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種馬ズ  作者: 雪だるま
第一章

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36/57

32 ハルの恐怖回

雨だった。


地方ライブ終わり。深夜十一時過ぎ。


種馬ズの地方アリーナ公演は無事終了し、メンバーたちは裏口から順番に車へ乗り込もうとしていた。スタッフは慣れた動きで周囲を警戒している。今の種馬ズは、もう「人気アイドル」では済まない。どこに行っても人が集まる。特に最近はハルの主演映画『恋する放課後パレード!』が三十五億を突破し、一気に女性ファン層が増えていた。


だから最近、事務所は妙に神経質だった。


出待ち。


盗撮。


追跡。


彼女面。


「自分は特別」と思い込むタイプ。


売れれば必ず湧く。


だがハルは、その危険性をいまいち理解していなかった。


「おつかれさまでしたー!」


いつものようにニコニコしながらスタッフへ頭を下げる。疲れてはいる。だが、根が素直なので反射的に笑ってしまう。


その瞬間だった。


「ハルくーん♡」


女の声。


雨音の中、やけに近かった。


スタッフが一瞬で顔を上げる。


黒い傘。


細い女。


二十代後半くらい。


髪が濡れて頬に張りついている。


距離が近すぎた。


普通のファンなら柵の外にいる。だが女は、関係者通路のかなり奥まで入り込んでいた。


「今日もかっこよかったよぉ♡」


ハルは反射的に会釈した。


「あ、ありがとうございます!」


その瞬間、マネージャーの顔色が変わる。


女が笑った。


「ハルくんって本当に優しいよね」


妙だった。


初対面の距離感ではない。


まるで、知り合いに話しかけるような声だった。


スタッフが間に入る。


「すみません、こちら関係者エリアなので」


だが女は動かない。


傘の奥から、じっとハルだけを見ている。


「最近ちゃんと寝れてる?」


静かに言う。


ハルが少し固まる。


「映画の宣伝で忙しかったもんねぇ」


スタッフたちの空気が変わった。


何故知っている。


いや、知っていてもおかしくはない。テレビでも言っていた。だが、言い方が妙に生々しい。


「今日、朝はヨーグルトだった?」


ハルの笑顔が止まる。


「……え?」


女は嬉しそうに笑った。


「コンビニで買ってたよね」


沈黙。


雨音だけが響く。


マネージャーが即座にハルを後ろへ下げた。


「車行こう」


「え、あ、はい……」


女はまだ笑っている。


「あのヨーグルト体冷やすからあんまりよくないよぉ?」


その瞬間、レイが後ろから顔を出した。


「のだぁ?」


最悪だった。


空気が読めない。


レイは女を見て首を傾げる。


「誰なのだぁ?」


女の視線がゆっくりレイへ向く。


一瞬だけ。


笑顔が消えた。


冷たい。


本当に一瞬だったが、レイは小動物みたいにピクッと震えた。


女はまた笑う。


「お友達?」


「種馬ズなのだぁ」


「知ってる♡」


声が妙に甘い。


だがレイは珍しく察した。


「……のだぁ」


嫌なタイプだ、と。


スタッフが強引に車へ誘導する。


女は抵抗しなかった。ただ、ずっとハルを見ていた。


「また来るねぇ♡」


車のドアが閉まる。


発進。


しばらく車内は静かだった。


ハルが困ったように笑う。


「なんかすごい人だったねぇ」


誰も笑わなかった。


田村が低い声で言う。


「最近増えてる」


「え?」


「彼女面」


レイがボソッと言う。


「怖かったのだぁ」


「お前が言うと説得力ないな」


だが本当に怖かった。


あの女の視線。


距離感。


妙な親密さ。


そして何より。


知りすぎている。


数日後。


さらに問題が起きた。


ハルの自宅マンション。


ポスト。


封筒。


スタッフ経由で発見。


中身。


大量の写真。


コンビニ。


移動中。


私服。


窓越し。


遠距離。


近距離。


全部ハル。


そして最後の一枚。


マンション入口。


かなり近い位置から撮られていた。


裏に手書き。


『最近疲れてるよね。ちゃんと寝てね♡』


ハルは青ざめた。


初めて、笑えなかった。


事務所会議室。


空気が重い。


「警察相談レベルです」


「マンション変える?」


「移動車両も見直しかな……」


黒崎が静かに眉を寄せる。


神谷は無言。


レイだけが珍しくふざけなかった。


「……のだぁ」


「何」


「ハルぅ」


「うん……」


「最近カーテンちゃんと閉めるのだぁ」


ハルは小さく頷いた。


そして数日後。


またライブ。


また出待ち。


スタッフ警戒強化。


ハルも今日は少し緊張していた。


だが、もういないだろうと思っていた。


甘かった。


車へ向かう途中。


雨の中。


遠く。


傘。


立っていた。


同じ女。


遠い。


だが笑っているのが分かる。


そして。


口だけ動いた。


『おやすみ』


ハルはその瞬間、本気で背筋が凍った。


車に乗り込んだ後もしばらく震えが止まらなかった。


レイが珍しく静かな声で言う。


「……売れるって怖いのだぁ」


誰も否定しなかった。

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