する。
女は抵抗しなかった。ただ、ずっとハルを見ていた。
「また来るねぇ♡」
車のドアが閉まる。
発進。
しばらく車内は静かだった。
ハルが困ったように笑う。
「なんかすごい人だったねぇ」
誰も笑わなかった。
田村が低い声で言う。
「最近増えてる」
「え?」
「彼女面」
レイがボソッと言う。
「怖かったのだぁ」
「お前が言うと説得力ないな」
だが本当に怖かった。
あの女の視線。
距離感。
妙な親密さ。
そして何より。
知りすぎている。
数日後。
さらに問題が起きた。
ハルの自宅マンション。
ポスト。
封筒。
スタッフ経由で発見。
中身。
大量の写真。
コンビニ。
移動中。
私服。
窓越し。
遠距離。
近距離。
全部ハル。
そして最後の一枚。
マンション入口。
かなり近い位置から撮られていた。
裏に手書き。
『最近疲れてるよね。ちゃんと寝てね♡』
ハルは青ざめた。
初めて、笑えなかった。
事務所会議室。
空気が重い。
「警察相談レベルです」
「マンション変える?」
「移動車両も見直しかな……」
黒崎が静かに眉を寄せる。
神谷は無言。
レイだけが珍しくふざけなかった。
「……のだぁ」
「何」
「ハルぅ」
「うん……」
「最近カーテンちゃんと閉めるのだぁ」
ハルは小さく頷いた。
そして数日後。
またライブ。
また出待ち。
スタッフ警戒強化。
ハルも今日は少し緊張していた。
だが、もういないだろうと思っていた。
甘かった。
車へ向かう途中。
雨の中。
遠く。
傘。
立っていた。
同じ女。
遠い。
だが笑っているのが分かる。
そして。
口だけ動いた。
『おやすみ』
ハルはその瞬間、本気で背筋が凍った。
車に乗り込んだ後もしばらく震えが止まらなかった。
レイが珍しく静かな声で言う。
「……売れるって怖いのだぁ」
誰も否定しなかった。




