ワンスアイヤー 2008
やさしいキスをして:そっと髪を撫でて肩を抱いて側にいるね
職場が同じビルの最上階のフロアに引っ越したのは今年に入ってすぐのことだった。新しいオフィスは天井まで8メートル以上ありその中心にはミラーボールが備わっていた。元クラブだった名残りで、お客様が来たりすると回して見せて、話題作りに役立っている。窓際に設置された会議室はガラス張りで、その先には広いベランダがあり、時には仕事関係者や友人たちを招き、パーティーを行うこともあった。
仕事を始めた当初はオフィスには50名も人がいなかったが、いつの間にやらツーフロアを貸し切るようになり、スタッフの数も倍になっていた。
私に対して妨害をしていた上司は、ラインを外れ、今では新規プロジェクトの担当をしている。新規のプロジェクトと言えば聞こえはいいが、要は彼が全く不得意なデジタルの分野を担当させて、結果が出ない事を口実に、会社を去らせると言う計画のようだった。実際以前は私を含めた小さなマーケティング部隊を管轄していたが、今では部下なしの部長として、個室も取り上げられ、小さなデスクを一つ与えられているだけだった。
私の新しい上司は韓国人のやり手の副社長になっていた。私よりも10歳近く年下だが、流暢な英語で、的確な指示を出すため、大勢のスタッフから慕われていた。彼は私には厳しかったが、以前の上司と違い、公平な評価を与えてくれていたので、仕事は格段にやりやすくなった。この上司のおかげで私の「マネージャー」と言うタイトルも元に戻り、今ではアルバイトも含め小さなチームを任されるようになっていた。
仕事は取り扱うコンテンツも増え、テレビで見たことがあるような芸能人とも日常的に接するようなポジションにいた。つまり私の仕事の状態はすこぶる良好だと言うことだ。こんなに心地良い職場で、やりがいのある仕事につけるとは思わなかった。できることであればこの仕事を一生続けたいと思う。こんなに辞めたくないと思った仕事は初めてだった。
彼との付き合いも落ち着いていて、時には一泊のスキー旅行に行くようなこともできるようになっていた。会っている時にはお互いに家族の事は聞かない。彼の態度を見ていると、私の事は多少飽きて来ているかなと感じつつも、私と付き合うのをやめようとしている様子はなく、きっとこのまま大きな出来事がない限り、この関係は続くのであろうと思われた。
だけど1つ気になることがあった。以前振られる直前に子供は作らないのかと確認したところ、「まぁ子供ができたらもう会えなくなるな」といとも簡単に言い放ったことがあったのだ。彼はきっと子供が欲しいんだろう。だからこそあれから数年経っているのに、子供の話題にならないことが不思議でならなかった。彼に子供ができる事は、私との別れに繋がる可能性が高い…だからこそ気になっていた。
子供、作らないのかな?
だけどそれを面と向かって彼に聞くことができなかった。彼がそういう事を聞かれるのを嫌がるだろう事は容易に想像できたからだ。そんなある日偶然彼の住所を目にすることができた。これまで旦那がいない時など我が家に数回来たことがある彼だが、私にはかたくなにどこに住んでいるのかを教えてくれなかった。ところがたまたま何かに応募しようとして、彼が書いた住所を盗み見してしまったのだ。忘れないように頭でメモを取り、機会があったらどんなところに住んでいるのか見てみたいと思っていた。そしてそれからほぼ1ヵ月ほど経った時チャンスがやってきた
彼が海外に出張になったのだ。彼が日本にいない日曜日、私は西武線のある駅に降り立っていた。事前にネットで住所から地図を印刷しておいた。彼が毎日通っているであろう駅前商店街を眺めながら地図に沿って歩く。私がイメージしている通りの、典型的な東京の住宅地だ。商店街を抜けると今度は大きな交差点に差し掛かった。そこを渡って、マンションやアパートの間を抜けたところに彼の住むアパートはあるはずだった。
そしてそれは案外すんなり見つかった。
彼がどんなところに住んでいるのか興味があったが、万が一子供の洋服が干してあったり、奥さんが妊娠中であったりしたらどうしようと少しドキドキしている。建物の1階の郵便ポストの一つに彼の名前と奥さんの名前が書かれていた。
その瞬間、どんなところに住んでいるのか確認できただけで満足し、アパートの正面とそして裏側とを行ったり来たりしながら、よく目に焼き付けて帰ろうとしていた。その時アパートの2階の1番端の家から彼の奥さんらしき人が出てきた。この人がそうなのか。あいにく目が悪い私なのでどんな顔した人なのかがよく見えない。ただお腹が大きくないことだけは確認できた。なんとなく安心して、そのまま家路についた。
帰り道、せっかくのお休みだと言うのに自分は一体何をしているんだろうと、ばかばかしくなる。もしも彼に出会っていなかったら私は何をしていたんだろうと想像する。きっと主人と穏やかながらも普通の生活をしていただろう。それがこんなふうに人の生活を覗き見するような、最低の行為をするような人間になっていた。せっかく彼が付きあってくれているのに、私がそれを台無しにしている。もうこんな事は二度としないようにしようと誓いながら横浜の家に戻った。
それから半年くらい経っただろうか。この日も2週間ぶりに彼と渋谷の109の前で待ち合わせをしてした。会った瞬間にわかった、彼の様子がおかしい。そして開口一番彼が言った。
「クビになるかもしれない」
今日いきなり上司に異動を告げられたのだそうだ。その場所は退職を待つ人たちの吹き溜まりのような部署で、自分で引き受けてくれる部署を見つけないと、間違いなく会社を去らねばならないようだ。
珍しく彼が青ざめていた。
いつもの隠れ家に行っても明らかに彼は動揺していた。私は彼の肩を抱いて、髪にキスする。心の中で「大丈夫、あなたはこんな事で潰れやしない」と呟く。こんな大切なことを私に最初に話してくれた彼への精一杯の励ましだった。




