4話
次の日の朝も、リビングからは笑い声が絶え間なく聞こえた。
柚月が顔を出すと、お母さんが心配そうに近づいてきた。
「柚月、大丈夫? 体調が悪いの? 昨日の晩御飯を食べずに部屋に戻ってしまったから心配したのよ」
昨夜、柚月はあの食卓に耐えきれなくなり、途中で席を立った。
そのままベッドに倒れ込み、朝を迎えた。
お父さんが柚月を上から下まで眺めてから、鼻で笑った。
「前より太ったから、ダイエットじゃないか? お母さんのように太るなよ。男はいいけど、女のデブは論外だ」
柚月は堪らず、声を震わせて言い返した。
「ダイエットじゃない。それに、お母さんは太っていない。綺麗だよ。そんな言い方、間違ってる」
お父さんは柚月を見下すように笑った。
「お、何だ? 反抗期か? まだ小学生のくせに。女はな、五十キロ超えたらデブなんだ。お母さんはデブだ」
柚月は震える手を握りしめ、首を強く横に振った。
「ひどいよ。最低! お父さんがそんな人だなんて思ってなかった……!」
そう言い捨てると、柚月はカバンを掴んで家を飛び出した。
後悔はなかった。
がむしゃらに走っていると、茜と白猫に出くわした。
「柚月ちゃん、おはよう! あれからどうだった? 柚月ちゃんの家族、仲良くなったよね?」
「仲良く……?」
柚月は眉を顰めた。
あれのどこが、仲良くなったと言えるのだろうか。
『エモスを倒すと、怒りや恨みなどの負の感情が消える。人は思いやりを持って相手と接するようになり、争いはなくなる』
白猫は淡々と説明を続ける。
『特に君のお母さんから、大量に負のエネルギーが溢れていた。それが消えた今、問題は解決したはずだよ』
柚月の頭が真っ白になった。
昨日の出来事が脳裏に蘇る。
あの黒い霧——巨大な鳥と魚の怪物は、お母さんの心そのものだった。
それを茜が壊したんだ。
茜は瞳を輝かせ、詰め寄ってきた。
「魔法少女になる話、考えてくれた? 柚月ちゃんならきっと——」
柚月は両手で茜を押し退け、一歩下がった。
「……ならない。魔法少女になんて、ならない! もう私に関わってこないで!」
叫ぶと同時に、柚月は駆け出した。
学校とは逆の方向だったが、そんなことはどうでもよかった。
「柚月ちゃん!」
背後で茜の声が追いかけてきたが、柚月は止まらなかった。
お父さんやおばあちゃんに対して、怒っていたお母さんは、確かに怖かった。
でも、それを無かったことにするのは間違っている。
柚月は家に駆け込むと、お母さんを探した。
ベランダにもリビングにもいなかった。
寝室の扉を開けると、お母さんはベッドのシーツを替えていた。
「お母さん!」
駆け寄る柚月に、お母さんは目を丸くした。
「柚月? どうしたの?」
「怒っていいんだよ! お父さんもおばあちゃんもおかしいよ! 全部お母さんのせいにして、笑ってるんだよ!?」
お母さんは柚月の肩にそっと手を置き、悲しそうに微笑んだ。
「心配かけてごめんね。でも、大丈夫。お母さんは、怒らなくても平気なの。何も、感じなくなっちゃった」
「そんな……」
柚月は息を呑んだ。
心の中で、何かが静かに、音を立てて崩れたようだった。
「葉月さん、まだ終わらないの? ……あら?」
おばあちゃんが入ってきて、柚月に目が止まる。
その目は妙に生き生きとしていて、何かあれば言ってやろうという顔をしていた。
柚月は耐えきれず、逃げ出した。
どこへ行けばいいのか。
どうすればいいのか。
何もわからなかった。
ただひたすら彷徨い歩いているうち、夕陽が傾いていた。
柚月が辿り着いたのは、街外れの小さな公園だった。
街灯とベンチしかなく、誰もいなかった。
寂しい所だが、柚月にとっては大切な思い出のある場所だった。
白いベンチに腰を下ろす。
ここで黒猫のノアと出会った。
冬の寒い日だった。
ノアはダンボール箱の中で、小さくなって震えていた。
柚月は放っておけず、家に連れ帰った。
お母さんはノアを歓迎したが、お父さんはとても嫌そうな顔をして反対した。
『変な病気を持ってるかもしれないし、餌代だって馬鹿にならないんだぞ』
でも、お母さんが強く説得してくれて、ノアは家族の一員になった。
だけど、もういない。
あの温もりは、二度と戻ってこない。
涙が込み上げてきた時だった。
『……母親を救いたいか?』
どこからともなく、低い声が響いた。
柚月は辺りを見渡すが誰もいない。
『白猫の言う通り、エモスは確かに悪影響を及ぼす。だが、倒せばいいというわけじゃない』
柚月は自分の影の中に、濃い色の黒いモヤが揺らめいていることに気付いた。
声はそこから聞こえていた。
『世界はそんなに単純じゃないんだ。負の感情を消しても、人の本質や考えは変わらないからな』
黒いモヤは影からゆっくりと浮かび上がり、ベンチの上で小さな黒猫の姿になった。
柚月は目を見開いた。
「ノア……?」
柚月が呼ぶと、黒猫は小さく頷いた。
『そうだ。お前はそう呼んでいたな』
柚月はノアに手を伸ばし、触れようとした。
しかし、指はノアの身体をすり抜けた。
『俺に実体はない。肉体がなくなった後、ずっとお前の影の中にいた』
ノアは右足で耳を掻きながら、静かに続けた。
『それで、どうする? お前の父親も祖母も、以前は母親のエモスによって制御されていた。それがなくなったのが今の状態だ。母親のエモスを取り戻したいか?』
柚月は息を詰めた。
「取り戻せるの?」
『あぁ、可能だ。倒されたエモスは魔法少女の魔石に封印されている。魔石を壊せば、エモスは解放されて元に戻る』
柚月は視線を落とした。
しばしの沈黙の後、小さな声で訊いた。
「……それってつまり、茜さんと戦うってこと?」
ノアは黒い瞳で柚月をまっすぐ見つめた。
『そうなるだろうな。ちなみに俺はどっちでもいい。このままでも構わないし、戦うと言うなら協力する』
風が吹いて、公園の木々がざわめいた。
柚月はぎゅっと唇を噛み、長く伸びた自分の影を見つめた。
そして、ぽつりと呟いた。
『……私、お母さんを取り戻したい』




