ワンスアイヤー 2003
青いエアメール:声をかけれぬほど輝く人でいて欲しい
初めて食事をしたその日からたった3ヶ月、この間にまるで滑り落ちるように恋に落ちた。毎日暮らしていても彼のことばかり考えてしまう…どうしたら会えるのか?いつ会えるのか?ちょうど私が会社を辞めて無職となった時期と重なったため、就職活動と称しては住まいのある横浜から東京に通い、用もないのに彼のオフィスがある渋谷の周辺をうろうろとしていた。
毎日まるで夢の中で生きているような日々が続き、お盆休みで実家に帰った時には両親ですら私の様子がおかしいと心配していたほどだった。会えば嬉しい、もっともっと会いたいと思う反面、不安で胸が押しつぶされそうになったり、会えないときには彼をなじったり、卑屈に嫌みを言ったりするような、そんな重たくて嫌な女になっていった。
彼に会うためにあらゆる口実を作った。自分でもわかっていた。こんなことばかり続けていたらきっと彼は離れていってしまうだろう。なのに止められない。
まだ若い彼は、私のこの重い思いに戸惑うことばかりだっただろう。
それでもメールやデートに付き合ってくれていた彼の気持ちをまるで無にするように、彼に長いメールを送り、そして5分おきに彼からの返信をチェックするような彼中心の毎日を送っていた。
朝起きて隣にいる主人の顔を見ると、「この人って誰だった?」と一瞬思い出せない、それぐらい周りが見えなくなっていた。
短い間に彼は2度ほどアメリカへ出張に行っていた。初めてキスしたのが1度目にアメリカの出張から戻ってきたその時で、それが私が恋に落ちた瞬間だった。そこからはもう歯止めが効かなくなっていた。いつの間にか誘うのは私で、断るのは彼の方になった。最初はキスをするのですら迷っていたのに、どうせ結ばれるなら最高のシチュエーションにしようと、新宿の京王プラザホテルの部屋を予約したのは私だった。結婚以来初めて主人以外の男の人にに全てを見せたあの夜は、思えば幸せの頂点だったのかもしれない。
久しぶりの恋愛に、関を切ったように気持ちが溢れ、彼の一挙手一投足が気になり、つまらない女なっていった。嫉妬心そして執着心が自分の中にこれほどあるものかと驚かされる。
一方彼は仕事が波に乗り始め、私生活も充実し、キラキラ輝いているようだった。それなのに時々会う私が恨めしそうになかなか会えないことをなじるものだから、私の気持ちが昂ぶっていくのと反比例するように、少しずつ私に冷たくなっていく。
そしてその日はやはりやってきた。
明後日私が誕生日を迎えるその日、私は就職活動のために渋谷の小さな留学相談所のオフィスを訪ねていた。
面接の後、簡単な英語のテストをすると言うことだったが、ロクに準備もされておらず、口頭で言われた適当な文章を、藁半紙の裏紙に英語で翻訳するよう指示された。これが終わったら同じ渋谷にいる彼に会えるかもしれない。そんなかすかな望みだけがこの残念な状況を支えていた。
その時携帯にメールが届いた。待ちに待った彼からのメールだった。
件名を見ただけで内容はわかった。「Sayonara」なぜ英語なんだろう。それが最初の感想だった。最近まであんなに熱く私のことを語っていた彼が「もう会うのやめましょう」「削除できなかったので誕生日にメッセージが届くと思いますが、今となっては何の意味もありません」…努めて冷たく、私に徹底的に希望を持たせない、ハッキリ「別れたいです」と言われるよりももっと明確な決断だった。
どうやって横浜にたどり着いたのか覚えていない。ただこの日2つ目の就職試験で日本最大手の広告代理店に行く予定だったのが、連絡もせずに行かなかったことだけは覚えている。いや行けなかったのだ。
断ろうにも、電話で誰かと話をした瞬間に崩れ落ちてしまいそうだった。
泣きたい!のに泣けない…だから余計に苦しい。夫がちょうど出張中なのが幸い、自転車で海岸沿いをフラフラと彷徨う。砂浜に腰をおろしてもまだ涙が出てこない。目の前には赤い大きな月が浮かんでいた。まるで宇宙船が浮いているようなそんな不思議な光景だった。ふと手を見ると右手の親指の付け根に大きなあざができている。辛さのあまり、ずっと噛んでいたようだ。別れのメールをもらった後、泣き叫びそうな気持ちを我慢をしていた自分に気づいた。
その2日後、日付が変わった瞬間にメールを開くと、彼が削除できなかったと言っていた電子メッセージが届いていた。英語で誕生日のお祝いと、この日に一緒にいられたらいいのにと言う言葉が添えられていた。本来だったら何よりも嬉しいプレゼントだったのに、Sayonaraメールの後だと不幸のどん底のそのまた底に突き落とされるような気持ちになる。きっとプレゼントすら買うのがもったいないと、誕生日の直前に別れのメールを送ったんだろう。プレゼントどころか、私に直接会って別れを告げる時間すらもったいなかったんだろうな。
これ以上嫌われないように、そして悲しんでいる姿を感じさせないように何も言わずに消えるつもりだったけれど、どうしてもひとこと言わないと自分で自分の気持ちに区切りがつかない。
もうこれ以上彼に付きまとわないためにも、こちらから返信のメールを出すことにする。ふられたその日にずっと聴いていた松任谷由実の「青いエアメール」の一節を借りて、何年か後に偶然会う事があったら、声もかけられぬほど輝く人でいて欲しいと綴って気がついた。
自分が「選ばなかったから失うのだ」と。




